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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「博徒の幕末維新」 高橋敏著 ちくま新書

2019年10月26日 | 書評

再び古本である。表の歴史を正史と呼ぶのに対し、博徒・侠客といったアウトローの歴史を稗史(はいし)と呼ぶ。稗史に関して、二人目が思いつかないくらいの第一人者高橋敏教授による著書である。幕末、澎湃として博徒・侠客が現れた。国定忠治や清水次郎長らは夙に名を知られているが、本書の主役は彼らのようなメジャーな博徒ではなく、竹居安五郎(本名中村安五郎、通称竹居の吃安)である。

竹居の安五郎は、竹居村の名望家中村家の四男に生まれた。代々中村家の嫡男は甚兵衛を名乗り、隣村との裁判にも先頭にたって活躍した。長百姓や名主もつとめる、竹居村では中心的な家であった。安五郎の長兄も代々の甚兵衛と同じように名望家として活躍していた。ところが突然賭博場を開いた罪で摘発を受ける。同じ頃、安五郎も博奕によって囚われ、江戸の牢に投獄された。裁判などで多くの人が出入りする家は、賭博場と紙一重なのであろう。

兄甚兵衛は新島に流された安五郎への経済的支援を惜しまなかった。安五郎が島抜けした後、残された家財のリストがあるが、炬燵やざぶとん、茶碗、贅沢品の黒砂糖など、流人とは思えぬ優雅な暮らしを送っていたらしい。それでも安五郎は嘉永六年(1863)、ご法度である島抜けを敢行した。この時、島の名主を殺害し、鉄砲を強奪し、さらに腕利きの水主を二人道案内として拉致し、彼らに操船させて伊豆網代に上陸したのである。

著者の調査によれば、江戸時代を通じて島抜けを実行した流人は七十八名に上るが、無事に本土にたどりつき逃げおおせた例はわずか三例という。殺人まで犯した大罪人となれば、伊豆韮山の代官江川英龍が黙っていない。

ところが、安五郎が島抜けを実行したちょうどその時、浦賀にペリー艦隊が現れ、韮山代官やその手下は黒船対応で大童であった。安五郎はその間隙を縫って盟友間宮久八(大場の久八)を頼り、まんまと故郷竹居村にたどりつき、そこで潜伏することに成功した。

幕末は江戸時代の様々な秩序が崩壊し、その間隙を縫って博徒、侠客と呼ばれるアウトローが出没した時代でもあった。その代表格が勢力富五郎や国定忠治である。彼らはその勢力圏を競い、たびたび衝突(出入り)を繰り返した。竹居安五郎とその子分黒駒勝蔵の宿敵は国分三蔵(高萩万次郎)を主謀者とする甲府柳町卯吉、その子分祐天仙之助、上州館林藩浪人犬上郡次郎らの一団であった。三蔵は犬上郡次郎をスパイとして安五郎家に送り込むといった狡猾な手段を使って安五郎をおびき出し、安五郎を搦め捕った。文久二年(1862)二月、投獄された安五郎は牢死した。毒殺ともいわれる。

安五郎の遺志を継いだのが、二十歳年下の黒駒勝蔵であった。勝蔵の家も竹居の安五郎と同じように名主役もつとめるし、支配代官との中間にあって郡中の役に就くこともある名家であった。元治元年(1864)には宿敵国分三蔵と対決してこれを破り、同年十月には犬上郡次郎を殺害した。この間、三蔵に味方した清水次郎長と華々しく出入りを繰り返した。これが浪曲や講談、大衆演劇の世界で勝蔵が次郎長の敵役として知られる背景となった。時に極悪非道の卑怯者として描かれる勝蔵であるが、残された史料からは勤王の志士という別の顔が見えてくる。出身地の黒駒の近くには檜峯神社神官武藤外記、藤太父子が住んでおり、入塾したという確証は得られていないが何らかの薫陶を受けて成長したとみられる。

文久二年(1862)に、のちに天誅組の挙兵に参加して討ち死にした那須信吾が上黒駒村に現れ、勝蔵の家にかくまわれたという伝承が残っている。勝蔵の「志士」としての側面を伝える逸話である。

慶應四年(1868)正月、黒駒勝蔵は小宮山勝蔵もしくは池田勝馬という変名を用いて、官軍先鋒赤報隊隊長格として東上した。勝蔵が赤報隊に参加したのは、岐阜の博徒水野弥三郎との関連、もしくは神官武藤藤太と相楽総三との繋がりによるものと推定されている。六月には四条隆謌に随行して磐城平攻城戦にも参戦し、仙台まで転戦して同年十一月東京に凱旋している。戦後、甲州に戻った勝蔵は黒川金山開発を目論むが、帰隊の日限を守れず脱退とみなされ、明治四年(1871)正月、突如として捕らえられ甲府に送還された。

