団塊オヤジの短編小説goo

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都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖

都月満夫の短編小説集2

「羆霧(くまぎり)」
「容姿端麗」
「加奈子」
「知らない女」

都月満夫の短編小説集

「キヨシの帰省」
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

「フクシアの語源」 MY GARDEN 2012.07.20

2012-07-21 10:16:58 | 写真

フクシア (fuchsia」 アカバナ科フクシア属の常緑低木

花期:5月から8

花色:赤、桃、紫、白

花径:3㎝から8㎝くらい

樹高:1mから2mくらい

分布:原産地は中南アメリカ

育成地:園芸種

別名:「ホクシャ」、「ツリウキソウ(釣浮草)」。北海道では「ボクシャ」と呼ばれることもあります。

花は枝先の葉の脇に12輪垂れ下がって咲く。萼はつけ根の部分が筒状で先が4つに裂け、花弁のように見えます。花弁は4枚で、雄蕊と雌蕊が長く突き出ています。

花弁と萼の色とは必ずしも同じではなく、2色の花に見えるものもあります。

下向きに咲く上品な花姿から、「貴婦人のイヤリング」と呼ばれることもあります 。

葉は楕円形で、向かい合って生えます(対生)。

原種だけで100種類くらいあるそうです。さらに園芸品種は2,000種類くらいあるといいます。花の色も花の形も豊富で人気があります。

寒さに弱く、北海道では室内で越冬させていました。

しかし、近年「マゼラニカ」という品種の数種類のフクシアが、屋外で越冬できる「耐寒性フクシア」として、北海道でよく流通するようになりました。

ただ、原産地のように、低木として25mの高さに育つことは少なく、冬の間に地上部が枯れ、地際が生き残るというような形になります。

そのため、宿根草、山野草コーナーなどで、売られています。

この花も、「宿根フクシア」として販売されていました。

自宅のものは、樹高が10㎝くらいで茎の長さは20くらい、花径は3㎝くらいです。

「フクシア(fuchsia)」の名前の由来は、ドイツのチュービンゲン大学医学部教授を務めたお医者さんで、植物の学問的命名を試みた植物学者の「レオンハルト・フックス(Leonhart Fuchs 1501 - 1566)」にちなんでいるそうです。

fuchsia」の名付け親は、フランス人植物学者のチャールズ・プルミエですが、ベゴニア、マグノリア、ロベリアなどの名付け親として知られているそうです。

花言葉は、「信じた愛」、「恋の予感」、「交友」、「信頼」です。

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したっけ。

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「鉄線の語源」 MY GARDEN 2012.07.19

2012-07-20 09:14:50 | 写真

鉄線(テッセン)」 キンポウゲ科センニンソウ属の落葉蔓性木本

花期:5月から6

花色:元々は白ないし紫(赤、ピンク、紅紫色、白、黄色など多彩な色)

花径:5㎝から8㎝くらい

蔓丈:1mから2mくらい

分布:中国

育成地:園芸種

日本へは寛文年間(1661-1673)に渡来したそうです。

日本原産の「風車(カザグルマ)」の花弁状の萼片が8なのに対して、「鉄線(テッセン)」は6という違いがあります。

蔓が鉄線のように強いと言うことが名の由来です。

この2品種(風車、鉄線)とヨーロッパ原産の品種の交配によって、クレマチスと呼ばれる様々な園芸品種が作られました。

葉は3枚の小葉からなり、向かい合って生えます(対生)。

小葉は卵形で、縁にぎざぎざ(鋸歯)はありません。

葉の柄は長く、周囲のものに巻きつきます。

花の真ん中には雄蕊がたくさんあります。

紫色になっているのは雄蕊の花糸という部分です。

花の後にできる実はそう果(熟しても裂開せず、種子は1つで全体が種子のように見えるもの)です。

ここまでは一般的な鉄線の特徴です。

自宅のテッセンは、中国原産の大輪種ラヌギノーサとビチセラの交配種として誕生した「ジャックマニー系」の遅咲きの大輪品種です。

花径は10㎝から12です。萼片が4枚と5枚、たまに6枚があります

花期も510月の四季咲き性の系統です。濃い花色のものが多く、多花性で強健なので、庭植えに向く系統です。

前年に伸びた枝は枯れて新たに新梢が伸びてその節々に花を付ける、新梢咲きです。

この品種は、46弁で丸みを帯びた剣弁花です。多花性で下向きに咲きます。

庭植えやアーチ、壁面仕立てに適しています。

花言葉は、「高潔」、「美しい心」、「清廉な心」、「精神的な美しさ」、「旅人の喜び」、「たくらみ」です。最後が気になります。美しいものには気をつけろということでしょうか。

