①
北安曇郡白馬村神城 2022.11.11
■ 向かって右側に立つ男神は盃を手に持ち、左側に立つ女神は酒器を手に持つ酒器像(祝言像)。お互い内側の腕を相手の肩に回している。紙垂で隠されることなく、相手の肩に掛けた手が写っている写真が1枚あった。写真は常に複数枚撮らなくては。
注連縄に玉串。神事が行われた直後だったのかもしれない。像が鮮明だ。新たに祀られた道祖神だろうか、礎石まわりの掘削土の埋め戻しがまだ終わっていないような様子だった。
②
■ 以下追記 この双体道祖神について、平安貴族の衣装を身にまとう道祖神などと安易に書いたところ茲愉有人さんから**「平安貴族の衣装」とはちょっと違う印象を抱きました。**というコメントをいただいた。なるほど、確かに女神の服装を見れば一目瞭然ではないか。**双体道祖神の造形は多様ですね。興味がつきません。**とコメントを結んでいただいているが、これは私への優しい配慮というべきであろう。
③
服装の知識もなく、安易に記事にしてしまったことを反省しなくては。下に追加した写真④は安曇野市内に祀られている道祖神。やはり盃と酒器を手に持っていて両者は同じ型に入る。見比べると、顔の表情も違うし、女神の服装も明らかに違う。④の男神は垂纓冠(すいえいかん)をつけ、冠のひもをあごの下で結んでいる。①の写真で男神の頭上に纓(えい)を見て、平安貴族と早合点してしまった。いや、これは纓ではないのかな・・・。そもそも纓はいつ頃から?
茲愉有人さんのコメントには日本の服装を扱っているサイトのアドレスが添付されている。服装史も広く深い世界だ。
今後、道祖神の服装に言及する場合にはじっくり調べることにしたい。加筆・訂正前の記事から冒頭の平安貴族の衣装を身にまとう道祖神という記述を削除した。
ブログでは十を知って一を書くくらいでなくてはだめ、と反省。茲愉有人さんに感謝します。
④
安曇野の道祖神 2013年2月撮影
茲愉有人さんのブログの深く緻密な論考に敬服しております。
服装史も実に奥が深く、やはりこの世界にも出口がなさそうですねぇ。
手許にある『有職故実 下』(石村貞吉著 嵐義人校訂 講談社学術文庫)からの受け売りですが:
「服装」の項には、纓についての記載があります。ページ28。
そこには、『和名抄』に「纓」が載っているとあります。この書は調べると承平年間(931ー938)に成立した書のようです。この書、漢籍からの引用語に語釈をつけたもののようですので、纓は中国から伝わってきたのでしょう。「纓、於盈の反、俗に燕尾と云ふ。冠の纓」と語釈があるようです。
平安時代中期頃までは燕尾の名で呼ばれていたそうです。少なくとも、この頃までは遡れます。
その後に、江戸中期の『貞丈雑記』の引用があります。そこには、「・・・・・ 唐にては、冠の緒を纓と云ふ。日本にては、冠の後に垂るかざり物を、纓と云ふ。名は同じくして、実は異なり。和名抄に、所謂燕尾、即ち日本の『えひ』なるべし。『えんび』と云うを略して、『えひ』と云ひ、『えひ』転じて『えい』と云ひて、纓の字をあて字に用ひ来れるなるべし。・・・・・・」とあります。
『貞丈雑記』は江戸中期の有職故実研究書です。
また、「日本服飾史」のサイトを参照すると、天武・持統朝文官朝服の図には、漆紗の冠に燕尾が描かれています。奈良時代まで、纓が遡れることになりますね。
想像をたくましくすれば、国風文化が培われていく中で、冠の形も和風のものが確立していったのではないでしょうか。
P.S. 感想を御利用いただき、恐縮しています。追加された双体道祖神像も、興味深く拝見しました。
なるほどご指摘の通り、平安貴族の衣装とは全く違いますね。女神を見れば一目瞭然。きちんと確認もせず、安易に記事にしてしまいました。後ほど適宜訂正します。だめですね、源氏を読んだというのに・・・。反省。
ま新しい感じの双体道祖神碑、興味深く拝見しました。
服装についての印象です。
手許にある学習参考書『国語便覧』(数研出版)や『源氏物語図典』(小学館)に掲載の被り物、服装の写真やイラストから抱く「平安貴族の衣装」とはちょっと違う印象を抱きました。
ネット検索して、次のサイト情報を入手しました。
日本服飾史
https://costume.iz2.or.jp/
飛鳥時代の衣裳
https://costume.iz2.or.jp/period/asuka.html
推古朝朝服
https://costume.iz2.or.jp/costume/6.html
推古朝女官朝服
https://costume.iz2.or.jp/costume/5.html
私は、このサイトで掲げる飛鳥時代の朝服に近い表現/造形のような気がします。
あくまで印象にすぎませんが・・・・。
いずれにしても、双体道祖神の造形は多様ですね。興味がつきません。