帯に「江戸時代の日本は「鎖国」ではなかった」とややセンセーショナルに記載されている。
筆者は、近世国際関係史を専門とする大学の先生である(現在は立教大学名誉教授)。江戸時代の日本は、「四つの口」すなわち長崎、対馬、薩摩、松前を通じて海外と繋がり、開かれていたというのが本書のキモである。この体制を「鎖国」と呼ぶのは誤解を招く。代わって「海禁・日本型華夷秩序」と呼ぶべきだとする。
本書は、第Ⅰ部は川崎市民アカデミーにおける講義、第Ⅱ部は2017年の明治維新史学会における講演会をもとに修正を加えて文庫としたものである。先生の主張は終始一貫している。
我が国は鎖国などしていない。にもかかわらず、「鎖国・開国言説」がいまだに行われている背景には、我が国が江戸時代を通じて「鎖国」していたため、世界の進歩から取り残されていたが、「開国」によって近代化に成功し、欧米諸国と肩を並べる、いわゆる一等国になったという物語を正当化するためこの言説がまかり通っているのだと、ほとんどいきり立っている。もともと講演録を文字にしたものなので、先生の熱量が文面から伝わってくるものとなっている。
ご指摘のとおり、江戸期を通じて我が国は長崎を通じてオランダ、中国と通商を行っていた。タテマエとして幕府は貿易には直接関与せず、民間レベルの交易にとどまっていたが、中国やオランダ産の生糸や絹織物が輸入され、日本からその対価として銀や銅、あるいは海産物などが輸出された。近世日本は決して自給自足ではなく、国内で調達できない必要な物資は「四つの口」を通じて補給していたというのである。
そこで気になったのは、「四つの口」をほぼ対等に描いているが、特に薩摩を通じた琉球(その背後に中国がある)との交易、さらに松前藩を通じてアイヌとの関係(筆者によればその背後にはロシアがある)である。薩摩藩の琉球との交易は密貿易だったと理解している。さらに松前藩とアイヌの関係はとても交易と呼べるようなものではなく、松前藩による一方的な搾取のイメージが強い。これを以て「近世日本は鎖国していない」というのはかなり無理があるのではないか。
結局のところ、開国・鎖国という言葉の定義が曖昧、さらにいうと個人によって受け止め方が異なることに論争の原因があるのかもしれない。幕末によく使われた言葉でいえば、「攘夷」という言葉にも幅があった。条約を破棄して直ちに外国人を追い払うという即時攘夷を考える者もいれば、交易を盛んにして国力を高めた上で覇を唱えるという大攘夷の考え方もあった。
「鎖国はしてなかった」という主張には異論はないが、だったら自由貿易や海外渡航を認めるような「開国をしていた」のかというとそうではない。開国と鎖国の間であって、どちらかというと「鎖国寄り」というのが実態ではなかろうか。
この実態を表すため筆者は、新たに「海禁・華夷秩序」とい概念を持ち出している。「海禁」という言葉はやや聞きなれないかもしれないが、もともと明王朝で使われていた「下海通蕃之禁」という熟語を縮めたもので、一般人が海外に出たり外国人と自由に交際することを禁止した制度のことである。確かに江戸時代の日本は海禁政策を採っていた。
「華夷意識」あるいは「華夷秩序」という概念も、もともと漢民族の伝統的な意識からきている。彼らは自分たちが世界の中心であり、他の国は文化的劣っていると認識しているが、こういった意識は中国に限ったものではなく、日本にも当てはめることができる。朝鮮、琉球、清、オランダは、徳川幕府に服属的儀礼を尽くすことによって関係を維持することができた。筆者がいう「日本型華夷秩序」である。
筆者は「鎖国と呼ぶのは断じて容認できない」と強硬である。かといって「海禁・華夷秩序」という概念も実態を網羅的に表しているとも言い難い。そもそも近世日本における複雑な国際関係を一つや二つの単語で表現しようとすることに無理があるのかもしれない。近世日本は決して完全に国を閉ざしていたわけではないという実態を正確に理解した上で「鎖国」「開国」といった言葉を使うことが何より重要であろう。すみません。筆者にいわせれば、頭のかたいアンポンタン的結論かもしれませんが。