7月12日麻布十番の賢崇(けんそう)寺を訪問し、仏心会の人が法要していた。一般人は参加不可と掲示してあった。仏心会とは何だろうと検索すると、226事件の
処刑された人の関係者の団体だった。そこで遺族の著書を借り出した。下記の本は一部であるが、湯河原に事件で自決した弟の行為を調べている人だった。
ある遺族の二・二六事件 河野 司著
天皇さま、お聞きください -二・二六事件遺詠集-河野司編
二・二六事件 -獄中手記・遺書-河野 司編
二・二六事件秘話 河野 司著
この事件は遺族と関係者の努力で比較的多くの資料が発掘されて今に残る。それでも多くの戦史研究者以外は当時の状況を知らず、政府の中国での戦火の拡大を支持しているような新聞報道だった。昭和18年のアッツ島玉砕あたりから新聞には生活状況から節約工夫の記事が増えていて、ひしひしと戦局の厳しさは感じていたと思われるが、一般庶民は負けるとは思っていないようで、政府の言葉を信じていたようだ。
さて226事件の裁判は秘密裏に行われ、国民には死刑執行後に概要が新聞報道で知らされたが、その後の追加の記事もなく、終戦まで行ってしまったようだ。226事件の関係者は何かの想いが残っていたようで河野司氏の資料収集の努力と運の力で闇に葬られた事件を今日は少し解明できる。
それでも当時の決起理由とした農村不況から、陸軍上層部・財界人・政府首脳を抹殺するという発想の無謀さが今でも理解できない。
昭和の初めの世界恐慌で欧米が不況のなか、日本は中国との紛争拡大で経済が活況となっていて、これを見たアメリカが生糸を狙い撃ちにした貿易政策を行った。この結果生糸産業は大不況となり、さらに天災とか、大豊作による農産物価格の下落で、東北地方では娘を遊郭に売ってしまうという悲惨な時代だった。
これが特攻で死んだ叔父の経歴解明につながるかまだ分からないが文書資料がないので今は推測しかない。226関連本を読むうちにやはりその前の515事件の方が叔父にとって影響があったと思われる。当時の農本主義と国家社会主義からどうして要人暗殺につながるか、当時の思考がまだ理解できない。戦後の農政も特に野菜関係は国の保護が少なく、大変だったようだが都市の食の分離と輸送の発達で近郊野菜は発展した。今は近郊野菜という言葉が市場から消えているが日持ちのしない野菜の事だった。これは都市化が進み畑が消え、都会の農協は不動産管理業が中心になったこともあるだろう。
貧しい埼玉の農家の4男の叔父は夢だった教職の道が一度はかなって、赴任先も決まっていたが運命のいたずらで、陸軍特別操縦見習士官の試験に落ちたにも関わらず、追加合格となって他の同期よりひと月遅れて特攻隊員になってしまった気がする。もし最初から兵隊になるなら少年から軍隊に行っていただろう。この運命のいたずらはまだ解明できない。まだ叔父はこの世に未練があるように次々と謎の解明を要求してくる。
今から思うと叔父は試験に不合格を予定していた気がする。実母に受験を知らせなかったのはあらかじめ良い点数を取らないと予定していたかもしれない。昭和18年9月23日の新聞報道では学生の徴兵猶予が理科系と師範学校の生徒は猶予が継続されるという記事があった。昭和18年11月に学徒出陣となる。なぜ気になるかといえば、埼玉県浦和の県庁の隣にある、埼玉文書館で埼玉師範学校卒業者名簿(昭和25年頃)のリストで昭和18年9月に繰り上げ卒業した139人の中で空白(死去・または連絡なし)が少なかった。多くの師範学校の卒業し、教師となった人が生きていた。師範学校は卒業後に何年か教師を務めれば授業料が免除となっていて、戦後の仕事不足の時代には教師しか仕事がなかったと思われる。
叔父は繰り上げ合格がなければ兵士にならず生きていたと思う。