もうじきワクチン効果が出て高齢者の重症者が減り、コロナが重い風邪になりそう。多くの対処で税金を投入したにもかかわらず敗北感が漂う。このコロナ戦争が大変だったということが記憶と歴史に残るだろう。第三次世界大戦というべき性格もある。過去の大戦と違って、人との交流があるところは戦地となった防戦する医療従事者の戦死した例も多い。。南米のアマゾンやアフリカの未開地にもコロナは容赦なく戦地にしてしまった。今でもコロナ戦の戦時中のところが多い。ただ途上国は若い人が多く、死者は少ない気がする。
日本のコロナ戦争の不手際は多くありすぎるが、やはり2020年東京オリンピック開催が議論に混乱を増していた。そこで2020東京オリンピック招致に至る前のことを記憶に残したい。
福岡海の中道大橋飲酒運転事故 (詳しくはウイキぺデアで調べること )が2006年夏にあった。この事故のあと数日で2016年オリンピック開催都市(結果はリオ)で日本として、東京と福岡が立候補していた。東京の財政力と福岡は初めてということで競り合っていた。東京への批判は一極集中という批判もあった。結果的には10票以上の大差で福岡が負けたのだが5から6票が福岡に回ったらという僅差だった。それには飲酒運転事故により、最後の票固めで福岡が負けたと思われる。
2016年のオリンピックが国内開催都市として東京に決まると、築地市場内の豊洲市場移転会議が真剣になっていった。月1回の会議は12月と1月を除いて青果部では開いていた。そのほか全体会議はあったが関与していないし、興味もなかった。8月末に東京に決まるまで、築地移転会議は真剣でなかった。それはすでに築地の移転とか再開発の会議が難度もあって、計画中断の虚しさもあって、本当に移転するかどうかが東京都の職員をはじめ会議に出ている人たちの共通の心情だった。明治の20年代以降、何度も東京の生鮮市場の移転構想が提案され、様々な事情で計画が失敗した。唯一成功したのは関東大震災とそれを口実として戒厳令司令部が日本橋魚河岸の道路の不法占拠禁止を強化したことから始まり、やむなく築地に移転した。昭和10年で最初は青果部だけだった。魚は遅れて入場した。
戦後も落ち着いてくると、鉄道輸送からトラック輸送に代わると、不都合なことが目立ち、移転計画が出てきた。
1回目の移転候補地は今の大田市場の隣接地で野鳥公園となったところで、会議がもたもたしている内に野鳥に占拠された。移転を渋った理由は築地から遠いということに尽きる。
初めから移転する気のなかった築地人が一度は築地市場内の再建工事を始めたが途中でもめ事があり中断した。400億円捨てた。そこで都の悩み物化した途上国並みの市場を石原知事によって強引に移転計画が始まり、錦の御旗となるオリンピック招致となった。このオリンピック招致がなければ築地移転は豊洲へ行けず、廃墟となったかもしれない。
東京都の予算の90%以上は使い道が決まっていて、知事の裁量のある部分は少ない。バブル崩壊後財政の厳しい国に代わって、自由になる東京の金で経済活性化を狙った。築地を移転させ、跡地開発で数兆円の経済効果を狙った。すべては震災とコロナで終わった。予想されざる天罰かもしれない。しかし江戸時代から東京は度々の災害から火事太りとなり復活した。
オリンピックが終わる時、花火が打ち上げられ、コロナ戦で死去した人への鎮魂となるだろう。もうこの手のイベントは衰退する日本では提案できないだろう。そして内内の事がSNSの時代に記録と残り、消せない記憶となる。
今でも豊洲市場の地下から汚染物質が出ていも、選手村の人たちは騒いでいない。あの地下汚染騒動は何だったのだろうか。これも数百億円のむだな費用だった。地下空間は万一のことを検知する空間だった。糾弾されたが正しい仕事といえる。
多くの歴史で正しい仕事では物事が進まない。築地は船頭が多すぎてなおさら進まない。正しいと思っていても商売敵の意見には従いたくない気分がある。これは数年で担当が変わる行政の欠点かもしれない。