(掛川宿本陣跡)
本陣通り
掛川宿は東海道二十六番目の宿場。天保十四年(1843)の記録によると、本陣二軒、旅籠屋三十軒等、九六〇軒の家があり、三四四三人が住んでいた。東海道が市街地を東西に走るが、街道らしい雰囲気は感じられない。本陣跡は「本陣通り」と呼ばれる飲み屋街となっている。
(大日本報徳社)
二宮先生像
二宮尊徳が創始した報徳運動は、明治三十年代に全国各地で報徳社が結成され、全国に広がった。二宮尊徳自身が実際に掛川で報徳運動を指導・実践したわけではないが、掛川を中心とした遠州は特にその活動が盛んな地域であった。
二宮尊徳から直接指導を受けた岡田佐平治、良一郎父子がリードし、明治八年(1875)、遠江国報徳社を創設した。
大講堂(旧遠江国報徳社)は、我が国で公会堂と言われた最初の建物で、報徳社の中心拠点として明治三十六年(1903)に建設されたものである。正面に三条実美の篆額、金井之恭の書「報徳訓」が掲げられている。往時には講堂で報徳訓を唱和したという。
大日本報徳社 大講堂
報徳訓
無盡蔵
講堂内には伊藤博文の書「無盡蔵」のほか、秋月種樹書「先聖殿」「先農殿」などが掲げられているほか、お馴染みの二宮尊徳像が置かれている。
二宮尊徳像
仰徳学寮(こうとくがくりょう)
仰徳学寮は、明治十七年(1884)、有栖川熾仁親王邸として建てられたもので、昭和十三年(1938)に仰徳記念館とともに移築された。
仰徳記念館
仰徳記念館は明治十七年(1884)、有栖川熾仁親王邸として建てられ、昭和十三年(1938)、大日本報徳社第四代社長一木喜徳郎(岡田良一郎の子・文部大臣、内務大臣、枢密院議長等を歴任)の尽力により、宮内庁より下賜、移築された。
(千浜)
伊能忠敬第四次測量隊宿泊地
掛川市千浜(ちはま)の赤堀家は、江戸時代名主を務める家で、仁兵衛を名乗った。享和三年(1803)、駿河から尾張までの第四次測量時、三月二十日に当家に宿泊したことが当時の日記に記録されている。
(日坂宿)
日坂(にっさか)宿は、江戸から五十四里。東海道二十五番目の宿場町である。三大難所の一つ「小夜の中山峠」の西の麓に位置し、「西坂」「入坂」「新坂」とも書かれた。天保十四年(1843)の記録によれば、家数百ろく十八軒、人口七百五十人とあり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠屋三十三軒があった。
本陣 扇屋
日坂宿本陣の屋号は扇屋といい、代々片岡家が世襲で営んでいた。本陣の敷地は、およそ三百五十坪、建坪二百二十坪、門構・玄関付の広壮な建物であった。しかし、嘉永五年(1852)の大火で全焼、再建されたものの明治三年(1870)に本陣が閉じられた。その後、日坂小学校の敷地とされ、家屋は校舎として利用されたが現存はしていない。
日坂宿本陣跡
問屋場跡
本陣から少し離れた旧街道沿いに問屋場跡がある。問屋場には、問屋・年寄をはじめ宿役の者が毎日交代で一人ずつ詰め、重要な通行があった時には全員で業務に携わった。当時の建物や遺構は現存していない。