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したっけ。

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「結婚披露宴のお色直し」について考える

2012-07-19 08:28:55 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

Photo_2お色直し」とは、披露宴の途中で新郎新婦が衣裳を替えることです。

本来は「白無垢」から「色打掛」に替えることを意味していたそうです。

しかし、近年は「ウェディングドレス」から「カラードレス」へ、「和装」から「洋装」へのチェンジなどもお色直しに含まれます。

ドレスを変えずにヘアスタイルやアクセサリ、ブーケのみを変える場合もあります。

新郎新婦退場中は祝電披露や、新郎新婦のプロフィールビデオを流すなどして、場を繋げます。また食事中のゲストが歓談を楽しむことが出来ます。

Photo_3 「お色直し」とは、新婦は何色にも染まっていない白無垢で式に臨み、結婚して婚家の色に染まる、という意味があるそうです。ですから、「お色直し」は新婦専用のことばだったのです。婿入りのときは、新郎も「お色直し」をしたのでしょうか。

お色直しの由来には二つの説がある。

① .古く奈良時代から明治の頃までは、婚礼衣装が全て白装束でした。新婦は結婚して3日間は白い着物で過ごし、4日目から色物の衣服を着ることが許されたそうです。現在では悠長なことはできないので、式の最中に済ませてしまうという説。

② 戦前までは、結婚式は新郎の家で行われるのが一般的で、新婦が持参した花嫁道具の中の衣装を次々に着て招待客にお披露目をしていたそうです。その名残がお色直しという説。

Photo_4 招待客もお色直しは楽しみにしているものですが、3回以上のお色直しは、中座の時間が長くなってしまうと、せっかくの結婚披露宴の雰囲気も悪くなってしまう危険性があります。

昔は、「お色直し」の回数が多く、ほとんど花嫁が席にいないということもありました。最近は、頻繁にお色直しは行わず、「式」は和装で「披露宴」は洋装というのが多いようです。

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したっけ。

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「日本の礼服が黒い訳」について考える

2012-07-18 10:11:01 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

ところで、日本では礼服はなぜ黒になったのでしょうか。

日本書紀』などの文献によると、その頃の喪服は白であったという記録が残されています。

それが平安時代718年に発令された「養老喪葬令」で「天皇は直系二親等以上の喪の際には、墨染めの色を着用すること」と定められたのがきっかけで、黒の喪服が少しずつ広まり、平安後期には一般的に黒が着られるようになったそうです。

ところがその後、室町時代にまた白が復活します。その理由はまだ解明されていませんが、平安時代以降黒の喪服を着用したのは上流階級だけで、庶民は一貫して白のままだったのではないかと推測されているそうです。

Photo_2 白い布を黒く染めるには染料も必要ですし、それだけ手間もかかります。庶民が守り続けていた「白」の伝統が、貴族文化の影響力が薄れてきた室町時代に上流社会にも復活し、黒の喪服がなくなっていったのではないかと考えられます。

このように、一部の人の間で喪服に黒の衣装を着用した時代があったとはいえ、長い日本歴史の中では「喪服は白」が主流だったようです。

その伝統が崩れたのは明治に入ってからです。明治維新をきっかけに、欧米諸国の影響を受けて少しずつモーニングなどのフォーマルが見かけられるようになります。

1897(明治30年)の皇室の葬儀の際に、政府は列強諸国の国賓の目を気にして黒に統一されたのがきっかけで、後に皇室の喪服は黒と正式に規定されるようになったそうです。

これは、時の政府がオーストリア女帝、「マリア・テレジア(17171780年)」が夫のフランツ1世が亡くなってからは、ほかの色に染まらない黒が誠実の証として生涯喪服を着続けた話にあやかったかどうか定かではありませんが、当時導入され始めた学生服にも黒を推進したということです。

それでも、一般庶民が喪服に黒い服を着用するのはまだ先の話になります。第二次世界大戦中から戦死者を送る葬儀が多くなって需要が増加しました。

当時は貸衣装が当たり前だったようです。そうなると、貸衣装店は汚れやすい白ではなく汚れが目立たない黒を揃えるようになりました。

手入れのしやすさや、欧米諸国の影響もあり、戦後は急速に黒い喪服が広まっていくことになります。

日本では昔は白装束がフォーマルだったのに、明治・大正・昭和と戦争を重ねるごとにだんだん黒に変化していったそうです。

現在では黒を着用することが一般的な喪服ですが、長い日本の歴史を紐解けば、喪服は白→黒→白→黒と変わっています。

時代劇の切腹シーンなどでは、白装束を着ています。

Photo_3 ネクタイでいうと慶事は白、弔事は黒という概念がありますが、これは日本独自の礼服文化だそうです。

ブラックスーツは、昼の準礼装のディレクターズスーツを基に、1960年代に日本で作られたものです。高度成長期の新生活運動(冠婚葬祭の簡素化を目指した農村運動)の流れの中で全国に普及しました。

