史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

トーク・イベント「幕末の漢詩人・大沼枕山の世界」 台東区立中央図書館 郷土・資料調査室主催

2019年02月22日 | 講演会所感
台東区立中央図書館にて企画展「幕末・明治の漢詩人 大沼枕山」が開催されている(平成三十年十二月二十一日~平成三十一年三月十七日)。これに合わせて、二月二日、トーク・イベントが開かれると知ったので、早速申し込んだ。応募多数の場合は抽選になると予告があったが、幸いにして当選したとの通知をもらうことができた(さほど人気のあるイベントとも思えないので、特に激戦ではなかったと思われる)。
会場である台東区立中央図書館は、一階に地元出身の作家池波正太郎記念文庫を併設している。トーク・イベントが始まる前に池波正太郎記念文庫を拝観した。池波正太郎は、言うまでもなく高名な歴史小説家であるが、同時に随筆家、美食家としても知られ、映画評論家としても筆を振るった。記念文庫には、たくさんの自筆絵画が展示されており、改めて池波正太郎の常人離れした多芸多才ぶりを実感することができる。
トーク・イベントの前に二階の郷土史料コーナーに立ち寄り、短時間であったが企画展を見た。展示じたいはごくわずかなものであったが、その後のトーク・イベントで引用・解説された資料もあったので、事前に見ておいて正解であった。


台東区立中央図書館

大沼枕山ときいてピンと来る人も少ないだろう。
トーク・イベントに登壇した国立国会図書館司書の大沼宜規氏(枕山と血縁はないそうです)によれば、『日本漢詩翻訳索引』に掲載されている漢詩の掲載数のランキングは、以下のとおりとなっている。1.頼山陽 2.菅茶山 3.藤井竹外 4.森春涛 5.絶海中津 6.成島柳北 7.大沼枕山 8.梁川星巖 9.菅原道真 10.柏木如亭。五位の絶海中津は室町時代の禅僧、十位の柏木如亭は頼山陽より少し前に活躍した漢詩人である。こうしてみると、我が国において、漢詩が幕末から明治期に隆盛を迎えたことが分かる。その中にあって、大沼枕山は、十代のときから下谷吟社(同人サークル)を主宰し、天保の人名録に早くも名が現れる名士であった。枕山は天保年間から明治までの人名録に継続して登場する稀有な人物であるという(台東区立中央図書館 郷土・資料調査室専門員 平野恵氏)。残された門人録によれば、門人は全国に広がる。書簡を通じて、秋月種樹、徳川家達、松平春嶽といった華族、勝海舟、楫取素彦、杉孫七郎ら政治家、岩崎弥之助、高島嘉右衛門、安田善次郎ら実業家、岡本黄石、杉浦梅潭(誠)、向山黄村といった学者・詩人ら、広い交遊関係をもっていたことが分かる。幕末から明治という時代を代表する漢詩人であった。
枕山は、生涯丁髷をきらず、東京のことを江戸と呼んでいた。開化政策には心底賛同できなかったのであろう。交友範囲を見ても、いくらかは明治政府の高官の名前も見られるが、少なくとも薩閥とは縁がなかった。顕官に取り入るようなことは苦手だったようである。
大沼宜規氏提供の配付資料によれば、幕末明治期の漢詩は次のとおり評価されている。
――― 文学史上の空白の時代ともいうべき幕末から明治十年代にかけての低迷・混乱期に、唯一、文学の高みを支え、近代文学誕生の基盤を培ったのは漢詩である(尾形仂『漢詩人たちの手紙 大沼枕山と嵩古香』
――― 漢詩は、明治時代中期をもって、時代の生き生きとした人間精神を盛り込む具としての役割を終了した(日野龍夫『江戸詩人選集』第一〇巻)
確かに幕末から明治初期の知識人の漢文・漢詩力は現代人を遥かに超越している。志士たちは漢詩の世界に精通していた。酒がまわり、興がのると漢詩を熱唱した(その最たる例が藤田東湖の「正気の歌」であろう)。己の気持ちを表現するのは和歌か漢詩であった。当時の知識人は、漢文で清国人とコミュニケーションできたというし、彼らが交わした書簡も漢文調であった。
枕山の継嗣鶴林は、枕山以上に知名度は低い。枕山の長女嘉年を娶り、大沼家を継いだ人である。枕山に見込まれただけあって、漢詩の力でいえば枕山にひけをとらないであろう。にもかかわらず、生活は苦しかったようで、多くの就職斡旋依頼を断られた書簡が残っている。
幕末から明治にかけて隆盛を極めた漢詩であったが、枕山の死後、明治三十年代以降、急速に衰微したのである。
これも大沼宜規氏提供の配付資料から。
――― (明治三十年代以降)(国分)青涯は碁に暮れ、(森)槐南もやがて没し、詩壇の牛耳を執る者もなく愈々衰えていった(三浦叶『明治漢文学史』)
――― 明治二十年代後半以降、(中略)漢詩は、抜きがたい擬古性を持つ文芸とみなされるようになる
――― 社会的に大きな勢力を持ったメジャーな文芸から、少数の愛好者たちによって支えられるマイナーな文芸へと、漢詩の位置づけはかわってゆくのである(合山林太郎『幕末・明治期における日本漢詩文の研究』)
盛名を誇った枕山であったが、今では「知る人ぞ知る」という存在になってしまった。それは現代における漢詩の位置づけとも同機しているのである。

