史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「西郷隆盛 維新150年目の真実」 家近良樹著 NHK出版新書

2017年11月25日 | 書評
このところ続けて西郷隆盛関連本を手にしているが、性懲りもなく今度は家近良樹先生の「西郷隆盛」である。家近先生には「西郷隆盛」(ミネルヴァ書房)という大部の本格的評伝があるが、こちらは学者の論文というより、西郷隆盛をテーマにしたエッセイのような赴きがある。「なぜ写真が残されていないのか」だとか「なぜ早い段階で自決しなかったのか」といった、言わば歴史学者が正面から取り合わないようなテーマに自在に筆を走らせる。
本書は比較的肩の凝らない読み物となっているが、慶応元年(1865)十二月、対幕強硬路線を主張する西郷隆盛を抑えるために、久光が桂久武を京都に派遣したという解釈を巡って、町田明広先生と論争となっている。町田先生の「反論への反論」では、学者の顔をのぞかせている。正直にいって、桂久武書簡の解釈などは、素人にはいくら精読しても何ともどちらが是か否か判断がつかないが、学者先生の論争を拝読するのはとても興味深い。
本書では「幕末期の薩摩藩の主役が、通常よく語られる西郷―大久保ラインではなく、島津久光―小松帯刀ラインであった」という核心を衝いた指摘もある。我々は明治以降の西郷、大久保の存在感が目に焼き付いているため、どうしても維新前も同じ大きさで西郷、大久保を見てしまいがちである。西郷、大久保といえ、維新前は久光の手のひらで活動していたということを忘れてはならないだろう。
久光というと扶幕派というイメージが強い。薩摩藩が最後に倒幕に踏み切った背後には、久光の路線転換があったと見るべきであろう。久光が幕府を見限って倒幕の意を固めたのはどの時期だったのだろうか、個人的には非常に関心がある。
筆者はいう。
――― 人気者(その代表が西郷だったことは言うまでもない)中心の歴史は史実とそぐわない(史実をきちんと説明しえない)ことが多い。それといま一つ、嫌いな人物や集団を一方的に弾劾する歴史観からは、多面的に物事を見る視点は生まれない。さらに、あえて付け加えれば、歴史が本来有する深い味わいや面白味にも欠ける。
このご意見にはまったく同感である。歴史を学ぶ者としては、常に心掛けたい姿勢である。
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「西郷隆盛伝説」 佐高信著 角川ソフィア文庫

