年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

ペギー葉山・根上淳夫妻の著書を読みに

2024年12月15日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
過日訪問した桶川飛行学校の帰りに、貰った桶川市のバス路線図に飛行学校から20分ほど歩くと郷土資料館があると教えられ、バス便が1時間に一本なので時間つぶしを兼ねて川田谷生涯学習センタ-に行って見ることにしました。地図を頼りに、バス停で時刻表を写真にとり、学習センタ-での滞在時間を計算した。上尾道路というダダ広い道路のために交差点には誰も歩いていない強大な歩道橋でその上に登って、景色を眺めると、何か変わった建物とその先に公共施設があって、10分はかかると計算した。そこから生涯学習センタ-までの間の工事現場を見ていると、完成が近い施設だが、ショッピングセンタ-のような雰囲気が無く、どうも道の駅の施設の様に思えた。後で桶川市の道の駅の情報を調べると2025年3月に開業する(べに花の郷おけがわ)という施設名が出てきた。この道の駅の隣に農業センタ-と生涯学習センタ-があって、そこには名前を書けば入れる立派な郷土資料館があって、時計を見たら時間が無いし、隣の図書館へ入る。係の人に郷土資料の場所を聞いて、気になる本を手にした。
 児玉飛行場哀史 北沢文武著
 児玉飛行場は桶川の飛行学校と同じで熊谷陸軍飛行学校の分教所のようなもので、主な陸軍特別操縦見習士官の二期生が入校していた。この桶川飛行場哀史を読んでいたら、根上淳(芸名)さんの名前があって思わず読みふけった。根上さんは法政大学の途中で特操二期生の試験に合格した。しかし訓練中に病気となり、戦友と別れ生き残った。この哀史は今まで自分が読んだ特攻本と印象が異なる。なぜだろうと思うと特操一期生は募集時に飛行機要員で悲壮感が薄い。叔父の親族の様子もただ招集令状が来た感じだった。ところがこの本では二期生は募集時に特攻する要員として募集していて、さらに訓練期間も一期生は6か月で二期生は4か月である。つまり一期生は敵戦闘機と交戦する技術の取得時間があった。ところが二期生は空に上がれば、回避の技術取得の必要性が薄く、時間が少なくても良いと思われていた様だ。従って哀史の本では機体の不備、着陸失敗の事故等の分析があって、急ごしらえの操縦士の不慮の死を多く書かれている。日本の軍隊は人の命を軽視している。優秀な飛行機乗りを特攻で費消し、訓練の足りない飛行士と物量で勝る米軍との空中戦ははっきりとした負け戦だった。叔父が茨城から台湾に移動する行程を見ると米軍を回避しているように見える。
代々木上原めおと坂  根上淳・ぺギ-葉山著
 出だしの根上淳さんの戦時の様子。法政大学多摩キャンパスに根上淳さんも参加した、法政大学出身の戦没者慰霊碑がある。根上さんは特操二期生だったので、受験時から特攻のことを自覚していて、同期の仲間と戦死できなかったことを常に思っていた様だ。一期と二期の気持ちの差があるとは自分は知らなかった。ただ特攻死したのは一期生の方が多い。海軍でも昭和18年10月に入隊した甲飛13期生は大量入隊でさらに戦死者も多い。しかし次の期は入隊も多かったが、訓練する機体も少なくさらに燃料も無く、結局特攻要員と合格したのに、本土決戦用の待機要員となっていて、戦後に特攻崩れと批判された人となったと自分は多くの特攻本を読んでいて気がつく。命令した上司が戦後も戦友会等で反省することなく生きていること。これを上司の命令で死んでいった同期の仲間を想うとやるせない。この辺りが靖国神社へ訪問しているがまだ昇段参拝する気分にはなれない。
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桶川市の復元され整備された飛行学校訪問

2024年12月14日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

先日訪問した久喜市の菖蒲地域の中核となる、菖蒲行政センタ-で本多静六の記念館を見学した後、同じ道を戻らず、桶川市の方でJRで帰って見ようとおもった。桶川市には二回ほど陸軍の復元された、飛行学校に行ったことがある。今は車に極力乗らないようにしていて埼玉県桶川駅の西口から川越行きのバスに乗って、柏原というバス停で降りて、10分程度で着きます。
桶川飛行学校平和祈念館は、当時の熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の建物を活用し、平和を発信し、平和を2020年(令和2年)8月4日に開館しました。自分が最初に訪問したのは開館の秋で、叔父の台湾での集合写真の情報を得るためでした。このことから下北沢の北沢小学校の疎開地の長野県での特攻隊員と小学生との交流の本を出しています。それから叔父の台湾での特攻に至る航跡を本にしていただき、その本を飛行会館へ贈呈しようと思い訪問しました。台湾でも誰かが桶川で訓練した人がいるかもしれません。

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は、1935年(昭和10年)に現在の熊谷市に開校した熊谷陸軍飛行学校の分校として1937年(昭和12年)に設置されました。各地から集まった生徒はここで寝食をともにしながら、陸軍航空兵になるための飛行機の操縦教育を受け、その後戦地へ向かいました。

戦後、桶川分教場の建物は、引揚げ者のための桶川市営住宅として使用されました。2016年(平成28年)には、守衛棟、車庫棟、兵舎棟、便所棟、弾薬庫の5棟が市の文化財に指定され、2018年(平成30年)から2020年(令和2年)にかけて、これらの建物について復原整備工事を実施し平和祈念館として開館した。 飛行学校は当然ながら訓練をするための飛行場が要ります。それが柏原バス停から川越方面に行くとすぐに長い橋があって、その下を流れる荒川河川敷に飛行場がありました。今はホンダエアポ-トとなっている民間の飛行場です。埼玉県比企郡川島町出丸下郷53-1
当時の訓練生は分教場の宿舎から歩いて行ったようです。
 約一時間ほど館長の関根さん、新任の粒良さんと話し、帰りにもらった地図で桶川市の郷土資料館のある川田谷生涯学習センタ-内図書室で郷土資料を1時間半ほど読んで、慌てて川田谷支所のバス停まで行き、川越市の方に向かった。13日の金曜日なのに観光客が多すぎて川越の蔵の街をノロノロ走る路線バスは東京のはとバスに乗っている気分と思いながら、西武本川越駅に行き、西武新宿で乗り換え、都営の電車に乗る。本日の歩行数は約10000歩

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何でも漬物のことは見聞きしているが中国の窄采・ザ―サイは?

