都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「破魔矢(はまや)」とは、神社で正月に縁起物として授与している矢のことです。
元々は「浜弓浜矢(はまゆみはまや)」といって、宮廷や民間において、正月に「射礼(じやらい)」として弓矢を射たときに使われたことに由来します。
射礼(じゃらい)とは、宮中において毎年正月17日に行われていた歩射(ぶしゃ/かちゆみ )の競技の1つ。 『日本書紀』(720年)によれば古来より宮中における弓競技が行われ、最古の例 は清寧天皇4年9月1日(483年10月17日)とされています。
「はま」とは『貞丈雑記(ていじょうざっき)』(1843年)によると、「大和国(奈良県)吉野郡地方」や「土佐国(高知県)地方」で、正月に子どもが弓を射るときの的の穴をいうのだという。
すなわち,的は縄を巻いて直径1尺(30cm)ほどの輪をつくり、その中に鍋敷の形をした、差し渡し(直径)2~3寸(6~9cm)の穴をあけ、これを「はま」と称し、この「はま」を射るのが「はま弓はま矢」であるという。
かつては神奈川県の破魔矢奉製所が商標登録していまたが、現在は商標登録されていません。商標登録されていたときにはニュースでも「魔除けの矢」などと言っていたそうです。
この名称が広まったのは昭和以降だそうです。
※破魔矢発祥の地新田神社(東京都大田区)
御祭神の御塚後部には、源氏の白旗を立てたものが根付いた「旗竹」という昔から決して神域を越えることがない不思議な篠竹が生えており、雷が鳴るとこの竹がピチピチと割れたという言い伝えがあります。
江戸時代には、「エレキテル(摩擦発電機)」などを製作した蘭学者平賀源内がこの竹で厄除招福・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めました。
爾来、毎年正月初詣の人々に社頭で授与しています。神棚、お部屋、玄関などにお飾り下さい。
尚、東面または南面に飾ると、御加護の霊力がアップします。
新田神社HPより
また別の説では、元々は武家の風習で、戦場に赴く前に武運長久を祈願して神社に甲冑・刀・槍・弓矢などを奉納した際、参拝した神社から守護神のご加護の証として模擬の弓矢をいただき、これを戦場での御守護として奉ったことが発祥の由来と言われています。
江戸時代の後期には一般庶民の間にも広がり、男児の成長を祈願して神社に参拝した際に、破魔矢と破魔弓をセットしたものを授かったとされています。
明治以降は、魔を射り破るという意味合いから魔除けの弓矢と言われ、現在では主に初詣に神社へ参拝した際に、「開運厄除・家運隆昌」を祈願して破魔矢を持ち帰り、神棚に立て祀ります。
神棚のない家は、玄関の扉の内側上部に取り付けて「厄い封じ」として用いるのも良いとされています。
通常は購入後1年を経過すると効力を失うとされて買い替えるのが一般的ですが、古いものは次年正月の初詣の機会にでも神社に持参して焼却してもらいます。
したっけ。
1月11日は「鏡開き」です。「鏡開き」は、もともと新年の仕事・行事初めの儀式の一つです。
お正月の間供えられていた鏡餅は持て余しがちですが、それを有効に利用する合理的な行事が「鏡開き」です。
できれば飾る段階でカビ対策をしておくと楽に調理できます。上下の餅が重なる部分と底に、清潔なはけやカット綿を使って焼酎を塗っておくと殺菌消毒になります。
今は、パックの鏡餅ですから心配は要りませんか、自宅で丸めて作る方は参考にしてください。
調理の際は、できれば習わしのように刃物を使わず、ひびのところから折ったり 木槌で叩いたりして食べやすい大きさにします。
これをお汁粉やお雑煮に入れて食べるのがもっとも一般的な食べ方です。あべかわや揚げ餅という食べ方もあります。
「鏡餅」は、昔の「鏡」に由来します。昔の鏡というのは丸い形をした「銅鏡」ですが、鏡というのは、天照大神から授かった三種の神器のひとつであり、伊勢神宮をはじめ、鏡をご神体としているところもたくさんあります。
「鏡餅」は年神様の依り代ですから、ご神体としての鏡をお餅であらわし、「鏡餅」と呼ばれるようになりました。
丸い形は、昔の丸い「鏡」を模しており、魂の象徴でもあります。大小2段で月と太陽、陰と陽を表していて、円満に年を重ねるという意味も込められています。
