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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末テクノクラートの群像」 矢野武著 文芸社

2015年11月28日 | 書評
著者矢野武氏の本業は、兵庫医科大学で非常勤講師などを務める医師である。本書は、自費出版の形で出版され、改めて文庫の形で再版されたものである。幕末のテクノクラート(技術官僚)六名 ――― 川路聖謨、小野友五郎、榎本武揚、土方歳三、松本良順、勝海舟 ――― を取り上げる。土方や海舟が、一般的な意味でテクノクラートと呼べるか微妙なところであるが、そこは著者の主観が反映されていると見るべきであろう。
幕府は迫りくる外圧、西南雄藩の揺さぶりに対し、あたかも無為無策だったような印象があるが、実は陸海軍の充実や人材の育成・抜擢には力を注いでいた。本書で取り上げられた面々はその成果というべき人たちである。
著者は歴史家でも作家でもないので、読み通しても特に目新しいことは見出せない。一冊を通して一貫していることは、著者の思い入れである。特に川路、小野に対する思い入れは格別である。一方で勝海舟は著者のお好みではないらしく、批判的な記述が目につく。
なお、本書に香川敬三が登場するが、長州藩人としているのは明らかに間違いである。香川敬三は水戸藩の出身で、国事に奔走するうちに岩倉具視の知遇を得た。たまたま京都を中心に活動したため、藩内の抗争に巻き込まれることなく、水戸藩出身者としては珍しく維新まで生き抜き、新政府にも出仕することになった。恐らくその履歴において長州藩に属したことは無く、著者の勘違いではないかと思われる。

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「大久保利通資料に関するあれこれ」 樋口雄彦 国立歴史民族博物館