2017年11月25日 | 書評
西郷隆盛とは不思議な存在である。「右」からも「左」からも神のように崇められるという意味で、西郷隆盛は空前絶後の存在であろう。右翼からは侵略主義の巨魁とされ、左翼からは倒幕を成し遂げた革命家と賛美される。本人が聞いたら赤面するかもしれないが、これも西郷自身がいちいち明確な説明をしていないため、後世から西郷の言動を、どちらからでも都合よく解釈できてしまうために起こった現象である。
本書では、西郷を崇拝する「右」の代表者として安岡正篤(やすおかまさひろ)や四元義隆の名を挙げる。安岡正篤は、明治三十七年(1904)の生まれ。陽明学に目覚め、昭和二年(1927)には金鶏学院という私塾を開き、人材の育成に努めた。この門で四元義隆や井上日召ら、後の血盟団の構成員も学んだ。終戦時の玉音放送の文案を添削したことでも知られる。敗戦により安岡正篤の設立した学校や教化団体は全て解散を命じられたが、安岡は講演活動により東洋古典思想の普及を続け、政財界に心酔者が多かった。昭和五十八年(1983)に亡くなったが、「平成」という元号の発案者ともいわれている。
四元義隆は鹿児島県出身で、西郷隆盛とは血が繋がっているとも言われ、やはり熱心な西郷信奉者であった。金鶏社で井上日召と知り合い、次第に安岡の観念論に不満を抱くようになった。昭和七年(1932)、元蔵相の井上準之助や三井財閥の團琢磨を暗殺する血盟団に加わった。二二六事件の思想的指導者といわれた北一輝は「維新革命の心的体現者大西郷を群がり殺して以来、即ち明治十年以後の日本は聊かも革命の建設ではなく、復辟の背信的逆転である。現代日本の何処に維新革命の魂と制度とも見ることが出来るか」と説いた。四元義隆ら血盟団の起こしたテロは、明治十年の戦いで西郷隆盛が果たせなかった第二革命を目指したものだったのであろう。
西郷は戦前の日本共産党中央委員長田中清玄からも慕われた。田中清玄は、会津藩の筆頭家老田中土佐玄清の血縁者である。自身は北海道の生まれであったが、会津人の血を受けたことを誇りとし、薩長政権には批判的であった。しかし、「彼等(坂本龍馬や中岡慎太郎)が生きていたら西郷や坂本や中岡の政権ができ、軍をしっかり握って、日本国中を戦場とする、あんな惨めなことにはならなかったでしょうね。その後、日本ももっと変わっていたでしょう」と西郷を高く評価している。もっとも田中清玄は獄中で転向して思想的には共産主義を放棄し、戦後は実業家となった。田中自身の証言によれば、自身は「右翼。本物の右翼」であり「一つの思想、根源を極めると、立場を越えて、響き合うものが生まれるんです」と語っている。
鹿児島では今も西郷隆盛は神のように崇められている。薩長政権を是とする人は西郷を信奉し、逆に薩長に虐げられた歴史を持つ会津や東北諸藩出身者は、西郷には必ずしも好感を持っていない。ただし、戊辰戦後、西郷の格別寛大な処分により庄内出身者は、西郷を高く評価している。
筆者佐高信は、まさにその庄内(現・山形県酒田市)の出身であり、その流れから西郷隆盛にはシンパシーを感じていることが本書を通じて感じられる。より正確に言えば、西郷隆盛と親交を結んだ菅実秀を高く評価している。
本書では、会津を一方的に擁護し、薩長を敵対視する星亮一氏の著作から多くを引用している。歴史書として本書を読もうとすると、偏りを感じることになるだろう。
西郷隆盛に対して概ね好意的にアプローチしていると思うが、第十章では様相が一変する。第十章では、西郷の指示を受けて江戸市中の撹乱を実行した相楽総三を取り上げる。幕府方の神経を逆なでするように、彼らは江戸市中で火付け強盗を繰り返した。薩摩の挑発にのり、幕府方は遂に薩摩藩邸を焼き討ちする。鳥羽伏見の戦乱を誘発することになった。江戸市中の撹乱作戦は、従来の人格者西郷隆盛のイメージとは程遠い陰湿な手である。
相楽総三は、その後、年貢半減を掲げ、赤報隊を率いて東上する。その途上、ニセ官軍のレッテルを貼られ、釈明の機会を与えられることなく、下諏訪で処刑される。赤報隊幹部の処刑に西郷が関っていたのか確かなところは分からないが、筆者がいうようにこの段階で彼らの命を救うことができたのは、西郷隆盛以外にいなかったであろう。少なくとも西郷は、彼らの処刑を黙認した。他藩人には冷たい西郷の姿勢が伺える。本書はここで相楽総三を取り上げることにより、奥行きの深い西郷論となった。
西郷隆盛という人は、その生涯を部分的に切り取ると、「右」にも「左」にも都合よく引き付けることができる。全体を俯瞰すると、矛盾だらけで難解な人物である。でも、部分だけを見ずに全体を見るようにしないと西郷という人物を誤ってしまう、と思うのである。

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「西郷隆盛 英雄と逆賊」 池波正太郎 海音寺潮五郎 他著 PHP文芸文庫

