史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

八王子 Ⅲ

2009年12月27日 | 東京都
(大乗寺)


大乗寺

 八王子は広い。西には高尾山を有し、南は相模原、東は日野と接する。北は多摩川を介してあきる野市や昭島市と向かい合っている。八王子北郊、もう少し行けばあきる野市という加住町の大乗寺墓地に小川椙太の墓がある。

 小川椙太は、比企郡小川町(現埼玉県小川町)の出身。桃井春蔵の道場で剣の腕を磨き、渋澤栄一の知遇を得て、徳川慶喜に仕えた。慶応四年(1868)二月、彰義隊結成に参加し、上野戦争でも奮戦した。戦後、神田明神境内で官軍に捕えられ、小伝馬の獄に繋がれることになる。翌年、赦免され一時駿河に移住したものの、百姓の生活は性に合わなかったらしい。ほどなく東京に引き上げ、剣術道場を開いた。その傍ら、彰義隊戦死者の墓所の建立に執念を燃やした。椙太の悲願が成就したのは明治十七年(1884)のことである。今も上野の西郷隆盛銅像の近くに、山岡鉄舟揮毫の「戦死之墓」が建っているが、明治二十八年(1895)に世を去るまで、椙太はこの墓守として生涯を送った。


義勇院興郷日道居士
(小川椙太の墓)

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深谷 Ⅲ

2009年12月26日 | 埼玉県
(鹿島神社)


鹿島神社

 深谷市の鹿島神社境内には、巨大な藍香尾高翁頌徳碑が建てられている。尾高惇忠(藍香)を敬慕する有志によって、明治四十二年(1908)、建立されたこの碑の除幕式には渋澤栄一、穂積陳重、阪谷芳郎らが列席した。碑の高さは4.5㍍。幅は1.9㍍という堂々たるもので、題字は徳川慶喜による。


藍香尾高翁頌徳碑

(普済寺)


普済寺


柿沢庄助夫妻慰霊碑

 普済寺の門前にブロック塀で囲まれた墓所がある。よく見ると墓に刻まれた名前は全て柿沢姓である。その一角に柿沢庄助の慰霊碑がある。柿沢庄助は、岡部藩士の子でありながら、水戸天狗党に参加した。元治元年(1864)十一月、天狗党は本庄宿を通過したが、このとき庄助が「猩々緋の陣羽織を着用して隊長格に振舞っていた」のを見た妻子が驚愕したと伝えられる。しかし、その後の庄助の消息は杳として知れない。

(岡部藩陣屋跡)
 深谷市の西部に位置する岡部は、かつて陣屋が置かれ、安部氏が十三代に渡って藩主を務めた。陣屋跡には、高島秋帆幽囚の地の石碑が建つ。
 天保十三年(1842)、四十四歳のとき、秋帆は中傷により獄に投じられた。嘉永六年(1853)、ペリーの来航により近代兵学の知識が必要となり、秋帆は急遽赦免される。幽囚された期間は十年以上にわたったが、その間、岡部藩では高島秋帆を客分として遇し、秋帆も藩士に兵学を指南したといわれる。

 岡部藩は、元治元年(1864)には、天狗党と交戦して武功をあげるなど、佐幕色の強い藩であったが、慶応四年(1868)三月には勅命に応じて藩主が上洛し、恭順を誓った。維新後、三河半原に移転して、廃藩置県を迎えた。


岡部藩陣屋跡

 坂戸の史跡巡りを終えて、深谷に向かう途中、ハプニングは起きた。いわゆる“ねずみ捕り”にひっかかったのである。制限速度30㎞/h超のオーバーで、赤切符を切られた。警官から
「お急ぎでしたか」
と訊かれたが、急いでいたといえば急いでいた。この時季の日暮れは早い。史跡を巡る時間としては午後四時半が限界であろう。そのため気が急いていたのは否定できない。
 前を行く車が、30㎞/h前後でトロトロ走っていた。その車の後ろには、長い行列ができていた。その迷惑な車が停車した瞬間、勢いよくアクセルを踏んでしまった。あとから思えば、あれは警察のオトリだったのかもしれない。
 いずれにせよ、スピード違反を犯した自分が悪い。自粛します。

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坂戸

2009年12月26日 | 埼玉県
(宗福寺)


宗福寺


顯元院義刀明亮居士霊位
(笠井伊蔵の墓)

