都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
① 真冬にストーブをぼんぼん燃やして半袖でアイス食たべる。(ビールを飲む)
② 交通事故の相手が鹿であることは不思議ではない。(シカタナイべさ)
③ コンビニでおにぎりを買うと「おにぎりあたためますか?」は当たり前。
④ 雪かきしたあとに除雪車がくると雪かきやり直し。(車道の雪を置いていく)
⑤ 冬でも郊外の道路は時速60kmで車が流れている。たまに、追い越すやつがいる。
⑥ 「大麻」を「たいま」と読むと笑われる。(江別市にある地名「大麻(おおあさ)」)
⑦ 真冬の最低気温-10度は「今朝は暖かかったなあ」と言う。
⑧ 眼鏡をかけてマスクをするとレンズに霜がつく。(眼鏡用マスクがある)
⑨ 見通しのよい道での正面衝突事故が異常に多い。ニュースでは、「現場は見通しのよい一本道」、「見通しのよい緩やかなカーブ」という。見えすぎて安心?
⑩ 道路わきに「赤白」交互に色付けした矢印が連なって立っています。これなんでしょう?(答えは最後に・・・)
⑪ 夏は時速60kmで車が流れているのに「渋滞してるなあ」とつぶやいてしまう。
⑫ やきそば弁当以外のカップ焼きそばを食べると、お湯を捨てるのがもったいない。(やきそば弁当を作ったときに出る残り湯でスープを作る)。ほとんどの北海道民が「やきそば弁当」しか買わない。
⑬ ほとんどのうちが「北海道新聞」を読んでいる。十勝では「十勝毎日新聞(勝毎)」は必需品。お葬式の日程が掲載されている。
⑭ 北海道を省略するときは、「道(どう)」。(「北海道新聞」を「道新」、「北海道の住民」を「道民」、「北海道で取れた米」を「道産米」、「北海道の道路(他県では県道)」を「道道」など)
⑮ 道外から転勤して来た人は二度泣くといわれる。一度目は「こんなところへ来てしまった」。二度目は「こんないいところ離れられない」(食べ物は美味しいし、物価も安い。寒いと思ったら家の中は東京より温かいんでないかい)
⑩ の答え:雪が降って道幅が分からなくなったときの、除雪の目印。
どうです。北海道は変ですか?
したっけ。
「正月」とは本来、その年の「豊穣(ほうじょう)」を司る「歳神様(としがみさま)」をお迎えする行事であり、1月の別名です。
現在は、1月1日から1月3日までを「三が日」、1月7日までを「松の内」、あるいは「松七日」と呼び、この期間を「お正月」と言っています。
元々は、年が明けてから初めての望月(満月)までの15日間でした。
松の内の短縮については、寛文2年(1662年)1月6日 (旧暦)、江戸幕府により1月7日 (旧暦)を以て飾り納めを指示する最初の通達が江戸の城下に町触として発せられており、それに倣った風習が徐々に関東を中心に広まったと考えられています。
松の内とは正月に飾る松飾り(門松)を立てておく期間のことをいいます。年の暮れに松飾り(門松)を立ててお迎えした年神様に滞在していただく期間で、松を取り付けている間とか、神様に待っていただく間などという意味といわれています。
地方によっては1月20日までを正月とする(二十日正月・骨正月)こともあります。
はつか‐しょうがつ【二十日正月】
正月20日のこと。正月の祝い納めの日として、餅や正月料理を食べ尽くしたり飾り物を納めたりする。骨正月。《季新年》
大辞泉
「二十日正月」は、「松納め」、「正月送り」また、「あがり正月」などともいい、正月の終りとなる節目の日であり、かつては正月の祝い納めとして仕事を休む「物忌みの日」であった。万事のんびりした昔の人もこの日の行事をもって正月を終了したようです。
「鏡開き」は、正月に年神様にお供えした鏡餅を雑煮や汁粉にしていただくことによって、一家の今年1年の円満と無事息災を願う行事であり、鏡餅は神棚や床の間などに飾った。