2015年11月28日 | 講演会所感
佐倉市の国立歴史民俗博物館で、「大久保利通とその時代」展が開かれている(平成二十七年(2015)十月六日~十二月六日)。八王子の自宅からJR中央線にて御茶ノ水に出て総武線に乗り換え、千葉駅経由佐倉で下車して、そこからバスで博物館の前に降りた時、ちょうど自宅を出て三時間が経過していた。いやはや佐倉は遠い。
展示されている史料は、当博物館が所蔵していた三千点に加え、今般新たに大久保家から三千五百点が寄贈され、その中から選りすぐった約百六十点である。これを見れば、幕末から明治初期にかけて、あらゆる場面に大久保利通が関与していたことが見てとれるであろう。
ついでにいえば、展示されている流麗な崩し文字は、ほとんど解読できなかった。やはり入門書を一冊読んだだけではまだまだ十分ではないということである。
当日、十三時から二時間にわたって、当館研究部歴史研究系教授樋口雄彦氏の講演があった。少しは早めに会場に行ったつもりであったが、入場無料ということもあり、ほとんど空席がないほどの盛況であった。
樋口先生のご専門は日本近代史であるが、どちらかというと興味の対象は幕府・幕臣である。たとえば、私がかつて読んだ本の中に、樋口先生の「第十六代徳川家達」(祥伝社新書)がある。壇上の先生は、随分お若く見えたが、あとで調べたら私と同い年であった。
本日の講演は大久保の書簡を通じて、勝海舟と薩摩藩の関係、内務省への旧幕臣の登用などにフォーカスしたものであった。講演の中で何度も、
「大久保利通その人に関心のある方には期待外れかもしれませんが…」
と申し訳なさそうにおっしゃっていたが、個人的には非常に興味深い内容で、あっという間の二時間であった。
冒頭紹介された史料はいずれも薩摩藩士折田要蔵が大久保に宛てた書簡である。一点目の史料の日付は元治元年(1864)三月となっている。この時期、薩摩藩と幕府の関係は、表向きは敵対しておらず、島津久光の建議により、幕府と共同で摂海防備のために砲台の築造が実行に移されている時期であった。折田要蔵は摂海砲台築造掛となってその実現に尽力していた。
私はあまりこの折田要蔵(維新後は年秀)という人物のことは知らなかったが、当日配布されたコピーに拠れば、当時薩摩藩の内情を探るために渋沢栄一(一橋家家来)が折田の門人となっていたそうである。渋沢は折田について「さまでの兵学者でもない。大言を吐くことが上手で、その上弁舌が巧みであることから、完全な築城学者と見做されていた。さまで非凡の人才と思われぬ。西郷隆盛とは時々文通することもあるが、その言が十分に信ぜられようとは思われぬ。外面の形容ほどには実力のない人」と、辛辣な評を与えている。折田は、明治三年(1870)に官を辞した後、京都で鉄砲商などを営み、明治六年(1873)には湊川神社の神官となった。講演で紹介された元治元年(1864)五月二十二日付の書簡では、幕府閣老に対して、摂海における防備の強化とともに楠公社の建設を献策したことを自慢気に報じている。この時節、楠正成を顕彰する神社を開くことは幕府の神経を逆なでするもので、政治的には意味を持つものであるが、維新後創建された湊川神社にさほど政治的価値はない。その宮司に就くことができて本人は本望だったかもしれないが、渋沢が評したようにさまでの人材ではなかったらしい。
樋口先生が紹介した慶応四年(1868)九月十八日付の脱走旧幕臣についての密偵の報告や大久保利通による「敬天愛人」の書(現存せず。やや眉唾)の話も面白かったが、一番興味を引いたのが、最後に紹介された第一回内国博覧会の集合写真であった。今回の「大久保利通とその時代」のパンフレットにも用いられたこの写真は、内務卿大久保利通を中心に、大勢の内務官僚や博覧会の審査官、或は地方官で埋め尽くされている。樋口先生によれば、この中で薩摩藩出身者は松方正義のみという。大久保は出身藩に関わらず、実力本位で人材を登用した。その結果がこの写真に如実に現れているのである。名前が分かっているだけでも、河瀬秀治(宮津藩)、渡辺洪基(越前藩)、宇都宮三郎(尾張藩)、山高信離(幕臣)、前島密(幕臣)、楠本正隆(大村藩)、大鳥圭介(幕臣)、田中芳男(飯田藩)、鈴木利亨(幕臣)、武田昌次(幕臣)、多田元吉(幕臣)、近藤真琴(鳥羽藩)、伊藤圭介(尾張藩)らが確認されている。
この中に名前の上った武田昌次という人物。実は維新前は塚原重五郎昌義といった。塚原は幕臣で、外国貿易取調掛を始め、外国奉行支配取調役など外交面で活躍し、万延元年(1860)、三十六歳のとき、遣米使節団にも選ばれた。鳥羽伏見の戦いにあっては副総督として全軍を率い大敗した。小栗忠順とともに親仏強硬派であったために、免職・登営禁止処分を受けた。塚原は国内にいたたまれなくなったためか、一時米国に亡命し、このあと塚原昌義の消息は絶えてしまう。
樋口先生の調査によれば、塚原は日本に戻って、武田昌次と姓名を変え、内務官僚として維新政府に仕えたという。あたかも二度の人生を歩んだかのような人物である。時間があればもっと武田昌次のことを聞きたかったが、既に所定の時間を過ぎていた。

