透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

― 復習 火の見櫓の歴史

2016-11-09 | A 火の見櫓っておもしろい

  火の見櫓の歴史のあらましを復習しておきたい。きちんと記憶し続けることができなくて。明日の収録ではざっくりと概要を語れば良いと思うが、やはり10を知って1を語るくらいでないと(理想であって現実的にはとても無理だが・・・)。

火の見櫓の歴史は江戸時代前期に始まる。1657年(明暦3年)の冬に発生した明暦の大火(振袖火事とも呼ばれる。この火災で江戸城天守も焼失した。)による死者数は10万人に達したとも言われている(死者数には他説もあり定まらない)。江戸は「百万都市」と言われるが、当時の人口は78万人くらいだったから、被害がいかに深刻であったかが分かる。

この大火によって江戸幕府は今でいう都市防災の概念に目覚めたのであろう。広小路が計画され、火除け地(避難用の空地)が確保され出したのではなかったか・・・。耐火性能のある蔵も普及していく。この辺りはきちんと調べなくてはならない。

この大火の翌年、1658年(万治元年)に幕府は直轄の定火消を組織する(*1)。飯田町、麹町、御茶、伝通院前の4箇所(*2)に定火消の屋敷を造り、火災の発見と監視を目的に望楼を建設した。この望楼が火の見櫓の始まり。初期消火のために早期発見、早期伝達が重要で火の見櫓はそのためのものだった。

定火消の組織化から60年後の1718年(享保3年)に町奉行大岡忠相(越前)により、町火消設置令が出され、町人地に町火消が組織された(*3)。

定火消の火の見櫓(写真①)は高さが5丈(約15m、1丈は約3m *4)、町火消の火の見櫓(写真②)は3丈(約9m)以下と、高さ制限の定めがあった。高さだけでなく、仕様も違う。火の見櫓の無い町には自警団の屯所の屋根に簡易な粋火の見(火の見梯子、写真③)が設置された。


① 定火消の火の見櫓の内部構造模型


② 町火消の火の見櫓


③ 粋火の見(火の見梯子) あれ?なにかおかしい・・・

写真は東京都の消防博物館で撮影した。町火消の火の見櫓が深川江戸資料館内に再現されている(過去ログ)。

その後の火の見櫓


1894年(明治27年)に消防規則が制定され、公設の消防組が編成された。江戸から明治に時代は変わっても火の見櫓は木造のままであったが、明治の末頃からは鉄骨造の火の見櫓も建てられたようだ。が、大正から昭和初期はまだ大半は木造であった。


長野県東筑摩郡朝日村の木造の火の見櫓 撮影大正14年 

1939年(昭和14年)に消防組は警防団に改組され、1947年(昭和22年)には消防団令により市町村に消防団の設置が義務付けられた。それに伴い、この年警防団は廃止された。

その後、昭和30年代をピークに鉄骨造の火の見櫓が建設された。今現在目にするのはこの頃建てられた火の見櫓が圧倒的に多い。


*1 諸大名による大名火消が1643年(寛永20年)に組織化されていた。

*2 火消屋敷の所在地は「江戸の主要防火政策に関する研究 ― 享保から慶応までの防火環境とその変遷について ―」森下雄治、山崎正史(地域安全学会論文集 NO.19 2013.3)により、修正した。屋敷が江戸城の北西部に偏って置かれているのは、北西からの季節風の激しい冬季に火災が多発していたからだという。

*3 過去ログ 

*4 方丈記は方丈、すなわち1辺が約3mの四角い庵で書いたエッセイという意味。方寸という1辺が約3cmの菓子もある。過去ログ


 過去ログ加筆再掲


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