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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

掛川 Ⅲ

2019年11月09日 | 静岡県

(掛川宿本陣跡)

 

 本陣通り

 

 掛川宿は東海道二十六番目の宿場。天保十四年(1843)の記録によると、本陣二軒、旅籠屋三十軒等、九六〇軒の家があり、三四四三人が住んでいた。東海道が市街地を東西に走るが、街道らしい雰囲気は感じられない。本陣跡は「本陣通り」と呼ばれる飲み屋街となっている。

  

(大日本報徳社)

 

 

二宮先生像

 

 二宮尊徳が創始した報徳運動は、明治三十年代に全国各地で報徳社が結成され、全国に広がった。二宮尊徳自身が実際に掛川で報徳運動を指導・実践したわけではないが、掛川を中心とした遠州は特にその活動が盛んな地域であった。

 二宮尊徳から直接指導を受けた岡田佐平治、良一郎父子がリードし、明治八年(1875)、遠江国報徳社を創設した。

 大講堂(旧遠江国報徳社)は、我が国で公会堂と言われた最初の建物で、報徳社の中心拠点として明治三十六年(1903)に建設されたものである。正面に三条実美の篆額、金井之恭の書「報徳訓」が掲げられている。往時には講堂で報徳訓を唱和したという。

 

大日本報徳社 大講堂

 

 

報徳訓

 

無盡蔵

 

 講堂内には伊藤博文の書「無盡蔵」のほか、秋月種樹書「先聖殿」「先農殿」などが掲げられているほか、お馴染みの二宮尊徳像が置かれている。

 

 

二宮尊徳像

 

仰徳学寮(こうとくがくりょう) 

 

 仰徳学寮は、明治十七年(1884)、有栖川熾仁親王邸として建てられたもので、昭和十三年(1938)に仰徳記念館とともに移築された。

 

仰徳記念館 

 

 仰徳記念館は明治十七年(1884)、有栖川熾仁親王邸として建てられ、昭和十三年(1938)、大日本報徳社第四代社長一木喜徳郎(岡田良一郎の子・文部大臣、内務大臣、枢密院議長等を歴任)の尽力により、宮内庁より下賜、移築された。

 

(千浜)

 

伊能忠敬第四次測量隊宿泊地

 

 掛川市千浜(ちはま)の赤堀家は、江戸時代名主を務める家で、仁兵衛を名乗った。享和三年(1803)、駿河から尾張までの第四次測量時、三月二十日に当家に宿泊したことが当時の日記に記録されている。

 

(日坂宿)

 日坂(にっさか)宿は、江戸から五十四里。東海道二十五番目の宿場町である。三大難所の一つ「小夜の中山峠」の西の麓に位置し、「西坂」「入坂」「新坂」とも書かれた。天保十四年(1843)の記録によれば、家数百ろく十八軒、人口七百五十人とあり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠屋三十三軒があった。

 

 

本陣 扇屋

 

 日坂宿本陣の屋号は扇屋といい、代々片岡家が世襲で営んでいた。本陣の敷地は、およそ三百五十坪、建坪二百二十坪、門構・玄関付の広壮な建物であった。しかし、嘉永五年(1852)の大火で全焼、再建されたものの明治三年(1870)に本陣が閉じられた。その後、日坂小学校の敷地とされ、家屋は校舎として利用されたが現存はしていない。

 

 

日坂宿本陣跡

 

 

問屋場跡

 

 本陣から少し離れた旧街道沿いに問屋場跡がある。問屋場には、問屋・年寄をはじめ宿役の者が毎日交代で一人ずつ詰め、重要な通行があった時には全員で業務に携わった。当時の建物や遺構は現存していない。

 

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熱海 Ⅱ

2019年03月16日 | 静岡県
(うみのホテル中田屋)


伊能忠敬測量隊御一行宿泊の宿

 熱海駅から徒歩二十五分。伊豆山のうみのホテル中田屋の前に伊能忠敬測量隊一行が宿泊したことを示す木柱が建てられている。伊能忠敬一行がこの地に宿泊したのは、文化十二年(1815)十二月十七日のことであった。

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裾野 Ⅱ

2019年02月15日 | 静岡県


富士山

 裾野は、文字とおり富士山の裾野に位置する街で、至る場所から富士山の美しい姿を眺めることができる。

(荘園寺)
 裾野市御宿の荘園寺は、「江戸の訴訟」(高橋敏著 岩波文庫)の主役、湯山吟右衛門の菩提寺である。
 千福が丘の研修所から荘園寺まで歩いて四十分強。日の出前に研修所を抜け出し、ちょうど日の出時間に荘園寺に着いた。さすがに江戸時代を通じて代々この地域の名主を務めた湯山家歴代の墓域は、荘園寺の墓地の三分の一程度を占めている。