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「国定忠治」 高橋敏著 岩波新書

2015年11月28日 | 書評
国定忠治(1810~1851)といえば、大衆文学や芝居、講釈、浪曲、映画等でヒーローとして取り上げられ、国民的人気のある博徒である。博徒、あるいは侠客というと、現在の暴力団とそう変わらない印象があるが、一方で庶民にこれほど人気があるというのも不思議な存在である。国定忠治については、映画や浪曲で取り上げられることが多いため、虚実入り混じって伝えられており、これほど真実の姿が見えにくい人物も珍しい。
本書は、初版が平成十二年(2000)というやや古い本で、現時点ではなかなか一般の書店では手に入らない状況であるが(今回はAMAZONにて入手)、国定忠治のことを知ろうと思えば、現時点では最適の書であろう。
本書では、国定忠治のような無宿人が発生した十九世紀前半の上州の風土から説き起こす。無宿人はやがて忠治のような親分をいただき、勢力争いを始める。忠治が最初に人殺しに手を染めたのは、天保五年(1834)、二十五歳の時である。忠治は子分である三ツ木文蔵に命じて、敵対する島村伊三郎を殺害した。その二年後には玉村宿の京蔵、主馬兄弟を襲撃して、上州に「盗区」と呼ばれる縄張りを確立した。この頃の上州は、幕府直轄領と伊勢崎藩領、旗本の知行所や相給地などが複雑に入り組み、忠治のような武闘派には活動しやすい状況が現出していたのである。
やっていることはヤクザの勢力争いと変わりなく、一般市民にしてみれば平和を脅かす凶暴な集団に過ぎない。しかも、資金力にものいわせ、開国前のこの時代には珍しく洋式短銃を入手して手下に持たせていたという。
この頃、洪水や冷害による凶作を原因とした天保の飢饉が日本を襲っていた。また磯沼の沼さらえを実施して、この地域を旱魃から救ったとされる。忠治は私財を投じて困民救済に尽くし、これによって「庶民のヒーロー」として忠治の人気は不動のものとなった。
関東八州に治安悪化に対して、幕府では関東取締出役(しゅつやく)を選抜して、一帯の警察活動に従事させていた。本来飢饉対策は幕府や関東取締出役の仕事である。飢饉に対し無策の役人は、忠治の人気に反感を募らせたであろう。幕府代官である羽倉外記(簡堂)は、
――― 劇盗をして飢凍を拯しむ。之を聞き赧汗浹背して縫入るべき地無きを恨むのみ(忠治という劇盗のお蔭で民は飢えや凍えから救ってもらっている。この事実を聞いて、本来民の父母たる代官である私は)恥ずかしさのあまり赤面して、背中まで冷や汗でぐっしょりになり、穴があったら入りたいくらいだ)
と、衝撃をもって記録している。羽倉外記は、のちに「赤城録」「劇盗忠二小伝」を著し、忠治の事績を後世に伝えている。
関東取締出役は天保十三年(1842)、体制を強化し、忠治捕縛に本腰を入れる。忠治は信州街道大戸の関所を破って会津に逃れたが、この間、多くの股肱の子分を失った。嘉永三年(1850)、上州に戻っていたところを捕縛され、大戸関所で磔刑に処された。享年四十一。お上に代わって貧民救済に力を注ぎ、権力に逆らって悲劇的最期を迎えたが、庶民の人気を集める要素には事欠かない。磔刑の場面は、多くの観衆を集めた中で行われたため、かなり詳細に伝わっている。忠治は、一槍突かれるたびにかっと目を見開き見物人を見回した。それを十二度繰り返し十三度目に漸く息絶えたという。壮絶な最期と強靭な生命力に観衆は恐怖と深い感動を禁じえなかった。
ここから忠治伝説は始まったのである。たとえば天保十三年(1842)、子分の板割の浅次郎(芝居の中では浅太郎)に命じて、三室(中嶋)勘助を殺害している。このとき勘助は、二歳になる太郎吉(芝居の世界では勘太郎)を抱いていたが、夜の暗がりの事件でもあり太郎吉もろとも殺されてしまった。
ところが後世の講談や浪曲の世界では、浅太郎は勘太郎を連れて帰り、忠治は勘太郎を背負って逃亡の旅に出ることになる。このとき歌われるのが「赤城の子守唄」である。
国定忠治といえば「赤城の山も今宵限り」と見栄を切るのが定番である。このとき浅太郎が赤ん坊を背負っているのもお約束ごとであるが、勘太郎が生き延びたのは飽くまで虚構の世界というわけである。

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「神社でたどる「江戸・東京」歴史散歩」 戸部民夫著 洋泉社歴史新書

