透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

安曇野市穂高の道祖神

2022-03-23 | B 石神・石仏



 20日、有明山神社に濱 猪久馬が制作した随神を見に出かけたが、その時はカーナビの案内に頼った。途中、穂高の新屋地区で覆屋に祀られている道祖神や二十三夜塔、大黒天の石像を見かけたので車を停めて写真を撮った。

 

3基の道祖神の内、上掲した2基は損耗が進み像が不鮮明で姿形や表情がよく分からなかった。それで左端の道祖神に注目した。

 
安曇野市穂高新屋の道祖神 撮影日2022.03.20  

跪座祝言像。衣冠束帯の男神と十二単の女神、平安貴族風の衣装の双体像。男神が持つ盃が縦になっているのは、水平に持つと盃だということが分かりにくくなるという表現上の理由か、技術的には全く問題なく彫ることができると思うが(*1)。女神は右手で酒器を持ち、左手で男神の衣を掴んでいる。仲睦ましさの表現だろう。正面からだと分かりにくいが横方向から見るとかなり立体的に彫られていることが分かる。像の左側に新屋村中と刻字されている。

*1 過去に載せた記事をチェックしていて長野県山形村の「酒樽」と呼ばれる道祖神(写真下)は男神が盃を水平に持っていることに気がついた。やはり水平だと分かりにくい(過去ログ)。


 


「青面金剛」文字碑

2022-03-19 | B 石神・石仏


長野県朝日村古見にて 撮影日2022.03.17





 何基も祀られている庚申塔の文字碑には庚申と彫り込まれているが、1基だけ青面金剛と彫り込まれている。



碑高110cm、碑幅70cm、碑厚25cm。青面金剛の右側に「天明元辛丑歳 御道開渡村」左側に「十月日講中」という刻字がある。天明元年は西暦1781年。この年の干支を確認すると辛丑(かのとうし)。 

『筑摩野の道祖神』今成隆良(柳沢書苑1979年)によると筑摩野(塩尻市、朝日村、山形村、旧波田町、旧四賀村、松本市本郷:同書に示されているエリア)では刻像碑より文字碑の数が多いそうだが、刻像碑の方が観察のし甲斐がある。


 


松本市内で見かけた道祖神

2022-01-29 | B 石神・石仏

 
双体道祖神 祝言像 松本市清水 撮影日2022.01.29

 自転車で松本市内を走っていて、この道祖神を見かけた。右側面に建立年が彫り込まれている。文政三庚辰年三(?)月。この年は西暦で1820年、約200年前の道祖神ということになる。

残念なことに像の男神、女神とも顔が損耗していて、表情がよく分からないが、笑顔だろう。女神はふくべを手に、立位の男神は盃を手にしている。何も持たない方の手は相手の袂の中に入れている。仲のよい姿は疫病神、貧乏神が寄り付くのを防ぐと言われている。

形の良い自然石を探したものだな、といつも思う。


 


庚申塔

2022-01-25 | B 石神・石仏

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東京都江戸川区東瑞江にて 撮影日2014.07.20

 庚申塔。神社や寺の境内、路傍で見かけるこのような石像に興味がある。不思議な、と形容してよいのかどうか、この姿について知りたい・・・。

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一昨年(2020年)の11月に松本の想雲堂という古書店で『庚申信仰』平野 実(角川選書1969年)を買い求めていた。先日書棚から取り出して再読した。

序 章 庚申信仰とは何か
第一章 庚申信仰の歴史
第二章 庚申信仰と民俗
第三章 庚申塔
終 章 最近における庚申信仰の研究

このような章立てで長年に亘る調査・研究の成果がまとめられている。

庚申塔って何? それが神社にも寺にも祀られているのはなぜ? 像は何? 手に持っているのもは何? 鷄や三猿が彫られているのはなぜ?

この本を読めば、このような疑問が解ける。庚申塔を見る時の有用な知識が得られる。


 


茅野市豊平の庚申碑

2021-12-19 | B 石神・石仏


小窪山今宮寺観音堂の裏手に祀られている庚申碑 撮影日2021.12.12


真ん中の出羽三山大権現のことは何も知らないのでパス。

 
右側の庚申碑 櫛形に彫り込んで庚申と陰刻してある。左側の建立年は寛政十二庚申十一月吉日と読める。調べると寛政12年は西暦1800年で干支は確かに庚申(かのえさる こうしん)。次の庚申の年は1860年(万延元年)。左側の文字は〇〇村中、読めない・・・。


左側の庚申碑 建立年は昭和五十五年庚申十二月。横は南大塩区中と読める。昭和55年(1980年)の次の庚申の年は2040年。


 