荘園寺

 吟右衛門は、文化五年(1808)閏六月、駿河国富士郡中比奈村(現・富士市比奈)の渡辺家の三男に生まれた。渡辺家はこの地域有数の豪農で、代々の当主が名主を世襲する家柄であったが、正確な年次は不明ながら、駿東郡御宿村(現・裾野市御宿)の下湯山家半七の養子となった。天保十三年(1842)、養父半七の死去にともない湯山家の当主となり、吟右衛門を名乗った。嘉永二年(1849)八月二十一日、御宿村にて無宿人惣蔵が殺害される事件が起こり、名主として吟右衛門はその訴訟のため奔走している。判決が下されたのは嘉永四年(1851)五月のこと。そこから、多額に及ぶ江戸訴訟費用の負担の落着に一年半を要した。無宿惣蔵変死事件の取り扱い不行届きにより一旦名主を罷免されたが、嘉永七年(1854)、再度名主に就任。それだけ声望の厚い人だったのであろう。文久二年(1862)、妻よしが五十一歳で逝くと、その半年後、あとを追うようにこの世を去った。行年五十五。


湯山家の墓
吟右衛門夫婦の墓は左から二番目


摂取院念譽佛生居士(湯山吟右衛門の墓)

 正面は吟右衛門と妻與志(よし)の戒名。側面には「當國冨士郡中比奈邑 文久二壬戌星 渡邉佐右衛門佳言(亨)次男湯山吟平保豐 行年五十五才」と刻まれる。吟右衛門はたびたび名を変えており、吟平もその一つである。「江戸の訴訟」によれば吟右衛門は渡邉佐右衛門の次男ではなくて三男だそうである。

(湯山家)
 御宿平山西交差点の北東の角に今も湯山家は存続している。通りに面して格式を感じさせる長屋門がどっしりと構えている。


湯山家長屋門
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河津 Ⅱ

2018年08月31日 | 静岡県
(長福寺)


長福寺

 愛知県東部の史跡を回った後、伊豆半島の河津まで足を伸ばして長福寺の鈴木長吉の墓を訪ねることにした。河津町には、新東名高速道路の長泉沼津ICから70キロメートル以上も南下しなくてはならず、とても遠い。


大量院願船良應居士
(鈴木長吉の墓)

 鈴木長吉は、文政元年(1818)、河津町浜で生まれた。船大工として腕を磨いた長吉は、浦賀の幕府造船所で洋式軍艦鳳凰丸や戸田で築造された戸田号の建造に関わり、安政二年(1855)、長崎海軍伝習所の第一期生に選抜された。安政四年(1857)には江戸築地の講武所内に設けられた軍艦操練所の職方に就いた。安政七年(1860)、咸臨丸の乗組員に選ばれ、艦長勝海舟以下、鈴藤勇次郎、小野友五郎、肥田浜五郎、ジョン万次郎、福澤諭吉らと太平洋を横断した。現地では、サンフランシスコのメア・アイランド海軍造船所にて咸臨丸のドック修理を担当した。維新後は工部省に出仕したが、明治五年(1872)二月、享年五十五で生涯を閉じた。長福寺長吉の墓の隣には、娘とよの小さな墓が置かれている。

 帰路は、東伊豆海岸を北上し、伊豆スカイライン、箱根ターンパイクを経て小田原に出て、小田原厚木道路に入った。厚木で激しい渋滞にまきこまれたが、三時間半程度で八王子に帰ることができた。

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浜松 Ⅲ

2018年08月31日 | 静岡県
(正寿院)


正寿院


八王子千人同心の墓

 浜松市浜北区の内野台という住宅街の中にある正寿院は、八王子同心ゆかりの寺である。
 慶應四年(1868)六月、幕府の軍事組織の一角を担っていた八王子千人同心千人隊に対し解隊を命じるとともに、新政府の臣下となるか(朝臣派)、駿河に領地を定められた徳川家に復帰するか(徳川随従派)、武士身分を捨てて農民となるか(帰農派)の選択を迫った。徳川家が配置替えを命じられた駿河七十万石では、三万二千人といわれる旧旗本、御家人を養うことが不可能であった。それでも千人隊頭(かしら)は全て徳川家への随従を希望し、隊士からも若干名が静岡移住の願いを出した。千人隊之頭の駿河移住は四期に分れて行われたとされる。静岡県における暮らし向きは苦しいものであった。結局、明治十年(1877)前後にはほとんどが帰郷し、徳川家への帰参の夢は水泡と帰した。正寿院には浜松で生涯を終えた八王子千人同心の墓が残されている。

(豊川稲荷)


