透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

辰野町の道祖神

2021-10-12 | B 石神・石仏





 小野宿の旧小野家住宅を見学した際、「辰野町道祖神マップ」(写真)を入手した。マップにはリスト化された120基の道祖神が地図上にプロットされ、写真も掲載されている。

辰野町は最古と言われる道祖神(*1)があることで知られている。永正二年(1505年)と建立年が刻まれた、沢底という地区にある双体道祖神だ。ただしこの道祖神を最古とすることに否定的な見解もある(*2)。この道祖神のことは以前から知っていた。

マップには双体像の両側に猿田彦命 天細女命と陽刻された道祖神の写真が載っているが、この道祖神のことは知らなかった。道祖神の御神体について、このように刻まれたものが辰野町に祀られていることを知ったからには、見に行かないわけにはいかない。沢底をストリートビューすると、火の見櫓も立っている! これはもう行くしかない。

「あ、火の見櫓!」写真展  も17日から始まるし、辰野町の火の見櫓についてレポートも書かなくては。なんだか忙しくなってきた。


*1 建立年が刻まれた道祖神で最古
*2 経年数の割に損耗が少ないため、後年同じように彫って建て直したのではないかという指摘。


松本市四賀の青面金剛像

2021-10-03 | B 石神・石仏




青面金剛像 松本市四賀保福寺仁王門脇 撮影日2021.10.02

 前々稿に載せた道祖神と同じ、松本市四賀の保福寺仁王門の横に祀られている一面六臂の青面金剛像。顔は損耗しており、表情は全く分からない。合掌型六臂、日天・月天、三猿、二鶏。手に持っているものが何か、知識がないので見えない、分からない。建立年は不明(碑の裏面をよく見なかった)。


 


生坂村の道祖神

2021-09-04 | B 石神・石仏

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東筑摩郡生坂村北陸郷牛沢 撮影日 2021.09.02

 前の記事の火の見櫓(1294)の横にこの道祖神が祀られていた。おにぎりのような形の自然石に双体道祖神を彫り込んである。右も道祖神だが、像が損耗していて辛うじて道祖神と分かる。


細かな線刻が無く、各パーツを平らな面として表現しているためかグラフィックでモダンな印象。像の下に牛沢邑と彫ってある。邑は集落とか地区という意味。


右側面に建立年が彫り込まれている。慶応4年は1868年。


裏側に帯代 貮拾両の文字。帯代については既に書いている(過去ログ)。


 


道祖神の帯代って何?

2021-06-05 | B 石神・石仏



 長野県には道祖神が多い。とりわけ安曇野には多く、道祖神巡りをするために訪れる人も少なくないようだ。上掲の写真は安曇野市豊科に祀られている道祖神の背面(過去ログ)。帯代五両と刻まれている。

帯代について6月4日付のMGプレスに記事が載っていた。「松本まちなか遺産めぐり」という連載記事で紹介されているのは松本市のあがたの森近くに祀られている道祖神。天保十二辛丑年という建立年と共に刻まれた帯代は十五両とのこと。この年、西暦では1841年。ちなみに上掲の豊科の道祖神は天保十四年、記事に紹介されている道祖神の2年後、1843年の建立。

ところでこの帯代だが、昔は「嫁入り」という道祖神ぬすみの風習があって、夜中に道祖神を近隣の村人がぬすんでいく、と言うとよくないが、嫁に欲しくて持ち去ることがあったという。で、帯代というのは、まあ結納金のようなもの。「嫁入り」させるなら、五両の結納金をいただきます、という意味だ(過去ログ再掲)。帯代について同じ内容が新聞記事にも載っている。

帯代って今のお金にしてどのくらいの額になるのだろう、と前から思っていたが、MGプレスの記事には町会長だった方が**2009年、日銀松本支店に問い合わせるなどして天保のころと現代の米価の比較を行い、(中略)「70万円ほど」に相当すると試算した。**とあり、**世の中の仕組みや人々の暮らしが異なる上、貨幣価値も変動するため、こうした比較の当否は難しい面があるが、(後略)**と続く。用心深い記述だが、天保時代の十五両は70万ほどという目安がついた。

一両4万7千円くらいになるが、ざっくり一両5万円と押さえて、豊科の道祖神の帯代は五両だから25万円。同じ豊科には五拾両と、高額な帯代を刻んだものもある(下の写真)。今のお金で250万円。高額な帯代にすることで道祖神ぬすみを防いだのかもしれない。


安曇野市豊科の諏訪松尾神社の境内に祀られている道祖神 帯代五拾両

現在の結納金の額についてネットで調べて、50万~150万が半数という記事が見つかった。


 


松本市城西の道祖神祭り

2021-06-01 | B 石神・石仏


撮影日2021.06.01



 今日、6月1日は松本市城西に祀られている道祖神のお祭りの日。提燈、旗、そして献酒。私が出かけたのは朝8時半頃。幔幕が張られていないが、まだ飾り付けの途中だったのかもしれない。このような飾り付けをしてお祭りをする道祖神を他に知らない。ここだけではないと思うが。