2015年11月28日 | 書評
日本全国に神社は、どれほど存在しているのだろう。一説によれば八万社、摂社末社を含めればそれ以上という説もあって、正確には分からないが、その数は寺院よりも遥かに多いという。東京都内だけでも数千という神社が存在している。
本書では東京都内に点在する神社を幾つかの類型に分けて紹介している。江戸という、この巨大都市が形成されたのは慶長八年(1603)徳川家康が江戸幕府を開いて以降のことというイメージが強いが、そのずっと以前からの長い歴史を持つ神社がたくさんある。
その一つが古代の神話に由来する神社。それから東国武士団に関連する神社。さらに江戸氏、豊島氏、太田氏といった有力豪族に関連する神社である。
かつて台湾に駐在していた時、現地のスタッフから
「この寺はとても古い」
と聞いたので、いつ頃できたのか聞いたところ
「自分が子供の頃からある」
という答えが返ってきた。我々が思う「古い」とは尺度が違うのである。我が国では平安時代やそれ以前から続く寺社であれば、さすがに「古い」と呼ぶことも許されるだろう。台湾では「台湾の京都」と称される台南でも、その歴史は十七世紀前半までしか遡ることができない。改めて日本の歴史の長さを痛感する経験であった。
普段、生活しているとあまり実感はないが、歴史の長さ、深さが我が国の特徴でもある。そしてそれを身近に感じることができるのが、神社なのである。神社というと、あまりに身近過ぎて、興味の対象になりにくいが、近所の神社がどういう由緒を持っていて、どういう歴史があるのか、探って行くとまた深い歴史と出会うことができるかもしれない。

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鵡川

2015年11月28日 | 北海道
(鵡川大漁地蔵尊)
 今回も八王子千人同心関連史跡を訪ねることにした。その一つが鵡川の大漁地蔵尊にある、八王子千人同志追悼碑である。
 鵡川といえば、シシャモくらいしか思い浮かばないが、二百年ほど前、幕府の命を受けた八王子千人同心原新介ほか四十九人は、鵡川の警備と農漁業の開拓のため、寛政十二年(1800)に入地した。これが鵡川開拓の先駆である。享和二年(1802)に市川彦大夫と交代した。厳しい自然環境と食糧の欠乏により、病人死人が続出し、帰郷する者もあとを絶たなかった。入地以来、八年が経過した文化五年(1808)、鵡川を放棄するに至った。この八年の間に当地で命を落とした市川彦大夫ら七名の同心の名前を刻み、昭和六十年(1985)、追悼の碑が鵡川大漁地蔵尊境内に建てられた。これも北海道の凄まじい歴史を語る史跡というべきである。


鵡川大漁地蔵尊

 市川彦大夫以外の六名については、苗字の無い名前だけが刻まれている。


八王子千人同心追悼之碑

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白老 Ⅱ

2015年11月28日 | 北海道
(白老元陣屋資料館)


仙台藩白老元陣屋資料館

 一年半前の来訪時には、閉館のため見学できなかった白老の仙台藩元陣屋資料館を再訪した。
 幕末、蝦夷地の警備を命じられたのは、仙台藩のほか、弘前藩、庄内藩、秋田藩、盛岡藩、会津藩の東北六藩であった。中でも仙台藩は白老から道東の広尾、厚岸、根室、さらに千島列島に至る広大な範囲を任じられることになった。当初、幕府からは勇払(現・苫小牧市)に元陣屋を置くように命じられたが、仙台藩の重役三好監物は現地を調査した結果、「勇払は湿地帯であり陣屋を建てにくい上に波が荒く船の出入に適していない。それより自然の地形をそのまま利用できる白老に置いた方がよい」と判断し、ここに元陣屋を置くことになった。


白老の地を視察する三好監物(右)ら

 元陣屋には、概ね百二十人の藩士が交替で詰めた。日常的には、弓や剣術の稽古のほか、火縄銃や大砲の訓練に励んだといわれる。


仙台藩白老元陣屋資料館の展示

(仙台藩士の墓)
 仙台藩士の墓を含め、陣屋跡は維新後しばらく住民の記憶から消えていたが、明治三十九年(1906)、雑草の中に倒れていた藩士の墓石が発見されたことから、地元住民が中心となり、塩釜神社の建て直しや藩士の供養に力を注いだ。




仙台藩士之墓

 仙台藩が白老を拠点として蝦夷地を警衛していた安政三年(1856)から慶應四年(1868)までの十二年間における地没者は、判明しているだけでも二十三名に達している。内訳としては男十九、女四となっている。その中には代官草刈運太郎の名も見える。

(社台小学校)