2024年12月13日 | 築地市場にて
中国のザ―サイのことを書いたのだが実際のザ―サイの生を見たのは神奈川県三浦市の生産者が築地市場の時代に売り込み来たがうまく拡販できなかった。今でも日本の産地として三浦の人が栽培販売している。
 窄采と書くが馴染みが日本人にも少ないのでその日本での普及は横浜太堀という中華総菜を扱う業者が広めたと思う。そこから一般に出回ったのが桃屋のザ―サイで多くの量販店に並ぶようになった。それでもガチ中華と呼ばれる店舗でもザ―サイを売り物にしている店はない。

 その理由は明快で、例えると牛丼の店で紅しょうがの品質を推奨するようなものと思っている。それだけ中国においてもザ―サイと言う漬物の地位は低く、その低い漬物が貧困労働者の食の友になり、需要が普通なのに固定経費が上昇し、値上がりしている様だ。情報を集めたところ、ザ―サイの本場は四川省重慶付近で、歴史は浅い。統計の年代は判らないが年産20万トン、日本へは2万トン。今の輸送の状況は判らないが、自分が築地にいた時に特別注文でザ―サイの甕入りを注文したことがある。1甕1万円はしていなかった。甕と中身を入れて60キロは越していて、体力のない自分は甕を壊さないで動かすことをいつも心配していた。甕は後に粗大ごみとなるが大方は飲食店の店舗の宣伝的に外にご自由にお持ちくださいと言う張り紙を出しておくと植木鉢代わりにいつの間に消える。甕は15キロを超えている。酔ったお客が店主に断り、タクシ―に乗って、自宅に持ち帰り、花木の植木鉢代わりになったのだろう。自分も得意先にそのようなことを言って、築地にザ―サイの甕を持ち帰ることを嫌った。東京は業務用のごみは有料で築地市場でブラウン管テレビを廃棄する時に、中央区民なら粗大ごみの出す仕組みがあったが築地市場では粗大ごみの仕組みがなかった。市場に買い出し人も不法に粗大ごみを持ち込んで捨てる事例が多々あった。そんなザ―サイの甕も今でも中国で使用されていて、それゆえ需要が増えても急拡大できない漬物でもある。これが普通なら値上げという理由になるが食の保守性で需要は重慶だけの様だ。中国において日本以下の漬物評価で各地の評価も貧民の副食物か腹を膨らます食品となっている。
 そんな時に電子窄采という言葉を知った。日本ならテレビを見ながら口を動かす時に食べる軽食物はポテトチップスを想像できるが、今貧困となった中国の若者はテレビを見ながら、スマホを触り、ザーサイで口を動かす。どんな味付けか判らない。
 自分自身はザ―サイの漬物を知ったのは30年前位でなぜ知らなかったかと言うと、日本の食品の分類でザーサイを日本人好みに味付けたのが中華材料取り扱い業者からで手っ取り早いのが中華総菜から来ていて、総菜は日本の食品の規格で保存料が使用できないので扱うことが出来なかった。賞味期限と言うより消費期限の問題だった。

 テレビを見ながら口を動かす食品がポテトチップの前にあったはずだが今では思い出せない。スルメイカかもしれない。
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ふりかけの消費拡大ニュ-スを読んで

2024年12月12日 | 宅老のグチ
ことしのコメ不足下で、ふりかけ業界の成績が良いという。普通なら違和感があるのだが、今炊飯器にのこっている微量の炊いたコメをラップに包み、ふりかけを食べようとしている自分がいる。量的にはコンビニのおにぎり位で捨ててはいなかったがふりかけの消費が増えた。
 こんなことを思いながら暇な深夜に中国検索の百度をみる。どうもランキングの傾向が変わって、相変わらず上位にランクするのが習体制ヨイショ記事で、こんな記事ならAIに任せた方がいつも良いとおもう。そこからランクの5位以下の所を見るがここが上位のランキングと代わって変化が激しい。もちろん百度は検閲後のランキングでそこでも惰性にしないための工夫がある。その感じは先の大戦で日本がミッドウエー後の戦局困難時の新聞に近い工夫がある。真実を報道できないのが下り坂の中国経済報道の苦労がみえる。
 日本も真珠湾の開戦直後には新聞記者の高揚感があって、イケイケドンドンの記者の様子が見える。そこから負けが目立つと戦況の抑制報道で総動員体制に高揚むかう。
 中国の40年にもわたる急拡大は前例となる日本を戦後発展史を研究し、日本の欠点である事業の速さで、中国は土地に関しての日本の工事の遅さを排除した。それも金銭の授受を出来るだけ少なくし、希望と夢を与える方式の様に見える。それでも人民の都市への移動制限を堅持していた。これは幕末日本の時代の変化に対応できない人たちが都市へ流入した歴史を研究した対策かもしれない。そんな発展した40年がコロナ制御に失敗し、今は日本の前例研究の無い状態になって、庶民は日本のバブル後の貧困民と同じ思考に向かっている。信じるのは明日でなく今日一日の安楽。
 インスタントラ-メン とにかく安価
 漬物ザ―サイ・最低の中国人の食事につく漬物・貧乏の象徴
 コカコ―ラ 何でコーラが入るか不明 これを調べるとどうも中国ではブランド価値がコカコ―ラにあって、品質管理が信頼されている。河川の上流住民の処理済みの廃水の再利用と使用量と同量の水の地域社会への還元など、コカ・コーラの厳格な環境保護と水源保護計画を実施して、水消費の効率的な管理を行います。 合弁の会社の素晴らしい中国市民への洗脳宣伝。
 日本の川は長さが短い。雨が多い。上流の排水は使わない。中国で多分売れているのは甘味のあるコカコ―ラと思う。偽物は蓋を変えても、中の炭酸が抜ける。偽ブランドが出来ないくらい安いかもしれない。水代わり。
この貧乏3点セットの食がデフレ下の中国で値上がりしているという。需要が急拡大という。

