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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「「鎖国」を見直す」 荒野泰典著 岩波現代文庫

2021年09月25日 | 書評

帯に「江戸時代の日本は「鎖国」ではなかった」とややセンセーショナルに記載されている。

筆者は、近世国際関係史を専門とする大学の先生である(現在は立教大学名誉教授)。江戸時代の日本は、「四つの口」すなわち長崎、対馬、薩摩、松前を通じて海外と繋がり、開かれていたというのが本書のキモである。この体制を「鎖国」と呼ぶのは誤解を招く。代わって「海禁・日本型華夷秩序」と呼ぶべきだとする。

本書は、第Ⅰ部は川崎市民アカデミーにおける講義、第Ⅱ部は2017年の明治維新史学会における講演会をもとに修正を加えて文庫としたものである。先生の主張は終始一貫している。

我が国は鎖国などしていない。にもかかわらず、「鎖国・開国言説」がいまだに行われている背景には、我が国が江戸時代を通じて「鎖国」していたため、世界の進歩から取り残されていたが、「開国」によって近代化に成功し、欧米諸国と肩を並べる、いわゆる一等国になったという物語を正当化するためこの言説がまかり通っているのだと、ほとんどいきり立っている。もともと講演録を文字にしたものなので、先生の熱量が文面から伝わってくるものとなっている。

ご指摘のとおり、江戸期を通じて我が国は長崎を通じてオランダ、中国と通商を行っていた。タテマエとして幕府は貿易には直接関与せず、民間レベルの交易にとどまっていたが、中国やオランダ産の生糸や絹織物が輸入され、日本からその対価として銀や銅、あるいは海産物などが輸出された。近世日本は決して自給自足ではなく、国内で調達できない必要な物資は「四つの口」を通じて補給していたというのである。

そこで気になったのは、「四つの口」をほぼ対等に描いているが、特に薩摩を通じた琉球(その背後に中国がある)との交易、さらに松前藩を通じてアイヌとの関係(筆者によればその背後にはロシアがある)である。薩摩藩の琉球との交易は密貿易だったと理解している。さらに松前藩とアイヌの関係はとても交易と呼べるようなものではなく、松前藩による一方的な搾取のイメージが強い。これを以て「近世日本は鎖国していない」というのはかなり無理があるのではないか。

結局のところ、開国・鎖国という言葉の定義が曖昧、さらにいうと個人によって受け止め方が異なることに論争の原因があるのかもしれない。幕末によく使われた言葉でいえば、「攘夷」という言葉にも幅があった。条約を破棄して直ちに外国人を追い払うという即時攘夷を考える者もいれば、交易を盛んにして国力を高めた上で覇を唱えるという大攘夷の考え方もあった。

「鎖国はしてなかった」という主張には異論はないが、だったら自由貿易や海外渡航を認めるような「開国をしていた」のかというとそうではない。開国と鎖国の間であって、どちらかというと「鎖国寄り」というのが実態ではなかろうか。

この実態を表すため筆者は、新たに「海禁・華夷秩序」とい概念を持ち出している。「海禁」という言葉はやや聞きなれないかもしれないが、もともと明王朝で使われていた「下海通蕃之禁」という熟語を縮めたもので、一般人が海外に出たり外国人と自由に交際することを禁止した制度のことである。確かに江戸時代の日本は海禁政策を採っていた。

「華夷意識」あるいは「華夷秩序」という概念も、もともと漢民族の伝統的な意識からきている。彼らは自分たちが世界の中心であり、他の国は文化的劣っていると認識しているが、こういった意識は中国に限ったものではなく、日本にも当てはめることができる。朝鮮、琉球、清、オランダは、徳川幕府に服属的儀礼を尽くすことによって関係を維持することができた。筆者がいう「日本型華夷秩序」である。

筆者は「鎖国と呼ぶのは断じて容認できない」と強硬である。かといって「海禁・華夷秩序」という概念も実態を網羅的に表しているとも言い難い。そもそも近世日本における複雑な国際関係を一つや二つの単語で表現しようとすることに無理があるのかもしれない。近世日本は決して完全に国を閉ざしていたわけではないという実態を正確に理解した上で「鎖国」「開国」といった言葉を使うことが何より重要であろう。すみません。筆者にいわせれば、頭のかたいアンポンタン的結論かもしれませんが。

 