 坂戸市石井の宗福寺には、笠井伊蔵(本名小谷野元三郎)の墓がある。笠井伊蔵は、清河八郎を盟主とする虎尾の会の一員である。万延元年(1860)十二月、虎尾の会の同志は、米国公使館通弁官ヒュースケン暗殺に関与した。このことを探知した幕府は、虎尾の会メンバーの捕縛に踏み切った。笠井伊蔵も捕えられ、伝馬町の獄舎に投じられた。文久元年(1861)十一月、獄中にあること半年余で、伊蔵は病死した。享年三十五。

(三芳野小学校)

 坂戸市の三芳野小学校の校庭には三つの石碑が建っている。


桜国輔贈位記念碑

 石碑の一つが桜国輔贈位記念碑である。桜国輔は、本名を原三郎といい、入間郡紺屋(現坂戸市)の生まれである。慶応三年(1867)、伊牟田尚平、益満休之助、相楽総三らの檄に応じて、薩摩藩邸に集合した浪士の一人である。桜国輔は、参謀兼輜重長として幹部に名を連ねた。同年十二月、薩邸浪士の 跳梁に手を焼いた幕府は、庄内、上山、鯖江、岩槻の各藩に薩摩藩邸の包囲攻撃を命じた。桜国輔、小川香魚、松田正雄の三名は、重囲を脱し、桜国輔の出身地である紺屋村に向かった。その途中、川越今福村で川越藩兵に遭遇し、被弾して亡くなった。時に二十五歳という。

 もう一つの巨大な石碑は、大川平三朗の彰功碑である。大川平三朗は、万延元年(1860)、川越藩領三芳野村の生まれである。渋澤栄一は、伯父に当たる。二十歳のとき、米国に留学し、帰国後は王子製紙を始め多くの産業の育成に務めた。のちに貴族院議員にも勅撰されている。


大川平三朗翁彰功碑

(白髭神社)


白髭神社

 桜国輔の顕彰碑を訪ねて坂戸市紺屋に向かった。集落に中心に白髭神社ある。
 本殿の前に桜国輔の顕彰碑がある。徳操とは桜国輔(本名原三郎)の諱である。この石碑の写真を撮影して自動車に戻ろうとしたところ、そこで掃除をしていた男性に声をかけられた。八王子からこの石碑を見に来たと伝えると、その男性は偉く驚き、同じ集落にある桜国輔の生家跡地に連れて行ってくださった。


徳操碑


紺屋用水(別名 菊二堀)

 生家跡周辺で、紺屋用水と呼ばれる用水路跡が確認できる。桜国輔の父、原菊二が安政年間に村人を指揮して浚渫工事に当たったことから、菊二堀と呼ばれている。桜国輔の実家は、名主をつとめる豪農であった。
 男性に案内された桜国輔の生家跡には、一人の老人が庭の手入れをしていた。昭和五年(1930)生まれの八十歳という老人によると、桜国輔の実家は、長屋門を備えた大邸宅で、現在、その敷地には十軒もの家が建っているという。
「どの家もさっぱりで、このうち二軒は嫁さんに先立たれてしまったし、一軒は奥さんが呆けてパーになってしもうたよ。」
と、話は桜国輔と関係の無い方向に果てしなく脱線していったのである。

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「龍馬を継いだ男 岩崎弥太郎」 安藤優一郎著 アスキー新書

2009年12月24日 | 書評
来年の大河ドラマ「龍馬伝」を先取りして、本屋の店頭では関連本が花盛りである。この本もその一冊といえるだろう。
岩崎弥太郎といえば、三菱財閥の創業者というイメージが強いが、実は坂本龍馬との縁が非常に深い。来年の大河ドラマでは、岩崎弥太郎の視線で龍馬を描くらしい。ドラマでは、岩崎弥太郎と龍馬が幼少期から知り合っていたというストーリーらしいが、かなり無理のある設定である。大河ドラマで放映されたことが真実のように信じ込まれ、歴史上の人物の人気が上がったり下がったり…といったことが当たり前のように起こるが、大河ドラマを鵜呑みにして歴史上の人物を評価しない方が良い。
岩崎弥太郎は、三菱の祖であることは間違いのない事実であるが、果たして経営者として優れていたのだろうか。明治の実業界を代表する人物である渋澤栄一は、銀行を始めとして製紙、保険、ホテル、鉄道、ビールなど、当時の日本に不可欠な産業の育成に心を砕いた。同時に道徳経済合一説を唱え、金儲けだけでなく、社会貢献にも熱心であった。現代の我々の目から見ても偉い人だったと思う。これに比すと、岩崎弥太郎は政府高官と結びついて、台湾出兵や西南戦争に乗じて海運業を拡大したが、経営者として高邁な哲学や思想を有していたようには感じ取れない。本書では残念ながら経営者岩崎弥太郎の偉大さは読み取れなかった。

