今では国会図書館のデジタルライブラリ-伝記本 戸田伊豆守氏栄 を読むことが出来るが15年ほど前は関西の国会図書館に所蔵されていて東京ではすぐに見ること出来なかった。名古屋へ出張の帰りに日程に余裕を作り、寄り道して大垣市立図書館郷土資料で出してもらい読んだが期待外れであった。東京での基礎調査で戸田氏栄は幕府の昌平坂学問所の試験に合格した時の名前が戸田卓太郎と書いてあった。途中から戸田寛十郎氏栄となって同一人物か迷った時期もあった。井関隆子日記や他の書籍を読んでいておおまかな経歴は今は解るが幕府の昌平坂学問所で十数年にわたって。幕府の史書等の編纂していた人物が編纂事業が終わるといきなり天保の改革時の印旛沼開削工事の目付として任命された。この時の工事の監督責任者が老中水野忠邦から任命された南町奉行鳥居耀蔵 であった。鳥居の配下として、南町奉行与力佐久間長興 が働いていた。印旛沼開削工事が失敗に終わると、水野忠邦が一時的に失脚する。
老中水野の戸田氏栄の目付への抜擢理由は今でも解らないが、河川の開削工事が不調になっていることを直言した所、直ちに目付を外され駿府町奉行へ転身となった。その後日光奉行になり、すぐに浦賀奉行になった。この間の経緯は阿倍伊勢守の指示のようでどんな意図があったかは記録がない。しかし最近読んだところ本では石川和助(関藤藤陰)の推薦のようだ。対外危機を幕府の史料からどう方向を見つけるかの人事だった気がする。結局ペリ-が来てしまって、一時しのぎの政策となり、大坂町奉行に在任中に自身の病で歴史から消える事となった。親族の話では暗殺されたという。長崎奉行在任中、大坂町奉行在任中と次々と先祖が死去し、さらに戸田伊豆守の3男であった長井筑前守も暗殺の噂があって、京都町奉行に任命されたが赴任していない。
正しいと思ったこと直言し時節と合わず、苦労している家系と見たい。
記録が少ないのは幕末史を研究している人も魅力のない人と考えているようだ。しかし福神漬の言い伝えから調べると次々と新しい展開がある。