慶事の場合の白のネクタイは、国際的ルールから外れているという意見もありますが、日本独自の習慣として確立しているスタイルです。

年配の方の間ではいまだに略礼服が礼装と信じている人が多いが、最近の若者の間では略礼服離れが進んでいるそうです。

ただし、国際的には非常識にあたるので、そういった場合はシルバーグレーの無地または柄を合わせたほうがいいそうです。

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したっけ。

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「結婚形態と歴史」について考える

2012-07-17 08:53:18 | インポート

神前結婚式」は、明治三十三年(1900年)の大正天皇の結婚式が最初だそうです。たかだか100年程度の歴史しかない非常に歴史の浅いものなのです。これでは日本の伝統的な結婚式とは呼べません。

では、それ以前、一般の日本人は結婚においてどのような儀式等を行なっていたのでしょうか。「結婚」は古くから存在していたようですが、今のような結婚式の形は全体の歴史から見るとかなり最近になってからのようです。

Photo_2 もそも原始時代は、男女が気ままに結婚する「共同婚(きょうどうこん)」又は「集団婚」と呼ばれる形態だったようです。古代では「共同婚」により集団で性を享受する「村内婚」だったたようです。この婚姻形態は、ひとことで言えば複数の男と女がグループで婚姻関係を結ぶもので、日本を含めて狩猟採集時代から歴史的に長く行われていたかたちだそうです。

「村内婚」とは、同一村落内で行われる婚姻をいい、村外婚と相対しています。かつての村(むら)は独立性、封鎖性が強く、それが婚姻にも反映していたようです。

村の男女は少年期から青年期にかけて「ツレ」、「ドシ」、「朋輩(ほうばい)」などとよばれる同輩集団を組み、集団同士の交際を展開していました。

「村内婚」は、村の生産基盤を安定化させる上で重要なシステムだったようです。

はじめは村内で行われていたのが村外にも広がり、生まれた子は母のもとで育つようになりました。これが「母系氏族制」の始まりです。

「はらから(同胞)」とは、古くは「はらがら」といわれ同じ母から生まれた兄弟姉妹のことだったのです

つまり、父親は特定できませんが母親は分かるということです。母親をよりどころにして「氏」、「部族」が形成されたのです。

その頃は、儀式としての「結婚式」は行われていなかったのではないかと考えられます。

やがて、古墳時代になると夫婦が結婚後も同居せず、夫が妻の家に通う「妻問婚/妻訪い婚(つまどいこん)」または「通い婚」という形になります。

Photo_3 「妻問婚」とは、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』などの書物に記されているように、自由恋愛による結婚だったようです。しかし、夫婦は別居しており、男が女家の窓や戸口のすきまなどから呼んだり、男の求婚歌に女が答歌したりするなどの方法で行われていました。結婚式という形が出来上がる前の時代と言えるようです。

『竹取物語』にも、五人の貴族が美しい「かぐや姫」の「婿」になろうと、あらゆる手段を用いて「よばい(夜這い/婚い)」、つまり求婚を試みたことが書かれています。

 はるか昔から男が女に求婚するかたちだったようです。この点は現代でも大きくは変わっていません。

このように「結婚」は、単なる男女の結びつきでしかありませんでした。

奈良・平安時代になると、次第に「婚礼(結婚式)」と言う形をとるようになってきます。

婚礼は、最初は「露顕(ところあらわし)」として発生しました。これは、男が女のもとに通ってきて寝ている現場を、女家の人たちが見つけて明らかにし、餅を男に食べさせて、男を女家の一員とする「儀式」でした。