茅野市湖東の青面金剛像

2021-12-17 | B 石神・石仏


茅野市湖東須栗平 須栗平公民館の近く 撮影日2021.12.12

何基も立ち並ぶ石造物、中央の青面金剛像に注目。



 この石碑形を舟後光型としてよいのかどうか、分からない。頂部をシャープな形に整えた碑に彫られた一面六臂の青面金剛像。顔はよく分からないが、怒りの表情か。持物もよく分からない。これは像がはっきりしないこともあるが、私に知識がないから見えないということ。碑の高さは約110cm、碑の幅約60cm、碑の厚さ約20cm。例によって像の下に三猿が彫られている。三猿だと分かるのは知識があるから。そうでなければこの状態では全く分からない。


 


子宝道祖神

2021-12-14 | B 石神・石仏


子宝道祖神 茅野市豊平南大塩 撮影日2021.12.12

 五穀豊穣、家内安全、子孫繁栄、無病息災。路傍に祀られている道祖神には村びとの色んな願いが込められている。これは子宝道祖神。ということで、左はずばり陽石。右は双体道祖神だが、摩耗していて、像の姿形は良く分からない。二股、いやそれ以上ある大根やアケビという賽物。


設置された案内板には、なるほど!な説明が書かれている。


 


辰野町伊那富の石神・石仏

2021-11-16 | B 石神・石仏


上伊那郡辰野町伊那富 左から二十三夜塔、庚申塔、道祖神 撮影日2021.11.14

 道祖神だけ祀られていることも、もちろんあるが、このように二十三夜塔や庚申塔と共に祀られている場合が少なくない。二十三夜塔は月に関係がある。月は太陽と共に信仰の対象で、飲食を共にしながら月の出を待つ行事が「講」を組織した人たちによって各地で行われていた。二十三夜塔は主にこの月待講で祀られた。十三夜塔、十五夜塔、十六夜塔、二十一夜塔など他の月齢の塔も祀られているようだが、二十三夜塔の他に実際に見たことがあるのは二十六夜塔。月見をすることもなくなってきているが、もっと月を愛でたいものだ。


男神と女神が握手している「握手像」 残念ながら顔の表情ははっきり分からないが、おおらかな雰囲気が伝わる。


鞍掛中 帯代七両 という刻字が読み取れる。


 


辰野町樋口の庚申碑

2021-11-15 | B 石神・石仏


上伊那郡辰野町樋口万次郎 万次郎公民館の横に祀られた庚申碑 撮影日2021.11.14

 庚申と文字書きされた碑が数基、正面金剛像が1基祀られている。前稿の火の見櫓(1315)のすぐ近く。



櫛形碑に青面金剛像、二羽の酉、三猿が彫ってある。碑の高さ(碑丈)約90cm、碑幅約33cm、碑厚約20cm。一見埴輪のような印象を受ける像。六臂。合掌して、他はそれぞれ何か持っている。鑓(槍)は分かる。二本の手で弓を腰の後ろ側に持っているのだろうか。もう一つは分からない。一般的な持物の宝輪か? 違うかな・・・。



碑の左側面に彫ってある文字。延宝八年は西暦1680年。ちなみに延宝8年も昭和55年も干支は庚申(こうしん、かのえさる)。


 


辰野町伊那富の道祖神

2021-11-14 | B 石神・石仏

 今日(14日)の午前中、上伊那郡辰野町の火の見櫓と道祖神巡りをした。前稿の火の見櫓(再1130)の次にこの道祖神と出会った。


上伊那郡辰野町伊那富北大出上垣外 道祖神 酒器像 撮影日2021.11.14



大きな自然石の基壇に形を整えた石に彫った双体道祖神(酒器像)を据えている。碑の高さ約62cm、幅約60cm、厚さ約35cm。円形(直径約40cm)の中区に彫った像は高さ約33cm。



女神が提子、男神が盃(欠損しているようで分かりにくい)を持っている。公家風の衣装をまとう。顔の表情ははっきり分からないが穏やか。


 


辰野町上辰野堀上の道祖神

2021-11-05 | B 石神・石仏


辰野町上辰野堀上 双体道祖神 撮影日2021.11.03


撮影日2021.11.03


撮影日2021.10.16


撮影日2021.10.16


撮影日2021.11.03

 辰野町上辰野堀上に祀られている双体道祖神。碑身の高さ約1m、幅 底部で約1m。像の高さ約50cm。衣装は衣冠束帯。男神の横に猿田彦命、女神の横に天鈿女命の文字がある。碑の裏面に明治六癸酉年二月八日氏子 帯代十五両の銘あり(帯代は土に埋もれていて読めなかった。道祖神マップによる)。

猿田彦命は邇邇芸命(ニニギノミコト)の道案内をした神様で、道祖神とするにふさわしい。天鈿女命(アメノウズメノミコト)は裸踊りをして、神々の騒ぎを誘い、天の岩屋戸の中に隠れてしまった天照大御神を外に引っ張り出すきっかけを作った神様(参考:21世紀版少年少女古典文学館1『古事記』橋本 治(講談社2009年) この本はおすすめです)。 「古事記」


 