2017年11月25日 | 書評
池波正太郎、海音寺潮五郎、南條範夫(以上、故人)、古川薫、植松三十里という五人の作家によるアンソロジー(選集)。副題にあるように西郷隆盛は、倒幕の英雄として見ることもできるし、悲劇の逆賊として描くこともできる。小説家にしてみれば、腕を振うには最高の題材であろう。
池波正太郎には、長編「西郷隆盛」がある。本書には「動乱の詩人 西郷隆盛」という小編が収められている。池波正太郎は末尾にこのように西郷のことを評している。個人的には非常に共感できる。
――― 西郷隆盛という人物は、武士から出た軍人でもないし、政治家でもないし、地方の一ボスにしてはあまりに大きすぎるし、何とも彼とも定義しがたい、ふしぎな人物に思われてくるのだ(中略)。むしろ、芸術家として大成する素質をそなえていたのではあるまいか。
海音寺潮五郎は鹿児島県出身の歴史作家である。西郷を神格化して、称賛する代表格といえよう。本書では「西郷隆盛と勝海舟」と題し、勝海舟の目を通じて西郷を描く。末尾で海舟の談話集「氷川清話」で語られる二つのエピソードを「真赤なウソ」と断定する。何故、海舟がウソを語ったのか。海音寺潮五郎は、「勝はありあまる力量才幹を持ちながら、それを十分にふるう機会がなかった」「英雄の素質と英雄の力量を持ちながら、英雄の業をなすことのできなかった人の怨恨の詩である。ウソもまじろうではないか、文学なのだから。」とやや同情的に援護している。
三作目は、南條範夫の「兄の陰――西郷従道小伝」である。あまり語られることのない従道の生涯を描く。従道は死の直前、元帥海軍大将正二位勲一等功二級侯爵という一切の栄位栄爵を拝辞したいと言い出してちょっとした騒動となった。このまま栄位栄爵を帯びてあの世におもいむたら兄(隆盛)に合わせる顔がないというのである。この騒動は、西郷隆盛家(嫡男寅太郎が継いでいた)に授爵されることで解決を見た。従道は――これであの世に行っても兄者に会える、と涙を流して喜んだという。
次は山口県出身の古川薫の「秋霜の隼人」。本編の主役は大久保利通である。挑発により西南戦争を起こし、朋友西郷を抹殺した手口を批判する論調が多いが、本書では―――国政にたずさわりながらも、個人的な情に流されがちな人々も少なくない。(中略)利通は、必要なとき敢然として「非情」を行使できる人物であった。(中略)天性の政治家としての彼の孤独な栄光でなければならなかった。
と比較的好意的に書いている。同じ事態、同じ人物を「冷酷非情」と受け止めるか、「敢然」ととらえるかで、がらりと印象が違ってしまう、端的な例である。
最後は植松三十里の「可愛岳越え」。植松三十里は、現役バリバリの歴史作家であるが、歴史の一場面を切り取って劇的な小説に仕立てる名手である。本作では西郷菊次郎というあまり目立たない人物を通して西郷を描く。片脚を失いながら生き残った菊次郎が精神的に立ちあがる様を描いて見事である。