そして同年十月、脱隊と過去の出入りでの殺人を問われ、斬罪に処された。実は勝蔵を赤報隊に結びつけた水野弥三郎も罪人として捕らわれ、処刑される前に自ら縊死している。

結局、黒駒勝蔵や水野弥三郎が何故官軍から抹殺されなくてはいけなかったのかは謎である。明治政府としては倒幕に彼ら博徒の手を借りたという事実を消し去りたかったのであろうか。彼らの死は、維新の闇の歴史でもある。

 

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「新説 坂本龍馬」 町田明広著 インターナショナル新書

2019年10月26日 | 書評

この本は古本ではなく、最新刊。

著者町田明広先生は、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで、幕末通史を勉強し、「燃えよ剣」や「花神」といった司馬の幕末作品に登場するヒーローに自分自身を仮託することで興奮を覚え、司馬が描く世界と史実の境界線がわからなくなり、いつしか司馬作品=史実となっていったと告白している。いわば「司馬史観の申し子」ともいうべき著者が「いつしか司馬史観に疑問を抱くようになって」きたという。「司馬の作品には事実誤認が散見され、時には作為的な匂いすら漂う。しかも過剰な表現が駆使され、いつしか本当の人物像からかけ離れてしまっている。龍馬がその最たる例」だとする。

町田先生は昭和三十七年(1962)の生まれであり、即ち私と同年代である。大河ドラマや司馬作品を通じて歴史に触れ、やがて司馬史観に疑問を持つようになった経緯もほぼ同じである(ただ私は今も司馬遼太郎は大好きであるが)。町田先生が「新しい龍馬像」を提示したいという本書に大いに期待が高まる。

たとえば龍馬の脱藩について。「脱藩は重罪」といわれていたが、町田先生によれば「もう少しおおからに考えられていた」という。先日読破した安岡章太郎「流離譚」でも脱藩は家族にも累が及ぶ重罪として描かれていたが、町田先生の見解は新鮮である。

龍馬は、島津久光の率兵上京に伴う西国の尊王志士による義挙に加わるために脱藩したというのが町田先生による新説である。当然ながら史料には書いていないことで、状況証拠から推定したものであろう。学者先生としてはかなり大胆な推論である。

薩摩藩が手に入れた軍艦の運航のために龍馬を含む勝海舟門下である土佐藩脱藩浪士グループを召し抱え、これを機に龍馬は実質的に薩摩藩士となったという斬新な見解を披露する。有名な「西郷すっぽかし事件」については「最初から西郷は木戸と会見する意向は全くなく、予定通り京都に向かった」のであり、「すっぽかし」には当たらない。木戸が激怒したという通説についても「明治以降の後日談」でしか確認できないとしている。この「すっぽかし事件」の際、龍馬が薩摩藩の名義借りによって長州藩の武器購入に尽力したといわれるが、これは「龍馬が言い出した」のではなく「木戸が龍馬に依頼した」とする。実際の武器購入に当たって井上聞多、伊藤俊輔が長崎に赴き、現地で小松帯刀に名義借りを願い出て了解を得ている。ここに龍馬の姿はない。

龍馬が結成したといわれる、我が国初の商社「亀山社中」についても、「薩摩藩士の一団」として「社中」と名乗っただけで、「亀山」というのは「明治以降に付け足されたもので後世の創作」だと断定する。世間でいわれている私設海軍、貿易商社にはほど遠く、艦船の運用に従事したり、長崎の英語塾で学ぶ「脱藩浪士の集団」に過ぎないというのである。

次々と龍馬にまつわる虚構を否定する一方、近藤長次郎の果たした役割に注目する。近藤は長州藩主毛利敬親に謁見を許され、ユニオン号(薩摩藩では桜島丸、長州藩名乙丑丸)購入への尽力を直々に要請され、島津久光、茂久父子に対する礼状を託されている。近藤は薩長間を奔走し、ユニオン号の購入を果たした。町田先生によれば「近藤はユニオン号購入における無比の存在」であり、通説のように「龍馬が率いた亀山社中によって成し遂げられた」のではなく、近藤が一人で奔走したのが実態だという。近藤の活躍は軍艦の購入にとどまらず、ロンドンへの留学生の派遣や藩士の鹿児島での英学、砲術修行の斡旋にまで及んだ。薩長融和に果たした役割は龍馬に勝るとも劣らないといえよう。

近藤長次郎は、定説によれば長州藩からの資金によって密かに外遊する計画が露見したため、社中の仲間から難詰されて自刃したとされる。しかし、町田先生よれば「近藤ほどの人物に自刃を迫る確かな事由が見当」たらないという。社中において突出して活躍する近藤に対する妬みや不満があったのかもしれない。龍馬暗殺以上のミステリーである。