普段は施錠されている石の祠の扉が開けられて、納められている木彫の双体道祖神がその姿を見せている。松本市内には木彫の道祖神が何基もあるとのことだが、珍しい。これはその内の1基。

のぼり旗に「奉納道祖神 昭和三十八年六月吉日」と墨書されている。今から60年近く前に書かれたものだ。この道祖神は今なお地域の人たちに親しまれ、大切にされている。



撮影日2012.06.01 


帯代五両

2020-10-20 | B 石神・石仏









 「火の見櫓のある風景 スケッチ展」の会場(豊科のカフェ、BELL WOOD COFFEE LAB)の近くにこの道祖神が祀られている。石種は花崗岩と見られるが、花崗岩は損耗しやすい。

この道祖神も損耗が進み、像がはっきり分からないが、男神と女神がお互いの肩に手を掛け、握手をしている抱肩握手像だと思われれる。仮に祝言像だとすると、左側に立つ女神が手に酒器を持ち、男神は盃を持っているはずだが、共にこの像では確認できない。

裏面には天保十四卯正月吉日と、帯代五両という文字が彫り込まれている。調べると天保14年は確かに卯年で、西暦1843年。ということは今から180年近く前ということになる。

ところで帯代だが、昔は「嫁入り」という道祖神ぬすみの風習があって、夜中に道祖神を近隣の村人がぬすんでいく、と言うとよくないが、嫁に欲しくて持ち去ることがあったという。で、帯代というのは、まあ結納金のようなもの。「嫁入り」させるなら、五両の結納金をいただきます、という意味だ。

中にはかなり高額な帯代を設定したものもある(過去ログ)。


 


庚申塔

2020-09-12 | B 石神・石仏


松本市神林にて 撮影日2020.09.12

 モダンな印象を受ける庚申塔の青面金剛像の造形。像の下には一対の鶏(酉)と見ざる聞かざる言わざるの三猿(申)。

60日ごとにめぐってくる庚申(かのえさる、こうしん)の夜、体内に宿る三尸(さんし)の虫が本人が眠っている間に身体からぬけだし、天帝にその人の罪を報告してしまう。報告される度に寿命が縮まると言われる。ならば、眠らないで夜を過ごして善行しよう、という道教の教えに基づく民間信仰(信仰というほどではないか)。

また、庚申の年は60年ごとにめぐってくる。この年に庚申塔が建てられることが多い(過去ログ)。1980年(昭和55年)が庚申の年だった。次の庚申の年は2040年。

庚申塔に関する過去ログ


 


白馬村の道祖神

2020-08-11 | B 石神・石仏


北安曇郡白馬村神城に祀られている道祖神と大黒様(過去ログ)撮影日2020.08.10



この道祖神の右側面に建立年が彫り込んである。寛政三年(1791年)は結構古い部類に入ると思う。江戸末期のものは時々見ることがあるが。

像がはっきりしないが、この像の隣に設置してある説明板に祝言像とある。左側に立つ女神が手に持っているのは酒器だ。男神は盃を持っているはずだが、この像では確認できない。右側の男神の肩のところに手があるのが分かる。注連縄で分かりにくいが左側の女神の肩にも手があると思われる。お互い仲良く肩に手をかけているのだ。

参考に平安貴族の衣装を身にまとう道祖神を再掲する。像が鮮明で肩にかけた手が良く分かる。向かって右側に立つ男神は盃を手に持ち、左側に立つ女神は酒器を手に持つ酒器像。お互い内側の腕を相手の肩に回している。抱肩握手像(*)はよく見かけるタイプだが、握手ではなく、酒器を持っているのはどうだろうか。それほど珍しいというわけでもないのかもしれない。


松本市里山辺藤井の道祖神 撮影日2016.06.19


 


松本市笹賀中二子の道祖神

2020-07-05 | B 石神・石仏


撮影日2020.07.05

 火の見櫓(1243)の脚元に祀られている道祖神。真円に近い枠内に衣冠姿の握手像が彫り込まれている。像に損耗は殆ど見られず、古いものという感じはしない。裏面には「中二子」という地域名と松本町の石工名が記されている。建立年は見当たらなかったが、松本が市政を施行し、松本市になった年は1907年(明治40年)だから、それ以前ということになる。

火の見櫓の脚元に道祖神が祀られていることは珍しくない。災いから集落を守るという役目も同じだ。

道祖神は塞の神(サエノカミ)とも呼ばれる。塞(サエ・サイ)は訓読みすれば「ふさぐ」だがこれは厄病神の集落内への進入路を塞ぐという意味と解して良いだろう。新型コロナウイルスの侵入も阻止してくれているのかもしれない。


中二子:なかふたご


辰野町横川の道祖神

2020-07-04 | B 石神・石仏


撮影日2020.06.21

 辰野町横川の双体道祖神。像に横から光が当たり、より立体的に見えている。正面からの光だと、陰影に欠け、平面的にしか見えない。

仲睦まじい夫婦の立像で、お互いに相手の肩に手を掛け、杯と酒器をもう片方の手に持っている。酒器像と呼ばれる道祖神。

像の上に月と日を彫ってある。下の写真のように青面金剛像を彫った石仏には月と日が像の上にあることが少なくない。この月と日は何を意味しているのだろう。庚申の夜の祈りに関連して時間の経過、日替わりを願うものではないか。いや、もっと深い宗教的な意味があるだろう。

