今年は関東大震災から100年になる。キムチの日本においての普及の歴史を語るには震災と震災後の様子を知らなければならない。まだまだ解明できていないと感じるが特に風説に関して記録と記憶が膨大でまだ整理できていないと思う。それでもわずかに残った映像から当時の様子が解かる。
都営大江戸線両国駅で降りて、工事中の江戸東京博物館を過ぎると、日大一高、第一ホテルの次が横網町公園となる。3月10日にもこの地を訪問し、祈った。東京都復興記念館は来月から8月31日まで改修工事中となる。
記念館で展示物を見るが、ここは二回目で記憶が薄れ、記憶の上書きをする。
多くの展示物は報道されていて新たに気になったのは竹久夢二の震災被災地の子供の自警団遊び。
子供たちの一人を日本人じゃないと決めつけ、竹やりで殺すマネをする。そして泣くまで殴る。
当時の大人の心がここまで浸透していた。
2階に昭和20年3月10日の空襲の展示があって、上野の山から城東方面はガレキの平原となっていた。銀座は和光のビルが今のままで写真に残る。
学童疎開の記録でいじめが酷いことを知った。どうやら親へ出す手紙は検閲があって、みんなで仲良くしているという手紙しか出せなかったようだ。軍隊の中での検閲は常識だったが学童疎開で検閲していたことを知り、さらに食料不足から階級もあったという。これは江戸時代の牢名主のような仕組みで地獄の沙汰も金次第が学童疎開で金次第となっていたのだろうか。
ある日突然に親を失えば孤児となる。美少女が焼け残り地から拾ったものを売っていて、売り尽くしたら体を売るのかという記述が見えた。
平穏な生活が一瞬で消える。
やはり震災は先の戦争への第一歩と感じる。多くの特攻兵士は大正10年代から昭和の初めの時代に生まれた。