 築地市場では東京都が市場関係者への食に関する講演を行っていて、これは場内関係者しか参加できない。学校とは違い制服も無ければ長靴で参加している人も居る。多くの人は眠そうだがその眠気を壊す記憶にある講演があった。アメリカの貧民の肥満で、この肥満の形成の理屈だった。アメリカでは低所得者は激安の食品を買うように仕向けられている。大きな家・大きな車・大きな冷蔵庫に週一度の食材買い出し。道を歩くと犯罪が多いので行動は車。週一だと野菜系は少なくなる。今はポパイのマンガは忘れたが記憶にあるのはホウレンソウの缶詰から中の食材を食べると力が出るというマンガの記憶がある。アメリカは缶詰大国で生鮮野菜が高い。運動しない貧民がデブとなり、見た目を気にする高所得者層は体重を抑える野菜となる。ベジタリアンは知識層の食でもある。貧民にベジタリアン・ビーガンは少ないと感じる。国際貿易は安価なものへ産地が動く。そして人が歩かない、動かない車が普及すると普通は急速にデブとなる。タダ成長期の子供は逃れるが成長が止まればデブとなる。日本にデブが少ないのは電車の普及でさらに道が江戸時代から整備されず、駐車場も無く、道が狭い、家が小さい等々によって、仕方なく毎日安いもの、鮮度の良い物を求め、さらに安いものを得ることが生きがいの専業主婦が生まれた。
 この専業主婦という言葉が間も無く日本で消される。年金財政の困窮と、女性の長寿による遺族年金の少なさを無視できない時代に来た。結果として5000万日本女子を働らかせ、年金制度の支払者にするように仕向けている。チョコザップの店舗が近所の空き店舗に急速に増えている。見た目重視の女子が運動する場所を電車通勤運動から個室に替えているかもしれない。不思議なのは運動すれば汗が出るのに、チョコザップに汗を流す設備がない。治安維持と盗撮除けかもしれない。
 医学の世界で美容外科になる医者が増えて、今開業資格を変えるようだ。韓国では極端に美容外科が多く、ソウル大学医学部の浪人受験が多いという。サムスンより良い人生となっている。
 スマホの画像の進化は見た目重視の世界となる。多くの加工画像から真実との差が大きなり、またウソが増える。
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作家林芙美子の枕稼ぎ

2024年12月11日 | 宅老のグチ
まだ記憶に残っている新宿区立林芙美子記念館の豪邸から昭和の作家は当たるとこのような家を女性でも持てるのかと思った。多くの女流作家の夫はほぼ無名となる。林芙美子は知っていても何回も夫を代えた話は普通は経歴には書かれない。当然記念館でも夫の変遷記述はない。
 日本の経済の流れが西洋の経済学の理論通りには日本も中国・朝鮮半島も動かない。ある程度は同じだが最後の所で一致しない。なぜだろうかと最近思うようになって来た。
 そのことを考えながら都立中央図書館3階の宗教・思想の所の二宮尊徳・報徳思想の本棚を眺め、背表紙の題を見て考えた。報徳思想の半分くらいのスぺ-スが中国と日本の学者のシンポジウムの本で中国でも農村部の発展は報徳の考えが参考になると思う人がいる・いたと思った。
 日本の失われた30年は世界の経済学の理屈から離れていて、バブル崩壊後の復活のみこみが大方の学者は10年程度の不況と初めの論調だった。それが30年経ってしまった。それを研究していたと豪語していた中国も今の様子から日本以上苦労していている様子が見える。不幸なことは日本も中国も貯蓄率が異常に高い。
 この長引いた原因は欧米には無いアジアのダ-クマタ—と言うべき、行動を選択時に縛る規範があると思われるがその規範は何だろう。どうも論理的ではない規範で時々と言うか後で判った事例が多々ある。それは貴重な老後資金をやすやすと放棄するという行動で警察は詐欺という。この詐欺の手段はますます進歩していて、報道管制している中国でもかなり普及している様子がミヤンマ-やラオスでの取り締まりから見える。
 日本での不況を長引かせたのは清貧という言葉を思い出す。バブル崩壊後に失われた又は損失が出た投資を清貧という時間をかけた負債処理をした。売れなくなった経済は一回りどころか二回り小さくなり、清貧でゆっくり返済していた。アメリカではこのようなことをせずに損失確定させ、再復活することが可能となる。幕末の徳川についていた幕臣が明治政府で仲間を裏切り出世した勝海舟と榎本武揚を批判する知識人があった。今でもこの論争はある。ようやく一生勤める会社から転職して出戻る経歴も容認される時代に来た。
 林芙美子の清貧の書という文章は林の放浪記に次ぐ作品という。殆ど生活感のない男性を選び戦時中を生きてゆく。当然読者は戦後に林はその男と別れることを予想する。そのグダグダ感があって、戦時という明日の命も不安定ということで、生きる様子がある。枕の言葉は使い捨てということになる。今から思うと戦時中は何でもありの時代だった。
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年末の記憶と記録を残したい。

