勝海舟は、西郷隆盛が西南戦争で斃れた後、その追悼と名誉回復に努めた。「亡友帖」を刊行し、留魂碑を建てた。さらに遺児西郷菊次郎(愛加那との間に生まれた長男)と寅太郎(イト夫人との間に生まれた嫡子)を援助した。また、明治三十一年(1898)、上野の西郷隆盛の銅像の除幕式に立ち会い、そこで歌を詠んだ。
勝海舟と西郷隆盛といえば、江戸無血開城の両雄として有名であるが、そのことだけで勝が終生をかけて西郷を追悼するほど、思い入れを持ったのだろうか。
両者の出会いは元治元年(1864)に遡る。西郷が「海舟は実に驚き入る人物、どれだけ智略があるのやら底知れぬ英雄肌合の人」と称揚したのはよく知られている。海舟の方は、会見の直後には特に感想らしきものは残していないが、後年「龍馬から聞いた通りの大人物だった」とコメントしている。
その後、両者が直接面談する機会は訪れず、特に濃密な書簡のやりとりがあったわけではない。むしろ両者の接触が増えたのは、維新後であった。それにしても現代の我々の目から見れば、さほど親密な付き合いがあったようには思えない。にもかかわらず、海舟が熱心に西郷の追悼に努めたのは、「海舟の明治政府嫌い」もっといえば西郷のいない、大久保利通を中心とした政府への反抗だったのではないかと私は解釈している。
勝海舟は、明治六年の政変で西郷が下野した翌年、大久保利通が台湾出兵を強行したことに抗議して、海軍大輔を辞職した。これにより、海軍においては大久保利通-川村純義というラインが確立し、海舟はそこから外れることになった。続いて元老院議官も辞退。その後、明治政府の要職に就くことは無かった。大久保には絶縁状に近い書状を送りつけ、これ以降両者の直接交渉は絶える。
明治政府に対し公然と嫌みを発信することができたのは、実力者である勝海舟以外にいなかっただろう。「亡友帖」に「蓋世之雄」と記し、留魂碑に「君を知る亦我に若くは莫し」と刻んだ勝は、当時明治政府の高官であった西郷従道や大山巌、黒田清隆らの顔を思い浮かべながら、独り溜飲を下げていたに違いない。
勝海舟と西郷隆盛といえば、江戸無血開城の両雄として有名であるが、そのことだけで勝が終生をかけて西郷を追悼するほど、思い入れを持ったのだろうか。
両者の出会いは元治元年(1864)に遡る。西郷が「海舟は実に驚き入る人物、どれだけ智略があるのやら底知れぬ英雄肌合の人」と称揚したのはよく知られている。海舟の方は、会見の直後には特に感想らしきものは残していないが、後年「龍馬から聞いた通りの大人物だった」とコメントしている。
その後、両者が直接面談する機会は訪れず、特に濃密な書簡のやりとりがあったわけではない。むしろ両者の接触が増えたのは、維新後であった。それにしても現代の我々の目から見れば、さほど親密な付き合いがあったようには思えない。にもかかわらず、海舟が熱心に西郷の追悼に努めたのは、「海舟の明治政府嫌い」もっといえば西郷のいない、大久保利通を中心とした政府への反抗だったのではないかと私は解釈している。
勝海舟は、明治六年の政変で西郷が下野した翌年、大久保利通が台湾出兵を強行したことに抗議して、海軍大輔を辞職した。これにより、海軍においては大久保利通-川村純義というラインが確立し、海舟はそこから外れることになった。続いて元老院議官も辞退。その後、明治政府の要職に就くことは無かった。大久保には絶縁状に近い書状を送りつけ、これ以降両者の直接交渉は絶える。
明治政府に対し公然と嫌みを発信することができたのは、実力者である勝海舟以外にいなかっただろう。「亡友帖」に「蓋世之雄」と記し、留魂碑に「君を知る亦我に若くは莫し」と刻んだ勝は、当時明治政府の高官であった西郷従道や大山巌、黒田清隆らの顔を思い浮かべながら、独り溜飲を下げていたに違いない。