「鏡開き」のときに、元は20日であった「鏡開き」が慶安4年(1651年)4月20日の徳川家光の死去に伴い、11日に変更されたと書きました。
京阪神地方では、もともとの鏡開きの20日が「二十日正月」として、正月に供えた鏡もちを食べたり、正月に用いた「鰤(ブリ)の骨や頭」を酒粕・野菜・大豆などと一緒に煮て食べたりする風習がありました。これを「骨正月」ともまた「頭正月」とも言っていたそうです。
「鰤(ブリ)」は、小より大に至るに従って次第に名を変える「出世魚」です。人も師の教によって心の徳が増し成長します。そこで、縁起のよい魚として「魚+師=鰤」の字をあてたと言われています。
昔は年末に、正月用の鰤を一尾まるごと買い荒縄で縛って、はしり(台所の流し)などに吊るしておき、少しずつ切り取り料理したそうです。
20日にもなると身もほとんどなくなって頭や骨ばかりになったような鰤や神棚からのお下がりの硬くなった餅や串刺しの干し柿などを食べ尽くしたそうです。
そして、この日に小正月の飾り物も取り納め仕事始めとしたそうです。
また、20日を「乞食正月」と称して、乞食が家々を回って残り物をもらうという地方も昔はあったようです。
この「鰤」を食べつくす習慣が「骨正月」由来です。
他の地方でもお正月の御馳走や餅などを食べ尽くす同様な風習があったようですが、今は20日までお正月気分でいるわけにはいきません。
念のため申し添えますが、最初に書いたように正月とは1月の別称でも有りますので31日までは「正月」なのです。
したっけ。
。① 独楽
② 歳徳神
③ 注連縄
④ 厚誼
⑤ 謹賀新年
⑥ 初詣
⑦ 参詣
⑧ 襷
⑨ 首途
⑩ 点袋
① こま【独楽】 木・金属などの円形の胴に心棒を通し、それを中心として手やひもで回転させて遊ぶ玩具。すり鉢ごま・べいごまなど種類は多い。
② としとく‐じん【歳徳神】 陰陽道(おんようどう)でその年の福徳をつかさどるとされる神。この神のいる方角を、明きの方・恵方(えほう)といい、万事に吉という。年によって方角が違う。年神(としがみ)。
③ しめ‐なわ【注連縄/標縄/七五三縄】 神を祭る神聖な場所を他の場所と区別するために張る縄。また、新年の祝いなどのために家の入り口に張って悪気が家内に入らないようにしたもの
④ こう‐ぎ【厚誼】 情愛のこもった親しいつきあい。厚いよしみ。「御―を賜る」
⑤ きんが‐しんねん【謹賀新年】 つつしんで新年の喜びを申し述べること。年賀状などに記す語。
⑥ はつ‐もうで【初詣で】 [名](スル)正月、その年初めて社寺に参詣すること。初参り。「晴れ着で―する」《季 新年》
⑦ さん‐けい【参詣】 [名](スル)神社や寺にお参りすること。おまいり。「氏神様に―する」「―人」
⑧ たすき【襷/手繦】 和服の袖やたもとがじゃまにならないようにたくし上げるためのひも。背中で斜め十文字に交差させ両肩にまわして結ぶ。
⑨ かど‐で【首途/門出】 [名](スル)1 旅などのために、自分の家を出発すること。出立(しゅったつ)。「―を見送る」
⑩ ぽち-ぶくろ【点袋】 ご祝儀袋。お年玉などを入れる。「ぽち」は「これっぽっちですが」という意味。
したっけ。
仕事始め
年の初めにあたり、年間の豊穣(ほうじょう)や繁栄を祈って行われる家業・生業に関する儀礼。「事(こと)始め」とよばれるほか、行われる仕事によって、「ない初(ぞ)め」、「田打ち正月」、「鍬(くわ)入れ」、「初山(はつやま)」、「舟祝い」などさまざまによばれる。これらの行事は正月の2日、4日、11日、14日、15日などに行われることが多い。
商家の初荷・初売りはほぼ2日に一定しており、安売りをして景品を出したりする。
女性はこの日に縫い初(ぞ)めといって形だけでも針仕事をしたり、機(はた)織りをしたりした。