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大磯 Ⅱ

2009年12月19日 | 神奈川県
(大運寺)


大運寺

 大運寺は、大磯駅からほどない場所に位置している。本堂の左手に中島信行とその夫人の墓がある。


長城中島君墓(左)中島湘烟之墓

 中島信行は、弘化三年(1846)、土佐の高岡郡新居村に生まれた。通称は作太郎。性格は温厚で、学問を好み、勤王の志が篤かった。元治元年(1864)、中島與一郎、細木核太郎らと脱藩した。のち海援隊に入り、いろは丸事件では紀州藩との交渉のために長崎に赴いた。報告のために神戸に着いたところで坂本龍馬の死を知ったという。
 戊辰戦争、会津戦争に参加したのち、新政府に仕えて通商正、出納正、租税権頭などを歴任。明治十四年(1881)、自由党が結成されると、副総理となり板垣退助を助けて立憲政体の建設を主張した。その後も初代衆議院議長、イタリア公使、貴族院勅撰議員を歴任した。明治三十二年(1899)、年五十四で没。

 夫人中島湘烟は、筆名岸田俊子といい、女権拡張活動家、作家として活躍した。中島信行は最初陸奥宗光の妹を娶ったが、その死後、湘烟が後妻となった。信行が亡くなった二年後、後を追うように逝去。三十九歳。

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伊勢原

2009年12月19日 | 神奈川県
(大山阿夫利神社)

 この土曜日は、早起きをして茨城県方面に遠征しようと予定していた。しかし、連日の(忘年会の)疲れが取れず、寝過してしまった。このまま、家の中で一日を過ごすには惜しい天気だったので、計画を変更して伊勢原市大山と大磯を訪ねることとした。


阿夫利神社下社

 伊勢原市大山の阿夫利神社は、千年に及ぶ歴史を有する古社である。大山の中腹(標高六百七十九㍍)に下社、頂上(標高千二百七十二㍍)に本社があり、眺望が素晴らしい。
 良弁橋付近に自動車を停めて、二十分ほどケーブルカーの駅まで歩く。参道の両側には、土産屋や名物の豆腐料理の店が軒を連ねる。境内からの眺めは、高尾山よりずっと優れているように思うが、交通の便の悪さが影響しているのだろうか。人の数は高尾山より遥かに少なく、土産物屋も料理屋も手持無沙汰な様子であるし、ケーブルカーもガラガラであった。
 阿夫利神社までケーブルカーで七~八分くらいである(片道四百五十円)。終点の阿夫利神社駅から下社まで、数分で行き着く。


阿夫利神社より関東平野を一望する

 阿夫利神社下社の神殿の前に、権田直助の座像がある。本日、はるばると阿夫利神社を訪ねた目的は、この権田直助の像と対面するためであった。
 権田直助は、維新後、新政府に出仕していたが、明治四年(1871)国事犯の嫌疑を受けて、矢野玄道、丸山作楽らとともに加賀に幽閉された。明治五年(1872)九月に宥免され、その後は、大山阿夫利神社の祠官としてこの地に永住した。権田直助は、春日大社から古代神楽の系譜をひく倭舞(やまとまい)、巫女舞(みこまい)を伝えた。この舞は今でも毎年八月には神前に奉納されているという。


権田直助座像

 大山ケーブル駅から参道を下って、良弁橋を渡ると権田公園と書かれた大きな看板が目に入る。この奥に権田直助の墓がある。権田直助は、明治二十年(1888)、七十九歳でこの世を去った。明治四十年(1907)、特旨をもって正五位を追贈された。


権田公園


権田直助可美真千知大人之墓
(権田直助の墓)

 墓に刻まれた「可美真千知大人」とは、権田直助の謚号である。右手の小さい墓石は、夫人のものである。

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「司馬遼太郎 リーダーの条件」 半藤一利 磯田道史 鴨下信一 他著 文春新書