社台小学校

 社台小学校の正門を入って右側に草刈運太郎の墓がある。




草刈運太郎墓

 仙台藩が白老に元陣屋を築いたのは安政三年(1856)のことで、その三年後の安政六年(1859)には代官が置かれることになり、その三代目代官として草刈運太郎が着任した。慶応四年(1868)一月、戊辰戦争が起こり、東北諸藩と同盟を結んだ仙台藩は敗れ、白老の陣屋にも政府軍が迫った。元陣屋の藩士は全員白老を撤退したが、運太郎は藩の民政責任者として当地に残った。その時、進軍してきた政府軍が狼藉を働いたため、これに抗議して争いとなり、深手を負って社台の漁家相木林蔵の番屋に逃れた。しかし、傷は癒えず、同年八月二十五日、前浜で自害して四十九歳の生涯を閉じた。この墓碑は明治十六年(1883)、旧仙台藩士で画家の茂庭竹泉が同地を訪れた際、その死を悼んで建立したものである。今も供養のため地域住民の手により墓前祭が行われているという。

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室蘭

2015年11月28日 | 北海道
 壮瞥町の北の湖記念館のあとは、室蘭市石川町を訪ねる。伊達市から市境を越えれば、そこが石川町である。ここは北の湖の弟弟子で、大関となった北天佑の出身地である。北天佑も若くして大関に昇進し、いずれ横綱と期待されたが、結局上位には強いが、下位にもろい、ムラッ気が最後まで改善されず、横綱にはなれなかった。故に「未完の大器」といわれた。引退後は二十山親方として後進の指導にあたったが、平成十七年(2006)、肝臓癌により逝去。四十五歳という若さであった。北天佑と同じ年である私にとって、彼の死は衝撃的であった。

(仙海寺)


仙海寺

 仙海寺の前の急な坂は、室蘭の語源となったモルエランの坂という。その途中に、崖にへばりつくようにして仙海寺がたたずんでいる。仙海寺の墓地は、そこからさらに数分坂を上らなくてはならない。


石川光親之墓

 石川光親は、仙台角田藩主石川家三十七代石川義光の子で、最期の領主邦光の弟。明治六年(1873)十三歳のとき、室蘭に移住した。その後、慶應義塾に学ぶため一時室蘭を離れたが、旧家臣からの懇請もあり、明治十四年(1881)再び室蘭に移住した。室蘭開拓に大きく貢献し、のちに藍綬褒章を受勲した。


救療院偏譽周甫居士(野村周甫墓)

 野村周甫の墓は、半ば草木に埋もれるように、目立たぬ場所に置かれている。
 野村周甫は、南部藩の医師であったが、奉行の命令を受けて、安政三年(1856)室蘭に赴任した。医療院を開き、和人、アイヌの別なく治療をした。貧しいアイヌ人からは治療費を受け取らなかったといわれる。文久三年(1863)五月、八十三歳で死去。人々はその死を悼み嘆いた。墓の台座には、室蘭市衛生会による遺徳を偲ぶ文章が刻まれている。

(東蝦夷地南部藩ムロラン陣屋跡)


史跡 東蝦夷地南部藩陣屋跡
モロラン陣屋跡


陣屋跡の配置 鉄砲武者など

 幕末、南部藩は箱館から幌別にかけての東蝦夷地警備を幕府に命じられ、湾内を望むベケレオタ(白い砂浜の意)の地に、方形で二重の土塁と濠からなる出張陣屋を築き、防衛に当たった。この陣屋には、安政三年(1856)に築かれ、慶応四年(1868)に廃棄されるまでの十三年間、南部藩士が常駐した。内陣には、藩士の詰所や長屋などの建物があった。発掘調査では、建物の礎石や石畳の通路が発見されている。内陣の後背には火薬庫が設けられ、今も残る杉林も、藩士の手により当時植えられたものである。

(満冏寺)
 満冏寺の本堂前に、箱館戦争における会津藩士の戦死者を弔うために明治十四年(1881)に建てられた碑がある。この碑の側面には、戦死者の名前がぎっしりと刻まれている。ただ、ここに刻まれた名前の中で「幕末維新全殉難者名鑑」と合致したものを見出せない。


満冏寺


吊魂碑

(室蘭文化センター)


