史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「勝海舟と西郷隆盛」 松浦玲著 岩波新書

2012年11月18日 | 書評
勝海舟は、西郷隆盛が西南戦争で斃れた後、その追悼と名誉回復に努めた。「亡友帖」を刊行し、留魂碑を建てた。さらに遺児西郷菊次郎(愛加那との間に生まれた長男)と寅太郎(イト夫人との間に生まれた嫡子)を援助した。また、明治三十一年(1898)、上野の西郷隆盛の銅像の除幕式に立ち会い、そこで歌を詠んだ。
勝海舟と西郷隆盛といえば、江戸無血開城の両雄として有名であるが、そのことだけで勝が終生をかけて西郷を追悼するほど、思い入れを持ったのだろうか。
両者の出会いは元治元年(1864)に遡る。西郷が「海舟は実に驚き入る人物、どれだけ智略があるのやら底知れぬ英雄肌合の人」と称揚したのはよく知られている。海舟の方は、会見の直後には特に感想らしきものは残していないが、後年「龍馬から聞いた通りの大人物だった」とコメントしている。
その後、両者が直接面談する機会は訪れず、特に濃密な書簡のやりとりがあったわけではない。むしろ両者の接触が増えたのは、維新後であった。それにしても現代の我々の目から見れば、さほど親密な付き合いがあったようには思えない。にもかかわらず、海舟が熱心に西郷の追悼に努めたのは、「海舟の明治政府嫌い」もっといえば西郷のいない、大久保利通を中心とした政府への反抗だったのではないかと私は解釈している。
勝海舟は、明治六年の政変で西郷が下野した翌年、大久保利通が台湾出兵を強行したことに抗議して、海軍大輔を辞職した。これにより、海軍においては大久保利通-川村純義というラインが確立し、海舟はそこから外れることになった。続いて元老院議官も辞退。その後、明治政府の要職に就くことは無かった。大久保には絶縁状に近い書状を送りつけ、これ以降両者の直接交渉は絶える。
明治政府に対し公然と嫌みを発信することができたのは、実力者である勝海舟以外にいなかっただろう。「亡友帖」に「蓋世之雄」と記し、留魂碑に「君を知る亦我に若くは莫し」と刻んだ勝は、当時明治政府の高官であった西郷従道や大山巌、黒田清隆らの顔を思い浮かべながら、独り溜飲を下げていたに違いない。

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「第十六代徳川家達」 樋口雄彦著 祥伝社新書

2012年11月18日 | 書評
将軍家としての徳川家は、慶喜の代で終わったが、それで徳川家の命脈が尽きたかというとそういうわけではない。どっこい徳川家は、現代まで生き永らえている。
「十六代」を継いだのは、田安家出身の家達であった。徳川宗家を継いだとき、わずかに四歳。翌年には静岡藩知事に任じられ、以降旧幕臣の精神的支柱として存在感のある生涯を送った。天璋院(篤姫)が、幼き日の家達の養育に情熱を注いだのも有名な逸話である。
維新後の慶喜は、一切の政治や公職とは無縁のまま、趣味の世界に生きたのは良く知られているが、家達は政治と全く無縁というではなかった。明治二十三年(1890)に貴族院議員に選任されると、明治三十六年(1903)から昭和八年(1933)まで、実に三十年にわたり貴族院議長の座にあった。その間、総理大臣として組閣を打診されたこともあったが、固辞した。筆者は「生々しい政治の第一線からは距離を置き、家名を傷つけないよう常に細心の注意を払っていたと推測」している。
家達は、最後まで政治とは距離を置いていたが、東京慈恵会会長を始め、静岡育英会総裁や学習院評議会議長、日本赤十字社社長などの公職に就くことが多かった。それだけ「すわり」の良い人だったのだろう。昭和十五年(1940)に七十六歳で死去したが、近代史に着実にその足跡を残した。

