再び古本である。表の歴史を正史と呼ぶのに対し、博徒・侠客といったアウトローの歴史を稗史(はいし)と呼ぶ。稗史に関して、二人目が思いつかないくらいの第一人者高橋敏教授による著書である。幕末、澎湃として博徒・侠客が現れた。国定忠治や清水次郎長らは夙に名を知られているが、本書の主役は彼らのようなメジャーな博徒ではなく、竹居安五郎(本名中村安五郎、通称竹居の吃安)である。
竹居の安五郎は、竹居村の名望家中村家の四男に生まれた。代々中村家の嫡男は甚兵衛を名乗り、隣村との裁判にも先頭にたって活躍した。長百姓や名主もつとめる、竹居村では中心的な家であった。安五郎の長兄も代々の甚兵衛と同じように名望家として活躍していた。ところが突然賭博場を開いた罪で摘発を受ける。同じ頃、安五郎も博奕によって囚われ、江戸の牢に投獄された。裁判などで多くの人が出入りする家は、賭博場と紙一重なのであろう。
兄甚兵衛は新島に流された安五郎への経済的支援を惜しまなかった。安五郎が島抜けした後、残された家財のリストがあるが、炬燵やざぶとん、茶碗、贅沢品の黒砂糖など、流人とは思えぬ優雅な暮らしを送っていたらしい。それでも安五郎は嘉永六年(1863)、ご法度である島抜けを敢行した。この時、島の名主を殺害し、鉄砲を強奪し、さらに腕利きの水主を二人道案内として拉致し、彼らに操船させて伊豆網代に上陸したのである。
著者の調査によれば、江戸時代を通じて島抜けを実行した流人は七十八名に上るが、無事に本土にたどりつき逃げおおせた例はわずか三例という。殺人まで犯した大罪人となれば、伊豆韮山の代官江川英龍が黙っていない。
ところが、安五郎が島抜けを実行したちょうどその時、浦賀にペリー艦隊が現れ、韮山代官やその手下は黒船対応で大童であった。安五郎はその間隙を縫って盟友間宮久八(大場の久八)を頼り、まんまと故郷竹居村にたどりつき、そこで潜伏することに成功した。
幕末は江戸時代の様々な秩序が崩壊し、その間隙を縫って博徒、侠客と呼ばれるアウトローが出没した時代でもあった。その代表格が勢力富五郎や国定忠治である。彼らはその勢力圏を競い、たびたび衝突(出入り)を繰り返した。竹居安五郎とその子分黒駒勝蔵の宿敵は国分三蔵(高萩万次郎)を主謀者とする甲府柳町卯吉、その子分祐天仙之助、上州館林藩浪人犬上郡次郎らの一団であった。三蔵は犬上郡次郎をスパイとして安五郎家に送り込むといった狡猾な手段を使って安五郎をおびき出し、安五郎を搦め捕った。文久二年(1862)二月、投獄された安五郎は牢死した。毒殺ともいわれる。
安五郎の遺志を継いだのが、二十歳年下の黒駒勝蔵であった。勝蔵の家も竹居の安五郎と同じように名主役もつとめるし、支配代官との中間にあって郡中の役に就くこともある名家であった。元治元年(1864)には宿敵国分三蔵と対決してこれを破り、同年十月には犬上郡次郎を殺害した。この間、三蔵に味方した清水次郎長と華々しく出入りを繰り返した。これが浪曲や講談、大衆演劇の世界で勝蔵が次郎長の敵役として知られる背景となった。時に極悪非道の卑怯者として描かれる勝蔵であるが、残された史料からは勤王の志士という別の顔が見えてくる。出身地の黒駒の近くには檜峯神社神官武藤外記、藤太父子が住んでおり、入塾したという確証は得られていないが何らかの薫陶を受けて成長したとみられる。
文久二年(1862)に、のちに天誅組の挙兵に参加して討ち死にした那須信吾が上黒駒村に現れ、勝蔵の家にかくまわれたという伝承が残っている。勝蔵の「志士」としての側面を伝える逸話である。
慶應四年(1868)正月、黒駒勝蔵は小宮山勝蔵もしくは池田勝馬という変名を用いて、官軍先鋒赤報隊隊長格として東上した。勝蔵が赤報隊に参加したのは、岐阜の博徒水野弥三郎との関連、もしくは神官武藤藤太と相楽総三との繋がりによるものと推定されている。六月には四条隆謌に随行して磐城平攻城戦にも参戦し、仙台まで転戦して同年十一月東京に凱旋している。戦後、甲州に戻った勝蔵は黒川金山開発を目論むが、帰隊の日限を守れず脱退とみなされ、明治四年(1871)正月、突如として捕らえられ甲府に送還された。
そして同年十月、脱隊と過去の出入りでの殺人を問われ、斬罪に処された。実は勝蔵を赤報隊に結びつけた水野弥三郎も罪人として捕らわれ、処刑される前に自ら縊死している。
結局、黒駒勝蔵や水野弥三郎が何故官軍から抹殺されなくてはいけなかったのかは謎である。明治政府としては倒幕に彼ら博徒の手を借りたという事実を消し去りたかったのであろうか。彼らの死は、維新の闇の歴史でもある。