のちにこれは忍び通いの三日目ぐらいにするようになったので「三日餅(みかのもちひ)」(三夜餅などともいう)といわれます。

女家の親が婿を取る、いわゆる「婿取り」の儀式です。「三日餅」の儀式は、奈良時代頃に農民の間で発生したと考えられています。

この儀式は、いわゆる「結婚式」であり、奈良時代にはこの形態に移行していったようです。

この「結婚式(婚礼)」とは、結婚の儀式で広義には、婚約儀礼・披露宴など婚姻に関する儀礼の総称を指します。

そして、平安時代になると、文献には「婿取り」の語がみえ、「妻問婚」は「婿取婚(むことりこん)」、「婿入り婚(むこいこん)」に形を変えはじめたようです。

「露顕」、「三日餅」などの「婿取り」の儀式は、貴族の間でも儀式化、多様化し、諸行事が営まれるようになりました。

婚姻成立祝いを妻方であげ、以後、夫は妻方に住み込むか妻訪いの形で婚姻生活が営まれます。一定期間ののち夫方に移るので、「一時的妻問婚」ともいいます。

『源氏物語』に描かれているように、夫が妻の実家に会いに行く通い婚を経て、同居するのが一般的とされていて、夫が訪ねてこなくなれば、即離婚。夫が愛人をつくっても、どうすることも出来無かったそうです。

この頃の習慣が意外なところに残っています。「盛り塩」です。貴族たちは「牛車(ぎっしゃ)」で女性宅を訪問していました。そのため、女性は牛が寄り付くように玄関に塩を置いたのです。これが、花柳界に受け継がれて、客を呼ぶ縁起となったのです。

鎌倉時代頃になると、婿取婚の形をとりながらも、相当期間の後に夫方に居住するなど、次第に母系型家族の形が崩れてきます

それに伴ってか父権が絶対的なものとなり、武士の家に妻が嫁入りするようになってきます。家父長制の成立に伴い、この頃から、女性の地位が低下しています。そして、この習慣は社会全体に広まるようになります。

室町時代になると「嫁取婚」が行われるようになったといわれ、文献にも、「嫁取り」、「嫁入り」の語がみえはじめます。

嫁入りすることにより、極端な表現をすれば妻は夫の所有物と考えられるようになり、妻の不倫は夫への反逆として厳しく罰せられ留ようになります。

家と家との結びつきという色が濃くなり、武家などでは当たり前のように相手と同盟を結ぶ「政略結婚」が行なわれ留ようになります。

また、女性は夫を自分の意志で選ぶこともできなかったそうです。この頃の武家の結婚は、愛情など無関係なものになります。

現在の婚姻の文化は武士の礼法が基本になっています。武士の階級では「家」を継承するために婚姻を結びます。男子でなければ家督を相続できませんから、男子が生まれるまで子供を産みます。

一人の女性では嫡子を確保するのに不安がありますから、複数の女性を側室として抱えます。それは家を守るための防衛手段です。

武士以外にも裕福な人達は家を守るために側室を持つことが普通でした。

武士は「嫁入り」という婚姻の形式をとっていました。これは、女性が男性の家に嫁ぐもので処女に近い形(一般庶民は、既に男女間の性交があり子供があって嫁入りをしていたのと比較して。)のものです。

武士にとって子どもは家督を相続させるためのものですから、自分の子どもである必要があったのです。

婚礼における礼法も整えられ、色直し、引出物、里帰りなど、現代でもなじみ深いしきたりも、この時期に生まれています。

Photo_4 江戸時代には、仲人、見合いなども出現します。

幕府は上下の秩序を守るため『家』をすべての基礎としています。女性は「父に従い」、結婚してからは「夫に従い」、老いては「息子に従う」という、「三従の教え」があり、低い地位におかれています。

また、子どもが生まれない妻は、離婚されても文句は言えなかったそうで、妻が夫に妾を勧め、その子を自分の子として育てることもあったそうです。離婚するときも、「三下り半」と呼ばれる離縁状を妻に渡すことで離婚が成立していたそうです。

 明治時代になり、宗教の自由が憲法により保証されたこともあって、宗教による結婚式が増え、結婚のスタイルは多様化します。

明治のはじめまでは、一般庶民は「婿入り婚」が多かったそうです。婿入り婚とは、男性が女性の家に通う形式です。一定期間、妻となる女性の家に通います。そして男性の家に「嫁入り」するのは、男性の母親が家事の一切の権利を譲るときです。

従って、嫁入りまでに長い時間がかかることが多かったようです。当然何人かの子供を連れての嫁入りも珍しくなかったようです。

「婿入り」は、一定のルールの下に女性の家を訪ねます。何回か訪れた男性を、女性は拒否することもできます。これは「足入れ婚」ともいわれます。

おおらかな環境だったようで、現在のわれわれの価値観では理解しにくい面が多いと思います。外国人(キリスト教徒)にとっては、日本人は性的なモラルがないと映ったようです。

地方においては昔ながらの自宅結婚式が行われていましたが、都市部では、意外に簡略に行える神前結婚がにわかに流行し、神社での結婚式が増えました。

第二次大戦中、形だけの質素な結婚式しかできなかった時代もありましたが、現在では、結納、挙式、披露宴の合理化が進む一方で、個性あふれるさまざまな婚礼が行われるようになりました。

