築地市場 -クロニクル1603-2016
福地 享子著 築地魚市場銀鱗会著 東京 朝日新聞出版
第2章 日本橋と京橋のルーツ
50-55ページ
京橋には大根河岸があって、青果物の取引があった。しかし、神田にあった青物市場が幕府の御用だったので青果の上等品は神田となっている。神田も日本橋・京橋も水路によって運ばれるものが多く、築地の中に潮待茶屋というのがあって、潮の満ち引きによって、橋の下を通ることが出来ず、お茶を飲みながら時間を過ごした。今は水産部の買い出し人の荷物の預かり、配送、決済代行のような業務を行っている。このような仕組みは大相撲の茶屋と同じである。相撲のチケットの手配、お土産、升席に飲食物を持ってゆくなどの接待を行い、再度相撲見物に来るように宣伝している。
日本橋の魚河岸の名残は少し残っていて、魚関係を思い出す店舗が日本橋周辺にある。山本山海苔店、にんべんの鰹節など路地奥を探せば見つかる。豊洲へ移った後、築地6丁目、月島には面影が残るが、月島はタワ-マンションが増えているので軒を連ねたところが少なくなった。ここには野良猫がいないと風景にならない。佃は佃煮の発祥地だが、量販店取引が主流となって。消えつつある。濃い醤油味は塩分控えめの時代に苦戦しているようだ。
板船 今では消えつつあるが幅が1m位の木製の雨戸のふちに板で船になるようにして、河岸の道路上に髪を解く櫛のように並び、板船に売り物を並べる。これが既得権となり、不動産的価値を持ち、権利の売買が始まり、日本橋から築地に移転するとき、補償の問題で市議会の疑獄騒動になった。築地の豊洲移転の背景にこのような歴史が繰り返された。しかし東京市は妥協しなかったようだ。
56ページ 明治の都市計画から魚河岸の移転構想はあった。鹿鳴館を作り、日本の欧化政策で一番嫌悪されたのが、一番の繁華街銀座に接している日本橋魚河岸であった。明治社会の下層民が清潔でない市場で食材を取引している姿が見えることを嫌っていた。市場自体は早朝から始まり、昼には終わっていたが、それでも清潔感はなかったようで、早くから都市計画の中で魚河岸の移転構想はあった。政府から移転を迫られた東京市は候補地選定で嫌われ時間が経ってしまった。
58ページ 第一次大戦後、ロシアの社会主義政権が出来たとき、シベリアに出兵した。その時の軍隊に運ぶコメを見て、米騒動が起きた。物価が急上昇中だったので、買い占めと考え、富山で女一揆が始まり、全国騒動となった。社会不安を抑えるため、食物の物価の安定、供給確保ということで、中央卸売市場計画が始まった。法律が出来たのが大正12年で関東大震災前だったので、中央市場が最初に開設されたのが関西で公設市場という小売商の集合施設も関西から始まり関東に広まった。
60ページ 関東大震災 日本橋魚河岸付近は全焼とその後のいわゆる朝鮮人虐殺の渦中に巻き込まれ、戒厳令で魚河岸が使えなくなった。明治期の移転命令が残っていて、営業禁止、公道使用禁止して日本橋魚河岸再開を阻止した。今から思うと江戸時代から市中の大火は予想されていて、行政の幹部は難航している魚河岸移転を災害後に再建を認めないという、暗黙の合意があったと思われる。戒厳令司令部は魚河岸の路上を不法占拠ということで板船を使うことを認めなかった。震災から復興してゆくうちに各地自然発生で生鮮食品の市場が出来ていた。ここで築地の海軍施設の一部を使う話が震災後3ケ月で臨時の魚市場が出来た。昭和10年2月に京橋大根河岸から青果が東京都中央卸売市場と発足し、京橋から移転した。当日は雨のようで涙雨という記事があった。青果の荷受会社は東京中央青果で社長は大根河岸の三周の藤浦富太郎 だった。藤浦は今では三遊亭園朝の名跡の預かり人として知られる。すでに築地から豊洲へ移って3年になるので記憶が消えつつあるが築地市場内東京シティ青果のフル-ッ館前に銅像があった記憶が残る。誰だか忘れたが今豊洲のどこにあるのだろうか。 日本橋魚市場からの水産の移転は遅れたがだんだん中国での戦乱の拡大から日本橋残留に力が無くなったようだ。その後戦争中は人と荷物が不足し単なる食の供給施設となった。魚市場の移転は青果と違って移転の合意は難しい。
平成の築地市場で度々大きな火災があった。多くは水産部でそれも休市前の夜だった。その時間は人が一番少なく、気が付くのが遅いので火の回りが早かった。それでも」簡易なつくりなので復旧は早かった。現場検証が終わると片付けが始まり、電気や冷蔵庫が使えなくても次の日は火事見舞いとかの人たちと買い出し人の野次馬もあって賑わっていた。火事と喧嘩は築地でも華だったと思った。