「鏡餅とはなんなのか」について考えるより・・・
昔、武家では正月に鏡餅を供え、正月20日にこれらを割って食べるという習慣がありました。男性は具足(鎧や兜のこと)にお供えした「具足餅」を、女性は鏡台に供えた「鏡餅」をそれぞれ雑煮にして食べたことがこの行事のはじまりです。
「二十日(はつか)」を「刃柄(はつか)」にかけていたのです。
しかし、慶安4年(1651年)4月20日に三代将軍徳川家光がなくなったために、20日を忌み日として11日になったそうです。
この11日は、江戸時代の大名が行った米蔵を開く儀式や、商家などで新年初めて蔵を開いて商売繁盛を祈る「蔵開き」に由来するようです。
武家社会では「切る」という言葉を嫌うため刃物は使わずに割るのですが、おめでたいときに「割る」というのも縁起が悪いため「運を開く」にかけて「鏡開き」と呼ぶようになりました。
「鏡」は「円満」を「開く」は「末広がり」を意味します。現在でも家庭や事務所で年の始めに鏡餅を供え、一年の健康と発展を願って供えた鏡餅を食べる「鏡開き」が正月の行事として受け継がれています。
さらに、鏡餅には「歯固め」という意味もありました。歯は生命の維持にとても大切で、丈夫な歯の持ち主は何でも食べられ、健康で長生きできます。
年齢を表す「齢」という字は「年歯」とも書き、「よわい」とも読みます。
「数珠つなぎにならぶ年月」という意味があります。「年歯(としは)」は年齢のほどということで、年齢の幼い場合に言うことが多いようです。
たとえば、昔は「年歯もいかない娘…」というような言い方をしていました。
また、「年歯月(としはづき)」というと、陰暦正月の異称でもありました。「齢」には長寿への願望がこめられていたのです。
また、1月11日は「塩の日」です。これは戦国時代の上杉謙信と武田信玄の故事に由来しています。
永禄12年(1569年)1月11日に上杉謙信の助けにより武田信玄のもとに塩が届いたそうです。
「敵に塩を送る」という言葉の語源となっています。これは、相対している敵に対しても弱みにつけこまず、逆にその苦境から救うという忌みです。昔の人は心に余裕があったのです。
どうです、鏡餅に塩をつけて食べて、家族や身内だけでなく他人の心を思いやり、世界平和を願ってみてはいかがでしょうか。
したっけ。
世界の十二支 |
十二支の動物 |
日本の干支 |
鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪 |
中国の干支 |
鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪 |
台湾の干支 |
鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪 |
韓国の干支 |
鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪 |
チベットの干支 |
鼠、牛、虎、猫、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、豚 |
タイの干支 |
鼠、牛、虎、猫、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、豚 |
ベトナムの干支 |
鼠、水牛、虎、猫、龍、蛇、馬、山羊、猿、鶏、犬、豚 |
ロシアの干支 |
鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪 |
モンゴルの干支 |
鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪 |
鼠、牛、豹、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪 | |
ベラルーシの干支 |
鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、豚 |
鼠、牛、虎、猫、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、豚 |
「絵馬] の起源は 「生きた馬」 でした。奈良時代の『続日本記(しょくにほんぎ)』(797年完成)には「神の乗り物として生きた馬を奉納していた」、と記されており、神社に馬(神馬=しんめ/じんめ)を奉納する習慣が奈良時代ごろから生れたようです。