2009年12月13日 | 書評
半藤一利、磯田道史、吉田直哉(故人)、関川夏央ら、司馬遼太郎を語らせれば右に出る者がないというメンバーが集う座談会。さすがに発言の一つ一つが本質を突いている。
半藤一利らが、冒頭の座談会で注目すべき発言をしている。
――― 坂本竜馬という人は、司馬さんが書くまでは主役になったことはほとんどない(中略)当時は竜馬より、むしろ桂小五郎などの方が主役だった…(半藤)
――― 日露戦争の最中に、竜馬が昭憲皇太后の夢枕に立ち、海軍の勝利を告げたという逸話はありましたが、長い間、歴史の陰に埋もれていた人物(関川)
――― 実像から離れている部分というのは、『竜馬がゆく』では彼だけが明治維新の大きな流れをつくり、国家を動かしていたように描かれている(中略)あまりにあの作品が多くの人に愛されたので、今日、多くの日本人がそう信じている…(磯田)
竜馬は、現在でこそスーパーヒーローになったが、同時代にあってはほとんど無名の存在であった。竜馬がスーパーヒーローになったのは、『竜馬がゆく』以降のことである。竜馬暗殺の黒幕は薩摩藩だなどという説があるが、等身大の竜馬と向き合えばあり得ない話だということが分かるだろう。武力討幕を阻もうという勢力を牽制したいのであれば、暗殺の矛先は竜馬ではなくて、後藤象二郎でなければおかしい。まして、土佐藩において武力討幕を唱える中岡慎太郎までもともに殺してしまったのでは、暗殺としてはあまりに拙劣である。そもそも、薩摩藩が幕府の組織である見廻組を使って暗殺を実行するはずがない。

――― 司馬本の愛読者が政治家に、無欲さとか無私といった資質だけを要求しはじめたら危険な面もあります。政治家は悪いものだと思っておいたほうがいい。(中略)実際の政治の場面で司馬作品に現れるようなリーダー像が期待されはじめると、やや危険かもしれない。(磯田)
――― あまりに清潔すぎる(吉田)
確かに磯田氏のいうとおりかもしれないが、よく議員先生のアンケートなどで、「好きな作家」に必ずといって良いほど、「司馬遼太郎」の名前が挙がっている。議員先生たちが本当に司馬作品を理解しているのであれば、もうちょっと志の高い人たちが顔を揃えてもいいのではないかと残念に思う。

この本では、秋山兄弟、東郷平八郎、児玉源太郎の子孫が対談している。NHKで「坂の上の雲」の放映が始まり、これを契機に書店でも関連本が所狭しと並べられている。まさに坂の上の雲」ブームである。あまり世の中の風潮に乗せられるのは本意ではないが、それでも「坂の上の雲」は欠かさず視ている。目の前で小説の世界が視覚化されているというそれだけで感激しており、感動のシーンでも何でもないのに涙が止まらない。最近は司馬先生の作品を読むことが少なくなってしまったが、やっぱり私は根っからの司馬信者なのである。

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毛呂山

2009年12月13日 | 埼玉県
(権田直助誕生地)


贈正五位権田直助翁誕生地遺蹟

 権田直助は、文化六年(1809)毛呂本郷に生まれた。生家権田家は、代々この地で医師を業としていた。勉学のため頻繁に江戸と往復する傍ら、名越舎という家塾を開いて郷土の子弟を教育した。江戸では幕府の侍医野間広春院に師事して医学を学ぶと同時に、神田駿河台の安積艮斎の私塾で漢学を修めた。直助は、古医道の研究に熱心な余り、治療を怠り家業も衰微して家族を苦境に陥らせる始末であった。文久二年(1862)直助は、家業を門人に任せて上洛し、京都市内でも名越舎という塾を開いた。ここで諸藩の志士と交わり、国事に奔走した。しかし、八一八の政変で朝廷が公武合体派の手中に帰すると、直助も帰郷せざるを得なくなった。慶応三年(1867)薩摩藩からの檄に応じて、家業を擲って薩邸に入る。このとき刈田穂積という変名を用いている。直助は、薩摩藩邸が焼き打ちされる直前に薩邸を脱出し、その後は鎮撫使に従って四国、中国まで遠征している。
 維新後は、相模の大山阿夫利神社の祠官となり没するまで大山に住んだ。明治十二年(1879)、権大教正、以降、皇典講究所教授、神道事務局顧問、大教正を歴任するなど、神道界、教育界で重きを成した。明治二十年(1887)七十九歳にて死去。

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越生

2009年12月13日 | 埼玉県
(渋沢平九郎自決の地)


渋澤平九郎自決之地


自刃岩

 顔振峠を越えた平九郎が一人黒山に差し掛かったところで官軍の斥候隊に遭遇し、藁に包んで隠し持っていた小刀で抵抗した。しかし、衆寡敵せず利あらずと悟った平九郎は大岩に座して自刃した。自決之地の石碑は、後年一族の渋澤栄一、敬三らによって建てられたもの。その傍ら、自刃岩と刻まれた石が乗せられた平たい岩の上で、平九郎が自決したと伝えられる。
 この岩を覆うように一本のグミの木が生えている。自決した若者の血のような赤い実をつけるこの木を、地元の人たちは「平九郎グミ」と呼んだという。

(全洞院)