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「渋沢栄一の足跡をたどる旅」 「渋沢栄一の足跡をたどる旅」製作委員会著 講談社

2021年09月25日 | 書評

大河ドラマ「青天を衝け」の視聴率が好調なようである。オリンピックやパラリンピックで中断しているが、私も毎回欠かさず視ている。

主役渋沢栄一を扱った書籍も多数刊行されている。書店では「渋沢栄一コーナー」が設けられているが、そこで見つけたのが本書である。渋沢栄一の伝記は、どれも似たりよったりであるが、関連史跡をまとめて紹介している本は多くない。

九十一歳まで長生きした渋沢栄一には、それだけ関連史跡も多い。しかも北海道から関西まで拡がっている。ここで紹介されている史跡は、ほとんど訪問済みであるが、それでも未踏地が残っている。特に北海道清水町や群馬県伊勢崎市、藤岡市の史跡は盲点であった。

巻末には渋沢栄一が関わった六百に及ぶ企業がリストアップされている。「渋沢は生涯五百~六百社の設立に関わった」と言われるが、具体的社名を知ったのは初めてであった。こうして見ると、銀行や重工業、インフラ、電鉄会社が圧倒的に多く、食品関係BtoC企業はサッポロビール以下数えるほどしかない。彼が何を重視していたかを物語っているように思われる。

 

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「越前福井藩主 松平春嶽」 安藤優一郎著 平凡社新書

2021年09月25日 | 書評

本書では福井藩の成り立ちから書き起こされる。福井藩祖結城秀康は、徳川家康の二男として生まれた。しかし、家康の跡を継いで将軍職を継承したのは、すぐ下の弟である秀忠とその子孫であった。長幼の順からすれば、秀康が後継ぎになっても不思議はなかったが、家康が秀忠を選んだ背景には、秀康が豊臣秀吉のもとに養子に出され、下総の名族結城氏を継いだという事情があった。

結城秀康は慶長十二年(1607)に三十四歳という若さで病死し、長男忠直が跡を継いだ。忠直は大阪夏の陣で奮闘し戦功を挙げたが、茶器を与えられただけで加増はなかった。

しかも、家康の九男、十男、十一男がそれぞれ将軍家を継ぐ資格をもつ御三家を起こしたというのに、越前松平家にその資格は与えられなかった。忠直の幕府に対する不満は募っていった。忠直は幕府の命を受けて隠居させられ、代わって忠直の異母弟である忠昌が越前福井藩主を継ぐことになった。

越前家を巡る微妙な空気は、その後もそのまま続いたが、福井藩の分家である高田藩、越前大野藩、越前勝山藩、松江藩、明石藩、津山藩、糸魚川藩、松江の分家である広瀬藩、母里藩などを合わせると一門の石高は百万石を越えた。しかし親藩大名は幕政に関与することはできず、幕府の役職に就けるのは譜代大名に限られた。幕府からしてみれば、大封を与える代わりに政治的発言を封じ込めようという意図が秘められているのである。越前家を継いだ春嶽にとって幕政参加は、彼一人にとどまらず越前家累代の悲願でもあった。

本書で紹介されているように、春嶽が幕政参加のために選んだパートナーは、やはり政治参加が許されない外様の薩摩藩であった。越前福井藩と薩摩藩は、「薩越同盟」とも呼ぶべき緊密な関係を築いた。両藩は、政治上のパートナーであるだけではなく、経済上のパートナーでもあった。福井藩では生糸などの専売を通じてそれを莫大な出費に充てようとはかったが、その販売先として想定されたのが薩摩であった。

薩摩藩と結んで実現した元治元年(1864)の参預会議や慶應三年(1867)の賢候会議は、春嶽が思い描いた雄藩連合構想に近いものであっただろう。しかし、いずれも慶喜によって雄藩連合構想は骨抜きにされた。安政年間に春嶽や島津斉彬が熱心に将軍後継に推した慶喜が、薩摩、越前両藩にとって最大の政敵となったのである。

賢候会議の頓挫以降、薩摩藩は討幕に傾倒していく。対幕強硬派の西郷隆盛、大久保利通の主導のもと、討幕を見据える形で長州や土佐と合従連衡策を進めたが、徳川家第一の親藩を自認する福井藩は薩摩と道をたがえることになった。親藩福井藩の限界であった。