昔、馬は神様の乗り物として考えられており神様を迎える為に欠かせないものでした。
初期には皇室、武将らが「国家安寧」や「武運長久」を祈願して、「馬」を献納していました。
また、地主や有力者が神社に貴重な馬を奉納して、神馬として神事に利用されていました。
馬は高価であるうえ、頭数が増えるに従って社寺側ではその世話が大変で、やがて、より実用的な貨幣や米、野菜類、絹布類が献上されるようになり「土馬」、「木馬」、「銅馬」が添えられるようになりました。
平安時代にはさらに簡素化されて、「板に描いた馬」を一緒に添えるようになりました。
時の有力者が奉納する絵馬は今現在のものに比べて大きく豪華絢爛なものでありました。
これが現在の絵馬起源であるといあわれています。
つまり、神社にとって「生きた馬はありがた迷惑」だったということになります。贈る側と送られる側の利害が一致した結果、絵馬が生まれたともいえます。
また、一説には京都の「貴船神社」では、平安時代、日照りの時には黒毛の馬を、長雨が続く時には白馬、もしくは赤毛の馬を奉納することで「天候祈願」をした記録があります。
後に、実際の馬に代わって、木の板に描いた馬が奉納されたことがあり、絵馬の由来となったともいわれています。
「貴船」の由来は、樹木を育成する神の木生根(きぶね)(木生嶺)の神だそうです。
本宮は「高おかみ※神」、奥宮は「闇おかみ※神(くらおかみのかみ)」が祀られているとも伝えられています。
高おかみの神の「おかみ」という漢字は、雨かんむりに口を三つ、その下に龍と書きます
龗
古来、雨乞の社として名高い当社には、畏くも歴代天皇様より日照りには黒馬、長雨には白馬又は赤馬をその都度献げて御祈願される例になっていました。
しかし、度重なる御祈願のため、時には生き馬に換えて馬形の板に色をつけた「板立馬」を奉納したと平安時代の文献である『類聚符宣抄』は伝えています。この「板立馬」こそは今日の絵馬の原形と言われています。
貴船神社HPより
『類聚符宣抄(るいじょうふせんしょう)』
737年(天平9)より1093年(寛治7)の 間の太政官符,宣旨などの公的な文書700通余りを類別し,編集した法令集。《左丞抄》 とも称する。11世紀末ないし12世紀初頭の編纂と推定
時代 |
絵馬の変遷 |
奈良時代 |
生きた馬を奉納(皇室、武将、地主、有力者) |
平安時代 |
貨幣や米、野菜類、絹布類に添えて板に描いた馬の絵で代えられるようになった |
室町時代 |
馬だけでなく様々な絵が描かれるようになった 稲荷神社では狐の絵 三十六歌仙の肖像や武者絵、祈願の対象である文殊菩薩を描いた例など |
安土桃山時代 |
狩野派や長谷川派・海北派など著名な絵師による本格的な絵馬が人気 絵馬堂は今日の美術館のような役割を果たした |
江戸時代 |
家内安全や商売繁盛などの願いをする風習が庶民に広まり、絵馬も小さな物になった |
明治時代以降 |
「伊勢神宮参拝記念」「戦勝祈念」(明治時代~敗戦まで)「厄除け祈願」「子供(特に男子)の誕生を記念して」「干支」など様々なバリエーションが生まれた。 |
昭和以降 |
受験生が合格祈願の絵馬を奉納する風習が盛んになった 白蛇など縁起物の動物や、祭りの風景など馬とは関係ない絵馬も多く作られ、寺社の縁起物として、また、お守りとしても人気を博している。 |
このように、本来は馬の絵だったのが時代とともにいろいろな物が描かれるようになったのです。元の形がなくなって言葉だけが「絵馬」として残って、現代に受け継がれてきたようです。
今年は「巳年」ですから「絵巳」でもいいのです。
今朝の帯広は今冬最低の-22.7℃でした。-20℃を下回ると自分の息で睫毛や眉毛に霜がつきます。顔が痛くなります。手袋をつけた手も冷たいです。
このところ、最低-18℃前後、最高-5℃前後の日が続いていました。
最高気温がマイナスの厳寒の北海道から久し振りに不思議発見です。
くちとり‐ざかな【口取り×肴】
饗膳(きょうぜん)で吸い物とともに、最初に出す皿盛り物。かまぼこ・きんとんや魚・鳥・野菜の類を、甘みをきかせて調理したもの。3品から9品まで奇数で取り合わせる。古式の本膳(ほんぜん)料理では、勝栗(かちぐり)・熨斗鮑(のしあわび)・昆布を三方にのせたもの。くちとりもの。くちとり。