龍馬の最大の功績とされる薩長同盟について、町田先生は予てより軍事同盟の匂いのする薩長同盟から「小松・木戸覚書」への名称変更を提唱されている。龍馬の周旋により薩長同盟が成立したという通説に対し、それまでの小松、桂久武、島津伊勢の三家老に西郷、大久保、吉井友実、奈良原繁らと桂小五郎(木戸孝允)との会談にて六箇条のアウトラインは成立しており、龍馬が登場した一月二十一日に龍馬立ち合いのもと確認したに過ぎないというのである。「龍馬が木戸と西郷の間を周旋して「薩長同盟」を成し遂げたとする一次史料は存在せず、全て明治以降の創作に過ぎない」と結論付けている。熱烈な龍馬フアンにしてみれば受け入れ難い結論であろう。町田先生は、「薩長融和は前年に龍馬が三度、長州藩に薩摩藩士として派遣されたことから始まっており、その事実なくして「小松・木戸覚書」はあり得ない。龍馬の功績が色褪せることはなく、むしろネゴシエーターとしてさらなる評価を与えるべき」とフォローしている。

「船中八策」は、現在では知野文哉「「坂本龍馬」の誕生」によってその存在が否定されているが、町田先生は「海援隊日史」に書かれた「大条理」プランが薩土盟約のもとになったとする。龍馬による大条理プラン発案を受けて最終的に後藤象二郎が幕府に建白して大政奉還に結びつけたというのである。「船中八策」の実在が否定されて龍馬伝説の一角が崩れたが、町田先生が大条理プランを持ち出すことによって薩土盟約・大政奉還において復権したのである。町田先生には、決して無闇矢鱈と龍馬の全存在を否定しようという意図はないということは明確である。

坂本龍馬が慶應三年(1867)十一月に暗殺されて後、坂崎紫蘭の「汗血千里の駒」、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」さらには様々な小説、映画やテレビドラマで描かれ、百五十年という歳月をかけて、次第に実像からかけ離れていった。本書は、虚像が一人歩きしている龍馬を等身大に戻そうという努力の成果というべきであろう。龍馬フアンを自任する方には特に一読を勧めたい。

 

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「徳川昭武 万博殿様一代記」 須見裕著 中公新書

2019年10月26日 | 書評

古本シリーズ二冊目は、「徳川昭武」である。昭武は嘉永六年(1853)九月二十四日、水戸の斉昭の十八男として江戸駒込の水戸藩邸で生まれた。幼名は余八麿。生母は前大納言万里小路建房の六女睦子である。

文久三年(1863)、十歳の昭武(当時は昭徳)は実兄昭訓の看病という名目で上京し、昭訓がその年の十一月に死去したため、そのまま禁裏守衛のため激動の京都に残ることになった。現代の年齢でいえばまだ小学校生だが、その年で禁門の変や天狗党征伐に対応することになった。

その昭武が兄慶喜の名代としてフランスに渡ることになったのは、慶応三年(1867)正月のことである。まだ十四歳の少年であったが、博覧会や各国巡歴のハード・スケジュールを黙々とこなし、その一方で克明な日記を残した。

昭武の洋行の主目的は留学であった。フランス人の教師について朝から夜まで個人授業で気を抜く時間もなかった。授業は週に三十二時間、日曜午前は自習、そして図画というこれまたハード・スケジュールであった。昭武は几帳面なノートを残しており、これを見ると非常に真面目な人だったと想像される。

しかし、大政奉還と鳥羽伏見の敗戦という衝撃的な母国のニュースに続き新政府から帰国命令が届くと、昭武の留学はわずか半年で中断されることになる。兄であり水戸藩主であった慶篤が急死したため、帰国早々、昭武は水戸藩主を継ぐことになった。最後の水戸藩主となった昭武は、明治二年(1869)には水戸藩知事に任じられ、明治四年(1871)、廃藩置県によってその職を免じられることになった。

自由な身となった昭武は、二年前に中断してしまったフランス語の勉強を再開したが、明治七年(1874)、政府から陸軍少尉を命じられ、兵学寮付の辞令を受け取った。以来、明治九年(1876)まで、外山学校教官として勤務することになる。当時、明治政府では陸軍はフランス式を採用することを決定し、フランスから軍事顧問団を雇っていた。昭武のフランス語力を必要としたのであろう。

明治九年(1876)二月、陸軍少尉を免じられ、アメリカで開かれる万国博覧会の御用掛を命じられる。その年、アメリカは建国百年を迎え、それを記念してフィラデルフィアで万国博覧会が開かれることになったのである。筆者の調査によれば、昭武の万博御用掛拝命は「日記から見る限り自分から希望したと記載はない」そうだが、博覧会が終了すると、フランス行きの手続きを進め、兄土屋挙直と弟喜徳(会津松平家からもどって水戸支藩旧守山三万石を継いでいた)とともに三兄弟で欧州へ旅立った。昭武にとって十年ぶりのパリである。