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「武士の碑」 伊東潤著 PHP文芸文庫

2017年11月25日 | 書評
村田新八を主役に据えた、伊東潤渾身の力作。村田新八は、一般にさほど知名度が高いとは言い難いが、西郷隆盛、大久保利通に継ぐ、薩閥の宰相候補といわれた男である。この人物が生きていれば、第二代首相は黒田清隆ではなかったかもしれないと思わせる逸材であった。武骨な人間が多い薩摩隼人にあって、手風琴(アコーディオン)を奏で、音楽を愛する風流人でもあった。洋行して西洋文明に触れ、日本の近代化の必要性を肌で理解していた。にもかかわらず、西郷に殉じるようにして城山で最期を迎えたという、なかなか魅力的な人物である。写真も複数残っている。いずれも深沈とした表情で、思慮深さを感じさせる風貌である。
物語は、村田新八がパリ留学から帰国して、大久保を訪ね、さらに鹿児島に西郷に会いに行くところから書き起こされる。その後の経緯は歴史の語るままである。独立国の様相を呈していた鹿児島県は、新政府の挑発にのせられ挙兵する。西南戦争の戦闘シーン描写は、マニア(私のことですが)をうならせるものとなっている。特に田原坂の攻防は圧巻である。無尽蔵に兵や弾薬を補給できる政府軍に対し、薩軍は次第に追い詰められる。いかに小説家といえ、その顛末を枉げるわけにはいかない。西南戦争の経緯を追うだけでは、重苦しい物語とならざるを得ない。そこに彩(いろどり)を添えたのが、パリの想い出話である。その結末を知らない読者は、ページの先を急ぐことになろう。小説家のゾラや画家クールベの娘が登場するのは、伊東潤のサービス精神のあふれるところである。勿論、パリでの挿話は作家の創作であるが、この挿話があって初めて小説として成り立ったといえる。
一方で、西南戦争の場面に登場する人物はいずれも実在する人物である。新八のパリの想い出の聞き手である庄内藩出身の榊原政治。榊原と同様に庄内藩からの留学生で、薩軍に従軍した伴兼之も実在の人物であり、この小説にあるとおり両名ともに戦死している。
この小説に登場する西郷は、つかみどころがない。自分の意思をはっきり言わず、新八にすら何を考えているか分からない。西南戦争を通じて西郷の態度は、このような様子だったのではないだろうか。明治六年の政変で下野して以降、西郷は諦観に襲われ、投げやりな言動が目立つようになった。極端にいえば、考えることを放棄したように見える。この時期の西郷は、明らかに幕末、倒幕を推進した革命者とは別人であった。司馬遼太郎先生は「西郷という虚像」と評したが、的確な指摘である。
新八も桐野利秋も別府晋介も、そのような「虚像」を我が物にしようと争った。筆者は、その争いに大久保利通も加わっていたとする。西南戦争とは詰まるところ、西郷を巡る薩摩人の争いという指摘は、意外と的を射ているかもしれない。
この小説最大の山場は、西郷の最期の場面。西郷の最期には異説があり、その異説にヒントを得た意表を突いた展開となっている。個人的には、この期に及んで西郷が投降するなどということはあり得ないと思うが。
小説の構成上、やむを得ないことなのかもしれないが、あまりに大久保利通を悪者扱いするのは残念であった。「佐賀の乱は姑息な挑発行為によるものであり、台湾出兵は大失敗に終わっていた」と断定し、さらに、大久保は「(西郷が)無名之軽挙をやらかすはずがない」「己が西郷に会いに行くといっているのを押しとどめられた」などと述懐しているが、それは自らを正当化するためであり、いよいよ戦争は避け難いとなった時、先に挙げた伊藤博文への書簡にある通り、喜びを隠しきれなかった ――― と紹介されているが、それほど大久保利通という人は意地の悪い人物だったのだろうか。

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石岡 Ⅳ

2017年11月17日 | 茨城県
(本浄寺)


本浄寺

 本浄寺は、藤田小四郎らを支援した紀伊國屋の女主人大久保幾子の墓がある(府中2‐4‐39)。墓地には紀伊國屋大久保家の墓所が二つあって、どちらが幾子の墓か特定できなかった。参考記録として、そのうちの一つの写真を掲載しておく。


大久保家之墓(紀伊國屋)
大久保幾子墓?

 府中新地の妓楼紀伊國屋は、藤田小四郎らが同志と密議を重ねた場所である。幾子は、世話好きで気さくな性格で、年も五十を越えた女丈夫であった。人なつっこい小四郎を自分の子のように可愛がり、親身になって世話を焼いたといわれる。

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ひたちなか Ⅶ

2017年11月17日 | 茨城県
(光明寺)


光明寺

 光明寺周辺も元治甲子の騒乱で激戦地となり、光明寺は堂宇を焼失した。本堂前には大発勢に参加して戦死した梶又左衛門の下僕平八の墓がある(ひたちなか市湊泉町6‐25)。


梶氏義僕 平八墓

 光明寺の墓地を歩いていて面白い墓碑を見付けた。新選組の初期メンバーに名を連ね、当時副長助勤をつとめた平間重助の子孫の方の墓だという。
 墓碑によれば、平間家の祖先は筑前(現福岡県)の平間蔵人入道の子孫で、東国相模の国平間村(現・川崎市)に居住し、その一族が玉造町芹沢の筑前塚に居住したものである。その後、重助の孫が湊町(ひたちなか市)明神町、さらに日立市助川に転居して、今もその血脈は続いているという。


平間家墓

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那珂 Ⅱ

2017年11月17日 | 茨城県
(常福寺)
 元治元年(1864)九月九日、元治甲子の乱の際、当時向山にあった常福寺は天狗党により放火され全焼した。常福寺は、その後再建されることはなく、寺格全てが瓜連常福寺に吸収された(那珂市瓜連1222)。