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「戊辰戦争論」 石井孝著 吉川弘文館

2012年11月18日 | 書評
前掲佐々木克氏の「戊辰戦争」から七年後に発刊された石井孝教授(故人)の「戊辰戦争論」である。佐々木克氏の著述だけでなく、原口清氏らの戊辰戦争観への批判、反論が本論を書く動機となっている。石井氏は、「この内乱の発生を明治元年(1868)初頭の鳥羽伏見戦争においたのでは、内乱の性格と全貌を正しく認識することができない」とし、前史として幕長戦争から説き起こす。この姿勢には全く同感である。
石井孝氏は、「戊辰戦争の本質は、将来の絶対主義政権をめざす天皇政権(討幕派を中心とする)と徳川政権との戦争」と定義している。幕末の複雑な政局を理解するのに、図式化、構図化することは有用である。しかし、足かけ二年にわたる戊辰戦争を、「天皇絶対主義と大君絶対主義との戦争」と簡略化してしまうのはやや無理があるように思う。
「天皇絶対主義と大君絶対主義」という構図が適用できるのは、鳥羽伏見戦争までのことで、それ以降は新政府軍が戦う相手が変化する。上野戦争から宇都宮・日光戦争までは幕軍脱走兵や敗残兵が相手であった。北越戦争を含む白河戦争から会津戦争における敵は、奥羽越列藩同盟軍であった。そして箱館戦争は榎本政権との戦いであった。各戦争における相手がいずれも徳川政権の復権、しかも絶対主義を目指していたとは到底思えない。少なくとも奥羽越列藩同盟は、輪王寺宮能久親王を盟主としており、そこに徳川家の絶対政権は想定されていないのではないか。「天皇絶対主義」と「大君絶対主義」が対決したのは、最初の軍事的衝突=鳥羽伏見までの話のように思う。
「むすび」において、筆者は第一段階(鳥羽伏見から江戸開城まで)を本格的戦争と位置付け、第二段階は奥羽越列藩同盟との戦争で、これは第一段階と比較して「副次的」とする。先に紹介した「戊辰戦争」において「量的にも質的にも最大の戦争」と位置づける佐々木克氏を厳しく批判する。奥羽越列藩同盟との戦争は、征圧に要した物量、人的被害、日数、いずれをとっても間違いなく各段階の中で群を抜いて大きい。しかし、戊辰戦争の持つ意味合いを考えると「質的に最大」というには疑問が残る。もちろん結果からいうと実現は至難だったかもしれないが、会津藩の恭順を総督府が受領すれば、避けられた戦争でもあった。
第三段階の戦争、すなわち箱館戦争について「勝敗の帰趨は戦わずしてすでに決まっている」とする筆者の見解も頷ける。第三段階の戦争を「士族反乱の先駆的形態」と呼ぶのは、ちょっと大胆であるが、納得感はある。
ただし「絶対主義」という用語には、違和感が残る。通常「絶対主義」というと、むしろ西洋の中央集権的王制や専制的君主制を連想するが、討幕派にしても徳川慶喜にしても、中央集権的、専制的君主制を目指していたようには思えない。少なくとも鳥羽伏見の敗戦以降、完全に恭順と定めるまでの一カ月の間、慶喜は(松平春嶽や山内容堂らの)公議政体論に歩み寄り、その中で自分の政治的存続を描いていた。その時点で既に大君絶対主義は放棄していたと見る方が自然ではないだろうか。
いずれにせよ、この本は今から三十年以上も前に書かれたものであり、恐らく石井氏の反論に対し、その後佐々木氏も何らかの反論を試みたに違いない。両氏の論争の結末がどう決着したのか。興味が尽きない。

