都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
と娘が切り出せば
「えっ、オトウサンは聞いていないぞ、そんな話。だいたい、何処の馬の骨だか分からないヤツに娘をやれるかっ!」
と怒り出すのが、一昔前の父親でした。
この「何処の馬の骨だか分からない」という言葉、なぜ唐突に「馬の骨」なの でしょうか?
この言い回しは、中国から伝わったものなのです。その昔、中国では、役に立たないものの代表に「一に鶏肋(けいろく)、二に馬骨」といったのです。鶏肋 (けいろく)はニワトリの肋骨のことで、小さすぎて役に立たない。逆に馬の骨は何のやくにたたないどころか、処分に困るほど大きくて邪魔なものだといったのです。
このことから、誰にも必要とされず、邪魔になるものを「馬の骨」というようになったのです。
父親にとっては「馬の骨」でも、娘さんは、自分にとっては大切な伴侶なのですから、「馬の骨」の説明をしっかりとして、理解してもらいましょう。
彼の成長過程や職業などが分からないと親は心配なのです。
なお、「骨」には「人柄」という意味もあります。「骨のあるヤツだ。」のようにつかいます。
古くは、馬に近い動物として牛もいたので「牛の骨」ともいわれたそうです。
挽曳競馬のアドレスです。ギャンブルなのでセキュリティーに御注意下さい。
したっけ。
瓜実顔とは瓜の種の形に似て色白で鼻筋が通り、やや面長な顔。江戸時代の美人の一つ の型とされる。
ヤナギの語源には矢の木の意との説があるが、他にも柔萎木(ヤワナギ)にちなむといわれる説もあります。
柳は、古来、美人を形容する言葉に用いられることが多い。柳のように細くてしなやかな腰つきを「柳腰(りゅうよう:やなぎごしとも)」、柳の葉のように細くて美しい眉は「柳眉(りゅうび)」、長く美しい頭髪は「柳髪(りゅうはつ)」、しなやかな姿を「柳態(りゅうたい)」といいます。いずれも柳の容姿がしなやかであることから例えられたものですが、繊細で垂れ下がる枝が微風でそよぐところ、またなよなよしく立つ姿は、いかにも女性的な美しさを見せるようで艶っぽいではありませんか。
浮世絵に見る美人像
この時代の美人画は、瓜実型の顔に引目鉤鼻(ひきめがぎばな)が象徴的に表現されています。引目鉤鼻(ひきめかぎばな)とは微妙な調子をつけた細い線で表した目、「く」の字形の鼻で、平安時代より美男美女の条件とされています。
手足や口を異常に小さく描き、少女のように見せるのも、身体の存在感を嫌った日本人の美意識によるものだそうです。細い縞の紬は、当時生産量が少なく、最先端の流行であり、財力のあった家の妻子であることが伺えます。ゆったりと着物を羽織り、弛緩(しかん)したような表情を見せています。
それを理解してなお、現代人の目には着付けや姿勢の脱力感に驚きを覚える。真夏の昼下がり、ゆるりと着こなした着物が、かつては「風の通る道」を持った衣服であったことを思い出させてくれます。
江戸時代は、瓜実顔で柳腰、着物という衣装のせいでもあるが、胸の膨らみは好まれず、細身で腰を揺らすように歩くまたは立つ姿が美しいとされたようです。
現代は、BWHの凹凸が際立っている女性が好まれているようである。これは、洋服が身体の線を写し出す構造になっているからだと思います。
体型を写し出す事と露出することは異なりますので御注意を・・・。
したっけ。
行きつけのバーのお目当ての女の子、いないと思って聞けば
「よその店にくらがえしたのよ。」
ママがオカンムリ。よくある話です。
失恋した男に訳を聞けば
「向こうのほうが、足が長いからって、くらがえされた。」
「俺のほうが、胴が長いといってやれ。」
日常会話によく使われる、この「くらがえ」ちょっと色っぽい話によく出るように、昔の遊女や芸者に関係する語源があるのです。
まず一説が、遊女の「ねぐらがえ」。これは「寝座替え」と書き遊女の職業的な行動をさすことばでしたが上の「ね」が略されて、「くらがえ」となったというものです。つまり、相手を換えるということです。
もう一つは、拘束のない芸者が職場を変えるときの「郭(くるわ)替え」。
勤務先の遊廓、つまり、郭(くるわ)を替わることから出た言葉でこれが省略されて「くらがえ」になったと言うものです。
鞍替えをしても 馴染は 乗りに来る
どちらも、かなり色っぽい脂粉の臭いのする由来ですが、これを漢字で書くと「鞍替え」となります。
色っぽい話から一転、文字からするとお堅いお侍殿が、馬の鞍を変えるという連想しか出てきません。
しかし、元々「寝座替え」の語源は、馬につける”鞍”から派生した「鞍替え」という言葉に「腰を乗せる」という隠語が加わり、そこから転じて、遊女の「寝座替え」になったという説もあります。
したっけ。
「いびる」とは、弱い立場の人を陰湿にいじめること。
「嫁いびり」「後輩いびり」など、強いものが弱いものをいじめることを「いびる」という。昔は、姑からネチネチいびられた嫁がたまりかねて家を出たという話をよく聞いたものです。最近は嫁が強くなって姑が出て行く場合もあるそうです。
会社でも、上司や先輩、お局様にいびられて、退職する人もいるようですが、 これも「いびる」の語源を知れば、さもありなんという話である。
「いびる」は、もともとは煙を「いぶす」という言葉から生まれたものなのです。穴倉の前で火を焚いて、中にいる狐や狸が、いたたまれなくなって穴から出てくるように、ある人をいじめていたたまれなくすることを「いびる」というようになったのです。
