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『フーテンのマハ』原田マハ(集英社文庫2018年5月25日第1刷、2022年3月19日第9刷)
■ 原田マハさんの旅エッセイ『フーテンのマハ』を読んだ。マハさんの(今では原田さんと書いていたが、今回は親しみを込めてマハさんと書く)アートをテーマにした小説を何作か読んできた。この辺でちょっと中休みしようとこのエッセイ集を読んだ。
『フーテンのマハ』には旅好きなマハさんの旅にまつわるエッセイが32編収録されている。人生で失くしたら途方に暮れるものは旅、と最初のエッセイに書いている。旅が大好きなマハさんの旅エッセイを読んでいると、とても楽しい気持ちになる。
フーテンの寅さんに憧れてフーテンのハマと自称するようになったとのこと。小学二年生のとき、第一作目を父親と映画館で観て以来、寅さんに憧れているそうだ。マハさんは映画館の売店で寅さんのポスターを買ってもらったとのこと。寅さん映画が大好きで全50作(48作とするマニアも少なくない)を観た僕はこのことを知ってうれしくてマハさんに親しみも湧いた。
収録されているエッセイの多くは御八屋千鈴(おはちやちりん)さんと出かける二人旅について綴られたもの。御八屋千鈴(ニックネーム)さんはマハさんの大学時代の同窓生で、年に4,5回一緒に旅行する仲。十数年かけて、47都道府県を制覇してしまっていると、27番目の「ナポリでスパゲッティを」にある(203頁)。いいよね、こんな親しい友人がいるなんて。
**かくして持ち帰った「大統領御用達」のバゲットを食してみると・・・・・・。
んあ~~~っ! な、なんだこれは!? うンまあ~~いいッ!
と、ひとりのけぞってしまった。いや、ほんと、おおげさじゃなく**(79頁)
フランス滞在中の出来事を綴った「バゲットと米」にはこんな表現も。ここだけでなく、あちこちにでてくる。そうか、マハさんはこんな表現もするのか・・・。この本のカバーのイラストはマハさんが描いたもの。この本のあちこちにマハさんのイラストが載っているけれど、上手い。
だが、18編目の「睡蓮を独り占め」から25編目の「ゴッホのやすらぎ」までのアート小説のための取材旅行のエッセイにはこんなくだけた表現は全く使われていない。画家に対する敬意を感じる。
ここにはアート小説に取り組むマハさんの姿勢も書かれていて興味深い。例えば次の件。**「アートへの入口」となる小説を書くのであれば、責任をもってしっかりと下調べし、襟を正して書かなければ! と自分に言い聞かせている。**(「画家の原風景」174頁)
マハさんのデビュー作は『カフーを待ちわびて』というアートとは全く関係のないラブストーリーだが、このことについて次のように書いている。**しかし私は、アートからいちばん遠い内容の小説を書いて、小説家になった。なぜならば、いってみれば、アートは私にとっての最強の切り札。これをテーマにして小説を書けば、絶対に自分にしか書けない個性的なもの、おもしろい物語を書く自信があったからだ。**(「取材のための旅」161頁)マハさんの経歴を知ればこの自信に納得できる。
この本の最後に収録されている「フーテン旅よ、永遠に」にはマハさんの父親のことが綴られている。**父こそが私にフーテンの種を植えつけた張本人だったのだ。父もまた、生まれついてのフーテンだった。戦前、満州に生まれ、戦後は本のセールスマンとなって日本全国宇を旅して回った。**(236頁)
**私がアートに親しむようになったきっかけを作ってくれたのは父だった。**(237頁)ということも明かしている。ピカソが亡くなった時には、まだ寝ていたマハさんのところにきて、**「おい、起きろ」(中略)「ピカソが死んだぞ」**(238頁)と伝えたという。調べるとこの時マハさんは10歳(*1)。
この最後のエッセイには「砂の器」を観て号泣したことが書かれている。隣りの父親も男泣きしていたという。松本清張原作のこの映画を映画館で観て、ラスト近く、親子が全国を彷徨うシーンに僕も泣いたし、後年DVDで観た時も泣いた。過去ログ
「砂の器」を観て泣いたというマハさん。僕と同じだ。 本の最後でこのことを知り、ますます親しみを感じる。マハさんの読みたい小説をリストアップしていた。その中でまだ読んでいないのは『ジヴェルニーの食卓』『常設展示室』『風神雷神』の3作品だが、『フーテンのマハ』を読んで、アート小説だけでなく他の作品も読んでみたいと思うようになった。
*1 ピカソは1973年4月に死亡、原田マハさんか1962年7月生まれ