本多新翁碑

 室蘭文化センターの一角に本多新の顕彰碑が建てられている。
 本多新は、出羽(現・山形県)十日町の出身で、農家の長男に生まれた。本多新は家業を弟に譲り、妊娠中の妻と三歳になる息子を捨てて、江戸に出て安井息軒に入門した。ここで新は自由民権への目を開かれた。明治五年(1872)、札幌本道開削工事の測量担当として函館を経て、室蘭に入った。政府に対して「国会開設建白書」など数々の建言書を提出している。明治十四年(1881)の自由党結成大会には、北海道からただ一人参加。また北海道民に選挙権がないことを怒り、明治二十二年(1889)には「本道より国会議員選出するの義建言」を黒田清隆総理に送った。晩年はリウマチ、心臓病に悩んだ。大正三年(1914)、七十二歳にて死去。

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伊達

2015年11月28日 | 北海道
(伊達開拓記念館)
伊達市は、その名のとおり明治三年(1870)、仙台藩の亘理領主伊達邦成とその家臣団が集団移住して、開拓したという歴史を持つ。
街の中心部に開拓記念館があり、開祖伊達邦成ゆかりの史料や書画、美術工芸品などが展示されている。
私が訪れた日、「だて食のフェスティバル」と呼ばれるイベントが開かれており、たくさんの家族連れが集まっていたが、幸いにして開拓記念館の方はさほど人気はなく、落ち着いて見学することができた。
伊達保子ら歴代の姫様が持参した雛人形四十五体など、展示品の数々に目を奪われた。


伊達開拓記念館


瓶子

 梨地蒔絵瓶子は、江戸初期の作品である。


雛人形

 迎賓館は、仙台の伊達邸を建てた大工田中長吉を棟梁とし、明治二十五年(1892)に開拓者の総力を集めて建てられたもので、洋風(公の場)と和風(私の場)を配した数寄屋風の書院造りとなっている。当時、開拓状況を視察した政府高官や開拓使などの接待のために利用され、昭和十年(1935)から昭和三十年(1950)までは伊達家の居所として利用された。その後、敷地とともに伊達市に寄付された。


迎賓館


開拓記功碑

 迎賓館の近くには、伊達邦成像や田村顕允像、開拓記功碑、伊達町百年記念碑などが建てられている。


伊達邦成公像

伊達邦成(くにしげ)は、第十四代亘理領主。岩出山伊達氏の出で、亘理伊達氏に婿養子に入った。当別の開拓に当たった伊達邦直は実兄である。戊辰戦争における仙台藩の降伏後、石高を二万三千石からわずか五十八石に減らされたため、家老田村顕允の進言を容れ、明治三年(1870)、北海道への移住を決意。明治二十五年(1892)、開拓の功により勲四等瑞宝章を受勲、男爵に叙せられた。


田村顕允翁像

(伊達市霊園)
伊達市営墓地は、道央自動車道伊達ICの直ぐ近く、日当たりの良い斜面に設けられている。墓地の一番下の一番奥に伊達家の墓域があり、そこに伊達邦成夫妻、そしてそれを見守るかのように伊達保子(貞操院)の墓がある。そこから少し離れたところに、家老田村顕允の墓もある。


後大雄寺殿天山慈照大居士(伊達邦成墓)


伊達邦成肖像(伊達開拓記念館蔵)


貞操院殿眞顔淳榮大姉(伊達保子墓)


伊達保子肖像(伊達開拓記念館蔵)

伊達保子(やすこ)は、第十一代仙台藩主伊達斉義の娘に生れた。藩主伊達慶邦の妹である。天保十五年(1844)、亘理領主伊達邦実に嫁いだ。安政六年(1858)夫と死別し、邦成を養子に迎える。維新後、邦成の北海道移住計画に協力して、明治四年(1871)自らも北海道に移住した。移住には動揺する家臣も多かったが、保子の存在は家臣団の精神的支柱となったという。現地では自ら養蚕に着手するなど、伊達市における養蚕の基礎を築いたといわれる。明治三十七年(1904)、七十三歳にて死去。


正六位勲六等田村顕允之墓

田村顕允(あきまさ)は、旧名を常盤新九郎といった。邦成に対し北海道有珠郡への移住を進言し、自ら牧畜を進め、農社の結成などを図り、今日の伊達市の基礎を築いた。大正二年(1913)、八十二歳にて死去。