慶應三年(1867)十二月の王政復古のクーデターは、福井藩にとって驚天動地の出来事であった。岩倉具視や薩摩藩の思惑は慶喜を新政府から排除するものであった。春嶽はこれに反発したが、薩摩藩としては薩摩中心の新政府と見られるのを避けるためにも、親藩福井藩、御三家筆頭の尾張藩は新政府側に取り込んでおきたかった。春嶽や尾張の慶勝の尽力で慶喜の新政府入りが内定した。しかし、江戸における薩摩藩邸焼討、それに続く鳥羽伏見の戦いによって、春嶽らの巻き返しは水泡に帰した。

春嶽は明治新政府の議定に迎えられる。しかし、親藩大名出身というだけで、常に政府内で疑念が向けられ、意見はなかなか通らなかった。春嶽は何度も辞職を申し出ているが、都度慰留された。春嶽は、西国の外様大名が主導権を握る新政府と、野党的存在である親藩・譜代大名とを繋ぐ、貴重な存在であり、挙国一致には欠かせない存在であった。春嶽が公職を離れたのは、ようやく明治三年(1870)七月のことである。

幕末から明治にかけて福井藩と春嶽の果たした役割は、「徳川一門の大名でありながら、公論をキーワードに徳川家独裁の政治体制ではなく、挙国一致の国家造りを牽引したことに尽きる」という。その政治理念から五箇条の御誓文、のちの議会制度につながる公議所も生まれたとする。

常々、「歴史は公正中立に見るべし」と自戒している私であるが、青春時代を送った福井のことになると、冷静ではいられない(先日もコンビニの店頭で北陸人のソウルフード「8番ラーメン」のカップ麺を二個発見し、二個とも買ってしまった)。慶喜に振りまわされ、あまり存在感を発揮できなかった。どちらかというと「残念な藩」という印象は拭えないが、本書によって福井藩と春嶽の歴史的役割を確認することができたのは収穫であった。

 

 

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瑞浪 Ⅲ

2021年09月18日 | 岐阜県

(土岐町)

 土岐町の下街道沿いに明治天皇土岐小休所碑が建てられている。石碑の背後は雑草が生い茂り、廃屋が放置されている状態である。

 明治十三年(1880)六月二十九日、明治天皇がこの地にあった安藤茂兵衛宅で休憩したことを記念したものである。

 

明治天皇土岐御小休所

 

(釜戸町)

 

明治天皇釜戸行在所

 

 釜戸町の土岐川を臨む民家の前に明治天皇釜戸行在所碑が建てられている。明治十三年(1880)六月二十九日、明治天皇が小川兵蔵宅で昼食休憩したことを記念したものである。

 

土岐川

 

(琵琶峠)

 中山道は改修や荒廃により、江戸時代の現状を残すところが少なくなっている。瑞浪市内の釜戸町、大湫町、日吉町にまたがる約13キロメートルは、丘陵上の尾根を通っているため開発の手が届かず、往時の原形をとどめている。特に琵琶峠を中心とする約1キロメートルは、五百メートル以上にわたる石畳も確認されている。東側の上り口より琵琶峠を目指す。

 

中山道 琵琶峠東上り口

 

琵琶峠の石畳

 

 石畳は江戸時代の舗装道路である。未舗装道路は雨が降るとぬかるみ、わらじ履きの旅人を悩ませたことだろう。牛馬の通行にも大きな支障をきたした。石畳による舗装は、画期的な改善であった。

 とはいえ、前夜の雨で石の上は滑りやすく、現代人にとっては歩きにくい道である。およそ八分の徒歩で琵琶峠に行き着く。

 

中山道 琵琶峠

 

 琵琶峠には、烏丸光栄(公家・歌人)や太田南畝(狂歌師)、岡田文園(尾張藩士・国学者)らの文学碑が建てられている。小さな展望台が設けられているが、さほど見晴らしが良いとはいえない。

 

琵琶峠からの眺望

 

和宮歌碑

 

 和宮の歌碑である。

 

 住み馴れし都路出でて けふいくひ

 いそぐもつらさ 東路のたび

 

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土岐

2021年09月18日 | 岐阜県

(神明坂)

 

明治大帝駐蹕碑

 

 土岐市土岐津町土岐口神明坂に明治天皇の聖蹟碑がある。明治大帝駐蹕碑は、野村素介の書。野村素介は長州藩出身の政治家で、元老院議官などを歴任した。書家としても知られ、全国各地に書が残されている。