「いびる」という行為には、もともと追い出すと言う目的があったのです。
「いびる」は、本来「時間をかけて焼く」という意味で、「炙る・焙る(あぶる)」「燻る(いぶる)」などと同源と考えられる。
長い時間をかけて下からじわじわと熱するさまは、弱い立場の者をいじめて苦しめるさまに似ていることから、陰湿にいじめることを「いびる」と言うようになったのです。
したっけ。
なんてえ質問だよ。「クチャクチャ食べる」「食べながら携帯で会話」どっちも駄目じゃねえか。駄目なもんを比べることを日本語では、「目糞鼻糞」「五十歩百歩」といってな、そんなもん比べたら笑われるちゅうんだよ。
どうしても比べろってんだったら「クチャクチャ食べる」だな。これは大半の国でマナー違反ってことになってる。携帯電話は緊急の用事てこともあるから、百歩譲ってマアいいかって程度だけどな。
それに、「携帯電話」の場合は注意したら何とかなるかも知れねえが、「クチャクチャ食べる」は癖だからなおんねえ。入れ歯の調子が悪いんだったら気の毒だけど、ゴメンよ。
本当に良くこんなくだらねえ質問おもいつくよ、たいしたもんだよ。褒めてんじゃあねえよ。あきれてんだ。
したっけ。
服部半蔵の本名は石見守正成であり、服部半蔵と名乗る忍者も一人ではありません。世間一般に知られている服部半蔵は、家康の家臣で「徳川十六将」の一人である、この服部半蔵正成のことなのです。
初代目 服部半蔵保長(やすなが)
正成の父保長(やすなが)は、初代服部半蔵(服部半蔵保長)は伊賀国(三重県)阿拝(あへ)郡服部郷(はっとりごう)の出身であり、将軍足利義輝 (あしかがよしてる)に仕え、石見守(いわみのかみ)を称しました。義晴(よしはる)を経て、松平氏のいる三河の国に渡ります。この時、正成も伊賀から三河へと移る事になりました。家康の祖父・清康、父・広忠に仕えた保長 は、幼い正成に忍術ではなく槍術を教えます。
これは、当時忍者の身分は非常に低いもので、正成を武士として育てたのだと思います。
2代目 服部半蔵正成(まさしげ)
正成のイメージは忍術使いという印象が拭い切れないのですが、実際は槍術使いとして活躍した諜報活動の戦闘指揮官でした。
保長は、天文11年(1542年)、服部保長の四男として三河国に生まれた、17歳の嫡子・正成(まさしげ)に家督を託し他界します。忍術使いではなく槍術使いであり忍術があまり使えないうえに配下の忍者をまとめる自信がない事から、正成は思い悩むのですが、親友である平岩親吉((ひらいわ ちかよし)(戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の重臣。上野厩橋藩(前橋藩)主。のちに尾張犬山藩主。)の助言により、三河服部党(伊賀忍者軍団)を率いる決意を固めます。2代服部半蔵正成の誕生です。
映画・ドラマ等では伊賀忍者軍団(影の軍団)の頭領として、自身も忍者として活躍しますが事実とは異なります。
しかし、半蔵正成は家康の家来であり伊賀同心の支配役。いわゆる「服部半蔵」として世間でよく知られるのは彼の事である。だがあくまで伊賀同心は配下の一部門であり、自身は甲冑を着て足軽を率いた武士である。槍の名手として知られた。
正成の主君元康(後の家康)を人質同様に扱う今川氏に怒り、いつの日か元 康を三河の国に帰参させる事を夢見ます。そして、正成の願いは思わぬ形で叶うこととなりました。京への上洛を目指していた今川義元 は、尾張の織田信長の奇襲(桶狭間の合戦)により、あっけなくその生涯をとじることになります。これを機に元康は三河に帰参します。名も徳川家康と改め、正成を呼び出し情報の重要性を語り、服部党への期待を示します。
*伊賀越え
正成は、1582年(天正10)本能寺の変の際、上洛中の家康を一族挙げて護衛しました。これが「伊賀越え」であり、この時指揮官として、的確に働き家康の命を守ったとことにより、その後も家康から重用されることになります。
これらの功によって「鬼半蔵」・「大半蔵」と称された正成は物頭(ものがしら)に進み、遠州(静岡県)に八千石を領し、秀吉が小田原城没後、家康が関東入国すると、与力三十騎・伊賀同心200名を支配しました。
家康の関東入国後は、江戸城麹町口(こうじまちぐち)門(俗に半蔵門とよぶ)外に組屋敷(くみやしき)を拝領した。
配下の忍者や家族たちに見守られ慶長元年11月4日(1596年12月23日)に没し55年の生涯に幕を下ろしました。
江戸麹町清水谷の西念寺(東京都新宿区)に葬られた。西念寺は、正成が生前に信康の菩提を伴うために創建した浄土宗寺院・安養院の後身である。
3代目 服部半蔵正就(まさなり)
父である正成の死後、伊賀同心200人の支配を引継ぐ。しかし徳川家から指揮権を預けられたに過ぎない伊賀同心を家来扱いしたために配下の同心たちの反発を招き、ついに伊賀同心が寺に篭って正就の解任を要求する騒ぎに至った。このため正就は伊賀同心の支配の役目は解かれた。後、大坂の役で行方不明になる。
4代目 服部半蔵正重(まさしげ)
兄の後を継いで服部半蔵を襲名する。舅である大久保長安に巻き込まれて大久保長安事件で失脚。その後各地を転々とした後、松平定綱に召し抱えられて二千石を得る。これにより桑名藩の家老として服部半蔵家は存続する(大服部家)。
したっけ。
プロローグ
室町時代の物語を集めた『御伽草子』などによると、「酒呑童子」の姿は、顔は薄赤く、髪は短くて乱れた赤毛、背丈が6m以上で角が5本、目が15個もあったといわれる。
