年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

雨予報で予定の変更

2022年10月10日 | 宅老のグチ
週間天気予報でどうやら雨の確率が高いので、シルバ-パスを使っての出歩きは晴天率が高く、さらに仕事をしている人のまだコロナ感染者が多そうで、電車の空いた時間に出る。今のところ大江戸線の国立競技場駅から外苑周辺を回って、内田五観の墓があるという四谷三丁目の西応寺というところと、新宿歴史博物館へ行き、都営千代田線で帰るコ-スと大江戸線大門駅で降り、JR浜松町駅の上をまたぐ歩道橋で芝浦の埠頭散歩へ。目的は伊豆七島新島へ行き、流人として明治元年(1868)に赦免された流人の状況を知ること。記録によると新島の流人の死人は秋から冬にかけての島民の仕事がなくなり、食料不足で死ぬようだ。新島に(宮野信四郎)が嘉永3年12月に南町奉行遠山景普(金さん)の判決で、高野長英の逃亡を助けたとして流罪となり、1851年(嘉永)4年4月の流人船で17年近く新島で生き残ったのはなぜだろう。宮野は内田弥太郎(五観)に頼まれ、高野の逃亡を江戸で助けた。流人を援助する人があれば生き残る可能性が多いと記録にあるが新島でこれを確認したい。今でも東京拘置所では差し入れという制度があって弁当を提供する業者がある。未決囚人への犯罪予防だろう。
 江戸時代から明治初期の牢獄問題は明治政府の条約改正の問題で一番難関だった気がする。領事裁判権で刑事事件で未決の時に監獄に一時収容となるのだが日本の監獄の衛生状態が悪く、裁判が終わるまでに死去することが多すぎた。これでは先進国から日本へ裁判権を渡すことは出来ないとおもわれていた。もたもたしている時に具体的な例が上がってそこで日本が混乱する歴史だった。そこに福神漬の命名者たちの言論弾圧を避けるための比喩が混じっていると気が付く。
 言論のもたつきが事件で急進するが日本は戦争という手段で結果的には条約改正になった。妥協する時もあった気がする。そして戦争用食として缶詰入り福神漬が普及し、戦争が終わると備蓄の缶詰は放出され庶民に割高な福神漬等の缶詰食品が出回った。大陸での思い出の食品だったと思われる。
コメント
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