辰野町小野山口の道祖神

2021-11-04 | B 石神・石仏


辰野町小野山口 双体道祖神 撮影日2021.11.03

 前稿に載せた火の見櫓(1314)を見て、引き返すために車をUターンさせる場所を探して更に奧へ。で、この道祖神と出会った。古くからある集落には火の見櫓が立っていることが少なくないし、石神・石仏も祀られている。初期中山道沿いの三つの集落にはそれぞれ火の見櫓が立っていて、道祖神も祀られている(辰野町道祖神マップ *1)。



『双体道祖神』伊藤堅吉(緑星社)では、このような碑型を自然石中区碑と分類している。碑の高さ約94cm、幅約60cm。像の高さ約50cm。台石の幅約75cm、奥行きもその位。



男女二神、右の男神は盃を、左の女神は銚子を手に持っている。欧米人のような鼻梁が特徴的な顔。建立年は不明。


*1 120基の道祖神がリストアップされている。


辰野町沢底日向の庚申碑

2021-10-17 | B 石神・石仏


上伊那郡辰野町沢底日向 石神・石仏 撮影日2021.10.16

 辰野町沢底日向で見た青面金剛像2体


光背型の石(高さ68cm、幅46cm)に一面六臂の青面金剛を納めている。像の上に日輪と月輪。
像の右手には上から宝輪、宝剣(体の前)、矢を持ち、左手には三叉槍(剣?)、人身(体の前)、弓を持っている(手元の本による俄か勉強で得た知識)。顔の怒りの表情がなかなか好い。脚の下に馴染みの三猿。 



細長い碑形(高さ100cm、幅38cm)の上部に日輪ふたつ、と思って調べると、月にも円形のもの(満月か)があるという(『庚申信仰』平野 実(角川選書1969年 57頁)。だからこれも日輪と月輪か。


四手。合掌している二手、他の二手に持っているものはよく分からないが右手は剣?(単なる棒ではないと思うが)、左手は蛇?(蛇を持つことはあるようだ。*1)顔はやはり憤怒の表情か。

刻字 像の両側に文字があるようだが読めなかった。碑の裏面は未確認。


*1 上掲書52頁 **右側三手が上からそれぞれ輪・矢・索を持ち、左手三手が上からそれぞれ矛・弓・棒を持っている。以上三例が比較的一般の型であるが、このほか持ち物には、鍵・斧・数珠・独鈷・三鈷・どう幡(どう:漢字変換できず)・日月輪・宝珠・卍・蛇など各種あり、なかには空手のものもある。**


辰野町沢底入村の道祖神

2021-10-17 | B 石神・石仏


上伊那郡辰野町沢底入村 双体道祖神 撮影日2021.10.16


 山の斜面に何基かの石仏と共に双体道祖神が祀られている。「日本最古の道祖神」という看板が設置されている。説明文は文字のペンキが剥落していて読み取れない。


櫛形に整えた石(高さ75cm、幅50cm)に双体道祖神が彫られている。男神が女神の着物(服装についてはよく分からない)の裾を男神が手で掴み、女神が手を添えて開いているように見える(*1)。となると、ちょっとエッチなしぐさということに(*2)。厄病神はアツアツのカップルには寄り付かないとのことだから、このしぐさも頷ける。集落の賽の神としての役割を負う神様のデザインに相応しいともいえるだろう。両神の姿形が整っていて、石との大きさのバランスも良い。


像の右側に永正二年、左側に入澤底中と彫り込まれている。永正二年は室町時代で西暦1505年。建立年が彫り込まれた道祖神で最古と言われている。ただし真贋は定まってはいないようだ。像がそれほど損耗していないということも、後年同じように彫って建立し直したのではないかという理由のひとつに挙げられている(*3)。安曇野でよく見られる花崗岩の道祖神は損耗しやすいが、石質によっては経年に伴う損耗がそれ程ないこともある。仮に損耗してしまって像がはっきりしなくなったからと、建立し直すことが道祖神や青面金剛像などの石神・石仏で実際に行われていたのだろうか・・・。仮に行われた場合、再建立した年を刻まないということも不自然だと思うがどうだろう。作風についても指摘があるが、凡そ芸術表現というものはいつの世でも多様なものと捉えたい。入澤底中という刻字について。今は沢底入村だが、昔この地は入澤底村だったようだ。室町時代のことは不明。


*1 このような姿を「裾まくり像」と分類している文献もある。『双体道祖神』伊藤堅吉(緑生社 発行年不明)
*2 直接的な表現のものもある。
*3 上掲書にこの道祖神について次のような記述がある。**像碑の風化状態、作風などから、後年同所にあった古碑の口伝年代をこの碑を再建した時刻入した疑念がある。**(105頁)ただし双像記年刻銘代表碑表(107頁)には掲載されている。ちなみに同表で 2番目は大永2年(1522年)所在地はやはり長野県で北安曇郡松川村大泉寺となっている。