このほか、書初(ぞ)め、謡初(ぞ)め、舞い初(ぞ)めなどの芸事始めも行われる。
農家では藁(わら)を打ってほんのすこし藁仕事をしたりする。早朝に田畑へ行き、鍬を入れて耕作をするまねをしたり、正月の松を稲苗に見立てて田植のまねをしたりすることもあるが、これは11日や小正月に行われることが多い。
山仕事に従事する者は2日や11日などに山へ行って木を伐(き)り、山の神に供え物をして仕事の安全を祈る。
漁業に従事する者もこのころ舟に集まって舟霊(ふなだま)様を祀(まつ)り、豊漁を祈ったりする。いずれも正月行事の一環として儀礼的に行われるだけで、実際の仕事始めは正月の期間が終わってから順次行われるのである。
どうです。昔のお正月はのんびりしていましたね。元日から営業しているのは、「神社」、「病院」、「映画館」くらいでした。
3日まではどこも営業していませんから、遊びに行くところもありません。
初詣に行って、自宅でお餅とみかんを食べていました。今、考えるとよくお餅ばかり食べていたものだと思います。
女性も三が日は、ほとんど台所に立ちませんから、食べる物はお餅しかなかったのです。
官公庁では毎年1月4日を官庁御用始めとして初めて執務を行う日としており、一般企業でもこれに準じていることが多かった。昭和40年代までは、特に女性社員が着物を着て出社していました。
もちろん、着物姿で仕事ができるはずもありません。年始の挨拶に来るお客様の接待が仕事でした。
その日は、普段背広を着ない仕事の男性社員も背広や和服で出勤していました。
「初荷」で訪れる問屋さんは皆日本酒を持参しますので、昼間から飲んで終業時間の頃はすっかり出来上がって、そのまま夜は「新年会」でした。
バブルに向かう前の、いい時代でした。
したっけ。
年が明けて仕事始め終わったことと思います。私はお正月になると、若い頃に経験した「初荷」の光景を思い出します。
最近では「初荷」の光景もすっかり見なくなってしまいました。
皆さんは「初荷」という習慣を知っていますか?
商家の仕事始め。正月2日に行われる儀礼的な初商いで、江戸時代からはじまった。新調したはっぴや手拭を着用し、卸商人は小売店へ、小売商人は有力な得意先へそれぞれ商品を送り込むのであるが、祝歌を歌ったりしてにぎやかに行われ、祝酒なども用意された。この日、野菜の初出荷をする農家もあった。車には初荷の幟(のぼり)旗が立てられるが、かつて馬を用いていたころには、馬を美しい鞍や綱で飾りたて、華やかな気分を盛りあげた。
断っておきますが、私は馬の時代は知りません。
はつ‐に【初荷】
1 正月の商い初めの商品を、問屋や商店などが、美しく飾った車や馬で取引先に送り出すこと。また、その荷。もと、2日に行われた。《季 新年》「痩馬(やせうま)を飾り立てたる―かな/子規」
2 季節ものの商品の、最初の出荷。また、その荷。
大辞泉
昭和40年代の話です。正月明けの4日には、卸問屋さんでは「初荷」の幟や横断幕をトラックの荷台に掲げて、小売店を回っていました。
中でも、とりわけ派手に行なっていたのは、電気販売店に照明器具や電気工事資材を卸している問屋さん(松下電器)の「初荷」風景です。
年が明けて初荷の日になりますと、営業員全員というか女性も含めて営業所全員が数台の車に分乗し、1台から2台のトラックに荷物を山積にして顧客のお店を順番に回っていきます。
お店に到着したら、普通に年間通じて売れるちょっとした商品を「初荷」として勝手に納品します。(これは後で返本可能でした)
御神酒を頂いて、代表の若手社員が「商売繁盛の口上」を声高らかに申し述べます。そして、営業所全員で拍手(かしわで)を打って終わります。
これを、7日くらいまでの間に全ての販売店を巡回して「初荷」が終わります。
このような商習慣はまだどこかに残っているのでしょうか?
