■ 9月21日付 信濃毎日新聞に上掲した見出しの記事が掲載されました。大きく紙面を割いた記事です。9月14日には同じ内容の記事が市民タイムスにも掲載されています。
新聞記事で紹介されていますが、10月1日の午前10時から穂高町区公民館で「まちの安全遺産 火の見やぐらを語る」という会が開催されます(主催:ココブラ信州実行委員会)。この会で火の見やぐらのミニ講座を計画していただきました。今、そのためのパワポをつくっています。
ここにこの火の見櫓について書いた過去の記事を再掲します(2019.12.03 一部省略)。
■ 櫓の踊り場に2m四方ほどの大きさの小屋を据えた火の見櫓。その小屋から上は見慣れた火の見櫓の姿ですが、下は火の見櫓というより、大きな送電鉄塔を思わせる姿です。小屋までは梯子ではなく、階段が設置されています。
穂高神社の近くに立つこの火の見櫓は、元々黒部ダムの建設工事(昭和31年着工、38年竣工)で、高瀬川骨材採取製造場(ここで採取した石を所定の大きさに砕いてコンクリートの骨材にしていました)に監視塔として立っていたことが安曇野のヤグラ―のぶさんの取材で明らかになりました。
ダムが完成して不要になった監視塔を旧穂高町(現在の安曇野市穂高)が払い下げを受け、昭和42年(1967年)に火の見櫓として移築して現在に至っています(この経緯についてはのぶさんが、当時の関係者にヒアリングをしてご自身のブログで記事にしています→こちら)。
何年か前、この火の見櫓の周辺をウォーキングするという企画がありました。で、この火の見櫓の小屋まで登ることができるということだったので、参加したのですが、残念ながら最終的に許可が下りなかったようで、当日は登ることはできませんでした。
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既に取り壊されてしまった古い建築の例えばタイル張りの外壁のごく一部が残されていれば、その「現物」を視ることでタイルのサイズや色、表面性状(テクスチャー)、成分、目地の幅や形状など、様々な情報を引き出すことができます。このことはタイル張りの壁片が建設当時の建築技術(タイルの焼成技術、職人の技・・・)を記憶している、と言い換えることもできるでしょう。
このような情報は、写真や文章からはなかなか引き出すことができません。「間接的な情報」からタイル張りの壁面を忠実に再現することは難しいのです。同じものを再現するためにはどうしても現物が必要です。
古い建物の保存には人びとの遠い過去の記憶に符合する風景を残したいという素朴ともいえる欲求に応えるという意味があり、それに加えて技術の確実な伝承という意義もあるのです。
江戸の前期、具体的には明暦の大火(1657年)によって都市防災という概念が生まれ、そのころ火の見櫓の歴史が始まったのですが、ここにきてその長い歴史に終止符が打たれようとしています。火の見櫓の後継として消火ホース乾燥タワーや防災無線柱が建てられ、火の見櫓が次第に姿を消しているのです。
「時代の流れ」だから仕方がないとあきらめてはいるものの、やはり寂しいです。穂高の火の見櫓は黒部ダムの建設という昭和の国家的な巨大プロジェクトに関わり、その後火の見櫓として穂高の街を見守り続けています。
この火の見櫓は近代産業遺産でもあり、地域の安全遺産でもあります。また、昭和30年代の櫓構造の技術を今に伝えてもいるのです。このままの姿でずっと立ち続けて欲しいと願っています。
火の見櫓が取り壊されること、それは街の記憶装置の喪失に他なりません。
初稿:2014.01.25
左:2014.04.25撮影 右:2019.05.26撮影