歴史を相手にしていると、どうしても自分の好きな、あるいは興味のある時代に集中してしまい近視眼的になってしまいがちである。個人的には幕末維新といわれる時期から前後三十年というところが私の学習対象範囲となっているが、それ以外の時代になると、学生時代に授業で習った程度の知識しか持ち合わせておらず、しかも今となってはほとんど記憶も薄れている。
本書は日本史を地理学的にアプローチしたもので、しかも古代から近代に至る変遷を俯瞰しようというものである。改めて歴史を長期的に俯瞰することの重要性を実感することができた。
町の風景を毎日見ていてもその変化を感じることは難しいが、十年三十年という長い時間をかけて定点観測してみると、著しく変化していることが分かる。特に都市部は短い時間で変化するが、地方ほどその周期は長い。
我が国が「倭」と呼ばれていた時代から平安京が定められるまでの数百年間、為政者が交代するたびに都(みやこ)が変わった。藤原京、飛鳥京、難波宮、長岡京、恭仁京などが思い浮かぶが、考えてみれば、どうしてこうも頻繁に都が遷る必要があったのだろうか。
斎明天皇の時代、飛鳥と難波の二か所に宮があった。当時は大陸との外交・交流も盛んであって、その便利のためにも臨海部に拠点を持つ必要があったのだろう。
いわゆる白村江の戦い(662)以降、唐が高麗を滅ぼすと、唐の襲来に備えて天智帝の時代に高安城(現・奈良県平群郡)が築かれた。さらに天智六年(667)、都はずっと内陸部の大津に遷された。
大津遷都は、防御を優先した内陸への空間的移動というだけではなく、琵琶湖水運の利用を考慮した立地であった。
壬申の乱(672)で勝利した天武天皇は飛鳥に宮を戻し、天武天皇の遺志を継いだ持統天皇は飛鳥西北方に藤原京を建設した。天智天皇の第四皇女に生まれた元明天皇は平城京遷都を計画した。本書によれば、長く政治中枢だった飛鳥には有力豪族の拠点が比較的多く、そこから距離をおいて新たに権力を集中させようという意図があったと推定している。つまり過去のしがらみからの脱却が平城京遷都の目的だったというのである。
その後、聖武天皇によってさらに北方の恭仁(くに)京へ遷都した。恭仁京は泉川(木津川)の南北両岸に位置していたとみられ、水運を強く意識した立地であった。聖武天皇の後にも保良京(近江)、長岡京への遷都があったが、いずれも長続きせず、延暦十三年(794)、桓武天皇により平安京が都と定められた。平安京は造都以後、変遷を経ながらも千年以上都として続いた。筆者は、「淀川、木津川、宇治川などの河川や琵琶湖、瀬田川などの水運が絡んでいたのは明らか」であり、「中枢の都城にとって水運が重要な要件だった」としている。内陸という印象の強い京都であるが、陸上交通のみならず、水運も重要な交通手段として備えていたからこそ、千年にわたって都として維持継続できたのである。
本書では都に続いて城の変遷を取り上げている。当初城と言えば、防御に有利な山城が基本であった。古代山城と総称されるものから始まり、戦国時代初期に至るまで住居を兼ねた山城が多く築かれた。
しかし、戦闘よりも領国経営が重視されるにつれ、山城から平城に居城が移されることになった。あるいは山城はそのまま残しておきながら主要施設を麓に移設した例、山城が破却されて代わりに平城が建設された例もある。
近世の城には、いずれも主要道が城下に通じていた。城下の町屋地区と街道や街路との結びつきが極めて重視された。確かに各地の藩庁跡を訪ねていると、それぞれが街道(現代では国道)で結ばれていることに気が付く。概ね一筆書きで巡ることができる。それは決して偶然ではなく、歴史的な必然なのである。