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「彰義隊の上野戦争~明治150年に考える」 彰義隊子孫の会創立記念 市川総合研究所主催シンポジウム

2018年12月28日 | 講演会所感
九月の会津史跡旅行でご一緒したSさんからこのシンポジウムを紹介いただき、前々からこの日を楽しみにしていた。午前中は市川で野球の練習試合があり、珍しく接戦の末勝利を収めた。試合が終わったら市川の駅前でラーメンをかきこんで、急いで会場である東京大学安田講堂に駆け付けたが、結果的にはそれほど急がなくても十分間にあった。


東大安田講堂

 受付で入場料二千円を支払う。受付ではSさんが忙しそうに働いていた。挨拶だけを交わして、直ぐに会場に入った。この手のシンポジウムや講演会で二千円というのは、少々高い印象をぬぐえないが、盛沢山の中身を知れば納得のお値段であった。

まず長唄の実演があり、続いて八人のパネリストによるパネルディスカッションがあり、さらに川柳で彰義隊を供養しているという台東川柳人連盟の活動紹介があり、最後に天心流兵法の演武奉納がありと、やや詰め込み過ぎといって良いほど充実したプログラムであった。
最初の長唄は、彰義隊士関弥太郎が維新後岡安喜平次を襲名し、長唄岡安派を興した。岡安喜平次ゆかりの長唄「楠公(なんこう)」の実演である。演奏は三味線だけでなくお囃子を伴う、賑やかで劇的なもので、邦楽としては極めてエンターテインメント性の高いものということができよう。それでも、リズムの変化が乏しく、和音や変奏もない長唄は、退屈なものである。
幕末外国人が来航した時、日本人は邦楽でもてなしたが、もてなされた外国人はのちに「苦痛だった」と振り返っている。西洋音楽に馴染んだ耳には邦楽は耐えがたいものである。
私はどちらかというと「日本が大好き」な人間であるが、こと音楽に関しては我が国の伝統的音楽は、西洋の音楽に全く叶わないと思う。
パネルディスカッションは、「彰義隊と上野戦争」を知るために、考えられる最高の八人をそろえたのではないかと思わせる顔ぶれであった。その八人とは、浦井正明(寛永寺長臈、台東区教育委員会委員長)、桐野作人(薩摩出身の作家)、小林達夫(映画監督、彰義隊を題材にした映画「合葬」製作)、星亮一(言わずと知れた会津史観を代表する作家)、森まゆみ(作家、「彰義隊遺聞」など)、森田健司(大阪学院大学教授、「明治維新という幻想」「西郷隆盛の幻影」など)、山本栄一郎(山口県在住、大村益次郎研究家)、山本博文(歴史学者)。それぞれ十五分ほどの持ち時間で、彰義隊と上野戦争に対する思いの丈を話されたが、本来軽く一時間くらいは話す内容を持っている人たちがわずか十五分という短時間に制約されてしまうというのは、最初から無理があったかもしれない。
ゴリゴリの「会津史観」の星亮一氏や歴史の見方に偏りのある森田健司氏と、薩摩派の桐野作人氏、大村益次郎研究家の山本栄一郎氏が、ガチンコでパネルディスカッションをすれば、殴り合いの喧嘩になっても不思議はないが、そこはさすがに皆さん大人で、この場であまり極論を吐くような場面はなかった。
桐野氏によれば、激戦となった黒門口では、薩摩藩の猛攻が突破口となったといわれるが、実際には薩軍は相当追い込まれていた。黒門口突破の契機となったのは、意外にも「雁鍋」から彰義隊の砲隊を狙撃した藤堂藩兵だったという。
森田健司氏については、私も氏の著作を読んだことがあるが、あまりに偏向した内容に今後二度と氏の本を読むまいと思ったものである。しかし、この日の話は、氏得意の風刺錦絵に限ったものであり、面白く聞くことができた。当時の錦絵を通じて、彰義隊や当時の動きを庶民がどのようにとらえていたのかを知ることができる。
山本栄一郎氏は、大村益次郎研究の第一人者として知られる。大村益次郎は戦争好きだったとか、西郷隆盛と仲が悪かったとか、いわゆる「俗説」を次々と否定する。大村益次郎といえば、「豆腐好き」で知られるが、「豆腐ばかりでは身がもたない。実は豚鍋も好物だった」という。氏は「幕末の仕事師「村田蔵六」―大村益次郎」を上梓されている。今日の話を聞いて読んでみたいと思ったが、amazonでも見付けられなくて入手が難しい。
ほかにも森まゆみ氏の「彰義隊遺聞」が近々再刊されるとか、小林達夫監督が「合葬」(原作は杉浦日向子の漫画)を映画化したとか、貴重な情報をたくさん得ることができた。会場は六~七割の入りだったが、もっと多くの人に来てもらいたいシンポジウムであった(平成三十年(2018)十二月二日)
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「幕末維新よもやま話」 杉山正司(前埼玉県立文書館長) 玉井幹司(物流博物館学芸員) 井上卓郎(郵政博物館長) 郵政博物館主催