 

萬古不滅

 

聖徳無窮

 

 明治十三年(1880)六月二十九日、明治天皇が東山道を巡幸し、この地で鳳輦が三時間余りとどまったことを記念したものである。

 

(土岐口)

 

鈴木家

 

 土岐口の鈴木家には、中山道大湫宿本陣の一部が移築され、皇女和宮の宿泊した座敷が保存されている。一般公開されていないので、外観だけで撤収。

 

(慈徳院)

 

慈徳院

 

明治帝御供水

 

 明治十三年(1880)六月、明治天皇が下街道を通って京都に向かう際、高山の深萱邸にて慈徳院で汲み上げた聖水を用いてお茶を飲んだ。そのことを記念した御供水碑である。

 

(高山)

 

明治天皇高山御小休所

 

 高山は下街道十五里二日の行程の中間地点で、馬継場、宿場町として栄えた。下街道は、恵那槇ヶ根追分から名古屋城下を結ぶ、中山道の脇街道である。中山道よりも峠が少ないため、利便性が良く、善光寺参り、御岳参り、伊勢神宮参りの人々が往来し、信州、美濃、尾張から出荷される荷物が牛馬によって輸送された。

 明治天皇は、明治十三年(1880)、中山道を通って京都までの巡幸の際、六月二十九日の午後二時頃、深萱英次宅に到着した。天皇は建物奥の庭に面した十二畳の間に、皇族、太政大臣ほか供奉員らは隣接した四室に入って休息をとった。

 

(南宮神社)

 

南宮神社

 

明治天皇観陶聖蹟

 

 明治十三年(1880)六月二十九日、この地で明治天皇は陶芸の様子をご覧になった後、高山御小休所で休憩した。

 

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多治見

2021年09月18日 | 岐阜県

(永保寺)

 

永保寺本堂

 

 虎渓山永保寺は、鎌倉末期、夢想疎石らが、この地の深山幽谷に魅せられて庵を結んだのが始まりで、中国廬山の虎渓の風景にあやかり、虎渓山と名付けられた。暦応二年(1339)には北朝の光明天皇の勅願寺となり、室町時代には守護土岐氏の保護により、三〇余の僧坊が立ち並んで隆盛を極めた。しかし、戦国時代には再三の戦乱で荒廃し、現在まで塔頭として存続しているのは、保寿院、続芳院、徳林院の三つのみとなっている。

 和宮は上洛の途中、永保寺に滞在した。和宮は永保寺からわざわざ「一呑みの清水」(現・御嵩町)から清水を取り寄せ、点茶を楽しんだと伝えられる。

 

六角堂(霊擁殿)

 

 梵音巌上の六角堂には、千体地蔵が祀られている。滝の水は、虎渓山北西にある「しでこぶし」群生地付近の湧水を集めたものという。

 

無際橋と観音堂

 

 永保寺庭園は夢想疎石の初期の作庭。西から迫る長瀬山や、前を流れる土岐川の清流奇岩を借景としている。古来より「虎渓三十六景」と称され、多くの文人墨客に親しまれてきた。国宝に指定されている観音堂は、観音閣、水月場ともいわれる。正和三年(1314)の建立で、永保寺ではもっとも古い建物となっている。

 

(西浦庭園)

 

西浦庭園

明治天皇行在所蹟

 

 西浦庭園は、幕末から明治にかけて美濃焼や町の発展に貢献した西浦圓治の庭園で、かつて離れ座敷が建てられていた。この離れ座敷は、明治十三年(1880)六月、明治天皇下街道巡幸の際に行在所となった。この巡幸には、伏見宮、太政大臣三条実美をはじめとするお供があり、千人を超える大行列であった。その夜は、岐阜提灯を五〇張以上灯し、数千匹のホタルを放って天皇の旅情を慰めたという。明治天皇は「木曽路以来、初めて賑々しい景況である」と喜んだ。

 離れ座敷の建物は、表門とともに大正時代の初め頃、京都嵯峨の宝筐院へ移築され、今も書院として残されている。

 

明治天皇行在所旧蹟

 

 庭園内には、三基の聖蹟碑が建てられている。明治天皇行在所旧蹟碑は岸信介の書。

 

明治天皇行在所聖蹟

 

西浦庭園

 

明治天皇御駐輦地

 

 明治天皇駐輦地碑は元帥東郷平八郎の筆。

 