彼が本拠とした大江山(京都府にある山。京都市西京区と亀岡市の境に位置する。標高は480m。)では龍宮のような御殿に棲み、数多くの鬼達を部下にしていたという。
酒呑童子生立ち伝説
その1
伝教法師(最澄:さいちょう)や弘法大師(空海)が活躍した平安初期(8世紀)に越後国で八岐大蛇と人間の娘との間で生まれた彼は、若くして比叡山に稚児(昔貴族や寺院に仕えた少年)として入って修行することとなったが、仏法で禁じられている飲酒をし、しかも大酒呑みであったために皆から嫌われていた。ある日、祭礼の時に被った仮装用の鬼の面を、祭礼の終了後に彼が取り外そうとしたが、顔に吸い付いて取ることができず、やむなく山奥に入って鬼としての生活を始めるようになった。そして茨木同時と出会い、彼と共に京都を目指すようになったといわれている。
その2
酒呑童子は、越後国(現在の新潟県本州部分)の蒲原郡中村で誕生したと伝えられているが、伊吹山の麓で、『日本書紀』などで有名な伝説の大蛇、八岐大蛇が、スサノオとの戦いに敗れ、出雲国(島根県東部)から近江へと逃げ、そこで富豪の娘との間で子を作ったといわれ、その子供が酒呑童子という説もある。その証拠に、父子ともども無類の酒好きであることが挙げられる。
伝教法師(最澄)や弘法大師((空海)が活躍した平安初期(8世紀)に越後国で生まれた彼は、国上寺(新潟県燕市)の稚児となった(国上山麓には彼が通ったと伝えられる「稚児道」が残る)。
その4
越後国の鍛冶屋の息子として産まれ、母の胎内で16ヶ月を過ごしており、産まれながらにして歯と髪が生え揃い、すぐに歩くことができて5~6歳程度の言葉を話し、4歳の頃には16歳程度の知能と体力を身につけ、気性の荒さもさることながら、その異常な才覚により周囲から「鬼っ子」と疎まれていたという。『前太平記(通俗史書。40巻・目録1巻。藤元元作。天和元年(1681)ごろの成立。)』によればその後、6歳にして母親に捨てられ、各地を流浪して鬼への道を歩んでいったという。また、鬼っ子と蔑(さげす)まれたために寺に預けられたが、その寺の住職が外法(妖術)の使い手であり、童子は外法を習ったために鬼と化し、悪の限りを尽くしたとの伝承もある。
その5
12, 3歳でありながら、絶世の美少年であったため、多くの女性に恋されたが全て断り、彼に言い寄った女性は恋煩い(こいわずらい)で皆死んでしまった。そこで女性たちから貰った恋文を焼いてしまったところ、想いを遂げられなかった女性の恨みによって、恋文を燃やしたときに出た煙にまかれ、鬼になったという。そして鬼となった彼は、本州を中心に各地の山々を転々とした後に、大江山に棲みついたという。
酒呑童子退治伝説
酒呑童子は大江山の棲む鬼で、都を荒らし回っては数多くの人を殺して食べたり、貴族の姫君をさらったりした鬼です。
その存在は晴明によって暴かれます。
ある貴族の姫君が突然、行方不明になったのを心配した一条天皇は、晴明を召しだし占わせ、「これは大江山に棲む鬼の仕業です。このまま捨て置けば、都はおろか諸国にまで仇なすことは間違いありません。」と、陰陽道の力で明らかにしたのです。
それで、天皇は、源 頼光に酒呑童子の退治を命じ、源 頼光は渡辺 綱ら四天王を連れて、大江山に向かうので。頼光たちは酒呑童子を見つけると、鬼の仲間のふりをし、酒呑童子を油断させ、だまして毒酒を飲ませて退治するのです。
酒呑童子が都を襲ったのは、一条天皇の時代の正暦元年(990年)から正暦6年(995年)のあいだと言われています。晴明は69~74歳。陰陽道としては重鎮中の重鎮です。占術にしても呪術にしても神の領域に達するほどだったでしょう。
確かに酒呑童子を倒したのは武力です。しかし、この陰には晴明の呪力があったことを忘れてはなりません。
晴明は式神や護法童子を京のあちこちに放ち、酒呑童子が都に入って来られないよう守りを固めたのです。
そう、晴明はたった一人で、広い京の全てを防衛したのです。
そのおかげで、酒呑童子は京に入ることが叶わず、大江山で歯がみして悔しがりながら酒を呑んでいたのです。
源 頼光の活躍の陰には晴明がいたのです。
そして、晴明が後顧の愁いを絶ったからこそ、頼光らは酒呑童子を倒すことだけを考えることができた。そう、晴明なくして酒呑童子は倒せなかったのです。
その2解説
酒呑童子の物語は仏教文化を背景として宗教説話的な要素を盛り込んだものです。
「今昔物語」をはじめとして、多くの物語で仏教に敵対するものは鬼として描かれており、酒呑童子もそんな鬼の一人なのです。
ただ、仏教説話が流行したこの時代は、とりもなおさず仏教がそのまま政治に置き換えられる時代である事を、忘れてはならないのです。つまり、政教一致の時代だったのです。
そのことを考えあわせると、この時代でいう仏教に敵対するものというのは政治に敵対するものだったのです。
そんな反逆者が大江山という古代製鉄技術や出雲神話の痕跡が存在する山に住んでいたのは単なる偶然ではありません。
少なくとも「酒呑童子」という物語の作者は「酒呑童子」の真実を知っていたのだと思います。
酒呑童子が最期に言った「鬼神に横道なきものを(※後期酒呑童子参照)」という言葉には、山中で古くからの文化を守り続けた勇者達の悲痛な叫びが込められている様な気がしてならないのです。
当時、鬼と呼ばれた者達が歴史の闇の中で、妖怪、化け物の類として塗り変えられていった悲劇を垣間見ることができるのではないでしょうか。
丹波各地にある数々の旧跡は「出雲」と「鉄」を媒介として酒呑童子とのつながりを見せてくれています。
