(大乗寺)
大乗寺
八王子は広い。西には高尾山を有し、南は相模原、東は日野と接する。北は多摩川を介してあきる野市や昭島市と向かい合っている。八王子北郊、もう少し行けばあきる野市という加住町の大乗寺墓地に小川椙太の墓がある。
小川椙太は、比企郡小川町(現埼玉県小川町)の出身。桃井春蔵の道場で剣の腕を磨き、渋澤栄一の知遇を得て、徳川慶喜に仕えた。慶応四年(1868)二月、彰義隊結成に参加し、上野戦争でも奮戦した。戦後、神田明神境内で官軍に捕えられ、小伝馬の獄に繋がれることになる。翌年、赦免され一時駿河に移住したものの、百姓の生活は性に合わなかったらしい。ほどなく東京に引き上げ、剣術道場を開いた。その傍ら、彰義隊戦死者の墓所の建立に執念を燃やした。椙太の悲願が成就したのは明治十七年(1884)のことである。今も上野の西郷隆盛銅像の近くに、山岡鉄舟揮毫の「戦死之墓」が建っているが、明治二十八年(1895)に世を去るまで、椙太はこの墓守として生涯を送った。
義勇院興郷日道居士
(小川椙太の墓)
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大乗寺
八王子は広い。西には高尾山を有し、南は相模原、東は日野と接する。北は多摩川を介してあきる野市や昭島市と向かい合っている。八王子北郊、もう少し行けばあきる野市という加住町の大乗寺墓地に小川椙太の墓がある。
小川椙太は、比企郡小川町(現埼玉県小川町)の出身。桃井春蔵の道場で剣の腕を磨き、渋澤栄一の知遇を得て、徳川慶喜に仕えた。慶応四年(1868)二月、彰義隊結成に参加し、上野戦争でも奮戦した。戦後、神田明神境内で官軍に捕えられ、小伝馬の獄に繋がれることになる。翌年、赦免され一時駿河に移住したものの、百姓の生活は性に合わなかったらしい。ほどなく東京に引き上げ、剣術道場を開いた。その傍ら、彰義隊戦死者の墓所の建立に執念を燃やした。椙太の悲願が成就したのは明治十七年(1884)のことである。今も上野の西郷隆盛銅像の近くに、山岡鉄舟揮毫の「戦死之墓」が建っているが、明治二十八年(1895)に世を去るまで、椙太はこの墓守として生涯を送った。
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義勇院興郷日道居士
(小川椙太の墓)