結納を行なうこと、仲人を立てることは武士の間の慣習に過ぎませんでした。

庶民は嫁入りのとき、親戚縁者を招いて祝宴を開いていました。既に、子沢山の状態で子連れ結婚ですから、処女の女性が嫁ぐというような雰囲気の儀式はなく、女性が家事の権限を譲渡されるお披露目の儀式でした。

婚姻の形態は、「共同婚」→「妻問婚」→「婿入り婚(足入れ婚)」→「嫁入り婚」のように変化してきました。

今の婚姻は「嫁入り」という形態になっています。明治になるまでは、武士だけが嫁入りだったのですが、大正、昭和の時代を経て、身分制度がなくなるとほとんどが武士のような嫁入りになったということです。

武士のような嫁入りとは、女性が子連れでない状態で嫁入りするということです。

平成の時代となった最近では、そのようなことにこだわることもなくなったようです。何気なく女性の部屋を訪れて、やがて同居、妊娠、結婚という流れは、「通い婚」、「婿入り婚」に戻ったような感じさえ受けるのは、私だけでしょうか・・・。

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したっけ。

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「ウェディング(wedding)とお金の関係」について考える

2012-07-16 09:19:30 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

Weddingbreakf 結婚式の事を、英語では「マリッジmarriage」と言ったり、ウエディングケーキや、ドレスに代表される「ウエディングwedding)」と言ったりしますが、この語源を知ったらみなさんは驚くかもしれません。(納得はしないでください。)

ウエディング(wedding」の語源は英語の古語で「抵当に入れる、保証する」という意味だそうです。

ウェッド(Wed」とは、「補償金」や「掛け金」を、意味した言葉だったといわれています。

つまり、ギャンブルの際に使われた言葉で、やがて「約束」とか「誓う」といった意味になり、現在の「結婚」になったそうです。

古来、ヨーロッパの地域(特にドイツ地方)では、「婚約・結婚」のときに「保証金」を差し出す習慣があったといわれています。

Photo_2 婚約指輪のことを「エンゲージリング(engagement ring)」と言いますが、ここにも、実は「抵当」という意味が隠されています。英語で 「gage」 は、「質草」、「抵当」を意味します。

結婚の約束といえば、どこかロマンチックで神聖なイメージがありますが、その言葉の語源は実に生活感にあふれています。

日本にも、婚約指輪を婚約者(女性)に渡し、結納金を納める習慣があることを考えると納得できます。

結婚に担保のイメージがつきまとうのは嫌なものですが、元々恋愛と結婚は別物といいます。

結婚の誓いには言葉だけでなく、マネーが必要だったわけですね。言葉だけでは信用できないというわけで、昔から女性はとても現実的だったということでしょうか。

wedding」という単語を辞書で引いてみると、「結婚披露宴」は英語で「ウエディングブレックファーストwedding breakfast)」 と表現することが分かりました。

wedding breakfast

((主に英))(新婚旅行出発前に花嫁宅で出される)結婚披露宴の食事.