豊川稲荷

 移住した八王子千人同心の人たちが勧請した豊川稲荷が、今も内野台の住宅街の片隅に残されている。
 千人隊士とその家族二百五十人余が入植した八丁谷(現・浜名ニュータウン)は人跡未踏の雑木林で、地元の農民も寄り付かないような土地であった。彼らは開拓の汗を流し、婦女らは一角にあった勧工場といわれる施設で縄やむしろ作りに従事した。しかし、三~四年後には半数が脱落し、リーダー格であった町田宮衛門正房も明治十一年(1878)に旧地八王子に戻る決断を余儀なくされた。

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2018年04月21日 | 静岡県
(原宿)


原宿本陣跡

 原宿といえば、渋谷区の原宿を思い出すが、実は東海道にも原宿がある。原宿は、東海道の 十三番目の宿場である。
 原駅を降りて、東海道を右手に進むと、本陣跡を示す石碑がある。原宿の本陣渡邊家は代々平左衛門家を名乗り、問屋、年寄、名主を務めた。現在も本陣跡には、渡邊家の表札が掲げられている。
 慶応三年(1867)韮山農兵の世話係を務めていた世古六太夫(三島宿本陣当主)は、箱根関所を破った薩摩藩邸の副留守居脇田一郎ほか二名を代官手代と協力して原宿一本松にて召し捕っている。

(帯笑園)


帯笑園

 原宿本陣跡の近く、浅間神社の向かい側辺りに帯笑園(たいしょうえん)がある。
 帯笑園は、素封家植松家の私園で、その名称は六代当主與右衛門秀英(蘭渓)の請いにより、漢学者海保青陵が命名したものである。作庭は戦国時代末期とも伝えられるが、江尾時代後期蘭渓の代にほぼ庭園全体の姿ができあがり、その後も代々の当主が花卉銘木の収集や園内の整備に努めてきた。前庭には、当時としては珍しい温室が設けられ、松や蘇鉄の盆栽や当時流行した珍しい品種や舶来の花卉類の鉢植えが並べられていたという。
幕末から明治期には街道一の名園と讃えられ、東海道を往来する大名、公家、文人などが訪れた。シーボルトもその紀行文の中で「私がこれまでにこの国で見たもののうちでいちばん美しく、鑑賞植物も非常に豊富である」と絶賛している。明治に入ってから伊藤博文も当園を訪れた記録が残る。
 その後、時代の変遷とともに、敷地は半分ほどに縮小し、貴重な植物も多くが失われてしまった。
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小山

2018年03月18日 | 静岡県
(冨士霊園)


中洲三島先生墓


三島家墓
自反而縮雖千萬人吾往矣

 小山町の冨士霊園は総面積六十四万坪という広大な広さを持つ霊園である。因みに青山霊園は七万九千坪。つまり青山霊園のざっと八倍の広さということになる。
 その北の端に団体家族墓苑と呼ばれる一角がある。そこに二松学舎の創立者三島中洲の墓が移設されている。

 三島中洲は、天保元年(1830)の生まれ。備中松山藩儒。十四歳の時、山田方谷に入塾し塾長となった。のち伊勢の碩儒斎藤拙堂に師事した。安政三年(1856)、帰郷して松山藩に出仕し、のち江戸に出て昌平黌に入って佐藤一斎らに学んだ。安政六年(1859)、松山藩校有終館会頭の傍ら藩政に参画した。明治元年(1868)、松山藩が岡山藩に包囲された時、方谷らと共に百方陳情し藩の存続を認められた。明治五年(1872)、司法省七等出仕。以降累進したが、明治十年(1877)辞官して漢学塾二松学舎(のちの二松学舎大学)を創設した。以来、講学と民法成立に尽くした。東京高等師範学校教授、東京帝国大学教授、東宮御用掛、宮中顧問官等を歴任した。大正八年(1919)、年九十で没。
 中洲の墓は、かつて東京目黒の三島家の邸内にあったが、冨士霊園に移された。

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由比 Ⅱ

2018年03月18日 | 静岡県
(薩埵峠)


薩埵峠

 現在、薩埵峠の眼下の海岸には、東名高速道路と国道1号線、それにJR東海道線が絡み合うように走っている。この場所に空間が生まれたのは安政の大地震により土地が隆起したからで、それ以前は海岸線を通行することはできず、東海道は峻険な薩埵峠を越えなくてはならなかった。ここから臨む美しい富士山の姿は、旅人の疲れを癒したことであろう。
 一説に文久元年(1861)の和宮一行は、音が「去った」に通じる薩埵峠を避けて中山道を選んだともいわれる。当時、女性は川越えが少ない中山道を通行するのが一般的で、和宮一行もそれにならっただけかもしれない。