大江山のみならず出雲、熊野、越後などなど酒呑童子等、即ち鬼達の歴史の舞台をこれからも機会があれば探ってみたいと思います。
*
以下に掲載する「酒呑童子の物語」は、当時の歴史的背景や混乱の中で、鬼というものがどのように創作され、政治に利用されていったのか・・・。鬼たちの正義、政治を司るものたちの悪意、謀略、陰陽師たちの正体が暴かれていきます。
ですから、前記の良く知られている「あらすじ」とは微妙に異なった展開となり、最後には、私たちの知っている「酒呑童子」とはまったく違う、鬼たちの悲痛な叫び声が聞こえてきます。
*酒呑童子のいく通りもある伝説の一編を掲載します。
鬼女
《いったい何本の松があるのでしょう》
和泉式部は、細長く伸びた砂嘴(さし)に生えた松並木の眺めは、いつ見ても美しいと思った。天の橋立は、与謝(よさ)の海を真一文字に切っている。陸地と天の橋立によって阿蘇海という入り江がつくられる、稀にみる景勝の地だ。波打ち際から見える海水は、浜の砂粒が比較的大きいからか、波が洗ってもすぐ透き通った。
和泉式部は、国司の館から時折わずかの者を引き連れて天の橋立を見に来た。式部は海を見ていると時間の経つのを忘れてしまうのだった。波の音を聞き潮風にあたりながら、すうーっと伸びた天の橋立の砂嘴を見ていると不思議と心が安らいだ。心に積もった塵芥が、きれいに払われていく。
男性遍歴の豊かだった和泉式部の最後の夫は丹後の国司、藤原保昌(ふじわらのやすまさ)。国司の館は宮津(京都府北西部、若狭湾に臨む)にあって、天の橋立を見ようと思えばすぐ見られるのだが、身分上、館から気軽に出ることはできない。今日は久しぶりで海を見にやってきたのだった。
海だけでなく、和泉式部は丹後の生活環境が最近好きになってきていた。海で働く漁師や、狭い田畑を耕す農民たちの暮らしが身近にあった。彼らにとって、生きて行くことは、「生活」していくことであり、恋愛で明け暮れる浮草のような宮中の世界とはかけ離れたものだった。
血色の悪い青白い化粧をした顔よりも、赤銅色に日焼けした汗のにじむ顔が、和泉式部に生きているという実感を呼び起してくれた。丹後の守として赴任する夫の藤原保昌(ふじわらのやすまさ)について、ともに険しい丹後路を輿で越えてきた時、和泉式部はさすがに心細く感じた。しかし、海を見たい一心がその恐怖感にうちかった。
「海はまだ見えませぬか」
和泉式部は何度も従者に聞いた。
海にそれほど恋い焦がれるのは理由がある。
かつての夫である和泉国司橘道貞(たちばなのみちさだ)とともに行った和泉(現在の大阪府南部)の海が、恋に傷ついた心を癒してくれた経験があるからだった。
「丹後の国へお連れください」
式部が、そう藤原保昌に懇願したとき、保昌は式部の言葉をにわかに信じることができなかった。
「鄙びた(ひなびた)ところぞ」
「もとより承知しておりまする」
保昌が驚いたのも無理はない。
和泉式部は、生粋の都人である。藤原道長の取り持ちで一方的に和泉式部を手に入れた保昌は、式部が自分のことを本当は好きでもないことは充分わかっていた。
丹後が辺境の地であり、『地の果て』とまでは言えないが、そんな遠くへ付いて行けるのは愛する人があってのことであるのは、今も昔も変わらない。
若くもない、しがない国司についてきてくれるとあって、保昌は小躍りした。
和泉式部が、前の夫橘道貞と別れて、帥宮敦道(そちのみやあつみち)親王と燃えるような恋をして、それを綴ったのが『和泉式部日記』として残っている。最愛の帥宮も熱病で他界し、悄然(しょうぜん)の和泉式部をみかねた父、大江雅致(おおえのまさむね)は関白道長に頼んで、藤原道長の娘、一条天皇の中宮彰子(しょうし)のもとへ歌詠みとして出仕させることにした。
道長はすでに娘の中宮彰子(しょうし)のもとへ、紫式部や赤染衛門(あかぞめえもん)などを出仕させていた。娘に文学的教養をつけさせるためである。
そうしているうちに、道長の家司、藤原保昌との縁談話がもちあがり、保昌五十三歳、和泉式部三十三歳で結婚することになった。表向きは藤原保昌と和泉式部との縁談は道長がとりもった形になっているが、実際は藤原保昌が、和泉式部を娶りたいと道長に『恩賞』として願い出たのであった。
数多くの激しい恋によって、宮中で『浮かれ女(め)』などと噂される和泉式部ではあったが、美貌と教養を兼ね備えた式部に文をよこす男はあとを絶たなかった。藤原保昌はそんな和泉式部を勝ち取ったことを男として誉れとさえ思っていた。
それにしても、『恩賞』とは何に対する恩賞なのか・・・・・。
話は二年前の京に遡(さかのぼ)る。
京堀川の一条戻橋に柳がそよそよとゆらめき流れていた。
月明かりが橋を照らしている。橋の方に向かって一見横着な座り方で馬に乗ってやってくる武士がいた。
渡辺綱(わたなべのつな)。京において武勇で名を馳せる、源頼光(みなもとのらいこう)の家来である。
綱は、坂田公時(さかたのきんとき)・碓井貞光(うすいのさだみつ)・卜部季武(うらべのすえたけ)らとともに、京で評判の頼光の四天王に数えられている。 綱は頼光の父満仲の婿、敦(あつし)の養子になっているので頼光とは主従の関係とはいえ、同族であるともいえる。
主人頼光の使いで一条大宮に住む一条帝の蔵人頭(くろうどのとう)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)の屋敷まで出かけた。その帰り道であった。
綱が先刻まで訪問していた蔵人頭、藤原行成・・・。清少納言と、とかく浮名を流し小野道風(みちかぜ)・藤原佐理(すけまさ)とともに三蹟と呼ばれる書の達人であるばかりか藤原道長の片腕でもあった。
