透明タペストリー

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「流人道中記」を読む

2024-03-13 | A 読書日記

『流人道中記』上下巻 浅田次郎(中央公論新社2020年 図書館本)を読み終えた。上下巻合わせて660頁という長編。姦通の罪を犯し蝦夷松前藩への流罪となった旗本・青山玄蕃と押送人の見習与力・石川乙次郎。津軽の三厩を目指す奥州街道ふたり旅の後半。


浅田さんは物語の途中に江戸で待つ妻・きぬに宛てた乙次郎の手紙を挟む。それは物語を先に進めるのではなく、それまでの簡単なまとめをするという浅田さんの意図か。柔らかな文体で綴られている手紙を読むとそれは浅田さんの息抜きのようにも感じる。その手紙に乙次郎は次のように書く。

**僕は今、現実と御法の狭間で思い悩んでいます。
(中略)
今の世の中は、御法にさえ触れなければ悪行ではないとする風潮がありますね。でも、それは真理ではない。人間の堕落によって廃れた「礼」を、補うためにやむなく求められた規範が「法」であるなら、今日でも「礼」は「法」の優位にあらねばならないはずです。(後略)**(210,211頁 *1)

また別のところでは浅田さんは**僕は見習与力になったとたん、ひとつの疑念に取り憑かれた。それは、はたして人が、天にかわって人を裁く権利を持っているのかという疑問だった。**(13頁)と書いている。

押し込み強盗の手引きをしたとして丁稚・亀吉に引廻しのうえ磔(はりつけ)の申し渡しがあった。が、真実は違っていた。亀吉は騙されて手引きをさせられていたのだ。また、当時の法では十五歳以下であれば死罪は免れたが、亀吉は十六歳。だが親が亀吉の歳を偽って奉公に出していた・・・。本当に十六歳としても**「正月四日の晩ではないか。これが四日前の大晦日の出来事ならば、算(かぞ)え十五の子供ゆえ遠島か親元預けで済んだはずだ」**(28頁)

浅田さんはこの小説で裁きが依拠する「法」とは何か、を問う。

**敵討ちをやめさせようとしたのではない。御法が滅す命ならば、せめてその死に様によって他者の命を救い、善行のみやげを持たせて往生させようと考えたのだ。**(96頁)

具体的には書かないが、磔にされた亀吉がある敵討ちをやめさせることになる。下巻のはじめに出てくるこの騒動の設定は凄い。読んでいて、何と表現しよう・・・、そう、心が震えた。

その後、旅の途中のふたりが遭遇するのが「宿村送り」。それは**病を得た旅人が故郷に帰りたいと願ったなら、沿道の宿駅はその懸命の意思を叶えてやらねばならなかった。**(109頁)というもの。四十過ぎと思しき女が路銀尽き、仮病を使って「宿村送り」を利用する。玄蕃と乙次郎を巻き込んだこの騒動はちょっとユーモラスでもある。

下巻の後半は玄蕃のひとり語りの様相に。玄蕃は姦通が冤罪であることが明らかにし、それを敢えて受け入れた自身の考えも述べる。私はなるほど、とはいかず・・・。

やがてふたり旅も終わりに。

乙次郎は**叶うことなら空や海のきわまるところまで、この人とともに歩きたかった。**(286,7頁)と思うまでになっている。ふたり旅、そして物語の最後の最後に乙次郎は初めて名を呼ぶ。「玄蕃様――」 **「科人の名を口にしないのは奉行所の習いだ。他意はない」**(266頁)このことについて科人の人格を認めない、情をかけないなどの理由が挙げられているのに。流人と押送人という関係は師弟関係へと変容していた。

なかなか感動的なラストだった。ふたりのその後も気になる。

浅田次郎の作品は2022年に読んだ『おもかげ』以来。『一路 上下』など他の作品も読んでみたい。


*1 本稿すべて下巻の頁