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「戊辰戦争」 佐々木克著 中公新書

2012年11月18日 | 書評
昭和五十二年(1977)に刊行され、今も出版が続けられているロングセラーである。その後、昭和五十九年(1984)に出された石井孝「戊辰戦争論」では、本書を「東北人によって書かれた戊辰戦争史としての主観性を含み、戊辰戦争の科学的理解において欠けるところがある」と批判しているが、星亮一氏の著作と比べればずっと客観的かつ科学的な印象を受ける。たしかに佐々木氏の後年の著述と比較すると、所々叙情的な表現が見られるのは事実であるが…。
本書では、鳥羽伏見戦争から箱館戦争に至るまで戊辰戦争の全体像をバランスよく描いており、戊辰戦争の入門書としては格好の書であろう。
新政府は、鳥羽伏見の戦争で勝利を収めると、早々に朝敵処分案を固めた。罪状の軽重によって五等に区分するものであった。第一等、第二等は、鳥羽伏見で敵対した主力、即ち徳川慶喜と松平容保、松平定敬である。第三等は藩主が滞坂し、政府軍に発砲、その上慶喜に従って東帰したもので、松平定昭(松山)、酒井忠惇(姫路)、板倉勝静(備中松山)である。第四等が本荘宗武(宮津)、第五等が戸田氏共(大垣)、松平頼聰(高松)であった。
この時点における処分は、飽くまで鳥羽伏見における戦争での責任の軽重を問うものであったが、会津藩に厳しい処分は、戦争の最初からその原型があったことが分かる。
慶應四年(1868)二月、東征大総督に対し、「会津藩松平容保、庄内藩酒井忠篤から助命嘆願があった場合、どう処置するか」という伺いが出された。その際、容保は「死謝」と決定された。佐々木克氏によると、この重大な決定を下したのは林通顕だという。通顕は諱で、通称は玖十郎。宇和島藩士で、藩主伊達宗城の信任が厚かった人物である。維新後の名前は、得能亜斯登(とくのうあすと)といった。一般にはほとんど知られていないこの人物がこの断を下し、その後、その方針は変更されることはなかった。奥羽鎮撫総督もその方針を踏襲し、会津藩や列藩同盟の謝罪嘆願は一切顧みられることはなかった。
戦後、明治二年(1869)十二月、明治新政府が発表した最終処分は、やはり会津藩にもっとも厳しかったが、その一方で会津と並んで「乱賊の巨魁」といわれた庄内藩は十七万石のうち、五万石を削減されただけであった。盛岡藩は七万石を削減されて十三万石に、二本松藩も五万七百石を削減されて五万石とされている。
では、会津藩と同様、幕末の政局でも「一会桑」の一角として終始薩長に抵抗し、戊辰戦争でも同盟軍の主力として各地を転戦した桑名藩の処分はどうだっただろうか。桑名藩は東征軍が進攻してくると、恭順して城を明け渡した。会津藩には恭順が認められず、桑名藩には認められた。この対応の差にも疑問が残る。藩主と佐幕派は分領柏崎に集合して、抵抗を続けた。その結果、桑名藩は五万石に半減されたものの、旧領地に戻され存続が認められている。やはり会津藩と比べれば、随分軽い処分である。
概ね寛大な処分にあって、何故か会津藩だけが厳罰に処された(勿論、各藩とも重臣の切腹や多額の献金など過酷な処分を受けている)。最終的な結論に至るまで、様々な議論とそれなりの理屈があったとは思うが、それにしても出された結論は、とても公平とは言えないものであった。
会津の処分には鳥羽伏見以前の経緯も反映されているのであろう。会津は幕末の政局において重要な役割を果たしたが、庄内藩あるいは東北諸藩はほとんど登場していない。その差が戦後処分にも反映されたのだろうか。

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八王子 Ⅵ

2012年11月11日 | 東京都
(大蔵院福生寺)


大蔵院福生寺

 平町の大蔵院福生寺は、元和七年(1621)の開創。農兵を組織して官軍に抵抗した佐藤彦五郎は、戦後家族を伴って大蔵院福生寺に避難した。

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府中 Ⅳ

2012年11月11日 | 東京都
(高安寺)