「はっくしょ」
大きな嚔(くさめ)が出た。妙に生暖かい風が綱の鼻孔をくすぐったからである。
源頼光の屋敷は一条戻橋のすぐ近くにあった。一条戻橋という名前は、かつて浄蔵(じょうぞう)という僧が、死んだ父を加持祈祷(かじきとう)によって蘇生させたことから命名されたという。
綱は、頼光の屋敷までもうすぐだと思い、橋の西のたもとでいったん馬を止めて居ずまいを正した。襟を揃(そろ)えてふと前方を見ると橋の東のたもとに人がいるのに気が付いた。どうも若い女のようであった。
目を凝らして見ると、その女は紅葉散らしの被衣(かつぎ)をかぶって、川面(かわも)を思案気に見つめているようすだ。
《すわ、入水(じゅすい)か!》
綱は一瞬そう思った。
「もうし、そなたそこで何をしておる。川に飛び込もうなどと考えなさるなよ。それに、こんな夜更けに女子(おなご)一人とは物騒ではないか」
綱は、女の入水をとりあえず引き留めようと、馬上から女に声をかけた。
「そうです、そのとおりでございます。ですから、あなたさまのような強そうな殿方にお送り願いたいと思い、このようにお待ちしていたのです」
入水ではなかったので綱は一応安心したが、初対面の男に送ってもらいたいとは、いかにも軽々しい女だと思った。だがそれはそれ。頼りにされた相手は美人である。不自然な理屈など気になるはずもない。
「ほう、そうか。それにしても、危ないことよ。で、どこまでお送りいたせばよかろうかのう」
そのとき、渡辺綱にほのかな浮気心が宿った。
よく見れば、透き通るような白い肌だ。綱のような剛の者をまいらせるには刀よりも色香が有効である。
「お言葉に甘えて、五条にある私の家まで送って頂きとうございます」
「よかろう。さあ、まいろうではないか」
渡辺綱が前鞍に乗せようと馬上に引き上げるため女に手を差し伸べた。 柔らかな手応えと女の甘い香りが綱の情感をさらに掻(か)きたてた。堀川小路を南に下がって、正親町小路あたりまで来た。
手綱(たづな)を握るのをいいことに、女を抱きかかえるようにして馬を進めていく。女も綱にしなだれかかるようにしている。
綱は『こんな機会(おり)もたまには世にはあるものだわ』と、一種の幸福感に包まれ、ほくそ笑んでいた。
すると、そのだらしなくなった綱の心の隙を狙いすましたかのように、女が急に振り返った。その女の形相はものすごいものに変化していた。般若(はんにゃ)と言えばいいのか鬼女と言えばいいのか。
間髪を入れずその鬼女は、すごい力で綱の髻(もとどり)をつかんで、綱の体ごと宙に引き上げようとした。
「何をする!」
綱は、驚きはしたものの、さすがに音に聞く武士である。綱は肝がすわっていた。初めは空を鬼女が飛ぶように思われたが実は単純なからくりであることを見破った。
腰の縄が近くの木の枝に結ばれていて、枝の反動で綱を引き上げようとしていたのだ。したがって、綱はたいした恐慌をきたさずに、すぐに腰の刀の柄に手をかけ、抜いた刀が弧を描いた。刃は髻を鷲づかみにしている鬼女の腕をすっぱりと、切り落とした。
「グェッ!」
刀は主人頼光から預かった名剣『髭切(ひげきり)』である。頼光は二本の名剣を持つ。一つはこの『髭切』で、もう一つは『膝丸(ひざまる)』という。
源頼光の父、満仲が鍛治に命じて八幡宮に祈願しながら必死に六十日も鉄を打って造りあげたという。
腕を切られた鬼女は、宙を舞うようにして身軽に家の屋根伝いに愛宕山(あたごやま)方面へ走り去った。
綱は自分の肩のあたりで何か蠢(うごめ)いていのを感じた。振り返ってみると、綱の髻をつかんだまま腕がまだ生きていているではないか。それは、 一個の独立した生き物であった。頑強に髻をつかんで絶対離さないといった様子である。
「うむ、この妖(あやかし)が・・・」
綱がその腕から髻をもぎ取ろうとしたが、腕はいっそう握力を増しているようだ。
仕方なく、綱は自分の髻ごと小刀で切り取って腕を綱から分離した。すると、あざ笑うかのように、腕は綱の髻を手放した。腕は、渡辺綱に屈辱を与えれば、それでよかったのだ。 髻を切ったので当然、綱の髪はさんばらになってしまった。
「くそっ、何たる不始末(ふしまつ)・・・・・・。髪がこんなふうになってしまった訳(わけ)を頼光様に説明せねばなるまい。それに、どうもこれには深いからくりがありそうだ。うむ・・・・」
綱はいまいましく思って歯軋りをした。 まだ腕はひくひくと動いている。こんな気持ちの悪い物を何の因果であろうか、 証拠品として頼光の屋敷まで持っていかなければならない。 綱は、再び源頼光の屋敷に向かった。
「それにしても、ひどい目にあったものだわ。女は魔物よ、くわばら、くわばら・・・」
そう言って、馬上の綱は苦笑いをした。
綱ともあろうものが、女に下心を抱いて思わぬ不覚をとったのだから、世間のもの笑いの種になりかねない。羞恥からの苦笑いであった。
すると綱は急に何かを思い出したかのように懐(ふところ)を探り始めた。ただし、金子(きんす)を掏(す)られたと思ったのではない。綱は一条大宮の蔵人頭行成から預かってきた大切な書状を思い出したのである。先程の鬼女との格闘でその書状を落としたかもしれないと思った。
懐にある書状を確かめて綱は安堵した。
「よしよし、銭など盗られても屁でもないが、これを失くしては切腹ものだからな。髪がこんなふうになってしもおたが、髪などじきに生えるからの」