2018年05月26日 | 講演会所感
 東京ソラマチの郵政博物館でも、明治百五十年に因んで「幕臣たちの文明開化」展が開催されている(平成三十年(2018)四月二十日~七月一日)。これを記念して五月十九日、トークセッション「幕末よもやま話」が開催された。「よもやま話」といっても、そこは郵政博物館なので、郵便とか物流といったところが主なテーマである。
 前埼玉県立文書館長杉山正司氏、物流博物館学芸員玉井幹司氏、郵政博物館長井上卓郎氏という三名の方が、それぞれの視点で、明治から幕末で起きた「断絶」と「連続性」を解説され、誠に興味深いものであった。
なお、事前にアナウンスされた時間は十四時から一時間ということであったが、終わったのは十五時半であった。よく言えば、お話いただいた三名の先生のサービス精神の表れということかもしれないが、一般企業でプレゼンがこれだけ長引いたら、お偉いさんからお叱りを受けるか、途中で打ち切られても文句をいえないところである。
一般的に、我が国の近代郵便事業(全国一律料金制度・誰でも利用ができ、切手による前納制度)は前島密が欧米の郵便事業をモデルに取り入れたとか、それまでの飛脚が走って書簡を運ぶといった江戸時代の仕組みを否定して、真新しい制度を導入したといったイメージで語られることが多い。確かに、駅馬車が街道を走る様子や、郵便配達夫が洋服を着用している姿が当時の錦絵に残っており、明治維新を境に郵便のイメージがガラッと変わったのは事実である。
しかし、前島密が郵便制度創設を建議したのは明治三年(1870)のことで、その後同年初めての渡英。その時、前島は大蔵省租税権正が主務で、イギリスでの視察も現地の租税制度や借款契約を結ぶことが主目的だったといわれる。もちろん現地の郵便制度も調査したが、飽くまで副次的目的であった。
この日のトークセッションで強調されていたのは、我が国の近代郵便事業は、江戸時代に整備された街道であったり、それを活用した飛脚のネットワークがそのまま活かされたということである。玉井氏によれば、概ね十八世紀の半頃から後半には全国的なネットワークが完成されていたという。飛脚は江戸、京都、大阪に飛脚問屋が店を持ち、宿場ごとに取次所があり、そこに集配等を委託していた。幕末には高騰してしまったが、それまでは江戸から大阪へ書簡を届けるには二十文(ソバ一杯が十六文の時代)という比較的安価な料金で、しかもおよそ十数日で届くという仕組みが出来上がっていたのである。江戸時代の街道網と郵便の路線はほとんど一致している。江戸時代の仕組みをそのままリユースしたから、短期間で郵便事業を立ち上げることができたのである。
ただし、飛脚のネットワークに致命的に欠けていたのは、外国に郵便物を届ける仕組みであった。それまで我が国では、各国がそれぞれ郵便局を持ち、日本でもそれを使って海外に書状を届けるしかなかった。他国と通信を行うには、近代郵便制度が不可欠であった。近代郵便事業の整備を急いだ日本は、明治六年(1873)には、日米郵便交換条約の締結にこぎ着けることができた。
 期待以上に充実した内容で、アッという間の一時間半であった。この後、嫁さんと娘と食事に行く約束をしていたので、終了時間が気になってしようがなかった。最初から一時間半と通告していただければ、もっと良いトークセッションになったと思います。

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「国立公文書館 春の特別展記念講演会」 羽賀徹 ロバート・キャンベル 主催国立公文書館