留学といっても「教養課程程度」らしく、勉強よりもイギリスやドイツ、オーストリア、スイス、イタリア、ベルギーなどを、二つ違いの嗣子篤敬とともに旅することにエネルギーを注いだようである。明治十四年(1881)六月に帰国。

同年十二月、従三位に叙せられ、麝香間祗候を仰せ付けられた。一言でいえば天皇の諮問機関であるが、政治的に影響力のあるポストではない。毎月、五のつく日に天機奉伺する定めになっているが、要するに名誉職である。このとき昭武は二十九歳。

明治十六年(1883)五月、昭武は家督を篤敬に譲り隠居することになった。これを契機に松戸に移り住んだが、麝香間祗候として誠実に天皇のお相手を務めた。必ず天皇が麝香間に顔を出すと決まっていたわけではないが、昭武は生真面目に奉伺に通った。

斉昭の正室登美宮吉子(慶喜の生母)が逝去したり、若くして篤敬が亡くなったりと、お家の不幸も重なったが、基本的に昭武の生活は優雅である。隠居した昭武がエネルギーを投じたのは、大能牧場の経営であった。昭武にしてみれば投資という意味合いもあっただろうし、士族授産という狙いもあっただろう。しかし、何よりも大能は格好の狩猟場であった。

隠居した昭武の趣味は、狩猟、製陶、写真であった。兄慶喜とは、幾度となく狩猟に出かけた。現代の我々は余程のことがない限り、趣味で狩猟をやっている人と出会うことはないが、明治の時代でも狩猟を楽しんでいる人はそう多くはあるまい。狩猟をやるには、猟銃や猟犬も必要だし、猟場に行くための馬や手伝いの供まで用意しなくてはならない。昭武は天然の瀧を眺められる大能の一画に山荘「悠然亭」をこしらえ、そこを拠点に猟を楽しんだ。貴族の遊び以外のなにものでもない。

無論、我々卑賎の者には想像もつかないような気苦労もあるのだろうが、概して貴族というのはお気楽な商売だと思ってしまった。

明治四十二年(1909)七月三日、昭武は静かに眠るように息を引き取った。享年五十八。最も心を許した慶喜は大いに落胆したといわれる。

 

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「幕末咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯」 藤井哲博著 中公新書

2019年10月26日 | 書評

新橋の駅前で時折古本市が開かれていることは、この駅を通勤に使っているサラリーマンであれば誰も知っているだろう。先週開かれていた古本市に昼休みや帰り道に立ち寄り、気が付いたら十冊も買っていた。特に「小野友五郎の生涯」は掘り出し物であった。ずっと以前からこの本を探していたのだが、なかなか見つからない。ネットでは二万五千円とか三万円といった高値で取引されている。それが新橋の古本市ではたったの百五十円で売られていたのである。因みに、一緒に買った「徳川昭武」(中公新書)も百五十円で入手できて「これもお買い得」とほくそ笑んでいたのだが、ほかの店ではたったの百円で売っていた。

小野友五郎は笠間藩士の家に生まれ、類まれな数学の能力で身を立てた。やがて、その高い技術を買われて幕臣に取り立てられた。

現代において数学は、大学受験の重要な科目ではあるが、受験を過ぎればもはや一部の理系の人たちの学問であり、一般庶民は四則演算さえこなせれば日常生活には支障はない。私も高校までは数学はどちらかといえば得意科目であったが、今となっては自分が複雑な方程式や微分積分を使いこなしていたことが信じられないほど縁遠くなっている。

私の後輩に数学の教師になった男がいる。彼に高校生に「どうして数学を学ぶのか」を説いているのか尋ねたところ、彼は

「将来、道でおばあさんに微分積分を質問されて恥をかかないために…」

と冗談半分に答えたが、私はこれまでおばあさんに微分積分の問題を質問されたこともないし、今後もそのようなことが起きる可能性は宝くじが当たるよりも確率が低いであろう。

本来、数学は日常生活にも密接に関わる実学である。小野友五郎が数学で出世できたのも、単に暗算が早いからではなく、測量とか造船など多方面に卓越した能力を発揮したからである。友五郎の能力は数学を離れて、政治や軍事にまで及び、彼の提言から小笠原諸島の回収や砲台や台場の建造といった江戸湾の海防が実行に移された。本書の副題は「幕末明治のテクノクラート」となっているが、彼は一技術者から脱皮して優秀な官僚へと成長していったのである。

慶應三年(1867)一月、小野友五郎は使節団の正使として米国に渡った。彼自身、二度目の米国渡航であった。小野使節団の目的は軍艦や武器などの購入であった。有名なストーン・ウォール号(日本では甲鉄、のちに東(あづま)艦と改称)もこの時に買い付けられた。