全洞院

 平九郎の首は、官軍により越生法恩寺の門前に晒された。首の無い遺体は、若者の死を悼んだ村人たちにより全洞院の墓地に埋葬された。


渋澤平九郎之墓

(法恩寺)


法恩寺

 渋澤平九郎の首は法恩寺門前に梟され、のちに寺僧たちの手で境内の林の中に埋葬された。法恩寺の墓地入口に、「渋沢平九郎埋首之碑」と記された石碑が建てられている。


渋沢平九郎埋首之碑

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飯能 Ⅱ

2009年12月13日 | 埼玉県
(能仁寺)


源小川香魚墓

 「幕末維新埼玉人物列伝」(小高旭之著 さきたま出版会)という本を入手した。まだ読みとおしたわけではないが、幕末期に埼玉県にも実に多様な人物が活躍していたことが分かる。これからしばらくこの本を片手に埼玉県各所を訪ねることにしたい。
 この本の冒頭に紹介されているのが、小川香魚である。小川香魚は、弘化三年(1846)飯能の生まれで、十三歳のときに親元を離れて根岸武香(友山の次男)に師事した。本書によると、小川家と根岸家は姻戚関係にあったという。慶応三年(1867)飄然と出奔した。討幕派浪士を糾合しようという薩摩藩の檄に応じて薩邸に入ったのである。浪士たちは、江戸市中で略奪を繰り返した。挑発にのった幕府は、その年の十二月二十五日、庄内藩以下四藩に薩邸を襲撃させた。このとき香魚は脱出に成功するが、「共に薩邸に入りながら、陰に幕府に通じ密告していた」という噂のあった南永井村(現所沢市)の侠客の兄弟に天誅を加えることに決した。香魚は、同志の桜国輔と松田正雄と南永井村に赴き、侠客の兄弟を斬殺したが、逆に兄弟の子分や農兵に包囲されてしまう。三人は辛くもそこを脱したものの、川越今福村で川越藩兵に遭遇した。桜国輔と松田正雄はここで自刃。香魚は一人脱したが、藩兵の追撃を執拗であった。結局、逃げられないと悟った香魚は自ら銃で咽喉を撃ち抜いた。享年二十二。
 能仁寺には、本堂の東、北側の山腹、西側に墓地が広がるが、香魚の墓は、西側墓地の小川家墓域にある。

(天覧山)


天覧山から飯能市街を望む

 能仁寺の背後の山は、かつて羅漢山と呼ばれていたが、明治十六年(1883)この地で近衛諸兵対抗演習が行われ、明治天皇はこの山に登って演習を閲覧した。このとき山頂からの景色を明治天皇が絶賛したことから、以来この山は天覧山と称されるようになった。天覧山は標高百九十五㍍と、さほど高い山ではないが、山頂からは関東平野が一望できる。この日は空気が澄んでいたため、都心の摩天楼までがくっきりと見えた。
 山頂には、行幸記念碑が建てられている。


行幸記念碑


松園小川碑

 天覧山の中腹、熊笹の生い茂る藪の中に、小川松園、小川香魚父子の碑が建てられている。小川松園は香魚の父で、文政五年(1822)の生まれ。江戸に出て日尾荊山に就いて和漢の学問を修める傍ら、広く天下の志士と交わった。飯能に帰郷ののち、寺子を集めて君臣の大義名分、勤王を唱えた。松園は密かに各地の尊攘論者と交際していたが、慶応二年(1867)四月、病を得て四十五歳で世を去った。松園の遺志は、長男香魚に引き継がれることになった。
 松園の碑の題額は、土方久元。撰文と書は織田完之。


贈従五位小川香魚之碑

(顔振峠)


顔振峠

 その昔義経弁慶主従がこの峠を越えるとき、あまりの展望の素晴らしさに、顔を振り振り眺めたため顔振(こうぶり)峠の名が付けられたという。確かに眺めが素晴らしい。顔振峠には、平九郎の名前を冠する茶屋がある。


平九郎茶屋

 渋澤平九郎は渋澤栄一の義弟にして尾高藍香(新五郎)の実弟で、飯能戦争を戦った振武軍の副将である。慶応四年(1868)五月二十三日、羅漢山(現・天覧山)に立て籠もる振武軍に対し、官軍三千が総攻撃を仕掛けた。平九郎は傷つきながらも窮地を脱し、単身故郷下手計村(現・深谷市)に向かう途中、顔振峠に至った。このとき、茶屋の主人から落人姿では危ないと助言を受け、ここで百姓姿に身を変えた。平九郎は茶屋で草履を買い求め、刀を茶屋に預けて黒山方面に逃れたという。


顔振峠からの眺望


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