2018年04月28日 | 講演会所感
去る四月八日の日曜日、国立公文書館の春の特別展記念講演を拝聴した。この講演会は事前に申し込んで抽選で通らないと参加できないものである。幸いにして開催の十日ほど前に当選の連絡があった。
会場は竹橋の一橋大学一ツ橋記念講堂。空席がないほどの盛況であった。東京大学名誉教授芳賀徹先生の「福沢諭吉の見た幕末維新」と国文学研究資料館長ロバート・キャンベル先生の「文学の中で「国を開く」ということについて」という二本立てである。
芳賀先生によれば、福沢諭吉は徹底した文明礼賛者、近代主義者だという。昨日より今日が良い。来年はもっと良くなる。常に前進する。これこそが文明である。その論調からすれば、明治政府の進める開化路線には大賛成で、旧体制には批判的である。江戸時代を滞留・停頓の時代ととらえ、「精神の奴隷」という言葉を使って痛烈に批判している。そして、その原因を儒学教育に求めている。そういう福沢が、「丁丑公論」において、叛乱を起した西郷隆盛を擁護したのは、やや不思議な印象を受ける。
中津藩の下級藩士の出身であった福沢諭吉が、幕末遣外使節団に参加し、西欧の文明に接することが出来たのは、勿論当人の資質や能力もあっただろうが、何よりも出身にかかわらず柔軟に人材を登用した幕府の姿勢にもあったわけで、多少は徳川幕府に恩義を感じても良さそうなものである。福沢は個人的には木村芥舟には終生厚い恩義を抱き続けていたが、ここでは私情を抜きにして旧体制に容赦ない批判を浴びせている。
この日の講演会の資料として提示(当日コピーが配付)されたのは、「大槻磐水(玄沢)先生五十回追遠文」である。芳賀先生が「希代の名文」と絶賛する漢文調の文章で、儒学旺盛の時代にあって、敢えて蘭学を志した先人を称賛するものである。この時(明治九年)この式典には、幕府に仕えた蘭学者が多く出席しており、彼らを前にして幕府批判はできなかっただろう。むしろ蘭学興隆を支えた徳川政権には好意的な印象を受ける書き振りである。列席者には旧幕府系の錚々たる顔触れが名を連ねている。以下その面々。
 杉田玄端 神田孝平  桂川甫周 加藤弘之
 宇田川興斎 津田真道  竹内玄同 西 周
 林洞海 大鳥圭介  松本順 西村茂樹
 伊東方成 中村正直  戸塚文海 箕作秋坪
 林 糺 川本清一  石川良信 福澤諭吉
 緒方維準 伊藤圭介  佐藤尚中 田中芳男
 坪井信良 宇都宮三郎  高松凌雲 勝安房
 レイホルト 成島柳北  ニコライ 福地源一郎
 岸田吟香
その中の一人「川本清一」のことを、芳賀先生は川本幸民のこととおっしゃっていたが、この時点で既に幸民は世を去っている。川本清一は幸民の次男である。
ロバート・キャンベル先生は、普段あまり着目されない数々の資料を紹介しながら、多面的に時代をとらえることの重要さを説かれた。キャンベル先生がこの講演で紹介された、司法省書記官が残した「民権大意」、高見沢茂の「東京開化繁盛記」、書家関雪江の貼混帳、横浜毎日新聞の投書欄「記夢」など、ほとんど見向きもされないような史料に、当時を生きた人々が時代をどうとらえ、何を感じながら生活していたかを見出すことができる。非常に新鮮で面白い視点であった。

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東京農業大学創立125周年記念シンポジウム「創設者榎本武揚を再評価する」 主催 東京農業大学 日本経済新聞社クロスメディア営業局