高安寺


贈正五位木曾源太郎義顯墓

 分倍河原駅で電車を降りて、旧甲州街道を東に数分歩くと、高安寺という少し大きな寺に行き着く。
 高安寺の広い墓地にあって、ひと際背の高い墓石が木曾源太郎のものである。
 木曾源太郎は熊本藩士。初め入江八千兵衛という名前であったが、自ら木曾義仲二十五代目の末裔と称して、木曾姓に改めた。林桜園に学び、のち平田銕胤、鈴木重胤らについて国学を修めた。長じて兵学の研究に専念した。安政末年に上京して、勤王の志士西園寺実満と行動をともにして、皇権の回復を画策した。文久元年(1861)熊本に戻って兵法師範をしていたが、文久三年(1863)、脱藩して再び上京し、倒幕運動に身を投じた。この頃、旭健と名乗った。同年十月、平野國臣、美玉三平らとともに生野で挙兵。代官所を占拠したが、幕府軍に鎮圧されて長州に逃れた。生野の変の首謀者は、大半が戦死または捕縛されたが、木曾源太郎は奇跡的に生き延びた。維新後は、伊勢度会藩判事や湊川神社、鎌倉宮の宮司を歴任した。晩年は、府中町の縁戚古瀬方(長女多賀子の嫁ぎ先)に隠棲した。大正七年(1918)十二月、八十歳にて死去。墓標の撰文は、沢宣嘉(生野の変の首領)の孫、沢宣一によるもの。

(観音院)


観音院


糟屋良循の墓

 旧甲州街道沿いの観音院には、土方歳三の三番目の兄、糟屋良循の墓がある。現在の町名は白糸台となっているが、当時は下染谷村といった。この地で医家を営んでいた糟谷家を継いで医師となった。

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曙橋 Ⅱ

2012年11月11日 | 東京都
(青峰観音)


青峰観音

 住吉町の交差点を北西に進む。緩やかな坂を上りきった辺りに、青峰観音がある。
 明治八年(1875)、伝馬町の獄がこの地に移った。ちょうど観音像のある辺りが首斬り場のあった場所という。市ヶ谷の監獄は中野に移転したが、大正初期に処刑場跡に観音像が置かれたのが、青峰観音の由来である。この観音堂の落成式には、山田浅右衛門(九代目吉顕)が家伝の刀を奉納したという。

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錦糸町 Ⅲ

2012年11月11日 | 東京都
(法恩寺)


法恩寺


陽運院

 実は六年前にも、法恩寺塔頭陽運院を訪ねたことがあったが、結局お目当ての祐天仙之助の墓は見つけられず、そのままになっていた。思い立って再度法恩寺を訪ねた。
 やはり簡単には見つけられず、半ば諦めかけたところで陽運院に入ると、中からちょうど若い坊さんが出てきた。「祐天仙之助の墓にお参りしたい」と申し出ると、墓までご案内いただけた。墓の在り処は法恩寺の塔頭の一つ千榮院の向かいにある広い墓地である。入って左手の壁沿いに戒名を刻んだ墓がある。坊さんは、墓の前に線香を置くと、「先にお参りしてください。研究はそのあとで」と言って去って行った。


本哲院宗勇智山居士
(山本仙之助の墓)

 祐天仙之助こと山本仙之助は、甲斐西山梨郡相川村の出身で、甲州博徒の大親分であった。文久三年(1863)、幕府が浪士組を結成したのに、子分三十人を引き連れて応募し、五番隊長に任じられた。祐天仙之助は過去に甲斐南巨摩郡鰍沢で下野喜連川左馬頭家来大村某を殺したことがあった。江戸に戻って新徴組隊士となった仙之助は、遺子大村達尾らにより同年十月十五日、北千住の女郎屋前で仇討ちにあった。死亡年齢不詳。

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鶯谷 Ⅱ

2012年11月11日 | 東京都
(法清寺)


法清寺


松長長三郎の墓

 長谷川伸「佐幕派史談」に「松長長三郎の死」という小編がある。さっそく松長長三郎の墓を訪ねて入谷の法清寺に行ってみた。さして広くはない墓地であるが、散々歩いても墓は見つけられなかった。
 二日後、再挑戦。この日も暑い日であった。古そうな墓の裏面側面を一つひとつ確認しながら歩いて、ようやく松長長三郎の墓に出会うことができた。