2024年12月10日 | 宅老のグチ
間も無く昭和100年になる。生きていて記憶を残すことが出来る。思えば10歳ぐらいの想いで出は、ラジオだけで、テレビも昭和28年から始まり、家に入ったのが昭和29年で普通の人は街頭テレビと言って、駅前の広場に設置されたテレビで見ていた。白黒テレビでパソコンの初期のモニタ-を見ていて、ちょっと前のテレビ放送を思い出した。カラ―テレビは1960年

 多くの郷土資料館でテレビが陳列されているが番組の選局でダイアルを回すことを知っているのだろうか。戦前と敗戦後の十年は間も無く歴史の世界に入る。この前日本一長寿の人が亡くなり、明治生まれの人があと一人となってしまった。5代の歴史の証人となる。
 5月の大雨の日に夕方老柴犬が3度ほど遠吠えし、家族の腕の中で首をたれ、去っていった。なぜか16年の想いでは残るが楽しい思い出しか残したくない。
 アニメグッズが高騰しているがデジタルの時代は古書の需要も低迷している気がする。
 こんな文を書いていて、政府は令和8年に昭和100年祭を行うようだ。何かイベントを重ならないようにしている感がある。日本の経済の低迷で工事現場の老齢と異国人作業員が普通になって、日本の風景に馴染んでいる。以前映画館で公共トイレ掃除人の映画を見た。雇用されている人はスカイツリ―が多き見える所の昭和作りの家に住んでいて、浅草で交友し、軽自動車で渋谷のトイレを巡回掃除する。
 今都心のマンションは高騰していて、千代田区二番町あたりの木造家屋が消えつつあって、よく見ると芸能関係の人の住いの様に見える。お弟子さんを家に入れて稽古をつけるのは都心のマンションでは不都合の様に見える。そんな街にまた建つのがタワマンで先住民が不快感を直に出せずに、女子生徒の盗撮懸念で対抗している。そんな女子高校も少子となり、九州では絶滅危惧になりそうである。
 明治の10年代まで少女という階層は無かった。ただ少年という。つまり銭湯の中に男の子と女の子も区別できないことが普通だった。そこからキリスト教の伝道から少年と少女が分けられた。従って男子の小学校の歴史の文献は江戸時代以前ということもある。ところが女子教育となると明治のキリスト系学校から始まる。
 明治憲法が発布され、日本主義という概念が生まれ、それに馴染まないキリスト系学校が苦難となり、最終的に戦争協力者となって、今でも日本でのキリスト教信者は圧倒的に少ない。しかしながら表面的なキリスト教文化は受け入れている。節操のない日本文化。これが先の戦争責任を追及する中国・朝鮮半島の人達をいらいらさせている。
 今年は竜の年で来年は蛇の年。竜と蛇はどう違うのだろうか。本当の龍は中日ドラゴンズしか思い出せない。そして蛇は出雲のヤマタノオロチとなる。
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真珠湾の開戦記念日で

2024年12月09日 | 宅老のグチ
12月8日の開戦記念日で、アメリカ・ハワイで式典の様子をニュ-スで見ていて、あの攻撃を体験した米兵士で生きている人が二名という。車いすで式典に参加していて、時間が83年と言うこととアメリカはそのあともずっと戦争が継続していて、今では戦力を自国外に出せなくなってきたこと、8日の夜のシリアの体制崩壊で知った。シリアに対してはイスラエルをアメリカは支援していて、間接的に関与していたとシリアの体制崩壊後に解説していた。
 そもそも中東の問題がここまで混迷したのがイギリスの二枚舌で、ある時はユダヤの人に建国させると言い、またある時はパレスチナの人に土地の保証を約束する。何度も和解の交渉になるも、最後の聖地の管轄・関与で揉めている。八百万の神のいる日本では、この狭い地域の確保に核兵器の問題となるか、理解しがたい。核をエルサルムで使えば永遠に聖地訪問が出来なくなる。そして慰霊碑の街になって、人類の愚かさの象徴となる。
 ロシアは核を使えない。使えば小麦のロシア・ウクライナ産は消える。アフリカでは高騰した小麦が買えず餓死者が増え、難民が世界に向かう。その責任はロシアとなり、戦後賠償の責を負うことになる。福島の原発処理水の不安を煽った中国は放射能不安に中国農民の頭脳が洗脳され、核不安には耐えられない気がする。
 自分は広島・長崎、茨城東海村・そして福島原発の事故と放射能の経験値がある。さらに築地市場の中で放射能の風評被害を拡散させないための講習会にも参加していて、一般人よりチョット日本政府に洗脳されている。結局放射能は良く調べ、不安を減らすしかない。自分の体にも放射能が出す物質がある。年代測定に炭素14というのもある。築地市場の前に国立ガンセンタ-病院があって、そこの病院に訪問する人はガン系の関係者となる。実に多い。
 もう80近くまで生きたので、ガンは怖くない。なぜなら余命時間があって準備することが出来る。健康な人が自宅で若くして風呂場で亡くなる事例があった。自分の知り合いでもすでに複数の人が風呂場で亡くなっている。結構遺族にとっ悔いの残る死に方と言える。
 シリアの今後を寝ながら考えたが、リビアやイラクのような混乱が予想される。そこには日本の良さを伝えるしかないかもしれない。良さとはなにかというと平和ボケということに尽きる。アフガンの支援で医療支援より、給水支援の方が結果として役に立つ。農業機械より江戸時代の知恵の方が良い気がする。ブルドーザ—より再生可能な工法から進み、自力で進化させる。戦後の日本の海外支援で多くの失敗を経験した。金のバラマキは一部の人の利権となる。時には反感も生まれる。
 先の戦争で多くの失敗経験をしている日本はもう二度と失敗することはできない。そのために失敗の検証が必要となる。慰霊の会は検証と反省の会でもある。人のやることだから次の失敗も必ずある。せめて被害を最小にすることしかない。
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ダ-クマタ—・暗黒物質で思う・日本では砂糖だよ