eプログレッシブ英和中辞典

breakfast」は、断食を破る意から朝食を意味するようになったことを考えると、意味深長です。

Photo_3 「結婚は、人生最大の賭けである!」という名言もあります。

結婚も一種のギャンブルと言ったところでしょうか・・・。

ところが、劇作家のバーナード・ショーの言葉に、更にこんなのがあります。

「結婚をしばしばギャンブルにたとえるが、それは誤りだ。なぜならギャンブルは、 まぐれで当たることもあるのだから・・・」

ちなみに、「結婚(marriage」という言葉はラテン語の「maritare(女神アプロディーテー・マリ)の庇護の下 に結合すること)に由来するそうです。

    おまけ

ウェディングドレス

純白の花嫁衣裳のことです。純白は新婦の純潔を示すものと言われていることはご存知だと思います。

ところが、これは後付のこじつけだそうです。実は350年ほど前のイギリスで高価なレースをあしらったドレスを、見栄を張って着る事が流行ったのが起源だそうです。

ですからバツイチでもバツニでもバツサンでも純白のドレスを着ても大丈夫だそうです。純白な心でやり直してください。

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したっけ。

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「ちょーヤバクなくない」について考える

2012-07-15 09:54:05 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

Photo 「これ、やばいは・・・」

「ヤバい!ヤバい!」

「チョーヤベえ」

「あっ、やばす」

「まじやばす!」

こんな会話、聞いたことがありませんか。「やばい」だけで会話が成り立っています。聞いただけでは、何が、どうして、どう「やばい」のかまったく見当がつきません。

「やばい」は、本来「良くない」「非常にまずい状態に陥っている」といった意味です。

近年では意味が拡大しており、「予想に反して驚き、衝撃を受けてしまった」という場合にも使用されるようになってきています。

若者の会話だけならまだしも、若いタレントのレポートが「やばい!」の連呼だけというものさえあります。

さらには、「衝撃を受けるほど素晴らしい!」と言う意味でも使われる。

テレビの食べ歩き番組などでは、ラーメン店などで頼んだものを口にした途端、「やばい、これはヤバいわw・・・」などと使われます。

予想外のことを体験してしまい、衝撃だという意味です。「ヤバす("やばいです"の省略)」というのもあります。

つまり、予想外に美味しいということです。

テレビのバラエティー番組の乱暴な言葉がそのまま流行します。「ヤバい」、「ヤベェ」、「デケェ」、「タケェ」、「スゲェ」、「ウメェ」、「オメェ」。

公共の電波を使ってこのような言葉を流すのは、如何なものかと思うのはオジサンだからでしょうか。

「不都合だ」という意味の「やばい」を「とてもすばらしい」などの肯定的な意味で使う若者が増えている。文化庁の「国語に関する世論調査」では、十代の71%がこうした使い方をしているそうです。

「やばい」の語源は、諸説あります。

やば・い

[形]《形容動詞「やば」の形容詞化》危険や不都合な状況が予測されるさま。あぶない。「・い商売」「連絡だけでもしておかないと・いぞ」

やば

[形動ナリ]法に触れたり危険であったりして、不都合なさま。けしからぬさま。

「おどれら、なことはたらきくさるな」〈滑・膝栗毛・六〉

大辞泉

① 『大辞泉』にあるように、「具合の悪いさま」「不都合」を意味する形容動詞「やば」を形容詞化した語で、もとは盗人や香具師などの隠語であったとする説。

② 江戸時代に犯罪者を収容した「厄場(やば)」に「い」をつけてできた言葉で、「やばい」は、もとは盗人などの隠語だった。つまり、官憲の追及にあって「厄場」に送られそうな身の危険を感じたときに用いたとする説。

③ Photo_2 また、「矢場(やば)」は、江戸時代に「的屋(てきや)」が営んでいた射的遊技の的場を指す関東方言のことで、表向きは遊技場だが、実際には売春の場所だったので「矢場」が危険な場所を表す隠語となり、さらに危険な状況を表す形容詞として「矢場い」が生まれたとする説。

江戸時代から盗人や的屋の間で使われた言葉であることは間違いありません。

その後、やばいは戦後の闇市(やみいち)などで一般にも広がり、同様の意味で使われるようになりました。

ここまでは、悪事を働く側が使う言葉でした。

1980年代に入ると若者の間で「怪しい」「格好悪い」といった意味でも使われるようになります。しかし、この段階ではまだ否定的な意味でしか使用されていませんでした。

これが1990年代に入ると「凄い」「のめり込みそうなくらい魅力的」といった肯定的な意味でも使われるようになりました。

現代では、何がなんだか分かりません・・・。

チョー、ヤバクなくねぇ」では、「ヤバい」のか「ヤバくない」のか分かりません。

これって、「やばくない?」

Photo_3

したっけ。

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「紅猿子の語源」 MY GARDEN ―野鳥―

2012-07-14 10:01:31 | 写真

紅猿子(ベニマシコ)」 スズメ目アトリ科 本州では冬鳥。北海道、一部本州北部では夏鳥

体長:約15cm  翼開長:約21cm

特徴:雄の冬羽は胸、腹、目先が紅赤色を帯びる。夏場は全体に赤みが強くなり、肩も紅赤色を帯びます

雌は全体に明るい茶褐色

鳴き声:フィッホ フィッフィ(地鳴き)

環境:低山帯の林縁や農耕地、川辺、アシ原

北海道や青森県の一部で繁殖し、秋冬にはほとんどが本州以南へ移動して越冬します。

繁殖地では、低木が点在する草原や湿原、海沿いの低木林などで生活し、樹上や地上で昆虫などを捕食しています。

越冬期は、丘陵や山麓の林縁や疎林、草原、川原などで生活し、イネ科やタデ科などの草の実をついばんでいます。下草のどこからともなく「フィッ、フィッ」と風に消されてしまうような細い鳴き声だけが聞こえて来て、 いくら探しても姿が見えないことがあります。