ただ「初荷」の習慣の存続はさておきまして、「初荷」の良いところがありました。
基本的に担当営業員が単独でいくのではなく、営業所長以下、所属の営業員が全員で一件の顧客に訪問していましたので、普段は顔を知らない他の担当地域の顧客と顔を合わせる機会でした。
担当地域が変更になった場合でも、「初荷」で顔を会わしているので気持ちが通じやすかった気がします。
昔の商売では正月明けは月半ばまでは、まともな営業はしないで挨拶回りに行くか、挨拶回りに来た人の対応だけで、それが一段落してから本格的な営業活動になるというのんびりしたものでした。
昭和5年1月、名古屋支店で初荷をしたところ、非常に喜ばれた。全国でもやろうと考え、昭和6年1月、全社的行事として挙行した。
全員がハッピ姿で、荷物を満載したトラックに乗り、車体に商品名を書いた幕や小旗を取り付け、幟(のぼり)を立ててにぎやかに行進するのである。道行く人々は驚いた。
販売店に着くと、荷物を下ろして、店先で初荷のあいさつ状を読み上げ、最後に三三七拍子。先々で「縁起商売や」と評判になった。
この初荷は正月恒例の行事として年々盛大に行われ、世間で松下の名物行事と呼ばれるほど話題を呼んだが、交通事情が悪化したため、昭和39年を最後に中止された。
上記には、昭和39年を最後にとありますが、少なくとも昭和40年代半ばまでは行なっていました。北海道だけだったのでしょうか・・・。
したっけ。
一般的には、田んぼや空き地に、長い竹(おんべ)や木、藁(わら)、茅(かや)、杉の葉などで作ったやぐらや小屋(どんどや)を組み、正月飾り、書き初めで飾り付けをしたのちそれを燃やし、残り火で、柳の木や細い竹にさした団子、あるいは餅を焼いて食べるという内容で1月15日前後に各地で行われます。
このような、全国の「どんど焼き」行事は、最北端が秋田県、最南端が鹿児島県で実施されているようです。
実施時期は東北地方から九州地方まで、ほぼ1月14日ないし15日だそうです。
それは、この行事が小正月の行事だからです。
北海道では、このような習慣がないので神社の境内で行なわれます。
どんど焼きは「どんと焼き」、「左義長(さぎちょう)」などとも言われおり、小正月(1月15日)に行われるものです。どんど焼きではお正月に飾っていた松飾りや注連縄(しめなわ)、注連飾り(しめかざり)をお焚き上げする日本古来の伝統的行事であり、丁度一年に一度お札やお守りを取り替える時期であることから、近年は全国的にお札やお守りを一緒にお焚き上げするようになっております。
毎年変わらず「1月15日」に行います。(成人の日には関係ありません)
どんど焼きは古来よりの風習として小正月の1月15日に行うもので、成人の日とは全く関係ございません。また地方によってはこの日以外に行う所もございますが(札幌や函館等)この十勝地方の神社では一律で1月15日に行っています。
尚、帯廣神社では当日の午前8時に神聖な忌火によってお焚き上げを行っていますが、当日お越しになれない方には事前に社務所でお預かりし、当日お焚き上げ致しております。また当日を過ぎましても定期的にお焚き上げを行っておりますので、必ず社務所までお持ち下さい。
その際、燃えるもの・燃えないものについては、分別を頂きお持ち下さいますようご協力をお願い致します。
▼ 燃やせるもの (お焚き上げを致します)
おふだ・お守り・しめ飾り・破魔矢その他神社で頒けているもの。帯廣神社のお守りのビニールは全て燃やすことができます。
▼ 燃やせないもの (お焚き上げはできませんが、お預かりしお祓いして処分致します)
プラスチック・ビニール・金属・ガラスでできているもの。しめ飾りのお飾りは外して下さい。
▼ 持ち帰ってもらうもの
鏡餅・ミカン・人形・置きもの・写真・年賀状・寺院等の御札・その他神社に関係の無いものはお預かり出来ません。
※現在法律等で野焼きが禁止されています。しかし宗教行事等で伝統的な行事(どんど焼き)などは、特例として認められています。分別にご協力を頂かなければ、今後どんど焼きが行えなくなることも考えられますので、是非とも分別にご協力下さい。
「どんど焼き」の別称として「左義長(さぎちょう)」という呼び名がありますが、これがどんど焼きの起源とも関わっているといわれています。
「左義長(三毬杖)」は、正月十五日、平安時代の宮中で、清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て「毬杖(ぎっちょう)」三本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、「陰陽師(おんみょうじ)」が謡いはやしながらこれを焼いたという行事です。