額にかかったさんばらの髪をうるさそうに左右に振りはらいながら、独り言(ひとりご)ちた。さすが剛の者である。命を狙われてもどうということはなかった。主人からの命令の遂行こそが、武士の綱にとって絶対的なものであった。 腰に差した鬼女を斬った『髭切』はこれ以後『鬼切』と呼ばれるようになる。渡辺綱という男、とかく世間で話題になる武士(もののふ)であった。
鬼同丸
綱が襲われる前年の冬、ある寒い夜に、頼光は弟の源頼信(よりのぶ)の屋敷に渡辺綱(わたなべのつな)・坂田公時(さかたのきんとき)・碓井貞光(うすいのさだみつ)・卜部季武(うらべのすえたけ)の四天王を連れて立ち寄った。
暖(だん)をとるために、頼信はもう酒を飲んで陶然(とうぜん)としていた。そこへ、大好きな兄者が訪問してきたから、たちまち大酒宴となった。
公家の子弟であれば源氏物語のような『雨夜(あまよ)の品定め(しなさだめ)』のような浮いた話になるのであるが、四天王や頼光、頼信ともなるとやはり互いの武勇伝となる。
こういう座談の時、進行役をかってでる貞光は、まず卜部季武の豪胆さを話題にすることにした。
「美濃での季武の肝はすわっておったな」
貞光がそう言うと皆は貞光に賛同するように、頷いている。それは、源頼光が美濃の国司として赴任した際に、四天王も同行した。そのときの話であった。
「渡川のことなら、言わずともよいではないか・・・」
季武は、本当は話題にして欲しいのに、わざと嫌がる素振りをした。
美濃国にある渡川近くの詰所で四天王が酒を飲んでいた。 そして、誰ともなく渡川の『産女(うぶめ』という化け物の話を持ち出した。産女という妖怪は、難産で命を落とした女の亡霊らしかった。
「川を渡る時に、『赤子を抱け』と近寄って来るらしいぞ」
碓井貞光が、そう言った。
「赤子を抱くはいいが、その赤子はだんだん大きくなって、喉元に食らいつくというぞ」 もともとは、捨て子であって赤子の話になると弱い坂田公時がつけ加えた。
橋など懸かっていることがむしろ珍しい時代である。川は歩いて渡る。渡川で、『産女』が声をかけてくるというのである。
武士にとっては、むしろ刀で斬りつけてくる者の方が対処しやすい。産女など、どう扱っていいのかわからないのだ。
『拙者(それがし)が渡ろう』と卜部季武が言い出した。
興に乗って、兜や刀、鎧や弓などがその肝試しの成否に掛けられた。
「ではまいろうではないか」
皆、同時にそう言って渡川まで馬で疾走して行った。
問題の渡川に到着した。生臭い風が吹き、墨を流したような夜陰の中から、いかにも産女が出てきそうな雰囲気が漂っていた。
馬から降りた季武は、不気味な雰囲気にも動じることなく、川の中に入って行った。
確かに川を渡ってきたという証拠として矢を向こう岸に突き刺してくるという約束がなされた。
『ざっざっ』と水をかき分ける音が続いたかと思うと、『ざくっ』と矢を向こう岸の地面に突き刺す音がした。
季武は、約束を果たして戻ろうとした。
こちら岸では、皆が、『何だ、産女など出なかったではないか』と拍子抜けしていた。
すると、闇のむこうから、やおら声が聞こえてきた。
「これを抱け、これを抱け・・・・・」
岸にいた三人はその声に恐怖でこごえた。併せて、赤ん坊の泣き声も闇の中から聞こえる。
「抱けばいいのだな」
産女の言ったことに季武が答える。
「そうじゃ」
季武はどうも赤ん坊を、産女が言う通りに抱いたらしい。
すると、今度は急に気弱そうに産女が季武に訴えた。
「返しておくれよ」
「抱けと言ったではないか。抱けと言ったり、返してくれと言ったり理不尽ではないか。赤子は連れて帰る」
産女のすすり泣く声がした。
「返しておくれよ」
さかんに産女が叫ぶ。そうしているうちに、季武が岸へ戻ってきた。背負う格好をしているが赤ん坊の姿は見えない。そのかわり背中には木の葉が、数枚張り付いていた。
皆は身の毛のよだつ思いがしたが、一方で季武の豪胆さに感心した。
詰所の侍部屋に帰ってきて、約束どおり、賭けの武具を季武に差し出すと、
「これしきのこと、だれでもできるわい」
と、言って辞退した。
皆は感じ入って、酒を季武の杯に挙(こぞ)って注(つ)ごうとした。
「おおっと、酒がこぼれるに・・・・もったいない。その方がおそろしい」
皆、笑い転げた。
さらに、順番に武勇伝が繰り広げられた。
藤原保昌と盗賊『袴垂(はかまだれ)』の話。貞光が、頼信に無礼をはたらいた者の首を味方の少ない東国で討ち取って、頼信の兄、頼光から褒美に『光』の字をもらい貞通から貞光と名を変えた話。渡辺綱が羅城門で鬼と戦った話。
坂田公時の足柄山の話になるころは、宴もたけなわになった。
すると突然ものすごい唸り声が外庭から聞こえてきた。
頼光が不審に思い頼信に尋ねる。
「頼信!あの唸(うな)り声は何だ」
「ああ、 泥棒が先(せん)だって侵入してきたので捕えたのです。厩(うまや)の方の大きな木に縛り付けておきました。そのうちに検非違使(けびいし)にでも引き渡そうと考えておりました」
「呑気なことを言っておるわい」
気になって、渡辺綱と坂田公時が厩へ、その盗賊を見に行った。
坂田公時が興奮しながらもどってきて言った。
「頼光様、あれは鬼同丸(きどうまる)という盗賊です。大物ですよ」
大物ということを聞いて、頼光に闘争心にも似た好奇心が働いた。
早速、頼光も厩の方へ見に行くことになった。
「鬼同丸とやら、頼信の屋敷と知らずに忍び込んだのか大馬鹿者が。この頼光、そして弟頼信は武門の棟梁である。おまえらなどが束になってかかってきても屁でもないわ。もう少し相手を選ぶことだな、はっはっはっ」
頼光は、酒の勢いも手伝って鬼同丸を罵倒する言葉を吐いた。
