■ 『北斎まんだら』梶よう子(講談社文庫2019年)を24日(木)に一気読みした。葛飾北斎を中心に娘・お栄、弟子の善次郎、高井三九郎、それから北斎の孫・重太郎によって描き出される曼荼羅図。
長野県立美術館で北斎展を観た直後だったから、北斎自ら、あるいは他の登場人物たちが北斎の代表作、富嶽三十六景についてあれこれ語るという場面を勝手に期待していたが、残念ながらそれはほとんどなかった。さらに、もっと北斎作品を総括的に論ずるような物語を。タイトルのまんだらからもこの様な内容を期待していた・・・。松本清張が小説『火の路』の中で古代史について自説を展開したような(過去ログ)。だが、考えてみれば、人物を描いているわけだから、私が無理なことを期待していたようだ。
お栄が地面に小石で「神奈川沖浪裏」を描く場面があり、そこで**「(前略)つまり物ってのは、円と四角でできているってのが、親父どのの考えさ」**(206頁)と父親である北斎の物の捉え方を語り、さらに**北斎の画は、丸と四角の組み合わせで形を取り、対角線や点、相似形を使い画面を構築する。緻密な構成があるのだと、お栄はいう。**(210頁)
お栄は続けて**発想は、珍奇で奇想かもしれない。が、北斎はその眼で風景をそう捉えているともいった。**(210頁)まあ、これだけ北斎の物の捉え方や描き方について説かれていれば十分とすべきかもしれない。だが、できれば作者・梶さんご自身の北斎画の捉え方をもっと誰かに語らせて欲しかった。なるほど、北斎画ってこんな観方もできるのか、と思えるような。枕絵のことをお栄が語るがそれより、富嶽、富嶽。
以下に印象に残る北斎のことばを引用しておきたい。
**「おれの富嶽にケチつけやがった。絵組は面白くとも、どこから見たかもわからねえ富士の画なんざ、いかさまだと。あれは奇想の産物だ。北斎翁も眼が濁ったかねぇだと」**(150,1頁)北斎の富嶽にケチをつけた歌川広重に対する怒りのことば。
左:歌川広重「名所江戸百景 品川すすき」
右:葛飾北斎「神奈川沖浪裏」
**「ああ、てめえの画は生写(しょううつし)だと? 真の景色を写してこそ名所絵だぁ? 利いた風なこといってるつもりか知らねえが、そこに己の筆を加えることで画となるだと。偉そうにいいやがって、ようは、てめえは見たまんましか描けねえってことじゃねえか。画を描くってのはな、画の中にてめえを映すことでもあるんだ」**(151頁 太文字化は私)上掲写真は北斎のことばの理解の助けになるだろう。
このことばを読んだだけで満足。こうあるべきだと自分も思っている。「映すことでもあるんだ」は「映すことなんだ」と言い切って欲しかったという気持ちもあるけれど・・・。
※ 茲愉有人様のコメントを受けて加筆、修正しました。コメントも併せてお読みいただければ、と思います。