史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大仙 刈和野 Ⅱ

2022年10月08日 | 秋田県

(刈和野)

 

明治天皇聖蹟

 

 明治十四年(1881)九月十八日、御所野、和田、大張野、船沢を経て、境行在所(現・大仙市協和町)に宿泊。翌十九日、峰山、刈和野、神宮寺、花館、大曲を経て、角間川(現・大仙市)にて宿泊した。刈和野では、近くの願龍寺の井戸水が御膳水として用いられた。

 

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大仙 協和 Ⅱ

2022年10月08日 | 秋田県

(協和境)

 

明治天皇行在所碑

 

御膳水碑

 

 唐松神社一の鳥居近くに明治天皇行在所碑がある。東郷平八郎の題字。少し南に行くと、御膳水の碑も建てられている。

 

(協和峰吉川)

 

白糸の滝

 

 白糸の滝から北に一キロメートルほど行った峰の山展望台に明治天皇御野立所碑がある。そこを目指して白糸の滝まで来たが、そこから先の道は未舗装道路で、しかも腰の高さまで雑草が伸びているような状態で、とても自動車では走行できない。かといって、歩いて登る勇気もなかった。いずれ出直すこととした。

 

明治天皇 御膳水跡

 

 国道13号線沿いに御膳水碑がある。

 

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秋田 大張野

2022年10月08日 | 秋田県

(鬼子母神社)

 

鬼子母神社

 

明治天皇聖蹟

 

 道路に面した鬼子母神社鳥居横に明治天皇聖蹟碑と明治天皇行在所跡碑が建てられている。

 

駐蹕碑

 

士魂城之碑

 

 士魂城之碑は、大張野地区の開墾の歴史を刻んだものである。

 

明治天皇玉歩之聖趾

 

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秋田 和田

2022年10月08日 | 秋田県

(和田)

 

明治天皇聖蹟

 

 バス停和田上丁の近くの民家の庭に明治天皇聖蹟碑があるが、非公開。辛うじて石碑の頭部が塀越しに見える。

 

(行幸坂)

 

行幸坂紀念碑

 

 国道13号線を東進して、和田大橋を渡って直ぐに左折。そのまま坂道を上ると、その途中に行幸坂紀念碑がある。西郷従徳(西郷従道の次男)の題字。大張野への行幸に際し、新道が開かれ、秋田県によって行幸(みゆき)坂と命名された。

 

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秋田 御所野

2022年10月08日 | 秋田県

(御所野下堤)

 御所野の住宅街の一角に明治天皇御野立趾碑が建てられている。

 

明治天皇御野立跡

 

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秋田 雄和 Ⅱ

2022年10月08日 | 秋田県

(雄和町椿川堤根)

 秋田空港に近い雄和町椿川堤根に、秋田市教育委員会の建てた戊辰戦争糠塚森の決戦説明板が置かれている。

 秋田における戊辰戦争の最後の決戦は、九月十一日から翌日にかけて、椿台糠塚森を中心に行われた。当時、この場所には、秋田支藩の椿台城が建築中で、秋田藩防衛の拠点とされており、秋田・庄内両軍の死闘が重ねられた。最終的には、薩摩・長州軍の支援を受けた秋田軍が防錆に成功した。雄和地区は、薩長軍方の秋田藩と庄内軍方の亀田藩との領内であったこともあって、ほぼ全域が戦場となり、総戸数の約三十%という多くの住居が焼失したほか、両軍の兵士の不足を補うため、多くの百姓が郷夫や使役人夫として徴用された。

 

戊辰戦争糠塚森の決戦

 

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秋田 北部 Ⅲ

2022年10月08日 | 秋田県

(全良寺つづき)

 

故權大講義荒川秀種之墓(荒川久太郎の墓)

 

 荒川久太郎(きゅうたろう)は、文政十年(1827)の生まれ。諱は秀種。平田篤胤が秋田に来た時、十五歳であったが、教えを受けて、のち吉川忠行門下として国学と同時に洋式兵法は鉄砲鋳造を学んだ。文久三年(1863)、遊軍隊長となり、さらに洋式鉄砲の製法、操練の修得に励んだ。慶應二年(1866)、家督を継ぎ、宿老を勤めた。慶應四年(1868)の戊辰戦争の際は、奥羽鎮撫正副総督三卿の守護に同志とともに奔走し、庄内征討に出陣し武功をたて、藩主より二度も感状を受け、新知五十石を賜った。のち少参事心得、権少参事等を歴任した。明治十五年(1882)、年五十六で没。

 

金輪五郎友行墓

 

 金輪五郎は天保四年(1833)の生まれ。秋田藩家老渋江家の臣となり、金輪五郎と名乗った。勤王の志士と交わり、辻辰之助とも親交をもった。のち脱藩し、慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩に属して戦い、ついで相楽総三の赤報隊に属した。その後、秋田藩に復帰し、東北戦争に出陣して負傷したが、同年十月、奥羽鎮撫副総督澤為量に従って上京。のち大村益次郎暗殺の嫌疑を受けて捕らえられ、同年十二月、刑死した。年三十六。

 

正五位小野崎通亮之奥墓

 