枝の先や、草の中によくいるという習性を知っていれば見つけられます。

和名にある「マシコ」とは「」のことで、体の中でも顔の部分が特に真っ赤で、猿のように見えることから この名前がつきました。

ましこ 【▽猿子】

1]猿の異名。

2]スズメ目アトリ科オオマシコ属の小鳥の総称。雄は赤色を帯びて美しい。雌は赤褐色。ハギマシコ・ベニマシコなどが北海道で繁殖し、アカマシコ・オオマシコなどが冬鳥として渡来。増子。猿子鳥。

大辞林

前に紹介した「キュウリ草」を覚えていますか?地面の写真は「キュウリ草」の実をついばんでいるところです。

時々やってくるのですが、やっと写真が取れました。

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したっけ。

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「団塊の世代に年金の付けを回すな!!」について考える

2012-07-13 09:27:24 | ニュース

今日は、真面目な話をさせてください。団塊オヤジの切実な叫びです。

厚生年金基金、4割が「積立金」ゼロ 「企業倒産」もありうる

厚生年金基金の積立金を原因とする企業の「倒産」が現実味を帯びてきた。AIJ投資顧問によって年金資産を失った厚生年金基金に加入している企業だけではない。厚生労働省によると、全国578の年金基金のうち、5割超の314基金で年間の年金支給額が掛け金を上回った(20113月期)。つまり、積立金を取り崩して年金の支給に充てていたわけだ。

   さらに、全体の約4割を占める212基金が自らの積立金がゼロで、国から預かって運用している「代行部分」まで積み立て不足に陥っていた。

予定利回りは「年金支給額がいくら必要か」で決まる

   AIJ投資顧問による年金消失問題を受けて厚労省が行った調査では、基金の86.9%にあたる502基金の予定利回りが「5.5%」と、実現見込みのほとんどない水準だったこともわかった。

   過去10年の運用実績は平均で年1.2%。2010年度の実績がマイナス0.17%というのだから、「予定」とはいえ、あまりに大きな乖離だ。

   厚労省は、「1997年以降はそれ(5.5%)を下回ってもかまわないようになりました」と説明。「おそらく、(当時からの)延長線上として引きずってきたのでしょう」とみている。

   厚生年金基金が予定利回りを引き下げるには、掛け金の追加負担で運用による不足分を穴埋めするか、あるいは年金支給額を減らすしかない。

   「年金の支払額が決まっているところから、いくら必要でそのための利回りや掛け金がどのくらいかが決まるので、方法はそのくらいしかありません」(厚労省)

   しかし、年金支給額を減額するには、OB3分の2以上の同意が必要になるなど、面倒な手続きがいる。加入者に追加負担を求めるのも難しい。企業が補てんする方法もあるが、中小企業が集まっている「総合型」の厚生年金基金の場合には加入する企業の経営状況がからむので見直しなどは、なおさら難しくなる。

年金倒産「可能性はある」

   厚生年金基金は、企業独自の企業年金積立金に加えて国の厚生年金の一部を代行して運用している。運用成績が厚生年金の予定利回り(5.5%)を上回れば、その分を企業年金の利益にできるが、バブル崩壊後の景気悪化で予定利回りに届かず、その分が損失(代行割れ)になっている。

   その代行割れが、全体の約4割を占める212基金にまで広がり、不足額は6289億円(113月末)にものぼっている。このまま運用利回りが低いままだと、行き着く先は基金の解散(代行返上)だ。

   しかし、基金が解散すると、国の代行部分に相当する積立金を返還する必要が出てくる。じつはこの返還金が企業の経営を圧迫することとなる。総合型の年金基金の場合、このところ中小企業の業績が芳しくないだけにより深刻だ。

   中小企業は損失分を穴埋めする余裕もなく、解散もできず、損失が膨らんで、にっちもさっちも行かない状況にある。

   企業情報の帝国データバンクによると、「年金基金の解散が原因となった企業倒産は、兵庫県でタクシー業界の年金基金のケースがあり、13社が倒産しています」という。

   兵庫県乗用自動車厚生年金基金が解散を決めたのも、運用利回りが予定どおりにいかなかったことが原因とされる。基金の不足額80億円を、母体企業で分担すると1社あたり約16000万円にのぼる。その分割負担に耐えられず、倒産したタクシー会社が相次いだわけだ。

   帝国データバンクは、「AIJの件が引き金になることはあり得ますし、(年金基金が原因の倒産の)可能性はあります」と話している。

Jcastニュースより

厚生年金保険の適用事業所の事業主と、その適用事業所に使用される被保険者で構成される(厚生年金保険法第107条)。

 AIJ」の件をふくめて「厚生年金基金は、危機に瀕しています。

AIJ投資顧問2000億円に上る年金基金が消えた問題で、 AIJに運用を委託していた年金基金の多くに旧社会保険庁や厚生労働省のOBが天下りしていたことが明らかになっています。

これは、きちんとした監視体制をとってこなかった国の責任です。

国家公務員(地方公務員も同じ)の退職金は、退職金債を発行してでも支払っています。民間なら赤字の会社で退職金は出ません。これは差別としか言いようがありません。

一般庶民の団塊世代は、僅かな退職金を貰い、コツコツと積み上げてきた年金は我々が貰う番になったら「減額」、「先延ばし」。さらに年金基金までなくなったら、どうやって生きていけばいいのですか。

一部の人間(役人)が甘い汁を吸ったおかげで、我々は泣き寝入りですか?