常福寺

(阿弥陀寺)
 阿弥陀寺は、親鸞上人が建保四年(1214)にこの地に念佛道場を開き、法然上人の追悼法要を行ったことで知られる。親鸞上人は、この地に約十年滞在し、念仏弘通に精進した。今も親鸞上人所縁の宝物を数多く伝承している(那珂市額田南郷375)。


阿弥陀寺

 元治元年(1864)の騒乱では、天狗党により放火され全焼している。

(麟勝院)
 同じく額田南郷559の麟勝院も天狗党により放火焼失した寺院の一つである。


麟勝院

(上宮寺)


上宮寺

 上宮寺(本米崎2270)も天狗党の放火により焼失した。

(本米崎三嶋神社)


本米崎三嶋神社

 本米崎の三島神社の社家から海後瑳璣ノ介が出た。同地は海後瑳璣ノ介の生誕地でもある(本米崎2766)。瑳璣ノ介は、文政十一年(1828)、父宗邦の四男に生まれた。二十歳のとき、水戸に出て剣術、砲術を研究した。万延元年(1860)三月三日、桜田門外の変に加わった十八名中の一人であり、その後潜伏して維新後まで生き延びた。
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城里 Ⅲ

2017年11月17日 | 茨城県
(小松寺)
小松寺は、天平十七年(745)行基菩薩の開基と伝えられる。養和二年(1182)、平貞能が平重盛の遺骨を抱いてこの地に落ちのび、出家して小松房以典と称し、重盛の菩提を弔ったとされる。裏山の中腹には平重盛、重盛夫人、平貞能の墓がある。第二代水戸藩主徳川光圀は度々この寺を訪れ、境内にはお手植えの枝垂れ桜がある。また九代藩主斉昭の歌碑も境内に残されている。天狗党に参加し、和田峠で戦死した不動院全海は、幕末時の小松寺住職の弟弟子だったという(城里町大字上入野3912)


小松寺


斉昭歌碑

 天保十四年(1843)、当寺を訪れた際に斉昭が詠んだ歌が刻まれている。

 みやこより引きし小松の墓なれば
 千歳の末ものこるとぞ見ゆ

(宝幡院)
那珂西の宝幡院は、その昔(南北朝時代)那珂西(なかさい)城という城郭があった場所で、今も空堀や土塁の跡を見ることができる(城里町那珂西1958)。


宝幡院

 度々過激な言動をとったことにより、田中愿蔵隊が除名処分を受けたのは元治元年(1864)七月三日のことであった。愿蔵隊は一時野口の時雍館に拠っていたが、村民の包囲を受け、七月二十五日に那珂川を渡って石塚宝幡院(ほうどういん)に入った。
 ほどなく愿蔵隊は、宝幡院も追われ宍戸に出、八月一日には茨城郡土師村へ進出。そこでも民兵と衝突して放火し、その夕方には府中に走った。同月十五日、水戸郊外小吹、平須で鯉淵勢と戦った。その後、愿蔵隊は二本松藩兵を撃破し、一時助川城を占拠するなど勢いを示したが、所詮四百余という寡兵であった。幕府軍および市川勢に次第に追い詰められて、悲劇の道をたどることになる。

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常陸大宮 Ⅴ

2017年11月17日 | 茨城県
(寿命寺)


寿命寺


彰義隊之墓

 常陸大宮市野口3042の寿命寺に彰義隊士の墓がある。ただし、戦死した日付は明治元年(1868)四月十三日となっている。上野戦争は同年五月十五日のことであり、それより前に江戸から遠く離れたこの場所に瀕死の彰義隊士が逃げ込んでくるというのは、いかにも不自然である。一説には彰義隊ではなく、撤兵隊ではないかともいわれる。
 この墓を建立したのは合葬されている徳田米太郎の親族。戦死した徳田米太郎は十七歳だったという。墓が建てられたのは昭和十五年(1940)。