大辞泉
『大辞泉』を見る限り、北海道とは違うことに気づきました。
北海道の正月には「口取り」が欠かせません。
北海道の「口取り」とは何でしょうか。外観はおせち料理のようなのですが、実際には「お菓子(和菓子)」でできています。
主に正月用に店頭販売されるのが年末の恒例となっています。
「口取り菓子(くちとりがし、くちとりかし)」といいます。これは、本膳料理に添えられる菓子のことなのです。
「口取り菓子」はどういうものかというと、正月に食される御節料理(口取り肴)に模した菓子として、海老・鯛・宝船・松竹梅など縁起物に模して作り、専用の重箱(折箱)やパッケージ箱に詰めて販売されています。
白あんを用いた練り切り、羊羹、和菓子などでできています。
また、かまぼこでできている物もあります。
今は「口取り肴」も、もちろん在りますが、それとは別に「口取り」も食べます。
そもそもなぜこうした風習が出来上がったのかというと、北海道では鯛や伊勢海老を手に入れることができない土地柄であったため、昔の人はお菓子でそれを表現したといいます。
お正月に「口取り」といえば、北海道ではお菓子のことです。
これが北海道の常識・・・。
したっけ。
昆布の歴史は古く、およそ1300年前にはすでに食されていました。昆布は古くは「広布(ひろめ)」といいました。「比呂米(ひろめ)」の万葉仮名が当てられました。
ひろめは「広める」、「お披露目」など縁起のよいもの祝いの席に登場したようです。
「ひろめ」は「昆布」の語源とも言われ、「広布(ひろめ)」→「こうふ」→「昆布(こんぶ)」となったという説もあります。
昆布(こぶ)は、その語呂(ごろ)から「喜ぶ」として縁起(えんぎ)がよいものとされています。「養老昆布」と書いて「よろこぶ」と読ませたりします。
昆布は「子生婦(こんぶ))ともいわれ、成長が早く繁殖力が強いことから、「子宝に恵まれる」、「子孫繁栄」という願いが込められています。「子生夫」「幸運夫」とも書きます。
また、「蝦夷(えぞ/北海道・東北)で多くとれるので「夷子布(えびすめ)」ともいわれ、「えびす」を「七福神の恵比寿」にかけて「福が授かる」といわれるようになりました。
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、畿内の大和朝廷 によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化している。
5世紀後半、中国の歴史書である『宋書夷蛮伝(そうじょいばんでん)・倭国(わこく)条』で「蝦夷(えみし)」は初め「毛人(もうじん)」と表記され、大和朝廷からみて東国(あずまのくに)に住む人々を指しました。
「毛人」が「蝦夷(えみし)」に変わるのは7世紀中ごろ、斉明天皇5年(659年)にわが国が唐に朝貢し夷人を献上した「道奥(みちのく=陸奥)蝦夷男女二人を天子に示す」(『日本書紀』)からです。
この中で蝦夷は「都加留(つがる)」・「麁蝦夷(あらえびす)」・「熟蝦夷(にぎえびす)」の三種があることが述べられています。以後、「蝦夷(えみし)」は辺境に住む「王家に従わず、農桑も知らない荒ぶる民」であり、これに天皇の威徳を知らせるべき対象とされました。
「巻く」は「結び」 を意味し、仲良くつながってゆく願いを表しています。
こうして「昆布巻きは」めでたい席には欠かせないものとなりました。
したっけ。
1月7日は五節句の最初の節句、「人日の節句」です。
野の若菜、七つの草を羹(あつもの/温かい汁)や粥にして食して、お正月の疲れを癒すとともに無病息災を祈ります。
「人日の節句」、中国では「米(こめ)」、「粟(あわ)」、「黍(きび)」、「稗(ひえ)」、「簑(みの)」、「胡麻(ごま)」、「小豆(あずき)」の七種の穀物を粥にして食べていました。
また、「米・麦・小麦・栗・キビ・大豆・小豆」だったという説もあり、とにかく穀物を中心にしたお粥だったのです。
この中国の風習が「平安時代(794~1185)」の日本の都に伝わったのです。
山野に若菜を摘み、また、その場で宴を開き、和歌を詠んで楽しむ行事となりました。
「君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ」