2024年12月08日 | 宅老のグチ
年寄の暇つぶしは、ユチュ-ブ動画で玉石混交の作品というか・宣伝・自己主張などがあって、無難に視聴できるのが天体物と思う。それでも色々見ている内に自説を広めようとするスケベ心が見えてきて、観測器具とかコンピュ-タ-の計算速度が激早になって、理論と計算結果が合わないことが解かってきて、何か観測できないものがあると思われ、そのことの数字を仮に入れると、ようやく計算と合うというものが出てきた。これを今暗黒物質というようだが、さらにこの仮の物質を入れても、それで別の計算が合わないという。見ていると天文学者が国の予算獲得のため、小出しに理論を出している様に素人は思ってしまう。
 漬物の福神漬を今調べているが、その中で福神漬の特色となっているナタマメのことを調べている時、だんだん日本史を知らないと理解できないと感じている。福神漬の歴史には暗黒物質があって、その正体は日本史にあると思うようになって来た。つまり日本史を知らないと福神漬の本当の意味が解らないのではないかと思う。
 ナタマメは日本の植物ではない。江戸時代初めに文献で日本に中国から渡来したようだ。この江戸時代は初めは日本の徳川政権の確立期で、さらに中国・朝鮮が豊臣秀吉の侵攻に勝利したが、明国の衰退と中国東北地方の満州・女真族の勃興を招き、徐々に中国王朝の交代となる時期だった。明が滅びたのが1664年。明国の知識人が滅亡時期に日本に避難してきた。京都南の宇治に中国風の寺院がある。中国文化を広めた、黄檗宗大本山 萬福寺。1661年宇治の地でお寺を開くにあたり、隠元和尚は寺名を中国の自坊と同じ「黄檗山萬福寺」と名付けました。 その後、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗と改宗し現在に至ります。いんげん豆の名称は隠元和尚から来ています。福神漬の伝説で創製者の一人に秋田県湯沢市の了翁禅師がいますが彼の経歴で黄檗山萬福寺で修業をしていました。あまり知られていないのですが江戸時代の長崎の唐人貿易商から万福寺に多くの砂糖が寄進され、寺の維持費となりました。その寄進された砂糖が京都のお菓子の素材となったようです。参考文献・長崎街道シュガ―ロ-ド そこから砂糖文化が江戸城の大奥の女性の嗜好品となり、最終的に制御できないほどの消費量となり、幕府の財政困窮に繋がります。
 天保の改革時に節約を求めた水野忠邦は大奥の取り締まりの女性に砂糖の節約を指示したが、大奥の返事は女性が(男絶ち)禁欲して大奥に勤めているので砂糖くらいは許されるべきと答え、膨大な砂糖消費を抑えることが出来なくなり、大奥の女性の不興から水野の印旛沼開削の失敗にかこつけて失脚し天保の改革は終わります。水野の考えた印旛沼開削工事は今でも学者の中では国防問題としているようです。浦賀を封鎖されると江戸市民の食の安定が保てないということです。
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日本は恐ろしい国

2024年12月07日 | 宅老のグチ
東京都庁の最上階の無料展望室でいつも天気が悪くても富士山の方向を見てから帰る。後は明治神宮の森の緑を確認し、下りのエレべ-タ-の行列中に今日の記憶を頭に入れる。
 富士山は関東地方の人にはランドマークで、多くの地名で富士見の地名が残っていたが今は日常的な富士山を観測するところも空気の汚れで、ぼんやりしか見えないし、多くの高層の建物で富士山が隠れていてすそ野まで見える雄大さが消える。
 そんな富士山の気持ちの恩恵より、富士山が活火山という被害を受けていた小田原郊外に偉人がいた。名は二宮尊徳という。戦前の多くの小学校で道徳教育が行われていて、二宮尊徳は記憶に残る人物となった。ところが戦後になると二宮尊徳の教えが先の戦争の思想的背景として否定され、多くの小学校で薪を背負い、本を手にして歩いている銅像が撤去された。今のスマホを手にして歩いているのを禁止されたようなことになる。尊徳の経歴は日本の農家の出身の高齢者はほぼ知っていると思われる。
 多くの篤農と言われる人物が江戸時代末期の記録に現れる。ところが戦後農政とそれに対抗する学者に加え、GHQの御旗を背負ったアメリカ流の学説が日本の一次産業を結合を緩めた。それは効率という言葉だった。
 朝鮮戦争の勃発で、日本の工場の稼働率が上がり、そこから農村部の人手が都会に回り、さらに農閑期の出稼ぎが、地方から出たことのない人たちを覚醒化した。ここから農村部の見栄文化が消費の拡大となったが、本質的には自給自足の文化が滲み込んでいることを無視している学者たちがいる。この辺りが今でもポツンと一軒屋に住む人たちの本音だろう。同様な事例で今年の正月の能登半島地震で多くの人が亡くなったが高齢者ほど現地から逃げない。基本の考えはイマサラ都会に移住して、新規の所に馴染むことが出来るかどうか。ひきこもり生活で話題も少なく、数年後の忘れた時の孤独死を予想する。村の世界は贈答文化があって、日々の無償提供文化があり、そこには共同体の空気があって、よそ様は馴染めない空気がある。ここから農村部の人達は低年金でも生きて行ける。物々交換は消費税が生じない。従って消費税の低減や廃止も役に立たない。むしろ消費税の20%以上の増税の方が日々の物々交換のありがたみが伝わる。自家用の無農薬野菜、出荷できない不揃いの農産物、規格外の水産物等々。多くの政治家の票目当ての給付は低収入の自給農家民は貯蓄するしかない。買う必要がないのである。もう見栄を張る年が過ぎてしまった。
 低収入でも生きて行ける仕組みが地方農村部にある。ここに地方の若者が老人男性に支配されている澱んだ空気の農村地帯から脱出する原因となる。出生率の高い、持ち家率の高い石川県富山県の高学歴女性が殆ど都会に出てしまう原因でもある。
 この辺りを解決するには地方の駅前タワマン生活があるかもしれない。見栄文化と地方の高品質激安生活。一時間前に畑にあった無農薬の農産物が自宅に届く。京都の大原女があった時代の復活もタワマンの所でワゴンの自動車が日替わりで昼食を提供しているのを見ていてふと思った。戦後のやみ市の時代に担ぎ屋という行商があった。
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ロシアのGDP成長率の上方改定