(御幸公園)

 

御幸公園

公園は犬の便所ではありません

 

 御幸公園は西浦庭園から少し離れた場所にある。この地には、西浦圓治(1806~1884)が、後年を過ごした別邸があり、西浦庭園と呼ばれた名園があった。

 西浦家は、江戸時代からの大きな陶器商で、西浦焼と呼ばれる陶磁器の生産に乗り出すなど、美濃焼の品質向上とその名を世に広めることに尽力した。

 西浦庭園は、江戸時代末期に作られたもので、滝を備えた池を中心に古樹が茂り、各所に奇岩が配されて、大変静かな趣があったといわれる。第二次大戦後、庭園は分割して売却され、今はわずかに石組みが往時を偲ばせるのみとなっている。

 御嵩町の愚渓寺に茶室が移築保存されているという。

 

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可児 Ⅱ

2021年09月11日 | 岐阜県

(土田宿本陣)

 

史跡 土田宿本陣址

 

史跡 土田宿本陣址

 

 土田(どた)宿は、中山道が整備される以前からの宿駅であった。慶長五年(1600)には徳川秀忠が関ヶ原合戦の際、ここに宿泊した記録が残る。また初代尾張藩主徳川義直も、本陣に宿泊し、この一館を「止善殿(しぜんでん)」と名付けた。しかし元禄七年(1694)、伏見宿が新設されると、中山道の宿場としての使命を終えている。

 

 

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下呂

2021年09月11日 | 岐阜県

(都築家)

 

都築家

 

 下呂市は下呂温泉で全国的な知名度を誇るが、実は上呂、中呂という場所もある。上呂に近い下呂市萩原町羽根に天正年間に建築されたという都築家住宅がある。

 奥座敷は明治元年(1868)の梅村騒動で梅村速水高山県知事が投宿したことでも知られる。

 

(はぎわら ふれあい通り)

 

ファンシーショップ「陣屋」

 

 ファンシーショップ「陣屋」店内には、梅村騒動で打ち壊しの群集が刀傷を付けた陣屋の柱が残っているという。例によって、私がこの場所を訪ねたのは、午前七時前だったため店内を見ることはできなかった。

 

(玉龍寺)

 

玉龍寺

 

 玉龍寺には、万延元年(1860)の遣米使節団に賄方として参加した加藤素毛(そもう)雅英の墓がある。八人の連名墓であるが、一番右に素毛の法名「霊芝庵鳳山素毛居士」が刻まれている。

 

霊芝庵鳳山素毛居士(加藤素毛の墓)

 

(下原小学校)

 現在、下原小学校のある場所に、天正年間に飛騨を平定した金森長近が中山七里の道路を改修した後、陣屋を建設した。長近は国内の各地に陣屋を築いたが、下原旅館は飛騨の玄関口として重要な役割を果たした。堀を巡らし、米蔵や武器蔵を備えた旅館の館主には山下市正氏政(道安)があたり、金森氏が京都、大阪、伏見などへの参勤の行き来の宿泊に使われていた。正門脇に下原旅館(陣屋)跡を示す標柱が建てられている。

 

下原小学校

 

下原旅館(陣屋)跡

 

 下原小学校には加藤素毛の句碑がある。素毛は早くから文雅の道に造詣が深く、ことに俳諧を好んだ。ほかにも和歌や絵画にも素養があった。

 

(加藤素毛記念館)

 

加藤素毛記念館(霊芝庵)

 

 加藤素毛の生家に記念館が開設されている。素毛の雅号に因んで霊芝庵と称されている。素毛は紫色角形の霊芝(サルスベリ科の万年茸)を珍蔵し、常に携帯していたという。

 霊芝庵は、朝十時の開館。普段は無人だが、電話をすれば開けてくれる。私がここを訪れたのは朝八時だったので拝観することはできなかったが、素毛の遺品を展示している。

 