2016年10月29日 | 講演会所感
新聞に東京農業大学創立125周年記念「創設者榎本武揚を再評価する」シンポジウムの広告を発見し、早速申し込んだ。申し込んだ時点では受講できるかどうかは不明で、確定すればメールで受講券が送られることになっていた。特にくじ運が強い方ではないので、半ば諦めつつ期待せずに待っていたところ、一週間前になってメールが届いた。会場である日経ホール(千代田区)は八割程度の入りであった。午後一時に始まり、午後六時に終わるという長時間、しかも講演が四本とパネルディスカッションという濃密な構成で、さすがにオシマイまで聞き通すと疲れた。ただし、最後まで残っていると、東京農大特製のジャムと榎本武揚が留学先のオランダから持ち帰ったレシピをもとに復元された石鹸をお土産としてもらえるのである。これが効いたのか、途中で会場を抜けた方は少なかったように思う。
榎本武揚というと、箱館政権の総帥というイメージが強いが、その後、明治政府に仕え、逓信大臣や文部大臣、農商務大臣などを歴任している。この日、最後の講演で東京農大の高野克己学長が、榎本武揚は①武士②政治家③外交官④技術者⑤教育者⑥国際人⑦科学者という7つの顔を持ち、それぞれの分野で才能を発揮した万能人だと紹介されていたが、まさにそのとおりである。一方でシンポジウムの質疑応答で、聴衆の一人が質問されていたようにその功績の割に過小評価されている。この質問に対し、パネラーのお一人である同大学の黒瀧秀久氏(生物産業学部長)が「箱館戦争で生き残ったことが『命を惜しんだ』とされていること、加えて福沢諭吉の『痩せ我慢の説』に代表されるように二君にまみえたことが不人気の理由だろう」とコメントされていた。「敗者の精神史をもっと学ぶべき」という発言に期せずして会場から拍手が起こった。
大学の創設者を再評価しようというシンポジウムなので、登壇者は口々に榎本武揚を賞揚したが、これで本当に再評価したことになるのだろうか。高野学長のいう7つの顔のうち、少なくとも武士(軍人)としては成功しなかったのではないか。箱館戦争の敗戦の責任はそのトップである榎本が負わなければならないし、江差沖で開陽丸を沈没させてしまったことや、宮古湾海戦の失敗など、榎本武揚のリスクマネジメント不足が招いた失策である。軍人として全く無能だったと言いたいわけではない。本来であれば派手に箱館に乗り込みたいところ、鷲ノ木から上陸させ被害を最小に食い止めた判断は非常に的確だったと思う。
冒頭の基調講演は、北海道出身の作家の佐々木譲氏による「私の榎本武揚」。佐々木氏は、文庫本上下二巻に及ぶ「武揚伝」を上梓しており、さらにその後の研究成果を反映して、近年「決定版 武揚伝」を出した方で、榎本武揚への思い入れは並大抵ではない。作家がひとりの歴史上の人物を小説の主人公に選ぶとき、生半可な思いでは書けないだろう。佐々木氏が榎本武揚に惚れこんでいるのはよく分かったが、「榎本武揚の生涯を描けば幕末から明治にかけての日本の近代史を書くことができる。そのような人物は榎本武揚をおいてほかにいない」という発言には少々違和感を覚えた。榎本の前半生を描いても、幕末の複雑な政局は見えてこない。むしろ大久保利通や伊藤博文の方が「日本の近代史」への関与の度合いは高いと思うが…。
佐々木氏は、蝦夷共和国「幻説」に異論をとなえる。当時、英書記官アダムスが榎本政権のことをRepublicと表わし、米副領事ライスもEzo Republicと記述したことがその根拠となっているが、そのことをもって欧米各国が公式に榎本政権を独立した共和国とみなしたかどうかはもう少し検証が必要であろう。さらにいえば本当に我々がイメージする「共和国」であったかどうかという点についても議論がある。入れ札(選挙)によって総裁以下の役職が決められたことを以って「共和国」とされているが、榎本が自ら共和国と主張したことはないし、いずれは徳川家から盟主を迎え入れようという意思を持っていたというから、彼が決して今日的な意味でいう共和国を目指していたとは思えない。
この日、二人目の講演者は、榎本武揚の曾孫榎本隆充(たかみつ)氏である。飄々とした語り口ながら、先祖への敬意の感じられるお話しであった。隆充氏は明治八年(1875)の千島樺太交換条約の締結に際して、榎本は全権を委任されたと強調されていたが、とはいえ千島と樺太を交換するといった重大事は榎本一人が決められる案件ではなく、事前に政府との下打ち合わせがあって条約締結に結びつけたのだろう。千島樺太交換条約の締結を榎本個人の功績とするのは違和感があるが、いずれにせよ、榎本の本領は武人・軍人より、外交官や政治家としての手腕にあったのだと思う。
続く登壇者は、田坂広志氏(多摩大学大学院教授)。「天才と凡人の違いは、あと五分頑張れるかどうか」「戦争・大病・投獄を経験することは脱皮のチャンス」「人は必ず死ぬ、人生は一回しかない、人は何時死ぬか分からない」「だけど人生の密度は己で決められる」「思想・ビジョン・志・戦略・戦術・技術・人間力という七つの知性を統合するのが垂直型天才(榎本は垂直型天才の典型)」「才能とは人格である」「野心と志は違う」と面白い話が続いたが、基本的に榎本武揚について論じたというよりは、田坂氏の御高説を賜ったという印象が強い。
次に「榎本武揚の実業精神と国利民福」と題して、三名のパネリストが登壇した。榎本武揚が官営八幡製鉄所の開設に深くかかわっていたとか、東南アジアの植民地解放運動にも熱心だったという話も興味深かったが、個人的にはメキシコへのエノモト移民の存在がもっとも興味をひいた。しかし、スピーカーである山本厚子氏(フリージャーナリスト、スペイン語通訳)の句読点の無い、一体何時話が尽きるのか見えないような話し振りが惜しまれる。時間的な制約がある中、もう少しポイントを絞ってお話しをされたら、もっと聴衆も耳を傾けたであろう。
さて、お土産に頂戴した復元石鹸であるが、現代の石鹸には当たり前に使用されている香料が含まれていない(その代わりに米ぬかが使われているらしい)。だから、石鹸特有の良い香りはしない。榎本隆充氏によれば、その代り、「幕末・明治の香りがする」のだそうな。