2024年12月06日 | 宅老のグチ
様々な経済情報を知ると、イマイチ納得のいかない数字がある。今年の2024年9月のロシア財務省がGDPの年初の見込みの2.8%から改定で3.9%と発表し、IMFも3.6%と上方修正した。平和な日本よりはるかに高度成長である。
このことを知ってから、戦前の日本の文献を読んでいて、戦争というものがいかにGNPを見た目と気分を良くすることが解かる。多くの左翼系の昭和史を読んでいると、時々論理に整合性が欠けている感じていて、特に叔父がなぜ農業と教育の理想を求めて師範学校へ進学している話を親族から聞いているので、なぜ死の可能性が大きい飛行機乗りに志願したかずっと不明だった。
 新宿の住友三角ビルの総務省平和祈念展示資料館で敗戦後のロシアへ抑留された人の講演を聞いていた時、なぜ行かねばならなかったと思うと同時に左翼系の戦前史で日本の農民が強制的に行かされたということになっている。最も教科書の様に短い時間で少ないぺ—ジで説明できないし、仮に量の制限がなくても今でも論争があるのに無理と感じる。自分自身も叔父の遺書等の記録がなく、親族の印象を聞くだけでそれがとても正しいとは思えない。戦後の歴史と伝わる映像で当時の気持ちを理解できるとは思えない。ただ言えることは二度とあのつらい思いを記録し、起こさないようにするしかないと思うしかないというのがいまの本音となる。
 満蒙開拓団の本を読んでいて、今の長野県八ヶ岳の東の地域は、明治の自由民権運動時に、埼玉県秩父地方から逃げてきた闘争家が捕まった。秩父と長野東部は道で繋がっていた。ところが鉄道が北の方の横川と軽井沢の所を結ぶと急速に秩父と長野東部の道の通行人が減り、衰退した。道の通行が減るということは旅人からの情報が減るということになる。さらに明治の絹産業は横浜・八王子・高崎線となり、シルク鉄道となり、さらに奥秩父から長野小海方面が絹に支配され、昭和の初期のアメリカの大恐慌で絹が売れなくなり、各絹産地が米作に農家人を増やし、大豊作となり、米価が暴落し、農家の女子が遊郭に売られる時代となった。このことは加藤完治が山崎延吉と共に講演会の後に、中農の人達との懇親会で、宴席に出ていた貧農出身の芸者さんに親の都合で売られたのにと嘆いて、宴席から帰らせたという逸話が残る。中農の人達は安城農林学校の教えを知りたいというのが加藤は小作人の気持ちを理解していないと思っていたようだった。
 中国との紛争が徐々に拡大すると、軍隊に人手が奪われ、農家も人が足りなくなり、野菜も漬物も値上がりし、農業も人手不足となっている様子が文献で見かける。しかし左翼系の日本史では貧農史観でこの辺りは無視されている。満蒙開拓団の先遣の人達の話が日本国内に伝わると、国の言っている楽土と違っている様子が伝わり、自発的希望者が激減している様子があって、そこから強制動員の方向に向かっていった。この辺りが戦後まで生きて農業指導をした加藤完治の言動から、こんなはずではなかったと思いなおし、日本農業の再生に向かっているが今でも日本農業は苦闘している。
 ロシアは戦争で高度成長をしている。しかし永遠に続く戦争は人類史にはまだ記録がない。いつかは終わる。近現代史ではほぼ4年で終わる。後は長い戦後史となる。どうもウクライナの戦後は小型兵器の拡散でいつでもどこでも戦場となりそうである。ウクライナの戦後はテロの手段がドロ-ンとなるのが予想できる。
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本多静六から出口せいのことが気になる

