年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

築地本 2-1 築地市場年代史⓶

2021年07月06日 | 築地市場にて
2016年夏、小池都知事が豊洲の地下汚染の検証がなされていないので突如延期となった。結果は2年後に豊洲へ移転が伸びたので、追加を記事を加えた本となっている。

築地市場  -クロニクル完全版1603-2018
福地 享子著  築地魚市場銀鱗会著 東京 朝日新聞出版
第2章 2016のクロニクルと第1章はほぼ同じで、建物の記憶
46ページ1933年の築地市場開業時の航空写真
 写真に勝どき橋がない。曲がった線路添いの建物でひときわ高い部分は築地市場が移転するまで残っていた。昭和の初めの空気が残って、窓枠はサッシでなく木製だった。
48ぺ-ジ正面ゲ-ト ここは築地市場再建時に作られ、400億円投下したが中断した名残。正門ゲートの右側に交番がある。昭和の初めの作りである。場外にも交番があって、バブル時に交番が廃止した時、競売となり、豊洲移転前に廃業した佃權が落札した。異常な高価格で場外市場の借地人の不満が出た。地代の値上げを恐れていたためである。なお築地の場外市場には数件の築地本願寺の末寺が残っていて、関東大震災後に移転しなかった。場外市場の地下には豊洲の汚染物資より大変な遺骨が眠っている。建築の基礎工事中に骨が出るという。
 豊洲移転前に築地の「佃權」が作り手不足から練り物製造から6月末撤退する。1868年(明治元年)が続く老舗で来年は創業150周年を迎える前の撤退となった。
表向きは人手不足だが、築地の情報通の話では豊洲へ行ってしまうと採算が取れず、余力のあるうちに廃業を選んだようだ。豊洲移転前後に水産部の加工品の商材を扱っているところが、一番豊洲行きを断念したようだ。量販店の量をさばくには市場の施設は狭すぎる。かまぼこ・ちくわ等の練り物は築地の扱いが減っていた。
50ページから53ページ 水産仲卸棟の鉄骨 この鉄骨は今の大成建設が組み立てた。パリの市場 ル・アールを真似たようだが、パリの市場が郊外に移転構想から50年経ってから移転した。国の食文化の中心地は強権発動しないと時間がかかる。パリの中心地の市場跡が再開発に失敗して、次の構想が出ているようだ。横浜市中区山手町の港の見える公園。フランス山の麓に青緑色した鉄骨がある。パリの中央市場の鉄骨だった。今更地となった築地市場の跡地開発はパリのように失敗しそうだ。
  ネット検索で今のル・ア-ル再々開発を見ていると、小池知事の築地も豊洲もという放言の後始末が大変なようだ。コロナで都の財政が厳しくなり、さらに高齢者の激増で予算が足りない。築地の再建途中で中断したのは東京都が財政赤字になりそうだった。給与の高い東京都の公務員は耐えることができるのだろうか。夕張市へ行き、北海道知事となった鈴木氏(元東京都職員)に都知事を依頼して、予算の激減もあるのではないか。
54ページ ピンコロ石 水産部仲卸店舗の下に四角い碁石のような敷石に気が付く。通路はアスファルトで覆われている。ある時築地の地下汚染で都知事の答弁で地下からは汚染物質がアスファルトで遮っていると答弁していた。ピンコロ石はただきれいに置いただけである。多分この答弁に反応しない質問者も築地の水産仲卸店舗に行っていなかった。通路は舗装されているので気が付かない人も多いようだ。
56ページ 鉄路 築地市場が出来たときの物資の輸送は鉄道と桟橋からの搬入だった。鉄道は汐留貨物駅から専用線路で築地市場へ入っていた。朝の9時過ぎに貨物の列車の出てゆくための運転があって、踏切のところに国鉄職員が見張りをしていた。幅の広い線路は小車(人力)から揺れで荷物が落ちやすく、みんなで抑えていた記憶がある。戦前は蒸気機関車だったので、築地の地下は汚染されていた。この件は豊洲移転反対派は誰も外部のライタ―に話さなかったようだ。北海道の線路の汚染を国会で追及していたのは、紙智子参議員で日本共産党だった。多くの蒸気機関車の線路の下は汚染されていた。築地最後に線路の上を覆っていたアスファルトがはがれて、鉄路が見えていた。線路を撤去しないでいたようだ。
参考 平成16年 参議院議員紙智子君提出旧国鉄跡地の鉛等重金属汚染対策に関する質問  蒸気機関車の鉄道の地下には汚染物質がある。当然築地市場も汚染されていた。
58ページ 弓なりの鉄骨の建物
 築地の最後の頃、夕方大回りして人気のないここを自転車で走行し、築地6丁目の吉野家へ行ったことがある。夕方の築地市場周辺は観光客用の飲食店しかない。写真の部分はプラットフォームでここに荷物が置かれる。その内側の通路が檜舞台通りという。この名称はあまり聞かれないが、黄色い紙に年末の交通規制図の通りの名前があった。ある時、警備の人に聞いたら、水産部の高級な食材を置いてある通りから付いたという。築地の文献にはまだ見つからない。
60ページ 魚河岸の名前は築地まで
 築地には隅田川に漁船から直接市場へ搬入する桟橋があった。市場使用料でも桟橋使用料が設定されている。初期の豊洲市場のプランでは豊洲市場の水上に観光船が付く図があった。今後香港のようなギンギラギンの水上飲食店が出来るかもしれない。
64ページ
鉄骨のアーチ パリの市場を参考にした築地市場は昭和初期の面影が残っていた。震災後の復興工事ということで、火災に強い鉄骨建築とがっしりとしたコンクリ-トで本館は作られていた。従って火災に耐えるように不燃材で鉄骨の回りを覆っていた。主にアスベストが使用され、解体時には過去最大のアスベスト除去工事と言われ、築地市場周辺の住民はネズミと共に恐れられた。アスベストの特異な肺がんは中皮腫ガンで今は国からの補助が出る。潜伏期間は50年という。
68ページ 時計台
 築地市場の場内放送で時計台通りというのがあった。市場の中心地から浜離宮の方に向かう通りで青果と水産部を分ける通りで、昼過ぎは広いが朝は自転車も通過に苦労するくらい荷物が通路を占拠している。事故も多く、ウイング車(荷台のドアが上に上がる)閉めないで走行し、青果棟と水産棟との渡り廊下に激突したこともある。時計台の時計はいつの間に消えたかわからないが、通路の名前で残っていた。築地はセリの時間が季節で変動していたので、腕時計が高い時代は役に立っていたのだろう。

この章の感想はカーブした鉄骨建物が4年に一度の店舗移動が必要となり、さらに火災から鉄骨を守るアスベストが築地市場内の働く労働者の健康危機から東京都は放置できなかったと思われる。しかしうっかり漏れると市場が使えなくなり、生鮮食品供給の社会不安を招くので最高機密になって、市場人も豊洲移転騒動でもネズミは漏れたが、アスベストの話は出さなかった。ここが築地人の移転賛成派も反対派も共同で最後の一線を守った。


 
コメント
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