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「大久保利通資料に関するあれこれ」 樋口雄彦 国立歴史民族博物館

2015年11月28日 | 講演会所感
佐倉市の国立歴史民俗博物館で、「大久保利通とその時代」展が開かれている(平成二十七年(2015)十月六日~十二月六日)。八王子の自宅からJR中央線にて御茶ノ水に出て総武線に乗り換え、千葉駅経由佐倉で下車して、そこからバスで博物館の前に降りた時、ちょうど自宅を出て三時間が経過していた。いやはや佐倉は遠い。
展示されている史料は、当博物館が所蔵していた三千点に加え、今般新たに大久保家から三千五百点が寄贈され、その中から選りすぐった約百六十点である。これを見れば、幕末から明治初期にかけて、あらゆる場面に大久保利通が関与していたことが見てとれるであろう。
ついでにいえば、展示されている流麗な崩し文字は、ほとんど解読できなかった。やはり入門書を一冊読んだだけではまだまだ十分ではないということである。
当日、十三時から二時間にわたって、当館研究部歴史研究系教授樋口雄彦氏の講演があった。少しは早めに会場に行ったつもりであったが、入場無料ということもあり、ほとんど空席がないほどの盛況であった。
樋口先生のご専門は日本近代史であるが、どちらかというと興味の対象は幕府・幕臣である。たとえば、私がかつて読んだ本の中に、樋口先生の「第十六代徳川家達」(祥伝社新書)がある。壇上の先生は、随分お若く見えたが、あとで調べたら私と同い年であった。
本日の講演は大久保の書簡を通じて、勝海舟と薩摩藩の関係、内務省への旧幕臣の登用などにフォーカスしたものであった。講演の中で何度も、
「大久保利通その人に関心のある方には期待外れかもしれませんが…」
と申し訳なさそうにおっしゃっていたが、個人的には非常に興味深い内容で、あっという間の二時間であった。
冒頭紹介された史料はいずれも薩摩藩士折田要蔵が大久保に宛てた書簡である。一点目の史料の日付は元治元年(1864)三月となっている。この時期、薩摩藩と幕府の関係は、表向きは敵対しておらず、島津久光の建議により、幕府と共同で摂海防備のために砲台の築造が実行に移されている時期であった。折田要蔵は摂海砲台築造掛となってその実現に尽力していた。
私はあまりこの折田要蔵(維新後は年秀)という人物のことは知らなかったが、当日配布されたコピーに拠れば、当時薩摩藩の内情を探るために渋沢栄一(一橋家家来)が折田の門人となっていたそうである。渋沢は折田について「さまでの兵学者でもない。大言を吐くことが上手で、その上弁舌が巧みであることから、完全な築城学者と見做されていた。さまで非凡の人才と思われぬ。西郷隆盛とは時々文通することもあるが、その言が十分に信ぜられようとは思われぬ。外面の形容ほどには実力のない人」と、辛辣な評を与えている。折田は、明治三年(1870)に官を辞した後、京都で鉄砲商などを営み、明治六年(1873)には湊川神社の神官となった。講演で紹介された元治元年(1864)五月二十二日付の書簡では、幕府閣老に対して、摂海における防備の強化とともに楠公社の建設を献策したことを自慢気に報じている。この時節、楠正成を顕彰する神社を開くことは幕府の神経を逆なでするもので、政治的には意味を持つものであるが、維新後創建された湊川神社にさほど政治的価値はない。その宮司に就くことができて本人は本望だったかもしれないが、渋沢が評したようにさまでの人材ではなかったらしい。
樋口先生が紹介した慶応四年(1868)九月十八日付の脱走旧幕臣についての密偵の報告や大久保利通による「敬天愛人」の書(現存せず。やや眉唾)の話も面白かったが、一番興味を引いたのが、最後に紹介された第一回内国博覧会の集合写真であった。今回の「大久保利通とその時代」のパンフレットにも用いられたこの写真は、内務卿大久保利通を中心に、大勢の内務官僚や博覧会の審査官、或は地方官で埋め尽くされている。樋口先生によれば、この中で薩摩藩出身者は松方正義のみという。大久保は出身藩に関わらず、実力本位で人材を登用した。その結果がこの写真に如実に現れているのである。名前が分かっているだけでも、河瀬秀治(宮津藩)、渡辺洪基(越前藩)、宇都宮三郎(尾張藩)、山高信離(幕臣)、前島密(幕臣)、楠本正隆(大村藩)、大鳥圭介(幕臣)、田中芳男(飯田藩)、鈴木利亨(幕臣)、武田昌次(幕臣)、多田元吉(幕臣)、近藤真琴(鳥羽藩)、伊藤圭介(尾張藩)らが確認されている。
この中に名前の上った武田昌次という人物。実は維新前は塚原重五郎昌義といった。塚原は幕臣で、外国貿易取調掛を始め、外国奉行支配取調役など外交面で活躍し、万延元年(1860)、三十六歳のとき、遣米使節団にも選ばれた。鳥羽伏見の戦いにあっては副総督として全軍を率い大敗した。小栗忠順とともに親仏強硬派であったために、免職・登営禁止処分を受けた。塚原は国内にいたたまれなくなったためか、一時米国に亡命し、このあと塚原昌義の消息は絶えてしまう。
樋口先生の調査によれば、塚原は日本に戻って、武田昌次と姓名を変え、内務官僚として維新政府に仕えたという。あたかも二度の人生を歩んだかのような人物である。時間があればもっと武田昌次のことを聞きたかったが、既に所定の時間を過ぎていた。