 松長長三郎は、新潟奉行所の下僚であった。幕末の新潟奉行は七代目白石下総守で、その部下である田中廉太郎は組頭である。松長長三郎は、田中廉太郎の部下であり、新潟奉行の組織にあってはトップどころか、三番手という存在であった。当時、新潟は北越における良港であり、横浜から武器弾薬などを輸送するにも重要な拠点であった。幕末の風雲も新潟の地に及び、新潟の重要性に気が付いた新政府と奥羽越列藩同盟との間に激しい綱引きがあった。白石下総守は、田中廉太郎を同行して江戸に上り、徳川家に新潟の処置について指示を仰いだ。徳川家からは、新政府に引き渡すよう下知があり、白石は江戸にあった北陸道総督府に出頭して請け書を差し出した。白石は新潟奉行を免じられたことからそのまま江戸にとどまったが、田中は新政府に召しだされ、急ぎ新潟に赴くよう命じられた。田中が新潟に立ち戻ったのは、慶應四年(1868)閏四月のことである。その後、上司である田中廉太郎は磐城平で身柄を拘束され、松長は事実上の新潟奉行(厳密にいうと新潟奉行勤向)のトップとなっていた。列藩同盟軍は松長を呼び出し、拘禁された松長は連日取調を受けた。拘束が十日に及んだ七月二十八日、松長は割腹して果てた。長谷川伸によれば「なぜ自殺したか、これを説くべき的確な資料が見当たらない」という。いずれにせよ、松長長三郎が自刃した翌日、新政府軍の猛攻に耐えられず、米沢藩士色部長門は壮烈な死を遂げ、同盟軍は新潟から駆逐された。結果からいえば、松長長三郎があと一日生き永らえていれば、新しい世で活躍する道も開けただろう。時に四十二歳。松長の遺体は、当初新潟法音寺に葬られたが、新潟における戦争が落着して後、改めて火葬に付され、入谷の法清寺に埋葬された。

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「佐幕派史談」 長谷川伸著 中公文庫

2012年11月03日 | 書評
この本には「佐幕派」と聞いて連想するような幕臣や会津藩士はほとんど登場しない。ちょっとは名の知られた存在と言えるのは古屋佐久左衛門くらいのもので、あとはほぼ無名の人物ばかりである。この本が発刊されたのは、昭和五十一(1976)であるが、最初に世に問われたのは、昭和十七年(1942)というから今からもう七十年も前のことになる。この七十年の間、長谷川伸以外に三浦権太夫や熊谷助右衛門を描いた作家が一人でもいただろうか。著者が「脛毛の筆」を著したことで、没後六十年を経てようやく三浦権太夫は靖国神社に合祀されたという。今でも二本松に行けば、三浦権太夫終焉の地には石碑が残されている。「埋没している人々を発掘して書く」という姿勢を貫く著者の真骨頂といえる。
不勉強を恥じるしかないが、私も「松長長三郎の死」という一編を読んで初めて松長長三郎という人物の存在を知った。さっそく入谷の法清寺に行って、松長長三郎の墓を探してみたが、見つけられなかった。私の探し方が足らなかったのかもしれないが、この作品が描かれて半世紀以上が経過し、長三郎の墓も消滅してしまったのかもしれない。とすれば、非常に残念である(失礼しました。再度、入谷の法清寺を訪ねて、松長長三郎の墓を探し当てました。間違いなく現存しています)。
「古屋佐久左衛門」では、今となっては取り立てて新しい情報はなかったが、本作品では「互いに立志を語った兄は戦傷し、弟はその治療に手を下す、好個の劇的光景」と記している。確かにこれが事実とすれば極めてドラマティックであるが、事実はどうだろう。高松凌雲の自伝では、古屋佐久左衛門の入院や治療には一切触れられていない。このことから類推すると、凌雲は兄の治療には直接手を下していないと考えるのが、妥当のように思う。

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