「この屋敷が頼信のものであることは、もとより承知だ。民から巻き上げた米や銭をとり戻そうと思うたが、埴猪口(へなちょこ)相手に思わぬ不覚をとったものよのぅ・・・」
鬼同丸が、腹を立てながら言った。
不敵な鬼同丸の言葉を聞いて、今度は頼光が腹をたてた。
「巻きあげたなどと何という言い草じゃ。自分の民から徴収して何が悪い。道長様の家礼(けらい)である我らにそのような物言いは許さんぞ」
そう言って刀の鞘を首もとにぐいぐいと捩じ込(ねじこ)んだ。痛みと憤怒で激しくじたばたした。すると鬼同丸の縄が緩んだ。これを見た頼光は、頼信を叱るように言った。
「頼信、縄が解(ほど)けそうになっているではないか。逃がさないようにして間違いなく検非違使に引き渡さなければならぬ。金鎖でもって縛りなおせ。本来なら即刻、 斬り捨てるべきところだが、 明日のことを思うとそうもいかぬでなぁ」
家人たちは、 さっそく金鎖をどこからか持って来て、 横に 、縦に、襷(たすき)掛けにと、鬼同丸をがんじがらめにした。
「うむ。 それでいい。さて皆、 飲み直しとしようぞぉ」
頼光は腹いせに鬼同丸に唾を吐いて、四天王たちと談笑しながら座敷にもどって行った。
《この恨み晴らさずおくべきか・・・・・・》
鬼同丸は心の中で復讐を誓った。
しばらくして夜も更けた頃、鬼同丸は金鎖から逃れた。関節をはずすいわゆる『縄抜けの術』をやってのけたのである。
頼光たちは酒に酔って横になっていた。見張り番たちも丈夫な金鎖をしたので、もはや安心と思って義務づけられていた定刻の巡回を怠った。
彼らは酒を台所からくすねてきて、燗酒を飲みながら世間話をしていた。 鬼同丸は、屋敷を去る際に有力な情報を得ようと、屋根の破風(はふ)から忍び込んで、見張り番の詰めている部屋の天井のところまできた。
「明日は、頼光様は、四天王の方々を引き連れての鞍馬参詣だとよぉ。わしらも頼光様のご威光にあやかりたいのう。なにせ、頼光様ときたら、お亡くなりになった兼家様(道長父)が二条京極にお屋敷を新造した時に、祝いとして馬三十頭を献じなさったくらいの羽振りのよさじゃ。どうせお仕えするなら弟の頼信様ではなく兄の頼光様の方がよかったかもなぁ」
「これ、めったなことを言うでない」
頼光が『明日のこともあるでな』と言って鬼同丸を斬りすてるのをやめたのは、鞍馬参詣を明日に控えて、刃傷に及ぶと穢れをつくってしまうので、それを忌避したのだった。
《頼光、今に見ておれ・・・・・・》
鬼同丸は、頼光たちが鞍馬参詣へ行く途中の道で襲うことを決心した。
見張り番たちが言うように、頼光と道長の結び付きは強い。
藤原氏北家の九条流兼家の四人の息子たち道隆、道兼、道長、道綱の中で末っ子の道長以外は皆、疫病にかかって死ぬか失脚した。結局おっとり型の道長に権力が転がり込んできた。
道長が、競争相手の兄道隆の子の伊周(これちか)を抑えて左大臣になったのは長徳元年(995年)。まさに、大江山討伐の年であった。
兼家に馬30頭を献上したあと、頼光は直感で仕える主人を、時めく長男の道隆を選ばずに、あえて道長にした。
《あの方がきっと廟堂の首位にお立ちになる方だ。権力というのは意外にそれを得ようとしてぎらぎらしている者の所には行かない。むしろ、道長様のように落ち着いて構えているお方にこそ、権力が舞い込むのだ》
頼光の勘は当たった。
道長は30才で内覧(天皇のかわりに文書に目をとおす)の役につき、右大臣、そして翌年には左大臣になって権力の階段を一歩一歩登っていったのである。
この世をば わが世とぞ思う望月(もちづき)の 欠けたることのなしと思へば
この歌は、 寛仁(かんにん)2年(1016年)に道長が53歳で太政大臣となって、三人の娘を次々と天皇の妃とし得意の絶頂の折に詠んだものである。
大納言藤原実資(さねすけ)を招いて宴を催した際に、 実資に返歌を求めて詠んだ歌であった。こんな歌を詠まれては実資には返歌をしようもなくなって皆を誘って、 この『望月の歌』を何回も口ずさんだという。
天下はまさにこうやって道長の手中に入っていった。
大江山討伐の頃の天皇は一条天皇である。
この一条天皇は円融天皇と道長の姉の詮子(せんし)との間の子。言わば道長の甥である。さらに、長保元年(999年)、道長は一条天皇に娘の彰子(しょうし)を中宮とするなど権力固めに余念がなかった。
さて、鞍馬参詣を聞き及んだ鬼同丸は、奇襲をすべく先回りをしていた。
鞍馬寺へ行く街道の途中に市原野(いちはらの)がある。そこで鬼同丸は放し飼いにされている牛のうちで一番大きな牛を殺し、内蔵をえぐり出した。鬼同丸は、牛の腹の中に身を隠し、まるで牛が日なたでのんびりと寝ているかのように横たわった。
まもなく、頼光と四天王が馬に乗ってやってきた。その勇ましい武者姿に、道を行く人たちも足を止めて、思わず拍手喝采を送るほどであった。
牛の放牧された市原野まで来た時、頼光は戯れのように四天王に言った。
「良い景色じゃ。どうだ、ひとつ牛追物(うしおうもの)でもやってみぬか」
牛追物とは牛を馬上から矢で射って競い合うものである。
冬にしては珍しい陽気と野原のすがすがしい景色で、 心も弾んでいた四天王は喜々として、馬を駆って牛を追い始めた。
しかし渡辺綱一人だけが皆とは方向違いに馬を走らせて、突然、逆頬箙(さかつらえびら)から矢を抜き弓に番(つが)え、路頭の木陰で寝ている大きな一頭の牛にねらいを定めた。
綱以外の四天王は、綱の行為の意味がわからず、唖然として見ていた。頼光だけが、どういうわけか冷静に渡辺綱の行為を見守っていた。
