町火消の枠火の見(博物館5階に展示されている江戸の町並みを再現したジオラマ)
火の見櫓のない町には自身番(自警団の屯所)の屋根に梯子を立てて半鐘を吊るしただけの簡便な火の見梯子が設置された。
町火消の火の見櫓
町方における火の見櫓は、享保年間(1716―36)に10町に1ヶ所づつ建てられたといわれ、形は定火消の火の見櫓とほぼ同じであるが周囲の蔀(しとみ)は黒渋塗りで、下部まで張っていない。土地の高低にもよるが武家地の火の見櫓より高さは、低く作られた(同館の説明文を引用)。
定火消の火の見櫓の内部構造模型
江戸の町に火の見櫓が登場したのは、万治元年(1658)、定火消制度が創設された頃で、定火消し屋敷内に火の見櫓が設置された。江戸中で定火消屋敷の火の見櫓が最も格式が高く、記録によると高さは、およそ五丈(約15m)内外と定められていた。火の見櫓の構造は、外周は素木の生渋の蔀で、上部は廻り四方が見渡せる構造になっており太鼓と半鐘が設置されていた(同館の説明文を引用)。
大名火消の火の見櫓
定火消の火の見櫓より低く、周囲は黒塗り、上部には板木が吊るされ、特別の家柄を除き江戸城の方角を塞ぐことになっていた。設置を許されていたのは八万石以上の大名火消と20家の火消役で、大名でも、外様大名には許されなかった(同館の説明文を引用)。