ではこのような月と日がなぜ道祖神に彫ってあるのだろう・・・。まあ、民間信仰はいろんなものが混淆しているだろうから、別に不思議なことでもないか(と、片づけてしまっては知識も深まらない)。



東京都江戸川区東瑞江にて 撮影2014年7月


本稿の道祖神は2011年8月にも載せている。


穂高の石神・石仏

2020-03-25 | B 石神・石仏


安曇野市穂高上原にて 撮影日2020.03.22

 前稿に載せた安曇野市穂高上原の火の見櫓の脚元にカラフルな道祖神を始め、庚申塔(青面金剛像)、二十三夜塔、大黒天、小ぶりな文字書き道祖神が祀られている。これらの内、大黒天と文字書き道祖神の建立年は確認しなかったが、他の三体は表面に文政七申年と刻まれている。二十三夜塔と庚申塔は文字もよく似ている。

一番右の道祖神は握手像で、下に保高上原中と刻まれ、右側に文政七申年、左側に正月〇〇日とある。〇〇は私が読めない文字。

このように主要な石仏・石神が並ぶ様はなんというか、ここに暮らす人々の地域を大切に思う心が伝わってくる。なかなか好い光景だ。

以前、やはり穂高で地域の子ども達が道祖神に色をつけているところを目撃したことがあるが(下の写真)、上原の道祖神や庚申塔も子ども達が色付けしているのだろ。

360


 


庚申塔2基

2020-03-03 | B 石神・石仏

  

 所用で大町へ。長性院という寺院の前に2基の庚申塔があった。上の庚申塔はそれ程古く見えず、昭和55年(1980年)の建立かと思いきや、万延元年(1860年)の建立だった。大江健三郎に『万延元年のフットボール』という作品があるので、この年が1860年ということは知っていた。干支は共に庚申(こうしん、かのえさる)。

 

下の庚申塔も損耗しておらず、古く見えない。裏面に刻まれている建立年は文久4年(1864年)。この年の干支は甲子(きのえね、こうし)で、庚申ではない。

次の庚申の年は20年後、2040年。





火の見櫓と秋葉様

2020-02-29 | B 石神・石仏


(再)塩尻市片丘 4脚64型 撮影日2020.02.28

 道祖神は集落の守り神として集落の主要な道路沿いに祀られていることが多い。元々は集落の入口(位置的には集落のはずれ)に門番、ゲートキーパーとして祀られたのだ。貧乏神や疫病神が集落に入ろうとするのを阻止する役目を負うて。その後集落が広がって、いつの間にかはずれではなくなったということだろうか。こうなると火の見櫓の立地条件と重なる。道祖神と共に二十三夜塔などが祀られていることも少なくない。

この火の見櫓は既に取り上げている。過去ログ

すぐ近くに火防の神様・秋葉大神が祀られている。火の見櫓と秋葉大神は最良の組み合わせだが、今まで秋葉大神(秋葉様)に注目していなかったので、既にこの組み合わせを目にしていたかもしれないが、記憶にはない。同じ石神でも道祖神には関心があるので、火の見櫓の脚元に道祖神が祀られていると、いつも気が付いていた。ちなみに左の蠶玉(こだま)大神は蚕の神様。過去ログ

          
 *  訓読み:かいこ、こ  

普段目にすることのない難読漢字だが、蠶玉様というのはお蚕(おかいこ)の神様のことだ、と近所の物知りなおじさんに昔教えてもらっていた。


 


根津神社の庚申塔

2019-03-03 | B 石神・石仏


撮影日190224

 根津神社の境内に6基の庚申講が背中合わせに6角形を成して祀られている。明治以降道路拡幅などに伴い、各地から根津神社に納められたようだ。私が観察したのはこの青面金剛像。

青面金剛は庚申信仰の本尊で、この像は三面六臂、三つの顔と六つの腕を備えた像だ。唐破風の笠(屋根)を載せた角形の塔身に彫られている。像の下に猿と二鶏が見える。これには早く申から酉に日が変わって欲しいという願いが込められていると聞く。調べるとこの猿は三番叟(さんばそう)を踊っているそうだが、私には知識がないのでこの猿を見ても分からない。

さらに下の台座には三猿(悪事を天帝に報告しないように眼、耳、口をふさぐ)が彫り込んであるが、撮り落とした。



像の左側の手には矛、弓、蛇が巻き付いた棒を持ち、右側の手には宝輪、矢、羂索(けんさく)を持っている。

この庚申塔の造立は1668年(寛文8年)。


 
上掲像の右側に祀られている一面六臂の青面金剛像


ざっくりとした味のある彫りの邪鬼と三猿

合掌していない手に日輪、月輪、弓、矢を持ち、邪鬼を踏みつけて立っている。像の下に三猿(見ざる聞かざる言わざる)。


*2月23、24日の両日、東京で撮った写真は他にもあるが、この補稿で掲載を終了する。