 加藤素毛は、文政八年(1825)の生まれ。嘉永年間、高山に出て飛騨郡代小野朝右衛門の公用人となり、朝右衛門の長男鉄太郎(のちの山岡鉄舟)とも交わりを結んだ。俳諧を能くし、豪家の二男という恵まれた身の上の加え、終生妻を娶らなかった身軽さから、嘉永五年(1852)二月、郷里を立って筑紫巡りの旅に出て、安政元年(1854)正月帰郷した。筑紫旅行後、米国渡航の人選が決まる安政六年(1859)の行動は明らかではない。安政六年(1859)の日米修好通商条約の本書批准交換のために遣米使節の派遣が決まるや、素毛は外国方御用達伊勢屋平作の手代として使節の一行に加えられ、翌万延元年(1860)正月、米艦ポーハタン号に乗って品川沖を出帆して米国に渡航し、世界一周して九月帰朝した。帰国後は、各地で洋行談を試み、文久元年(1861)八月、高山から美濃の上有知を経て名古屋に至った。ここでの洋行談が水野正信(尾張藩重臣大道寺家の家臣)記した「二夜語」である。その後の行動は不明であるが、明治二年(1869)四月、実家の加藤家は高山県知事梅村速水に与するものと睨まれ、一揆暴徒の襲撃を受けた。明治五年(1872)の夏、伊勢の国学者佐々木弘綱が高山の富田礼彦の招きに応じて飛騨に来たとき、素毛はその講筵に列して深い感銘を受けたという。明治十二年(1879)、年五十五で没。

 

(下原八幡神社)

 加藤素毛は常に諸国を吟遊した。嘉永五年(1852)の関西九州一周の旅はことに有名である。素毛はこの大旅行を記念して、下原八幡神社に丸い懸額の絵馬を奉納した。

 また米国から帰朝後、持ち帰ったアメリカの国旗(星条旗)を八幡神社に奉納した。

 

下原八幡神社

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高山 Ⅱ

2021年09月11日 | 岐阜県

(飛騨護国神社)

 実に十五年振りの高山となった。前回は鉄道を使ったが、今回は自家用車での訪問となった。以前の職場に高山出身の女性がいて、彼女によれば家族で帰省する際にはいつも松本から国道158号線を使っていると聞いていたので、迷わずこのルートを採用した。松本市街地を出て二時間足らずで高山に到着した。

 高山では市内の観光駐車場で夜を明かした。その駐車場から近い場所に飛騨護国神社がある。夜明けとともに、十五年前に見落とした梅村速水遺愛碑を訪ねた。岩倉具視の篆額。

 

飛騨護国神社

 

梅村速水遺愛碑

 

(北ヶ洞墓地)

 左京町の北ヶ洞墓地は古い墓石が並ぶ墓地である。雑草が生い茂り、お世辞にも手入れが行き届いているとはいえない。そこに「無名氏之墓」と刻まれた小さな墓石がある。

 

無名氏之墓

 

 この墓は慶應四年(1868)閏四月、新町川原に薦に包まれた女児の遺体が捨てられていた。当時、飛騨は明治新政府の支配下になっており、梅村速水が県知事として着任していた。速水は悲惨な死者が出るのは政治を与る自分の責任であるとして、葬式を行い子の墓を建てた。正面には「無名氏之墓」と彫り、他の三面には建碑の由来を記した碑文を刻み、「罪人 梅村速水」と結んでいる。

 梅村速水といえば性急な改革で人々の反感を買い、梅村騒動の原因となった人であるが、この碑は速水の別の一面を物語っている。

 

(飛騨国分寺)

 飛騨国分寺の歴史は、奈良時代まで遡る。さすがに奈良時代の建物は残っていないが、境内には七重塔の心礎や、金堂の礎石などが残っている。ほかには元文四年(1739)建造の表門や推定樹齢千二百年という大イチョウなど、歴史を感じることができる。

 

飛騨国分寺

 

大イチョウ

 

白真弓肥太右衛門之墓

 

 白真弓肥太右衛門(しらまゆみひだえもん)は、飛騨国白川郷木谷の出身の幕末の力士である。二十五歳のとき、江戸相模の浦風部屋に入門した。嘉永七年(1854)、アメリカのペリー提督が二度目に横浜に来航した折に、力士たちが薪水米穀の供給運搬奉仕をしたが、白真弓は背に米四俵、胸に二俵、両手に一俵づつ、合計八俵を運び、アメリカ人を驚かせた。身長は六尺八寸六分(二〇八センチ)、体重は四十貫五百匁(一五二キロ)の堂々とした体格で、また怪力の持ち主だったといわれる。最高は西前頭筆頭。引退後は浦風部屋を継いだ。明治元年(1868)十一月、没。享年四十一。

 

押上家先祖代々之霊位(押上美喬墓)

 