この時、福沢諭吉は友五郎に頼み込んで外国方調役次席・翻訳御用として随行した。福沢はそれまでに二回の欧米渡航経験を有し、その外国語能力を買われて採用されたのである。ところが、彼の英語能力は「今日のいわゆる観光英語」程度で、到底公務の翻訳には役に立たないものであった。そこで、書記官の仕事は津田仙弥(津田梅子の父)に、通訳の仕事は尺振八の専任になってしまったという。

福沢はヘマばかりやらかし、彼の提言によって採用したチャールズという小使に五百ドルの公金を持ち逃げされたり、荷揚げに手間取って大統領への贈物が謁見に間に合わなかったりと失敗の連続であった。

福沢は、公務よりも自前の書籍の購入に奔走し、しかもその大量の書籍の運賃を幕府の公金で処理しようとした。友五郎は、福沢の荷物を神奈川奉行に差し押さえさせ、福沢を告発し、自らも部下不取締により進退伺いを提出することになった。

福沢諭吉を偉人として持ち上げる人たちにしてみれば友五郎はとんでもない上司ということになろう。「小野といふ人は頑固な官僚的人物であつたらしく、自分は外国の事情も知らぬ癖に長官風を吹かせるので、(福沢)先生はこれにたまり兼ねて事ごとに衝突するやうになつたのである」(石河幹明「福沢諭吉伝」)と一方的に友五郎を悪者にしているが、経過を見ればそれは酷であろう。福沢は罪に問われて当然であったが、帰国したときに彼を裁くべき幕府が慶喜の大政奉還により消滅していたためウヤムヤに終わった。とはいえ、決して無実が証明されたというわけではない。

小野友五郎の受難は続く。帰国した直後、勝手方勘定奉行並に補せられ、いわゆる王政復古のクーデターの直後には、大阪表駐在の勘定奉行並(兵庫開港御用取扱)を命じられ上坂することになった。息つく暇もなく年明けには鳥羽伏見の戦いが勃発し、友五郎は長州再征のときの手腕を買われ上洛軍の兵站を任された。とはいうものの、実質的には何もできないまま幕軍は大阪に敗退した。友五郎は大阪城の軍用金十八万両を江戸に移送するなど、むしろ撤退行動において活躍した。

慶應四年(1868)二月には慶喜お気に入りの側近であった平山図書頭敬忠も免職となり、勝海舟と相容れなかった小笠原長行、小栗忠順、塚原昌義、小野友五郎らは悉く幕府首脳部から姿を消した。言い換えれば、この時点で勝海舟が徳川家家職を完全に掌握したのである。筆者は、この時から勝海舟は「徳川家と自分にとって都合の良いスケープ・ゴートを仕立て始めた」とする。すなわち板倉松叟(勝静)、竹中丹後守(重固)、永井玄蕃頭(尚志)、平山図書頭、塚原但馬守(昌義)、滝川播磨守(具挙)、小野内膳正(友五郎)らが逼塞処分になった。この処分は鳥羽伏見の戦闘に積極的に関与したという事実とは無関係であった。友五郎の罪状は、「滝川とともに江戸の三田焼討事件を伝え、これが契機となって鳥羽・伏見の戦いが起こった」というのだが、これは事実ではない。勝海舟の報復処分を察知した塚原は米国に逃亡し、板倉や永井は罪に服さず、榎本艦隊に従って蝦夷地に渡る道を選んだ。小栗は官軍に捕らえられ斬首され、ただ一人小野友五郎だけが伝馬町の獄に入った。友五郎は、技術者として、あるいは官僚として抜群に優秀な人だったが、この辺りに立ち回りが下手で要領の悪さを感じる。海軍の歴史についても、勝海舟の好きなように書かれてしまったが、彼自身はそういうことに興味がなかったのか、一切の反論もしていない。そんなことより、彼は死の間際まで製塩事業に情熱を傾けていたのである。

筆者は、勝海舟は「日本海軍の父」と称されるが、それは自ら編纂した「海軍歴史」と晩年の彼一流の無責任な法螺話が両々相まって史実と違う伝説を作り上げたものだと論証する。その最たるものが「咸臨丸の日本人単独運航説」である。

「海舟日記」では、「狎邪の小人」として塚原昌義、木下謹吾、小野友五郎、肥田浜五郎、平山敬忠、尾崎嘉右衛門らの名前を挙げて罵倒するが、実は幕府海軍の創設にあたり、明治の帝国海軍の礎を築いたのは彼らである、と筆者は主張する。 *狎邪=よこしまで恩になれた人のこと