22年度末 厚生年金基金 595、11.1万事業所、430万人が加入しております。

日本の正社員人口は男女含め約3,300万人(就労人口は男女で約6,200万人) 実に正社員人口の13.0%が加入しております。

これだけの国民が被害者なのです。

AIJ」の役員(詐欺師)を刑事罰に処してすむ問題ではありません。

厚生年金基金は政府が後押ししていたからこそ、我々は安心して積み立てをしていたのです。

基金が解散して、加入企業が倒産したら、日本経済に与える影響は多大なものになるはずです。

放射能をばら撒いた東電は国費を投入しても守るけれども、中小企業の経営者、従業員、退職者のことはどうでもいいのですか。

国民の生活が第一」とは、民主党が政権交代時に掲げた公約です。我々には「大企業(東電を含む)の生活が第一」に聞こえるのは気のせいですか。

さらに、臆面もなくこの公約を政党名にした、次期選挙だけを見据えた恥知らずな集団まで現れました。

みなさん忘れてはいませんか、消えた年金はどこへ行ったのでしょう。

旧社会保険庁のみなさんのずさんな仕事のおかげで、余計な税金を使ってあれこれほじくり返して出てきたんですか。

使っちゃったものは出てきませんよ。社会保険事務所には何回も行きましたが、仕事をしている人間は一人か二人。あとは時計とニラメッコ。そうでしょうよ。パソコンは身体に悪いから一日一時間以上は使ってはダメ。お仕事は疲れるからマッサージチェアを買いましょう。職員のための保養施設を建てましょう。

社会保険庁にあったお金は、我々が預けたお金ですよ。それを自分たちのために使ったら、役所ぐるみの横領じゃありませんか。

銀行の職員が横領したらどうなるか知っていますか。みんなでやれば怖くないなんてことがまかり通る世の中で、組織の名前を変えて堂々とみなさん勤務。

指名手配の犯人が偽名を使ってこそこそ生きているのとは訳が違う。

「社会保障と税の一体改革!」

その前に「国会議員と役人の一体改革」をやったらどうですか。

我々団塊の世代は「金の卵」とおだてられ、日本経済の成長を、老人の生活を支えてきたつもりです。今になって、団塊世代はただの「腐った卵(厄介者)」ですか。

我々の血のにじむようにして積み立てたお金は、ドブへ捨てたのも同然だなんてことにならないようにしてください。

真面目に何十年も払い続けた人間よりも、年金もかけずに「生活保護」を貰ったほうが、いい生活費ができるなんてことにはしないでください。

「生活保護受給者」の三分の一が「アルコール中毒」、「薬物中毒」という報告があります。税金をそんな者のために使わないでください。

誰だって、「キリギリス」のように生きたい。「アリ」を踏みつけるようなことはしないでください。本当に我々の生活を守ってください。お願いします。

腹が立って、勢いで書いたので、行き過ぎの点、勘違いがあったらお許しください。

気持ちだけは理解してください。

したっけ。




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「最後の皐月」 MY GARDEN 2012.07.11

2012-07-12 09:30:04 | 写真

「皐月(サツキ)」 ツツジ科ツツジ属の半常緑小低木

花期:67

花色:朱赤色(栽培品種は赤 ・赤紫・白など、さまざまな色や八重咲き(やえざき)のものなど多くの品種があります)

樹高:10㎝から100㎝くらい

分布:本州の関東地方南部から九州(日本固有種)

育成地:山地の河川沿いの岩肌などに生えます(自生のものは川岸の水しぶきがかかるようなところに生えます。かっ色の毛がついた枝は横に伸びて、岩場にしがみつく)

やっと、本来の朱赤色のサツキが咲き始めました。まだたくさん花芽がありますので、しばらく楽しめそうです。

これが庭の皐月の最後の花になります。

「サツキ」について詳しくは下記の過去記事を参照してください。

「皐月の語源」 MY GARDEN 2012.06.08

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したっけ。

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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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