 押上美喬(おしあげよしたか)は、文化十三年(1816)、飛騨高山に生まれた。明治元年(1868)正月、三郡村々の名主と協議して新見内膳逃亡後の混乱をよく防いだ。民情の嫌う郡上藩の飛騨国取締を拝し、鎮撫使竹沢寛三郎による天朝支配を請願して許された。間もなく竹沢に代わって梅村速水が高山県知事として入国し、翌二年(1869)、梅村知事の施政に反対する農民一揆が起きると、その鎮静に努める一方、京へ代表を派遣して梅村拝訴を具申し、新たに宮原積知事を迎えることに成功した。明治二年(1869)六月、年五十四で没。

 

(上岡本町)

 

節斎富田禮彦之墓

 

 富田礼彦(いやひこ)は文化八年(1811)の生まれ。天保十三年(1842)、高山代官所地役人頭取となり、時の郡代に奨めて備荒の穀倉を建て、安政五年(1858)の大地震には多くの窮民を救った。国学を田中大秀に、漢学を赤田章斎に学び、敬神尊王の志厚く、明治元年(1868)には高山建判事に任命された。翌年梅村騒動の責を負い、乱民の助命を願って割腹したが一命をとりとめた。門人も多く、飛騨郡代小野朝右衛門高福の五男、のちの山岡鉄舟も門下で学んだ。明治十年(1877)、年六十七で没。墓標は長三洲の筆。

 

(江名子)

 

田中大秀之奥城

 

 田中大秀(おおひで)は、安永六年(1777)の生まれ。兄の夭折によって家業薬種商を継ぎ、享和元年(1801)、京都に学んでいたとき大秀と改めた。寛政九年(1797)、熱田の社司栗田知周の門に入り歌道を学んだ。のち伴高蹊に師事し、本居大平を伊勢松阪に訪ね、さらに上洛して本居宣長の門に入り、親しくその教えを受け、宣長学風の真諦を会得し、彼の学風を樹立した。宣長没後は大平と親交し、松坂に三か月在留して宣長の遺著の筆写に従事した。文化十四年(1817)、隠居して荏名神社の神官となり、専ら国学の研究に従事した。多くの著書があり、敬神尊王の精神を鼓吹し、幕末飛騨国の精神的支柱として多くの子弟を育成した。彼の文庫を荏野文庫と称する。高山郷土館に保存されている。弘化四年(1847)、年七十一にて没。

 

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茅野

2021年09月04日 | 長野県

(茅野)

 明治十三年(1880)、明治天皇は山梨、三重、京都巡幸の際、茅野を通過し、五味三郎宅で休息をとった。六月十六日に出発し、二十三日山梨県から諏訪に入り、午後二時に五味宅に到着した。伏見宮、太政大臣三条実美、参議寺島宗則、伊藤博文等五百余名(三百名とも)が従った。五味宅では、五味又三、大島総十郎、五味嘉与助らが当たった。一行は約一時間をここで過ごすと、上諏訪へ出発した。

 

明治天皇茅野御小休所

 

 辺りを見渡してもなかなか石碑が見当たらない。諦めかけたその時、自動車の影に石碑を発見した。

 

(宗湖寺)

 明治天皇が茅野で小休をとった際、宗湖庵の井戸水を用いてお茶を献上した。宗湖寺の本堂前ではそれを示す石碑とともに、今も水が湧いているのを見ることができる。

 

宗湖寺

 

明治天皇茅野御膳水

 

 

(金沢)

 

明治天皇金澤行在所趾

 

 金沢宿は、慶安年間の初めまでは、現在地の北方権現原にあってそれまで青柳宿と称していたが、度重なる水害と前年の火災で焼失したのを機に、慶安四年(1651)、現在地に移転し金沢町と改称した。

 本陣は約四反歩(約四〇アール)あって、敷地内には高島藩や松本藩の米蔵などがあった。小松家は青柳宿時代から代々本陣問屋を務めていた。隣村茅野村との山論で家族を顧みる暇もなく、寝食を忘れて町民の先頭に立って働いた四代目三郎左衛門は、延宝六年(1678)、高島藩は伝馬を怠ったという廉で、町民の見守る中で磔の刑に処し、小松家は闕所断絶となった。その後、明治初年まで白川家が本陣問屋を勤めた。

 本陣跡には何も残っていないが、明治十三年(1880)の明治天皇巡幸を記念した石碑が立っている。

 

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