それが民間に伝わり「どんど焼き」となったといわれています。
火は穢れを浄め、新しい命を生み出します。竹の爆ぜる音は災いを退け、高く上る煙に乗って正月の神様が帰ります。
「どんど焼き」は、祓い清めという役割と、正月に 浮かれた人々を現実世界に戻す、二つの役割を担った行事とおもわれます。
この火にあたると若返るとか、焼いた団子を食べると病気をしない・虫歯にならないとかいわれています。
また、燃やした書初(かきぞめ)の紙が高く舞い上がると習字が上手になり勉強もできるようになるなどともいわれています。
お守り、いただいたお神札(おふだ)に感謝して、古神札の焼納やだるまなども燃やします。
その他にも、1年中の「身体健康」、「無病息災」、「家内安全」、「五穀豊穣」などを祈願しているそうです。
「正月飾り」を燃やすという行為から、「正月の神様(歳神様)」が空に帰っていくという意識が働いているものとみられます。
「どんど焼き」の語源については、火が燃えるのを「尊(とうと)や尊(とうと)」と囃(はや)し立てたことから、その囃し言葉が訛(なま)ったという説と、文字通り「どんどん燃える」様子からそれらの名称がついたという説があります。
したっけ。
今日は「成人の日」です。新成人の皆さんおめでとうございます。
さて、お正月の遊びといえば、昔はたくさんありました。今は、お正月だからといって特に行なわれることはありません。
「かるた」、「百人一首」、「独楽」、「双六」などがありました。
今日は、「福笑い」、「羽根突き」、「凧揚げ」について考えてみます。
■「福笑い」
「福笑い」といえばお馴染みなのは「お多福」の顔です。福を呼ぶ「お多福」は、どんな顔になってもご愛嬌です。
そのルーツは定かではありませんが、福笑いは、江戸時代に始まった遊びだとされています。
初期の「福笑い」は、「お座敷遊び」だったという説があります。
顔に紐を使って半紙を張り付け、のっぺらぼうの状態から始まります。墨の付いた筆を持たせてもらい、相手が言うなりに自分の顔の上の半紙に顔を描いていきます。口の次は目、その次は輪郭など、バラバラに攻められると不思議な顔の出来上がるというわけです。
これは、「お座敷遊び」としてはいかにもありそうですが、「福笑い」の起源としていかがな物かと思います。
また、古くは「こより」や「綱の輪」で、人の顔や目鼻を作る遊びだったという説もあります。今の人は「こより」を知らないですね。昔は和紙を筒状に丸めて閉じ紐に使ったものです。
現在のような「福笑い」は江戸時代の後期に遊ばれ始め、明治にはお正月の遊びとして定着しています。
目隠しをして、輪郭を描いた紙の上に、目・鼻・口・耳などを置いていくゲームですが、出来上がった顔立ちが滑稽なので、それを笑って楽しみます。おかめやお多福などの絵が多く、「笑う門には福来る」と縁起がいいことから、正月にふさわしい遊びになったようです。
■「羽根つき」
14世紀頃の中国で、羽根に硬貨をつけたものを蹴り合う遊びがあり、これが室町時代に日本に伝来し、羽根つきの原型になったといわれています。
当時の宮中の様子を記録した『看聞御日記(かんもんにっき)』(1432年)では、羽根つきに負けたらお酒を振舞っていたと記録されているそうです。
やがて江戸時代になると、羽根つきで厄祓いできると信じられるようになりました。
羽根に使われるムクロジの実を「無患子」と書き、「子が患わ無い」という魔除けに通じるものとして、女の子の初正月に羽子板を贈る風習が生まれます。
また、『世諺問答(せいげんもんどう)』(1544年)では、「羽根のとぶ様子がトンボに似ていることから、子供の病気の原因となる蚊に刺されないよう、蚊の天敵であるトンボに見たてて、正月に羽根つきをするようになった」と書かれているそうです。
羽根つき遊びが盛んになったのは、江戸時代の元禄(1688-1704)以降で、文化・文政(1804-1830)頃から人気役者の似顔を写した押し絵羽子板が流行し、明治には全盛期を迎えました。その後、形や素材を若干変えながらも、現在におよんでいます。
こうして、羽根つきは1年の厄をはね、子供の健やかな成長を願うものとして、親しまれてきたのです。打ち損じると顔に墨を塗るのも、魔除けのおまじないです。
■「凧揚げ」
古来中国では、凧あげは占いや戦いの道具のひとつでした。日本には平安時代に貴族の遊戯として入りました。