水仙

 薩埵峠周辺はみかん畑となっており、所々水仙が可憐な花を咲かせていた。やはり天気が良いときに訪れたい場所である。

(西倉沢)
 薩埵峠の麓にある西倉沢は、由比と興津の「間の宿」で、十軒ばかりの休み茶屋があり、旅人はここでお茶を飲みながら駿河湾の風景を愛でた。
 茶店を営む柏屋は、明治元年(1868)と明治十一年(1878)、明治天皇御東幸の際、小休所に当てられた。


明治天皇御小休所跡
間の宿 脇本陣 柏屋

(望嶽亭藤屋)
 今回の静岡遠征の眼玉は、望嶽亭藤屋である。普段、ここで生活してる人はいないので、前もって電話予約しておかなくてはならない。
 私がここに着いた時、ちょうど御当主夫人とボランティアの方も到着されたところで、早速中にご案内していただいた。


望嶽亭藤屋蔵座敷

 かつて藤屋は旅人にアワビやサザエを食べさせる茶屋であった。旅人はここから富士山と駿河湾の風景を見ながら舌鼓をうったのである。安藤広重が、望嶽亭藤屋を描いた浮世絵を残している。
道路に面した入口は実は二階である。そのまま同じ階に土蔵の入口が繋がっており、その扉を開けると山岡鉄舟が匿われたという蔵座敷がある。
慶應四年(1868)三月七日、駿府の官軍総督府を目指す山岡鉄舟は夜陰に紛れて薩埵峠越えを試みたが、官軍の守りが堅いことから引き返し、藤屋で漁師に変装して海上を駿府へ向かった。この時、武器を所有していると怪しまれるため、両刀とピストルを藤屋に残した。
この時のピストルが今も藤屋に伝えられている。このピストルは、フランス公使ロッシュが徳川慶喜に贈ったもので、将軍名代として駿府に赴く鉄舟に慶喜が与えたものとされる。ボランティアの方のご説明によれば、この廻轉式十連発ピストルを図面に写してフランスに照会したところ、今もその会社は存続しており、間違いなく慶喜に贈られたものであると証明書が返送されてきたという。
 ほかにも山岡鉄舟像(鉄舟寺にある座像のミニチュア)や鉄舟の書など見どころが山盛りである。


山岡鉄舟が所持した拳銃


山岡鉄舟像


隠し階段

 蔵座敷の一角の畳をのけると、その下に板間があり、それをスライドさせると階下に通じる階段が現れる。藤屋は斜面に建てられているため、海岸側が二階建てになっている。鉄舟はこの隠し階段を経て一階に降り、ここから海に出たのである。


平和厚温
(鉄舟居士の書)
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清水 Ⅲ

2018年03月18日 | 静岡県
(龍津寺)
 小島陣屋に近い龍津寺(りょうしんじ)に三橋虎蔵の墓を訪ねた。墓地には古い墓が並んでおり、この中から三橋虎蔵の墓を探し当てるのは、難航が予想されたが、墓地の一番奥で出会うことができた。


龍津寺


三橋虎蔵之墓

 三橋虎蔵は、江戸で心形刀流剣術を修め、幕府の開いた講武所で教授を務めた。父は三橋斧右衛門といい、実弟に伊庭軍兵衛秀業(伊庭八郎の父)がいる。つまり虎蔵と伊庭八郎は従兄弟の関係である。伊庭八郎の残した「伊庭八郎住征西日記」にもたびたび登場する。遊撃隊頭取。維新後は静岡に移住した。

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静岡 Ⅷ

2018年03月18日 | 静岡県
(静岡浅間神社)
 天気予報では曇り後雨と繰り返し言っていたので、この日の静岡遠征は延期しようかと随分迷ったが、半分雨に濡れることを覚悟で決行した。実際には雨どころか快晴で、おまけに上着が要らないくらいの陽気となった。快適な旅を楽しむことができた。
 最初の目的地は、前回探し当てられなかった静岡浅間神社の関口隆吉顕彰碑である。


静岡浅間神社


大歳御祖神社

 関口隆吉の顕彰碑は、浅間神社境内の大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)側にある。文化財資料館の横は石碑の森となっており、関口隆吉顕彰碑のほかにも、丸尾文六(実業家・製茶業で財を成し、県会議員のちに衆議員議員)、奥川求馬(藤枝市五平出身・静岡県検疫医としてコレラ撲滅に尽力)、澤井敬高、阪本藤吉(島田市伊久見出身・製茶技術向上に尽力)の顕彰碑が並ぶ。


従三位關口君之碑

 関口隆吉は、幕臣出身で初代静岡県知事。清廉な人柄で知られた。明治二十二年(1889)五月、愛知県招魂祭に出席途上、列車事故により負傷し、この傷がもとで死亡した。五十四歳であった。


澤井軍曹之碑

 澤井敬高は、金谷町出身。西南戦争で活躍した。

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