 寿命寺はもう何年も前に廃寺となったようで、わずか数十メートルの参道は、雑草が生い茂り倒木が行く手を阻み、簡単に前に進むことができない。しかも、湧き水で道はぬかるんで、蜘蛛の巣だらけである。個人的にはこれほど手入れされていない寺を見たことがない。寺の本堂も襖は破られ、木は朽ちて、周囲は雑草だらけ。まさに肝試しの舞台さながらである。寿命寺には市指定文化財聖徳太子立像が安置されているそうだが…

(戦死十七士合葬墓)


戦死十七士合葬墓

 常陸大宮市野口の高台に戦死十七士合葬墓が建てられている(常陸大宮市野口1543付近)。
 旧幕軍とそれを追う新政府軍の戦いは、市川・船橋、流山、結城、宇都宮などを戦場としたことから、茨城県を南北に通る幾筋かの街道へも諸軍が通過し、戦禍を残すことになった。
 慶応四年(1868)四月一日、江戸城が明け渡された後も幕府軍は各地で抵抗して蜂起を続けていた。同月十三日、その中の一隊約百三十名が野口宿に宿営し、翌朝、那珂川を船で渡ろうとしていたところを新政府軍に急襲され、十七名の犠牲者を出すことになった。恐らく上総・下総の各地を転戦してきた撤兵隊と考えられる。
 この墓碑に葬られているのは、仙石義正、秋山善保、榎本桂次郎、山口藤吉、坂巻錠介、徳田米太郎と氏名不明の十一名、計十七名である。
 彼らのために野口の渡しを臨む高台にこの供養塔が建てられたのは明治二十二年(1889)。題字は大鳥圭介、撰文は水戸の佐久間謙、書は野口勝一(県議。野口雨情の叔父)による。


(関澤家)


関澤家

 関澤家は野口宿の有力者であった。天保十一年(1840)には、徳川斉昭が当家を訪れ、別邸を楽寿亭と命名している。
 慶応四年(1868)四月十三日、重傷を負った坂巻錠介(十五歳)を、当家当主関澤源次衛門は手厚く施療し、親元へも連絡するなど手を尽くしたが、錠介は数日後に亡くなった。関澤家では錠介の遺骸を当家の墓地に埋葬した。
 ということで関澤家の周辺を汗まみれになって探し回った。その結果、関澤家の墓地を発見することはできたが、坂巻錠介の墓は見つけることができなかった。
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大子 Ⅲ

2017年11月17日 | 茨城県
(高徳寺)


高徳寺山門

 高徳寺山門は、室町末期の木造茅葺建築であるが、見るからにか細い四本の柱で支えられている(大子町上郷2056)。
 元治甲子の乱で天狗党がこの山門の柱を傷つけたといわれる。見れば、四本のうちの一本はその半分が削り取られている。ただ、これが本当に天狗党の手によるものか確証はない。


天狗党による刀痕?

(八溝山)
 追い込まれた田中愿蔵が逃げ込んだのが、八溝山(やみぞさん)である。標高一〇二二メートル。この日、早朝五時半に八王子の自宅を出て、カーナビの命じるまま東北自動車道を北上、福島県の棚倉から山頂を目指した。道は途中未舗装道路もあり、路肩は崩れ、時に大きな穴ぼこが開いている。油断のできない道であった。八溝山頂に到着したのは、午後八時半を過ぎていた。
 下りは茨城県の大子町へ下りる道を選んだが、こちらの方は安心して走ることができた。自動車で八溝山頂を目指すのであれば、断然大子町からの道をお勧めしたい。


霊峰八溝山

 山頂には展望台が設けられ、山頂を見下ろすことができる。つまり山頂より高い位置に展望台があるというわけである。天気が良ければ、三百六十度の眺望を楽しむことができただろうが、この日は霧がたち込めており、残念ながら見晴らしは悪かった。


八溝山頂 海抜一〇二二m


八溝嶺神社


八溝嶺神社

 山頂に逃げ込んだ田中愿蔵であったが、食糧も尽き、これ以上戦うことの不可能を悟った。愿蔵は隊員三百余を八溝嶺神社前に集め、解隊を宣言した。愿蔵自身も転げるようにして下山し、真名畑村(現・福島県塙町)の民家に逃げ込み、そこで縛についた。

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