光孝天皇(830~887)『古今集』
「あなたにさしあげるため、春の野原に出かけて若菜を摘んでいる私の着物の袖に、雪がしきりに降りかかってくる。」
平安時代の中期までは、若菜は正月七日ではなく、正月初子の日に行われていたため、若菜のことを「子の日」、または「子の日遊び」と呼んだようです。
これが時代を経て、「鎌倉時代」(1185年~1333)になった頃に現代のような米で作った「お粥」に七種類の野草を入れて食べるという物に変わってきたようです。
1月7日は都人にとっては昇進日。「名を成すために、菜を食す」という縁起かつぎということで、七草に変わったとも言われています。
当時の菜は色々、草以外にも木の実や海草など多彩に入れていたようです。
春の七草は、「四辻善成(よつつじのよしなり)左大臣」が詠んだと言われる「芹なずな 御形はこべら 仏の座 すずなすずしろ これぞ七草」という和歌でご存知の方も多いと思います。
「四辻善成」(1326年~1402年)の南北朝・室町時代の和学者、歌人です。
七草粥が庶民にも広まったのは、おせち料理やお雑煮同様、江戸時代でした。
江戸時代は庶民の食文化が開花した時代ですね。
この七草粥のルーツは諸説あるのですが、農業の豊作をお祈りするために室町時代頃に始まった「七草たたき」と言うものだとする説もあります。
正月6日の夜から7日の早朝にかけて、台所のまな板の上に調理の七つ道具(杓子・菜箸・火箸・すりこぎ・卸し金・割薪・火吹き竹)を並べて、そのまな板を七回叩いたあとで、囃子歌を歌いなから菜っぱを細かく刻むと言う行事でした。
歌の歌詞は「唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、なずな七草、手に摘み入れて、トントントン」など地方により多少の違いがあるそうです。北海道には、このような歌は残っていません。
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YouTube: 愛媛県今治市七草がゆの歌
とにかく、七草と言うのは新年を迎えて「今年一年、健康で、食に困らず、過ごせますように」とお祈りする農事神信仰の一種から始まったものと考えられています。
★ おまけ★
昨日私が「七草セット」を買ってきました。娘も買ってきました。家内も買ってきました。
380円 × 3個 = 1,140円
どうして食べようか・・・。
したっけ。
まず、「立春(りっしゅん)」を考えなくてはなりません。「立春」はは二十四節気のひとつ。毎年2月4日ごろ。平成25年も2月4日です。
また、この日から雨水までの期間も立春という。『暦便覧』には「春の気たつをもつてなり」と記されています。この日から立夏の前日までが春とされ、その最初の日のことです。
また、立春の後で初めて吹く南よりの強い風を春一番といいます。
立春の早朝、禅寺では門前に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣があります。「立春大吉」の文字は縦書きにすると左右対称になり、厄除けや災難除けのまじないとされています。
そこで旧暦(太陰暦)のお正月ですが、1月1日はだいたい立春の前後になります。
通常は立春より旧暦1月1日の方が前になりますが、稀に立春の方が旧暦1月1日より前になることがあります。
今年平成25年の旧暦(太陰暦)元日はグレゴレオ暦(太陽暦)2013年2月10日です。「立春」のほうが元日より早いことになります。これを年内立春といいます。
旧暦(太陰暦)において、毎年元日がずれるという問題があります。
問題点の第一は何かというと、「ひと月の日数」なのです。
実は旧暦の基本となっている月の満ち欠けは「おおよそ30日」といわれますが、正確には「約29.5日」と端数がつく周期なのです。
1ヵ月は29.5日では暦になりません。
そこで昔の人は「大の月」「小の月」という工夫を考えました。
つまり、0.5日の端数が出ないように端数の切り上げと切捨てで、1ヵ月が30日の「大の月」と29日の、大、小、大、小…と交互に繰り返すことで対処しようとしたのです。二四六九士(にしむくさむらい)と「小の月」を覚えましたね。
なるほど、これなら0.5日の端数も問題ありません。
