年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

渋沢栄一のドラマで

2021年07月18日 | 宅老のグチ
6月20日のNHK大河ドラマを眺めていたら岡山・興譲館で館長の漢学者阪谷朗廬が出てきた。朗廬(ろうろ)の名前の読み方が難しく、記憶に残っていた。
谷中墓地掃苔録/ 森まゆみ編著 

 自由民権福島事件の被告人だった民権家花香恭次郎の墓碑の文章の掲載部分のコピ-をとると,その上の欄に阪谷朗廬の谷中墓地の案内があった。関藤 藤陰(石川和介)を福神漬で調べている内に、谷中墓地の関藤の碑文を書いたのが阪谷素(朗廬)だった。

関藤 藤陰(せきとう とういん、文化4年(1807年) - 明治9年(1876年)12月29日)は、江戸時代末期(幕末)の福山藩儒学者。
彼の名前の変遷
関藤元五郎・石川元五郎・石川淵蔵・関五郎・石川和介・石川文兵衛・関藤文兵衛・関藤藤陰と名前を変えていて、それぞれの活躍時期を表していて、歴史家をの考証を難儀させた。
 関五郎の名前が頼山陽関係の文献で出てきて、同郷の森田思軒を混乱させた。

 江戸幕府老中・福山藩主阿部正弘の側用人(君側御用係)として幕政に関与する。横浜で黒船に偽名を使って乗り込んだこともあった。出典広島県立歴史博物館ニュ-ス第77号 99号平成25年7月号
 
 石川和介 名前を何度も変えた人なので歴史家の文章で整合性が取れず、記憶から消えていた。浦賀の研究書でやっとこの人物がぺり-来航時の影の実力者であったことを知る。浦賀での町奉行との文献があれば、彼の功績が明らかになるだろう。

 福神漬の缶詰の文献で戊辰戦争最後の戦闘で、函館で千葉行徳の漬物屋が浦賀奉行の人たちと同日、同場所で戦死した経緯を調べてゆくうちに、中島三郎助と水戸藩の関係が石川和介を通して見えてくる。
コメント
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