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「吉田松陰とその家族」 一坂太郎 文京シビックセンター

2014年11月27日 | 講演会所感
同名の新書が先ほど刊行されたばかりで、当然といえば当然ながら、この講演会で一坂太郎氏から話された内容は、ほぼ新書で読んだものと一緒であった。勿論、新書で一冊になる内容を一時間半程度で話し切れるものではないので、この日の講演はダイジェスト版といったところであった。本に書かれていない話題といえば、先ごろ逝去された俳優高倉健のことくらいで、オチが「寅さん」の映画というところまで、まったく同じであった。
感心したのは、一坂太郎氏の饒舌振りであった。一時間半の間休みもなく、それでいて一切淀みなく話しきった。一坂氏は、あちらこちらで講演をされていて、同じ演題の講演を何回もこなされていることは想像に難くないが、それにしても巧みな話術で、長時間飽きることなく聴くことができた。
一坂太郎氏が言いたかったことの一つは、吉田松陰は特殊な家庭環境で育ったのではないということである。当日配られたパンフレットにも「下級武士の家に生まれた」と書いてあるが、松陰の実家杉家は藩政に参与するような上級武士ではなかったものの、下級武士でもなかったという。父百合之助が役職に就くまでは貧しい生活を強いられたようであるが、役職を得てからは比較的生活は安定していた。
庶民は、逆境を跳ね返して名声を手に入れる成功物語が大好きである。その成功物語に合わせて、何者かが杉家を極貧の家庭に仕立てたのであろう。
松陰がほかの子供と異なる家庭環境にあったとすれば、兵学師範の家である吉田家の養子となり、八歳でその当主となってしまったことである。九歳のとき藩校明倫館の教授見習となり、そのため山鹿流軍学を徹底的に仕込まれるスパルタ教育を受けることになった。松陰には幼馴染と呼べるような友達はおらず、十一歳で藩主の君前で講義をするほどの英才教育を受けた。その結果、松陰の(良くも悪くも)人を疑うことを知らない、純粋培養されたキャラクターが形成されていった。
吉田松陰は異常に筆まめで膨大な量の著作のほか日記や手紙を残しているが、一坂氏によれば、末妹の文に宛てた手紙は一通のみしか残っていないらしい。文がものごころついた頃、松陰は投獄されたり遊歴の旅に出たりと、家を空けることが多かった。晩年の文は、松陰のことをあまり語り残していないが、それはあまり記憶に残っていなかったからではないかというのが一坂氏の推論である。
来年(平成二十七年)の大河ドラマは吉田松陰とその妹文の物語である。一坂氏の話を聞く限り、松陰と文との接点は少なかったようである。史実や資料に基づいてドラマを組立てようとしても無理があろう。とはいえ、全く史実を無視した無茶なドラマにならないことを祈るばかりである。
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「赤松小三郎はなぜ薩摩藩の刺客に暗殺されたのか」 鏡川伊一郎 於:文京シビックセンター