実はこの「29.5日」という数字もあくまで平均値であって、実際の月の運行は細かく見ていくとその月ごとに微妙に長かったり短かったり、変化があるのです。
おおむね、「29日6時間35分」から「29日19時間55分」の間です。
昔の人は困りました。月の公転周期は、機械のように正確なわけではないのです。
そこで、またまた昔の人は考えました。つまり、大、小、大、小…と単純に交互に並べるのではなく、「大、大、大、小…」と、大の月を2、3回続けたり、逆に小の月を何回か続けたりすることで、月の運行の長短のズレを1日単位で調整したわけです。
しかし、まだ問題がありました。ひと月が平均29.5日ですから、かける12ヶ月で354日となります。
29.5 × 12 = 354
354日では、太陽暦の365日と比べると、11日ばかり足りません。
昔の人はこう考えました。
「一年で11日ズレますから、3年で33日、つまりほぼ1ヵ月分。だったら、3年ごとに足りない1ヵ月分を増やせばいい!」
つまり、3年ごとに「1年が13ヶ月」という年を設けることにしたのです。
といっても、12月の次に「13月」がくるわけではありません。「同じ月を2回つづける」というやり方でした。
たとえば、普通なら「1月、2月、3月、4月…」となるところを、「1月、2月、2月、3月、4月…」という感じです。
このように一回余分に繰り返される月のことを「閏月」といいます。ですから、上の例では2回目の2月は「閏2月」といいます。
こうして、立春の前後半月以内に元日を持ってくるように調整したのです。
ですから、元日には「初春」、「迎春」、「頌春」、「新春」などと書かれるのです。
旧暦時代の名残だったのです。
したっけ。
日本の「神社信仰」のルーツは「蛇信仰」だという説があります。
蛇は祖(おや)神(がみ)で外見が男根に似ていることから、生命や精力、エネルギーの源と見なされました。
「脱皮」することから生命の再生、更新の姿であり、「不死身」の象徴と見なされました。
マムシのように猛毒を持って一撃のもとに相手を倒すことから、人間の力を越えた恐ろしい力を持つ存在として崇められてきたというのです。
「山かがし」という言葉があるように「かか」は蛇の古語であり、古代において蛇は「かか」とか「はは」と呼ばれていました。
「神」という語の語源も「蛇(か)身(み)」だというのです。
日本には様々な外来の宗教もやってきたが、あらゆる宗教と習合しながら蛇信仰は常に基底をなし、日本文化の中や「祭り」として継承され現在に至っています。
いわゆる「日本教」といわれるものの根本は「蛇信仰」なのです。
「鏡(かがみ)」は「蛇目(かかめ)」であり「蛇の目」と言う意味であるというのです。
中国から「鏡(きょう)」が渡ってきた時、蛇神を祭る古代日本人は、それを「蛇目(かかめ)」と呼んで珍重したのです。
蛇である「かか」は、様々なところに居ます。例えば、「案山子(かかし)」は山を案ずる者です。その音からして「かか」、蛇のことです。田んぼの守り神で、稲に害を成すネズミなどを払ってくれます。
正月中下旬に山や海からやってくるのでお供えをする風習があったそうです。この歳神も一本足だそうです。すなわち、蛇は案山子であり、案山子は歳神ということらしいのです。
「注連縄(しめなわ)」も歳神であった蛇が絡まる姿だそうです。つまり、「蛇の交尾」の姿だというのです。
また、正月のお供えの「鏡餅」も蛇ではないかというのです。
「蛇目(かかめ)」ではなく「蛇身(かかみ)」ではないのか・・・。すなわち二段重ねの餅は、「とぐろを巻く蛇の姿」だというのです。
これが歳神の依り代になるので、正月は鏡餅を中心にお供えをするのです。
小さい丸餅は蛇の卵であり、蛇のエネルギーの塊であるから、多く食べて体に充満させるのが年の初めの儀式となったのです。
「禊(みそぎ)」も「身殺ぎ」であり、脱皮による生命再生の儀式が発展したものでというのです。
『蛇 日本の蛇信仰』( 講談社)の中で著者である吉野裕子氏はこのような仮設を立てています。
どうですか、みなさん。蛇年にちなんで書いてみましたが、そういわれるとそんな気がしてきませんか。
したっけ。
ここに、病気と闘っている女性がいます。
更新はなかなかありません。
私はこのブログを毎日訪れています。
頑張れとは、とても言えません。
頑張っている女性がいることを誰かに知らせたかった・・・。
したっけ。