本書は歴史に隠れたテクノクラート小野友五郎の伝記であると同時に偉人とされた勝海舟を告発する内容となっている。勝をエライと称賛する人たちにとっては極めて都合の悪いものである。そのために今となっては入手困難な奇書とされてしまったのではないか…と勘繰りたくもなる。無論、勝海舟擁護派にも言い分はあるだろうが、盲目的に勝海舟を偉人と信じ込むのは慎重でありたい。

 

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飯能 Ⅴ

2019年10月19日 | 埼玉県

(東神森稲荷第明神)

 八高線東飯能駅近くの住宅街の中に東神森稲荷第明神がある。境内に飯能戦争全国戦死者供養塔がある。

 碑文によれば、振武隊五百がこの地に逃れてきて、この地にて討ち取られた若い兵士が兵器とともにこの塚の下に埋葬されたという。兵士の霊を慰めるため、平成十一年(1999)九月、王宝寺住職によってこの石碑が建立された。

 

 東神森稲荷第明神

 

 

飯能戦争全国戦死者供養塔

 

(金蓮寺)

 

 

金蓮寺 

 

 

馬場網吉・松吉の墓

 

 下畑の金蓮寺の馬場家墓地に馬場網吉と松吉の墓がある。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、二人は韮山代官所御用人足。武蔵高麗郡下畑村の農。慶應四年(1868)五月二十三日、武蔵飯能にて戦死。網吉は二十歳。松吉は十三歳。

 竹さんによれば、二人は成木川で魚を獲っているところを狙撃されて死亡したのだという。松吉の十三歳という年齢を考えれば、その方が自然かもしれない。大山柏の「戊辰戦役史」には「(五月二十三日)正午近く下畑(下直竹東一キロ半)付近に敗兵らしき七、八名を認め、直ちに銃撃したところ、敵は大いに驚いて松山に逃げ込んだ。これ以外は敵に遭遇せず、夕刻扇町屋に引上げた」という。振武隊はほとんど山中に逃げ込んでおり、ほぼ戦闘らしき戦闘はなかった模様である。兵士と誤認されて撃たれたとすれば、実に不運というほかはない。

 この日は、天気も悪かったので、以上で切り上げ早々に八王子に戻った。帰宅したのは午前十時半であった

 

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日高

2019年10月19日 | 埼玉県

(瀧岸寺)

 

瀧岸寺

 

 今年のお盆休みは竹さんご夫妻とご一緒することにしていたが、台風接近のため竹さんは日程を一日前倒しして埼玉県下を回ることになった。残念ながらその日私は出勤だったので、ご一緒できなかった。即日情報をいただいた。瀧岸寺(りゅうがんじ)と瀧岸寺墓地は、数百メートル離れているが、墓地の方はむしろ松福院に隣接しているということであった。これだけ情報を事前にいただければ十分である。おかげで迷うことなく墓石に行き着くことができた。

 

 瀧岸寺墓地の岡野家の墓域に振武隊士杉山銀之丞(別名・横手銀三郎)の墓がある。墓石側面には横手銀三郎という別名が刻まれている。

 

 

杉山銀之丞の墓

 

 

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美里

2019年10月19日 | 埼玉県

(さらし井)

 

  

さらし井 

 

 美里町広木の枌木川(ねりぎがわ)のほとりに岩で囲まれた小さな井戸がある。奈良時代から伝わる「さらし井」と呼ばれる井戸で、往古より織布を洗いさらすために使用した湧水で、ここでさらされた布は、多くが調庸布(ちょうようふ)として朝廷に献納された。婦人達の共同作業場でもあり、悩みを訴え愛を語る社交の場でもあった。

 

曝井碑 

 

 さらし井の前に弘化二年(1845)に橘守部が万葉歌一首とともに記した曝井碑が建てられている。

 

 三栗の中にめぐれる曝井の

 絶えず通わん そこに妻もが

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館林 Ⅳ

2019年10月12日 | 群馬県

(田中正造記念館)

 

 

田中正造記念館 

 

 せっかくだから館林の田中正造記念館を訪ねることにした。いうまでもなく、足尾銅山鉱毒事件で活躍した田中正造の功績を顕彰する記念館である。時系列に田中正造の事績をパネル展示している。

 銅山が流す鉱毒が渡瀬川流域に拡散し、川魚が死滅したのみならず、農産物も壊滅的な被害を受けた。木が伐採された山は大雨が降ると土砂崩れが発生し、鍰をためるダムが決壊して、多くの住民が被災した。

 明治三十四年(1901)、田中正造は銅山の操業停止を訴え、それが受け入れられないと知ると、明治天皇に直訴するという「禁じ手」に出た。直訴は未遂に終わったが、田中正造の住民を助けたいという情熱がなせる行為であった。

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幸手 Ⅱ

2019年10月12日 | 埼玉県

(幸手西高校)