(有珠善光寺)


有珠善光寺


河西祐助・うめの墓

有珠善光寺は、十代将軍家斉によって蝦夷三官寺の一つに指定され、住職が鎌倉五山から送られたという由緒正しい寺院である。
八王子千人同心河西祐助・うめ夫婦の墓を参るため有珠善光寺を訪ねた。境内を2周したが、それらしい墓が見つけられない。そこで本堂に入ってそこにいた女性に尋ねたところ、彼女は副住職を呼んでくれた。副住職も女性の方であったが、分かり易くその場所を教えてくださった。
河西祐助夫妻の墓は、阿弥陀堂裏の道をひたすら真っ直ぐ行けばよい。左に曲がれば展望台、右に折れれば石割桜という辻があるが、そこを直新すると、墓地がある。墓地入口付近に古い墓石が並べられているが、その中央辺りにある「男 河西稿太郎建之」と書かれた墓石がそれである。


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壮瞥

2015年11月20日 | 北海道
(北の湖記念館)
 共和町での野球大会を終えて、岩内のホテルに宿泊した。翌朝、伊達、室蘭、白老方面の史跡を訪ねるにあたって、どうしても立ち寄りたかったのが、壮瞥町の北の湖記念館であった。岩内から真っ直ぐ壮瞥町を目指す。途中、洞爺湖や昭和新山を見ながら、約一時間四十分のドライブで北の湖記念館に到着する。
北の湖と幕末の関係は皆無である。強いて共通点を挙げれば、両方とも私のお気に入りだというだけである。
 第五十五代横綱北の湖は、最年少十両昇進を皮切りに、最年少での幕内昇進、最年少三役、最年少横綱昇進などの記録を次々と塗り替え、「怪童」と称された。その後、この記録はのちにほとんど貴乃花(二代目)に破られたが、当時は圧倒的な強さを誇った。北の湖を形容するときよく「憎らしいほどの強さ」といわれたが、当時、輪島、貴ノ花(初代)や若乃花(二代目)らの人気力士に対する敵役(ヒール)としての側面もあったかもしれない。肩をゆすって歩く姿が「偉そうだ」と批判されたこともある。土俵下に落ちた力士に手を貸さないことで、傲慢との謗りを受けたこともあった。しかし、北の湖はいかなる批判にも一切言い訳をせず、最後まで大衆やマスコミに媚びる姿勢を見せなかった。そこに私は北の湖の美学を見た。
 北の湖が活躍した当時、私は中学生から大学生という年頃であったが、以来、私にとってこの横綱を越える力士は現れていない。


北の湖敏満像


横綱北の湖記念館

 北の湖記念館に入ると、いきなり土俵入りをする北の湖の人形が出迎えてくれる。展示室には、ずらりと優勝額が並ぶが、ここに一枚として笑顔の北の湖の肖像はない。いかにも北の湖らしい。
 平成二十七年(2015)十一月二十日、六十二歳の若さで北の湖理事長は逝った。私としては、司馬遼太郎先生が急逝して以来のショックである。
かつて高見盛の土俵上のパフォーマンスに苦言を呈し、つい先日は白鵬の猫だましに嫌悪感を露わにした。いずれも北の湖の美学には合わないものだったのは間違いない。
 理事長としてまだやり残したことも多かったであろう。私も残念でならない。ただただご冥福を祈りたい。合掌。


雲竜型北の湖土俵入り


北の湖記念館の展示
優勝額など



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岩内

2015年11月20日 | 北海道
(岩内場所運上屋本陣跡)


岩内場所運上屋本陣跡

 運上屋とは、蝦夷地の統治を命じられた松前藩の家臣が、割り当てられた土地の知行主として管理を現地に常駐する商人に委託し、その利益の一部を運上金として徴収した。この商人のことを場所請負人と呼び、場所請負人が経営の拠点としたのが運上屋である。運上屋は、取引の拠点、役人の宿泊、公文書の管理など幅広く使われた。今も北海道の各地に運上屋跡地を示す石碑が残されている。
 岩内の運上屋跡もその一つで、維新後は駅逓として引き継がれた。

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