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■ 新書は中公。中公新書は総じて内容が濃い。図書カードで買い求めた7冊目の本(C7)は中公新書の『司馬遼太郎の時代 歴史と大衆教養主義』福間良明(2022年)。
『司馬遼太郎の時代』
1月14日付 信濃毎日新聞の書評面でこの本が**「一流」格上げまでの過程描く**という見出しで紹介されていた。赤上裕幸さん(防衛大学准教授)の書評は**「教養」の現在地を確かめるためにも必読の一冊である。**と結ばれている。この書評を読んで、買い求めた次第。
『司馬遼太郎の時代 歴史と大衆教養主義』で福間さんは多くの文献を参照しながら、司馬作品について、それから作品を受け入れた時代・社会について、実証的に論じている。各章で論ずるテーマが明確に決められていて、読みやすい論文のようだ。
参照文献がその都度文末に示され、その中に半藤一利さんの『清張さんと司馬さん』があった(写真下)。主要参考文献が巻末に掲載されているが、細かな活字で2段組でリストアップされた文献は8ページにも及ぶ。
『清張さんと司馬さん』
『司馬遼太郎の時代 歴史と大衆教養主義』については稿を改めることとし、以下半藤一利さんの『清張さんと司馬さん』について書く。上掲本巻末の文献リストには『清張さんと司馬さん』文春文庫、二〇〇五年となっているが、手元にあるのは下の写真の通り、NHKの「人間講座」という番組のテキスト。2001年の10月から11月にかけて9回放送された。放送時間が午後11時からと遅かったが、毎回見ていた。このテキストをベースにして文庫化されたものと思われる。
『清張さんと司馬さん』(NHK番組のテキスト)を昨晩(23日)読み直した。半藤さんは雑誌の編集者としてた松本清張と司馬遼太郎と長く接してきた方。。半藤さんは様々なエピソードを交えながら、数多くの作品を生み出した人気作家二人の人となりや作品について語っている。
松本清張にも司馬遼太郎にも歴史小説が何作もあるが、半藤さんはふたりの作品の違いについて次のように書いている。
**司馬さんの小説は、ということは歴史の見方ということになりますが、司馬さんの言葉を借りれば、歴史を上から俯瞰するように捉える。つまり、歴史を大づかみにして読者に示しながら、登場人物の活躍を描くことで、歴史のうねりを手に取るようにわからせる。この俯瞰的な見方が、司馬さんが歴史を語るときも、文明批評をするときにも、見事に適用されている。(中略)
しかし、清張さんは違った。清張さんは地べたを這うんです。草の根を分けるんです。大づかみではなく、ごちゃごちゃと微細に分け入るんです。読者が理解しようがしまいが、一切お構いなしのところがある。(後略)**(テキスト108頁)
鳥の目と虫の目、一般的によく言われていることではあるが、半藤さんは、ふたりの作家の歴史の捉え方の特徴を分かりやすく説いている。松本清張は帝銀事件や下山事件、松川事件など昭和時代のこの国の闇に入り込んで、『日本の黒い霧』は『昭和史発掘』などの大作を世に出した。対して司馬遼太郎は昭和をあまり書かなかった。
昨晩このテキストを再読していて次の件には驚いた。**結局、前回にふれましたように、清張さんのように、地べたを這うようにして血を流しながら、膨大な資料の山に分け入るほかはないんですね。昭和史は高みから俯瞰して明らかになるような部分はごくごく少ないような気がしてならないのです。**(テキスト119頁)半藤さんはこのように、松本清張の手法でないと昭和史は書けないと指摘している。
半藤さんは松本清張の取材旅行には同行したことがあるが、司馬遼太郎に同行したことはなかったという。テキストを読んで分かるのは、半藤さんと二人の作家との距離感。清張さんと司馬さん、ふたりの作家の呼び方にもそれは表れている。昭和史の半藤さんだから・・・。そして、テキストは松本清張が色紙によく書いたことばで結ばれている。**わが道は行方も知れず霧の中**