 

幸手西高校 

 

 幸手西高校の裏(正確に言うとグラウンドの東側)の一角に橘守部の遺蹟碑が建っている。この石碑を見るために八王子から幸手まで往復した。東武鉄道の幸手駅から徒歩二十分。残暑の厳しい日で、幸手高校に着いたときには汗で目が開けられないくらいであった。

 

 

橘守部翁遺蹟碑

 

 伊勢国に生まれた橘守部は、十七歳で江戸にでて学問を志し、やがて積極的に国学の道に入った。文化六年(1809)、二十九歳のときから内国府間常照院に住み、約二十年間、この地域の教育に携わった。門下生は約二百人に及んだといわれる。

 常照院の敷地は県立幸手商業高校に引き継がれ、現在は幸手西高校になっている。この石碑は昭和四年(1929)に建立されたもの。市立図書館には守部の書簡が市指定有形文化財として保存されている。

 

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御蔵島 Ⅱ

2019年10月05日 | 東京都

(神の尾墓地)

 ヘリポートの手前、小中学校の向い側が町で唯一の墓地である。この墓地を歩いてみれば直ぐに気が付くが、御蔵島の住人のほぼ半分は広瀬姓、次いで多いのが栗本姓なのだそうだ。住宅にはほとんど表札は掲げられていない。多分町の人は誰がどこに住んでいるのか正確に把握しているに違いない。郵便物は、「東京都御蔵島村」だけで届くそうである。でも、ちゃんと下の名前まで書かないといけない。住所よりも名前の方が大事なのである。

 

                       

栗本一郎翁の墓

 

 最上段の一際背の高いのが栗本一郎(市郎左衛門)の墓である。文久二年(1862)四月、ヴァイキング号が座礁した折、御蔵島の地役人として対応に当たったのがこの栗本一郎であった。栗本は、村全体で被災者を受け入れることを決断し、幕府との間に奔走した。その際、「西洋黒船漂難一件記」を書き残した。慶応四年(1868)にロシア船が遭難した際、この記録が役に立ったといわれる。維新後は、御蔵島の産業振興と教育に尽くした。

 

 

明治元年 露國商船溺死者之墓

 

 墓地の同じ段、唐金仏(からかねぼとけ)の隣に、栗本一郎が建てた「露國商船溺死者之墓」がある。慶応四年(1886)にロシア船が遭難。十二人が御蔵島に漂着し、九人(広東人四人、台湾人一人、黒人三人、日本人一人)が救助されたが、三人(ロシア人一人、日本人二人)が溺死した。この時、栗本一郎は惣代年寄として対応に当り、溺死者を手厚く葬っている。

 

 さらにヘリポート側に進むと古入金七人塚がある。

 

 

古入金七人之墓

 

 宝暦五年(1755)、流人の島抜け未遂事件が起こった。当時、島にいた八人の流人が、里に火を着け、その騒ぎの間に船を奪って逃げようとしたのである。そのうちの一人が島娘と恋中になっており、事前に娘に打ち明けたため、青年は島の恩人となり、残る七人は処刑された。この伝承には一切の記録がなく、当時の流人の数にも一致しないという。墓が一基残るのみで、しかもこの墓についても過去帳で確認できないという。ヘリポートの工事の際、墓も移転したが、何もそれらしいものは発掘されなかった。

 

奥山交竹院之墓

 

 神の尾墓地から都道を挟んだ南側に奥山交竹院の墓がある。左の玉石の墓石は、利島の船頭彦四郎のものである。奥山交竹院は幕府奥医師であったが、絵島事件に連座し御蔵島に流された。当時、御蔵島は三宅島の属島となっており、三宅島の財政が厳しくなると黄楊(つげ)を伐採して送るように要求していた。御蔵島では黄楊はほとんど切り尽くしてしまったという。御蔵島の窮状を見かねた奥山交竹院は、江戸の人脈を使って幕府を動かし、御蔵島を三宅島から独立させることに成功した。このとき江戸で動いたのが桂川甫竹であり、御蔵島側では加藤蔵人が活躍した。御蔵島では交竹院を恩人として祀っている。

 

(伊豆諸島東京都移管百周年記念碑)

 

昼寝する猫 

 

 観光案内所の前の坂道の途中に伊豆諸島東京都移管百周年記念碑がある。

 明治四年(1871)、廃藩置県後、伊豆の島々は、相模県、韮山県、足柄県、静岡県と目まぐるしく変わったが、明治十一年(1878)、一月十一日の太政官布告第一号(太政大臣は三条実美)により東京都に編入された。この石碑は、昭和五十三年(1978)一月十一日、移管百年を記念して建てられたのである。