2024年12月05日 | 宅老のグチ
出口せい 出典 日本キリスト教歴史大事典
1843年生まれ 弘化元年・天保15年
1911年に死去する 明治44年 青山墓地に眠る。
 出口せいは一橋家の譜代の家臣だった、本多家に生まれる。実兄は本多敏三郎(明治になって普と改名)で出口せいは実妹となる。
 本多普の経歴は、久喜市の本多静六の記念館で彼の履歴書の下書きを見ることが出来る。
一橋家の家臣として、徳川慶喜に従い上京した所から始まり、彰義隊結成、維新後に勤めた役職と続き、横浜正金銀行を明治21年に退職したことまで記述してある。横浜正金銀行は貿易の決済を行う外国為替の銀行である。彰義隊結成時に隊長として選ばれたが、すぐに落馬し、骨折治療中に上野戦争が終わり、悔しい思いが残っていた。維新後に一橋家の家臣だった渋沢栄一の計らいで、官職につき、上司の外遊に付き添うこととなり、普の子供の銓子を出口せいの所に外遊中にあづけた。
 出口せいは出口家に嫁いだが夫を亡くし、すでに30歳を過ぎていたので、自立を考え1872年明治4年築地居留地のカロ―ザス夫妻を頼り、求道生活を始める。この様な話は旧幕臣子女の生きる道の記録が多々残っている。出口せいは和漢の素養があったため、A6番館に寄宿し、そこに学びに来た女子に日本の教養を教えるようになったという。このA6番館女学校は多くのキリスト教系女子教育の始まりとなる。離れたり統合したりして今に至る。
1874年10月18日に受洗する。築地の教会で受洗した人物に千村五郎、戸田欣堂、原胤昭、田村直臣等と共に芝に東京第一教会を創る。
 出口せいの評伝を読んでいると、明治の初めの20年代までの混乱期に、封建的な家の考えとキリスト教信仰との間で、女学生が苦悩している時の相談者となっている。同様の様子が判る、明治の少年の投書雑誌の『穎才新誌』(えいさいしんし)は、近代日本ではじめての全国的子供向け雑誌。
 初めの頃は研究によると13歳ころの年齢が多く、女子の投書が37%も占めていたが、次第に男女別学となると男性の投書が増えていく様子が見える。復刻版が東京町田市の自由民権記念館図書室で読んでいた時、明治の初めの少年少女たちがこのような言論戦を投書と言う手段で論争していることに感銘を受ける。言葉使いが漢文調から変わっていく様子が見える。
 出口せいは一度北陸の方に行き、東京に戻り、四谷鮫が橋の貧民街で活躍した。
巣鴨教会の森下憲卿牧師の出口せいの記録があるようだ。自分はキリスト教信者ではないが福神漬を調べてゆくと、薩長政権に対抗する人たちのよりどころと言うか、利権や思想を求めキリスト教に接近する様子が見える。従って明治憲法発布後に日本キリスト教会は苦難の道となる。
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毎日想定外の事でとても暮とは思えない

2024年12月04日 | 宅老のグチ
何かニュ-スで韓国が戒厳令とか。今年の映画鑑賞の中で韓国のク-デタ-未遂事件の映画を見ていて、今でもあるのかと疑念に思った。まだ混乱している情報で日本の報道機関はなぜ予知が出来なかったのだろうか。テレビと新聞がいかに情報取集の弱くなっているかこの件でも知りうる。シリアの情勢からウクライナの和平というか、戦後に向けて動き始めている。この件ですでにテスラのマスク氏が中国で動いていることが見える。テスラの自動車が年末に向けて中国で電気自動車の値引き販売を仕掛けていて、慌てて中国のBYDが下請けに、部品の納入価格の引き下げ要求の情報が出ている。これは2025年明けにまた安売りの電動自動車販売となる。これでは新製品好きの消費者はどの国でもある程度いるが、モデルの改定と値下げは電動自動車はすでに中国ではパソコン・スマホ並みの扱いとなっている様子が見える。
 日本の量販店にはクリスマスの飾り付けがすでに始まっていて、そこにお供え餅、クリスマスケ-キ゚の予約もあって、日付の感覚がずれている。東武線の久喜駅に向かう車中で、対面に座っている女性が世田谷区の広報誌の裏側が見えた。東武日光線は東急田園都市線に乗り入れていて、広報誌には世田谷ぼろ市の案内予告が載っていた。今年は15日の日曜日と16日の月曜日なので16日に行って見たい。15日は晴れれば大混雑となりそう。
 ぼろ市開催の側の松陰神社に頼三樹三郎があるという。南千住の回向院はチラッと電車から見えるが、多くの逸話が残っていて文献を手探り中で近日中の荒川中央図書館で調べる事となる。
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予備知識も無く久喜市の本多静六記念館へ行く

2024年12月03日 | 宅老のグチ
埼玉県久喜市の本多静六記念館へ行って見たいと急に思った。晴天の日に都営浅草線押上駅で東武線に乗り換え、ほぼ1時間で久喜駅に着いた。久喜駅はJRの駅もある。あらかじめ調べていた情報で西口バス停に行くが、バスが止まっているのにバス停に人が残っていて、行き先確認したが不安で久喜駅の方に戻りつっ観光案内板を見る。本多静六記念館は菖蒲地域にある様で、バス停に止まっているバスの行き先に菖蒲という地名があったのを思い出し、ギャンブル的にバスに乗って見て菖蒲車庫行でもし間違っていたら運転手さんに聞いて降り出しに戻るだけ。
 事前に調べた情報で本多静六記念館は久喜市菖蒲行政センタ-という建物の5階にある。ところがネットで検索すると二つの行き先が出ていて、一つはJR高崎線桶川駅より、新堀(にいぼり)バス停で降り、そこから歩いて10分という。同様に東武線久喜駅西口バス停から菖蒲車庫行に乗り、着いてから歩いて10分強ほど歩く。今まで経験した行政施設には普通にバス便がある。なぜ直接のバス便がないのかも気になった。目的の菖蒲行政センタ-は久喜駅から乗った朝日バスの菖蒲車庫行で正解で、終点の時に運転者さんから懇切丁寧に教えてもらい、道なりの二つ目の信号で左手遠方に高層の建物が見えるという。行くと標識があって、見ると5階以上の建物が水田地帯の先に見えた。どうも埼玉県は2010年の町村統合時に併合された村等の施設が田畑の中心に残っていて、地域の集会場となっている。久喜市も同様で菖蒲行政センタ-は統合以前の菖蒲村の行政施設のようだった。ダダ広い駐車場は市役所員と地域住民の車の停め置き場。従ってバス便を使う人がいないので、一応あるバス停は時間が消えている。
 わかったことは本多静六は菖蒲村生まれというだけで、貢献度は埼玉県の方が多い。本多の寄付した遺産で多くの森が埼玉県で生かされている。なぜこのような地元の扱いかと思うのは本多は養子先の苗字であることから来ているのだろう。
 記念館を出て、朝日バス菖蒲車庫から行政センタ-に来る途中の新堀バス停で20分間隔で桶川駅行きがあったので帰りは桶川経由で帰ることにした。桶川へ行くバスの行程の半分が乗客が二人だった。
 桶川駅に向かうバス停が、後で調べると菖蒲村が出来た以前の地域の名称のような感じがする。まだ調べていないが江戸時代の中仙道桶川宿と日光街道の久喜宿との間を結ぶ道がバス路線となっていて、その中間地点の菖蒲村が2010年時に2万人が住んでいた。利根川と荒川の氾濫があって大変だったと思う。
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鬼も笑わない2025年の話