綱は充分に引き絞った弓から尖(とが)り矢を解き放った。矢は、『どん』という鈍い音とともに寝ている牛の腹に突き刺さった。
「それごとき、まやかしがこの綱に見破れぬと思うたか」
すると、牛の中から股に矢が刺さったままで鬼同丸が躍り出て来た。牛の皮を貫いて鬼同丸に矢が刺さったので、鬼同丸は重い牛の皮と肉を一緒に引きずっていた。
渡辺綱はすでに弓を投げ捨て、馬上にあるまま『髭切』を抜いていた。
頼光のみならず他の四天王も抜刀していた。鬼同丸は相手が五人でも、めざす相手は頼光一人である。頼光めがけて鬼同丸は、わき目もふらず躍りかかった。 すでに頼光は、充分に気合を込めて戦う用意ができていた。
一方、鬼同丸は牛の皮を引きずっているので動作は機敏さを欠いている。勝負は見えていた。
『えいっ』という掛け声とともに一太刀(ひとたち)のもとに鬼同丸の首は打ち落とされてしまった。 しかし、鬼同丸の恨みは骨髄に徹していたのか、切り落とされた首が頼光の馬の鞅(むながい)に食らいついた。
頼光は穢れたものでも払うように柄先(つかさき)で叩き落とした。大きな毬のように首は転がっていく。沿道で一部始終を見ていた村人たちは自分たちの方へ首が転がってくると、恐怖の声をあげながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。
しばらくして、一段落つくと血刀を振り切って血をとばしている頼光に向かって綱が話しかけた。
「やはり、昨夜の鬼同丸でした。出立(しゅったつ)するときに、門番が鬼同丸を逃がしたと騒いでいたので、ずっと注意をしていました。頼光様が牛追物を急に始めようとおっしゃったので、おそらく鬼同丸が潜んでいることに気づかれたのだと思いました。それからは動いていない牛が怪しいとにらんで無我夢中で矢を番(つが)えました」
「しかし、盗賊とはいえ、気概のある奴よ。首を切られてもなお、馬の鞅に食らいつくとはのう。昨夜はこしゃくな奴と思うて、ぞんざいに扱ったが、ある意味で、まことに骨のある者であった。心を入れ替えれば、わしの家礼(けらい)にでも用いたものを・・・・。惜しいのう」
綱と頼光は馬の轡(くつわ)を並べて進んで行く。いつになく頼光が感慨深げになっていた。また、四天王も、頼光の言葉を聞いて、しんみりしていた。
今でこそ、四天王と呼ばれているが、一歩間違えれば鬼同丸のように転落した人生になっていたかもしれないのである。鬼同丸の勇猛果敢さは、本当に味方なら戦力として使えたはずである。主客転倒は十分考えることができる。
ところで、実は鬼同丸は、茨木童子や酒呑童子と仲間である。
もちろん、そんな事を頼光や綱が知る由(よし)もなかった。
鬼同丸と茨木童子は、かつて共に八瀬村の鬼ヶ洞という洞窟に住んでいた。酒呑童子も大江山に住みつく前に、比叡山より降りて来たとき一時(いっとき)、八瀬村に身を寄せていたことがある。八瀬の鬼ヶ洞には、茨木童子の他にも何人かの童子がいた。
童子とは子供のことではなく、頭をおかっぱのような禿(かむろ)にし、もっぱら雑役に従事した者たちのことを言う。衣類はもっぱら木綿を主としていた。酒呑童子は他の童子に仲間入りさせてもらい働いているうちに、めきめきと首領格となり、他の童子を従えるようになった。
ところが、比叡山に最澄(さいちょう)が根本中堂を建立するにあたり、比叡山ふもとの八瀬にもその勢力が酒呑童子たちを圧迫してきた。
童子たちの首領が、比叡山を追われるようにして、出て行った酒呑童子だと分かると、ますます嫌がらせをしてきた。残念ながら、酒呑童子たちに、比叡山と一戦交えるほどの力量は、まだなかった。
以前から大江山へ行く計画のあった酒呑童子は、これを機会に童子たちを八瀬から大江山へ大挙して連れていくことにした。
残った童子たちもいるにはいた。その子孫はのちの、延元元年(1336年)正月、北条の軍勢に追われた後醍醐天皇が、八瀬から比叡山へ逃れる時に、護衛についた。その功績で、後醍醐天皇から年貢を免除されたという謂れ(いわれ)を持っている。
酒呑童子が引き連れた郎党は、茨木童子を筆頭に、大江山の鬼の四天王として知られる童子たち、星熊(ほしくま)童子・熊童子・虎熊(とらくま)童子・金熊(かねくま)童子がいた。
八瀬残留組の方には、鬼同丸がいた。年老いた母親が住まいを移すのを頑として拒んだためである。主だった仲間が離れては、八瀬では仕事が捗(はかどら)ない。困窮した鬼同丸はとうとう、貴族の中でも特に私腹を肥やすものを襲うようになった。戦利品は、母親だけでなく、八瀬の貧しい村人たちにも配った。
そして今回、頼信の屋敷で思わぬ不覚をとって捕えられてしまったが、鬼同丸は捕縛からまんまと抜け出すことに成功した。そこでやめとけばよかったものを、頼光に罵倒されたので、持ち前の短気から、つい意地になってしまった。そしてそれが命取りになってしまったのである。
いつまでも帰らない老母の嘆きは計り知れなかったことは言うまでもない。老母はやがて餓死していった。頼光に鬼同丸が討たれたことを聞いた茨木童子は、この上もなく憤慨した。
八瀬村では、鬼同丸とは兄弟のように育った茨木童子である。
《おのれ、源頼光、渡辺綱め。必ず鬼同丸の仇を晴らしてくれようぞぉ・・・・・》
ところが、綱を尾行していた茨木童子は、一条大宮の藤原行成の屋敷の天井から綱と行成の会話を聞いて、復讐以上の一大事を知ったのである。
ねらいは、綱の懐中の書状に変わった。そして、茨木童子の一条戻橋の綱襲撃事件となったわけである。
(つづく)