初は、「紙鳶 (しえん)」、「紙老鴟(しろうし)」とよばれ、凧揚げは技芸の一種だったようです。「鳶」や「鴟」は、鳥の「トビ」のことで、紙製のトビを意味しています。
戦国時代には、敵陣までの距離を測ったり、遠方へ放火する兵器としても活用されたりしていたそうです。
天下泰平の江戸時代には子どもの遊びとして全国に広まりました。季節を問わず、風が吹くと、凧揚げに興じる子どもの姿が見られるようになったそうです。
ところが、幕府は、江戸初期の1656年(明暦2年)凧揚げを禁止します。その理由は、参勤交代の邪魔になるというものでした。
凧揚げをする子どもには、上手な子もいれば、下手な子もいます。また、風向きが変ったり、風が弱くなったりすりと、凧はきりきり舞いしながら落ちてきます。落ちてきた凧が、武士の体や馬にからまって、行列の通行を妨げるという「事件」が起きていたそうです。
だからといって、子ども相手に武士が刀を抜くわけにもいきませんでした。
そこで幕府は、大名からの苦情を受けて、凧揚げ禁止令を出したのである。しかし、凧揚げくらいで厳しく取り締まるわけにも行かず、禁止令が出た後も、凧揚げをする子どもはいっこうに減らなかったそうです。
ちなみに、いわゆる「奴凧」が誕生したのは、江戸後期の1800年代のこと。あの姿は、武家の下級職である「折助(おりすけ)」を真似たもので、大流行となりました。
また、昔から「立春の季に空に向くは養生のひとつ」といわれたことから、立春に凧あげをするようになりました。昔は立春のころから新年となったので、ここからお正月の遊びとして定着したようです。
それぞれに、意味はあるのですが、どれも最近では見かけなくなりました。
したっけ。
「賽子(さいころ)」といえば、「盤双六(ばんすごろく)」ですが、」平安時代には囲碁と並んで人気のあったものだそうです。今の双六と違い賭博性が高く689年に禁止令が出るほどでした。
ただこれは、今の「双六」とはまったく違います。「バックギャモン」のような物でルールも複雑怪奇なので省略します。
詳しく知りたい方は、「平安のヒットゲーム双六」を見てください。
今の双六は江戸時代に出てきたもので盤双六とは違います。盤双六は、奈良時代に伝わってきたということです。
さい‐ころ【賽子/骰子】
「さい(采)1」に同じ。「―を振る」
大辞泉
「賽子(さいころ)」の「ころ」は接尾語。「ころ」は「子ら(複数形)」に由来。
そもそも「ぞろ目」とは「揃い目」の事で、「さいころの目が揃う」という事に用いられたようです。
古来日本では「ぞろ目」のことを「重~」と 呼び慣わしたそうです。
「重一(でっち じういちの転)」、「重二(じうに)」、「重三(じうさん)」、「重四(じうし)」「重五(でっく じうごの転)」、「重六(ちょうろく)」と呼びました。
しかし、「三」と「四」ばかりは「朱三(しゅさん)」、「朱四(しゅし)」と呼ぶようになります。
これには、次のような話が残っています。
「唐の玄宗皇帝と楊貴妃が双六をなされたとき、皇 帝が重三の目を出したいと思われ、『朕の思い通りになるなら五位に叙そう』と申されてお振りになられると、見事重三の目が出た。一方楊貴妃の番となり重四の目を出したいと思われたとき、『私の思い通りの 目が出たなら共に五位としましょう』と言って振ると、重四の目が出た。こうして共に五位に叙された賽は五位の印『紅袍』をまとう代わりに、目に朱が指されるようになったので、重三・重四を朱三・朱四と呼ぶ ようになったのです。」
平安当時、というより日本の「賽」には三にも四にも朱は指していません。
「賽子(さいころ)」の目はもともと全て黒かったのです(骨董の「さいころ)はみんな黒のはずです)。
1の目だけが赤い「賽子(さいころ)」は日本特有のものです。もともと、1926年に和歌山県のさいころ製造業者が日の丸をモチーフに1の目だけを赤色にして売り出したら、それが大当たりしました。それ以来、1の目が赤い「賽子(さいころ)」が一般的になりました。
また、「一天地六」というように、賽の目は天地の合計が七になります。
時代劇で赤い目の「賽子(さいころ)」が出てきたら、時代考証の誤りです。
また、「ぞろ目」は「同目」と書きますが、そのことを博打用語では、「ため」と言うそうです。「同目(どうめ)」が訛ったようです。
その「ため」は、同じ目という意味であるので、対等・同等という意味として、1960年代のころから不良少年の間で使われ始め、同じ年同士のものを「ため」と呼ぶようになり、そして、その同じ年同士の間の口のきき方を「ため口」と呼ぶようになったそうです。
「不良少年」はちょっと古かったでしょうか
したっけ。