2014年10月25日 | 講演会所感
以下は「書評」ではなく、先日(平成二十六年十月二十一日)、受講した講演の所感である。
先日、新宿歴史博物館が開催する歴史講座「高須四兄弟~幕末維新を生き抜いた大名家の兄弟~」に申し込んだところ、「定員六十名のところ、合計百六十名という大変多くの皆様からお申込みがあり、抽選の結果、残念ながら貴意に添えない結果となりました。」と返信があり、要するに敢え無く落選した。世の中にこれほど幕末史に興味を持つ人がいることが少し驚きであった。
その直後、新聞の関東版の記事で、今回の講演のことを知った。さすがに高須四兄弟と比べれば、赤松小三郎の知名度は低い。こちらは簡単に予約できた。
この日は早々に仕事を切り上げ会場である文京シビックセンターに駆け付けた。五分ほど遅刻してしまったが、ちょうど講演が始まったところであった。
一言でいうと、この講演には大いに落胆した。そもそも「赤松小三郎はなぜ薩摩藩の刺客に暗殺されたのか」と題しておきながら、肝心の赤松小三郎の暗殺に触れたのはほんのわずかであった。「赤松小三郎は薩摩藩の軍事顧問を担当しており、薩摩藩の軍事機密を知ってしまった故に暗殺された」というのがこの講演の核心であるが、本当に赤松小三郎は薩摩藩の軍事機密を知っていたのかという点について、この講演では触れられることはなかった。赤松小三郎が薩摩藩の軍事機密を握っていたがために暗殺されたという説は、ウキペディアにも記載されている説で、取り立てて目新しいものではない。そう主張するのであれば、もう少しその根拠にまで踏み込んでもらいたかったと思うのである。
まず鏡川先生は、孝明天皇の崩御に始まる慶應二年末から鳥羽伏見戦争に至る幕末史を概観されたが、桜田門外の変や錦の御旗にまで話が飛んで、なかなか本題に入らない。開演から一時間が経とうという頃、ついに聴講者の一人が手を挙げ「私は赤松小三郎について話を聞きに来た」と発言し、ようやく本題に入ることになった。
その中で鏡川先生は「私は西郷隆盛が大嫌い」「テロリスト西郷」などと発言された。嫌いな人物の事績は全て「悪」という歴史の見方は歪んでいる。西郷隆盛が討幕のためにあらゆる権謀術数を駆使したことは否定しない。恐らくその全容が明らかになれば、世間に流布している人格者西郷隆盛のイメージは随分と違ったものになるだろう。それほどアクドイことにも手を染めたことはあっただろうし、非情・冷酷といえるような手だても取ったであろう。綺麗ごとだけでは討幕といった事業を成し遂げることなどできなかったと私は思う。
因みに私としては、西郷隆盛はどちらかというと「好き」な方であるが、私の「好き」という意味は単なる好悪を言っているのではなくて、「もっと知りたい」と思う対象か否かというだけである。好悪で判断すると、歴史を見る目が曇ってしまうような気がしてならない。
西郷が月照と錦江湾に入水したのは、錦江湾の水温を計算して、月照だけを死に至らせるための暗殺であるというのは、珍説・奇説としては面白いが、多くの聴衆を前に影響力のある先生が発言する類のものではないだろう。
西郷が写真を残さなかったのは、暗殺を恐れてのことだという説も同様である。西郷以外にも写真を残さなかった人物は大勢いる。その全員が同様に暗殺を恐れていたというのであればこの説も説得力があるが、あまりに主観的・直感的に過ぎないか。
孝明天皇の暗殺説については、今やアカデミーの世界では否定されているが、鏡川先生は「孝明天皇を暗殺したのは岩倉具視。毒を盛ったのではなく、天然痘ウィルスを食事に混ぜたのであろう。」と自説を述べている。しかし、幕末の医療水準で、天然痘ウィルスを採取してそれを食べ物に混入させることが可能だったのか(それが可能であれば、ほかにもこの手の毒殺が使われていそうなものだが…)。これは居酒屋の与太話でなく、有料の講演である。大勢の聴衆を前に話をするのであれば、それなりに根拠を検証した上で披露してもらいたいものである。さもなければ、これは故人に対する冒涜ではないか。
最後は「明治維新は、薩長によるインチキ政権」と星亮一ばりの主張まで出現し、辟易してしまった。私は薩長政権を手放しに礼賛するものではないし、旧幕府や会津藩の言い分も理解しているつもりであるが、それにしても感情的で偏った発言には違和感を覚える。講演の途中で挙手をして脱線続きの講話に抗議したあの男性は、講演の内容に耐えられなかったのか(はたまた何か用事があったのか)途中で退席されてしまった。
ここまで筆の勢いに任せて不平不満を書き連ねてきたが、決してそればかりで終わったわけではない。私は京都の金戒光明寺と上田の月窓寺の赤松小三郎の墓に詣でているし、京都東洞院の暗殺場所も訪れたことがある。従って赤松小三郎という名前は決して知らなかったわけではないが、その事績については詳細を承知していなかった。一般にはあまり著名ではない赤松小三郎について、長野県の上田高校の同窓生が中心となり赤松小三郎研究会なるものを設立し、小三郎の研究に努めているという。この日の講演会では赤松小三郎が松平春嶽に宛てた「政体改革意見書」のコピーが配られた。小三郎はこの中で議会制度の導入や学校の開設、税制改革、貨幣制度、海陸軍の兵備、畜産の奨励など、先進的な意見を具申している。これが坂本龍馬の「船中八策」の一か月前のことである。こうした埋もれた幕末の人物の功績を掘り起し、世に知らしめるという地道な活動をされている団体が存在しているということに大変感銘を受けた。この日の講演会にも、研究会の方がたくさん出席されており、大いに熱意を感じることができたのは収穫であった。
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