 ということで、御蔵島の自動車は品川ナンバーである。見た限り、軽自動車しか走っていない。高速道路があるわけではないし、ガソリンが高価なので、坂道さえ登れば、軽自動車で十分なのだろう。因みに坂道の急なこの島では自転車は走っていないし、自転車屋も存在していない。

 

伊豆諸島東京都移管百周年記念碑   

 

(御蔵島観光資料館)

 今回の御蔵島訪問では、観光案内所の方々に本当にお世話になった。開館の八時半にお約束していたので、その時間に伺った。直ぐに祖霊社の神主さん宅を教えていただいた。

 祖霊社で栗本鋤雲の胸像を拝見したら、再び観光案内所に戻って、「御蔵島村史」などの史料を閲覧し、一階にある郷土資料館(入館料百円)の展示を拝見した。郷土史料館では、特別展示「奥山交竹院没後三百年記念展」を開催中であった。

 

 御蔵島観光資料館

 

 郷土資料館はヴァイキング号事件やその解決に尽力した栗本一郎関係の展示などが注目である。

 観光案内所では、奥山交竹院没後三百年記念展を機に限定三十組の記念手ぬぐいを作った。いかにも売れそうもないグッズであったが、勧められると断れない私は、言われるまま購入してしまった(千八十円)。

 

郷土資料館 

 

 

ヴァイキング号模型

 

(祖霊社)

 観光案内所で神主さんの自宅をご教示いただき、早速神主さんを訪ねた。観光案内所から事前に連絡をしていたこともあって、神主さんには心よく案内に応じていただいた。

 祖霊社は、民宿御蔵荘に隣接する神社である。維新前は万蔵寺という寺であったが、廃仏棄釈により神社に転換したという歴史を持っている。いわれてみれば神殿前の鳥居は何だかとってつけたような感じがするし、神殿そのものもいかにも御寺の本堂っぽい建物である。

 神殿に入って、右側の大き目の戸棚の中に栗本鋤雲胸像の石膏製原型は保存されていた。地元では「白ん爺」(しろんじい)と呼ばれているそうである。普段この像は神殿の奥にしまわれており、人の目に触れることも少ないため、保存状態は極めて良好で、作られた当時のままといっても良い。孤島だからこそ少しの破損もなく今に伝わったのであろう。

 

祖霊社

 

 

栗本鋤雲胸像の原型

 

 伝えられるところによれば、鋤雲の門弟である犬養毅が美校(現東京藝術大学)出身の某に作らせ、栗本重光(神主さんのご先祖にあたる)の養嗣子である栗本俊吉に贈ったものという。俊吉自身も鋤雲と親交があり、御蔵島には、鋤雲が俊吉に贈った送別の辞の扁額や鋤雲遺愛の硯なども伝わっている。

 これを原型として群馬県権田の東善寺や横須賀市自然・人文博物館にも盟友小栗上野介の横に栗本鋤雲の胸像が並ぶことになったのである。

 

 

栗本一郎辞世碑

 

 祖霊社境内には栗本一郎の辞世碑もある。残念ながら何が書いてあるか読み取れない。

 

(鉄砲場)

 ここまで来てほぼ予定していた史跡はほぼ見終えてしまった。戸数百七十五という集落はさほど大きいものではなく、一~二時間もあれば一周できてしまう。船が出るまでの残り時間をどうするか、なかなか悩ましい問題であった。観光協会からいただいた里中マップに蔵屋敷跡、鉄砲場というそれらしい地名があったので、行ってみることにした。

蔵屋敷跡は稲根神社の近く、三宝橋を渡った辺りである。

 

 蔵屋敷跡

 

 蔵屋敷といえば、一般的には藩で生産された米や特産品を貯蔵しておく施設のことであるが、御蔵島では季節によって使わない農具や漁具を保管しておく倉庫が並ぶ場所のことであった(言わばトランクルームである)。

 さらにこの道を進むと鉄砲場という名前の民宿がある。想像するに、ここで鉄砲の調練を行ったとか、鉄砲隊が警護したとか、そういういわれのある場所なのだろうか。何故、鉄砲場という妙な名前なのか、「御蔵島村史」などでも調べてみたが、最後までよく分からないままであった。

 

 

鉄砲場

 

鉄砲場からの眺望 

 

 鉄砲場から町を一望できる。昔は島の南東部の南郷にも集落があったそうだが、今は廃村となったため、この島の街はこれで全てである。島の主な産業は農業、漁業、林業や観光業だが、もともと土地はやせており農作には向かない。どうしても観光収入に頼るところが大きいであろう。やはりこの島がもっとも賑わうのはイルカ・ウォッチングやダイビング客が訪れる夏である。この日も東京に戻る船に乗るため、大勢の観光客が桟橋に集まっていた。

 

往復十五時間をかけて、島の滞在時間は六時間半。時間的には割りが合わない旅であったが、大満足であった。

 

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