
表紙をトリミングしました。
■『 細胞の意思<自発性の源>を見つめる』団まりな/NHKブックス 読了。
第3章「細胞の思い、人間の思い」で著者は**私が本書で伝えたいことは、細胞が私たちと同じように、思い、悩み、予測し、相談し、決意し、決行する生き物だということです。**と書いているが、この本の帯の**思い、悩み、決断する細胞たち!**というコピーは著者のこの意図を的確に表現しているように思う。
発生生物学が専門だという著者は「科学的考え方」と「擬人的考え方」、ふたつの考え方を紹介し、〝擬人的考え方〟も正しく使えば立派な〝科学的道具〟になりうるし、〝科学的考え方〟と思っていたものも、使い方を一歩間違えば、きわめて〝情緒的な落とし穴〟に陥ってしまう(後略)と指摘する。
擬人派を自認する著者は始原生殖細胞の「ふるまい」を擬人的に捉える。そして細胞に「意思」を見る。(この意思という語を著者は「ある何らかの主体(たとえば人間個人または人間集団など)が他者(ほかの人間や生き物)によって強制されるのではなく、自己の純粋な立場において、なんらかの活動や思考などを想起し、行うこと という意味で使うことにします。」と説明している。) 注:下線部は本では傍点
すべては「共感すること」から始まる という小見出しで著者は次のように書いている。
**細胞を理解するうえでもう一つ重要なことは、推測や解釈を恐れずに細胞に接する方法の手本は、物理・化学的な考え方や手法(科学的手法)にあるのではなく、人間や動物を観察し、解釈し、記述する生態学や行動学の手法(擬人的手法)にあるということです。**
「科学的考え方」や「擬人的考え方」というのは認識論、つまり物事の本質をどのように理解するのか、という問題ではないのか。
長年付き合ってきた細胞に愛情を抱いている著者は細胞を擬人的に捉えているだけなのではないだろうか・・・、それとも「本当に」細胞に意思があるというふうに認識しているのだろうか・・・。なんだか哲学的な課題、浅読な私は本書を読了してもよく分からなかった。