2024年12月02日 | 宅老のグチ
来年の話をすると鬼も笑うという例えが昔あった。今は統計も正確となって凡その見込みも付く。それでも選挙の事前情報も誤差が多すぎて、当たるも八卦の世界となっている。2025年はあとひと月で始まるが、アメリカ大統領の就任の日から変わることが必至で今からその準備が始まっている。中国の景況感が良いと日本と中国が自賛しているが、とんでもない見込み違いで、アメリカの業者と中国生産者の駆け込み貿易が盛んなだけで、2025年の中国の春節明けの悲惨を予想していない。中国の習慣として春節時にボ―ナスが出るのだが雇用の意識が薄い企業はボーナスが無いことも予想できる。これを占うのは日本と韓国の春節旅行の混み具合だろう。思えば日本で中国からのコロナ感染が広まったのが札幌雪祭りで、不景気の日本が爆買いの中国旅行者を阻止する気概がなかった。その後の展開はもう過去の歴史となりつつある。2022年2月4日から20日までの北京冬季オリンピックのあとにロシアのウクライナの侵攻があって、あっという間にウクライナが制圧されるかと思っていたが、それから1000日経ってようやく終わりが見えてきたと思うと今度はロシアの支援で国内を制御していた中東シリアが内乱拡大中という。シリア政府側の空中軍隊と反政府の地上軍。日本人の感覚で準戦時が長い。これには日本だけの閉じこもり記者が情報制御していて、さらに日本のマスコミ上層部の欧米偏重情報で来ていることがある。
 玉石混交の情報が日本の頑なな編集者によって、矮小化され、さらに日本読者の関心がスキャンダル好きと来ていて、世界から隔離された恩恵にうたた寝をしているように見える。
 浅草を散歩していて、イスラム系の女性と見える人が頭をスカ―フで覆い、和装し、浅草寺の煙を浴び、賽銭を投げ、二杯二拍手とか一拝後に祈る風景が妙に馴染んでいて、違和感がない。イスラム原理主義の人から見たら、日本の神社仏閣は洗脳機関と見ることも出来るが、どうも日本の神社は引きこもりで先の戦争が敗戦に終わると、解体しても平気の様だ。台湾の桃園市に神社があった。今は台湾の軍隊で亡くなった人の忠霊廟になっていて、見た目は日本の神社である。
 桃園市忠烈祠-桃園神社 1938年創建された日本統治時代の神社が解体されずにそのまま残っているが中身は台湾の歴史でもある。朝鮮には戦前の日本神社は残ってはいないと思う。中国と朝鮮は古い歴史があるのに、前の政治支配者の痕跡を消す歴史観がある。
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本多静六の本

2024年12月01日 | 宅老のグチ
本多静六は戦後の昭和27年に亡くなった人が今復活しようとしている。東大の教授でありながら、先の戦争協力者にもならず、戦後も蓄財を書物に著わし世間を驚かした。ある知識人はマルクス主義に汚染されない戦後まで生き残った明治人という。
 数冊ほど図書館で借りたのだが一冊を残して、すぐ借りることが出来た。そして残りの一冊の予約状況を調べると、なんと自分以外に予約者がいて、遅れているようだ。本多静六はそれほどの人物なのだろうか。借りた本も出版時期がまちまちで、ブ-ムのような人物ではないのでさらに気になる。このことから本多静六の記念館がある埼玉県久喜市に行って見たいと思うようになって来た。ネットで調べると東武線久喜駅からバス便で途中まで行き、そこから歩くようでどんな扱いなのだろうか。
ところで本多家はどんな家柄かと調べると静六は養子だった。さらに染谷亮作と本多家は縁戚関係で染谷は帝国大学農科大学(今の東大農学部)の入学時の保証人となり、さらに本多家の書生となり、住み込みながら勉学に励みます。本多静六の妻銓子(セン子)は優秀な女性で本多敏三郎(後の普)の長女と生まれ、明治の初めの官立女学校の入学し、叔母の出口せい(普の姉)に可愛がれ、キリスト教信仰することになり、英語を学び、14歳の時に日本の子爵夫人の通訳をしたという。
 明治14年に日本の女子が近代医学を習得する能力があるかどうかのテスト生として成医会講習所の入学し、明治22年に日本で4人目の公認女医となった。一番目の公認女医は埼玉県の荻野吟子で明治18年に合格しました。
 本多銓子の父の本多敏三郎(後の普)は彰義隊の結成時に一時頭取となりましたが頭取となった直後に落馬し、骨折し、上野戦争に間に合わず、悔いる人生でした。しかし渋沢栄一の取り計らいで明治なって官職についたようです。この辺りは上野の複雑な物語が感じられます。
 出口せいは本多敏三郎の姉で出口家に嫁ぐが夫と死別後に明治5年に築地外国人居留地A6番学校に住むことになる。この辺りは戸田欣堂・原胤昭の物語となり、自由民権運動の物語となってくる。
福神漬の人脈は複雑と感じる。江戸時代から明治にかけて、多くの家が没落し、生き残るために優秀な子弟を求め養子縁組が行われ、さらに女性が嫁いだ家でも夫が亡くなれば、生活を維持するための行動が受け身ではない様子が見える。
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