 小野崎通亮(みちすけ)の墓である。同じ墓域に父小野崎通孝の墓もある。

 小野崎通亮は、天保四年(1833)の生まれ。平田派国学を学び、吉川忠行、忠安父子らと尊王を主張した。文久三年(1863)、同志とはからって雷風塾を創立し、少壮子弟の首領となった。慶應四年(1868)、明徳館教授兼砲術頭を命じられ、戊辰戦争に際し、率先勤王を主張し、奥羽鎮撫総督澤為量に秋田滞陣を請い、庄内、南部の征討に従事した。明治二年(1869)、神祇官判事試補となり、明治三年(1870)、秋田藩権参事に任じられ、以後各職を歴任し、明治十五年(1882)、古四王神社宮司に任じられた。明治三十年(1897)。貴族院議員。明治三十六年(1903)、年七十一で没。

 

官軍 湊貞治墓

 

 墓石に刻まれたところによれば、明治十年(1877)三月十二日、熊本山鹿口鍋田にて戦死。年二十二歳。

 

官軍 少尉試補秋田蓮沼浩之墓

 

官軍 瀧澤信確胎髪之塚

 

官軍 諸井橘忠孝之墓

 

官軍 飯村直蔵之墓

 

 ほかにも同じ墓域に、西南戦争の戦死者の墓が四基確認できる。

 

(宝塔寺)

 

宝塔寺

 

官軍 秋藩 松山才之助正孝墓

 

 宝塔寺の墓地の上の方に七面堂と名付けられた御堂がある。その直ぐ手前に松山才之助の墓がある。

 松山才之助は、槍隊戦士。明治元年(1868)九月十二日、羽後長浜にて戦死。四十二歳。

 

(泉部落墓地)

 

官修墳墓

 

 本当はここでは、山中新十郎(藩御用商人)の墓を探したのだが、どういうわけだか、工藤姓と石塚姓の墓石ばかりで完全に空振りであった。

 そこで偶然に出会ったのが、官修墳墓の石碑。周囲を探してみると、戊辰戦争の殉難者の墓を一基発見した。

 

大越國純之墓(大越季之助の墓)

 

 大越季之助は、補監。明治元年(1868)九月十五日、羽後境村にて戦死。三十一歳。

 

(川尻)

 

明治天皇御駐輦址

 

薪炭置場

 

 旭川(秋田運河)沿いには、米倉跡や薪炭置場跡を示す木柱が建てられている。川尻の町の目の前に秋田運河が横たわっており、水運の拠点として重きをなしていたことが想像できる。

 薪炭置場跡近くに明治天皇御駐輦趾碑が建てられている。この石碑は、大正六年(1917)十一月、大正天皇の即位を記念して建立されたもの。

 

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秋田 金足

2022年10月08日 | 秋田県

(秋田県立博物館分館・旧奈良家住宅)

 

旧奈良家住宅

 

 奈良家住宅は、江戸時代中期の宝暦年間(1751~1763)に奈良家九代善政(喜兵衛)によって建てられた大型農家建築物である。よく当時の旧態をとどめ、また建築年代が明らかな点でも貴重な民家であり、国の重要文化財に指定されている。

 奈良家住宅のある同じ敷地内に潟上市北野にあって、明治天皇が滞在した建物が移築されている。

 

明治天皇北野小休所

 

 明治天皇がこの建物にて休憩をとったのは、明治十四年(1881)九月十五日のことである。

 

今上皇帝行宮玉座

御小休

 

 明治天皇が滞在した部屋には、明治天皇と昭憲皇太后の御真影、「御小休」と墨書された木札、今上皇帝行宮玉座と記された板などが展示されている。

 

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潟上

2022年10月01日 | 秋田県

(円福寺)

 

円福寺

 

明治天皇大久保御小休所

 

 円福寺の門前に明治天皇大久保御小休所碑が建てられている。円福寺が現在地に移転したのは最近のことのようで、旧境内にも明治天皇御駐輦碑が残されている。

 円福寺境内を歩いていると、住持さんが出てきて「何か用事ですか」と聞かれた。明治天皇小休所の石碑を探していると答えると、門前にあることを教えていただいた。住持さんによれば、以前は境内にあったが、つい最近門前に移したのだそうだ。

 

明治天皇御駐輦趾

 

 旧境内地にある御駐輦碑は、巡幸五十年を記念して建立されたもの。題字は一戸兵衛。

 

(サンウイング)

 

明治天皇北野御小休趾

 

 秋田市境に近い、北野細谷道添の国道7号線沿い、有限会社サンウイング(中古車販売)の前に明治天皇北野御小休趾碑がある。明治天皇が当地を訪れたのは、明治十四年(1881)九月十五日のことで、この後土崎行在所に宿泊している。

 なお、明治天皇が滞在した建物は、秋田県立博物館分館旧奈良家住宅(秋田市金足小泉上前)に移築されている。

 

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五城目

2022年10月01日 | 秋田県

(五城目神明社)

 五城目神明社は、元徳年間(1330頃)、修験日桂山泉蔵院の創始と伝えられるが、確かなところは不明である。文化六年(1809)の棟札が残っているという本殿は、多くの彫刻が施されていて、一見の価値がある。

 

五城目神明社

 

贈正五位白土右門之碑

 

 神明社の社務所側に白土右門の顕彰碑がある。

 白土右門は、文化十二年(1815)の生まれ。諱は清直。雅号は恵堂。右門は通称である。藩校明徳館の助教、教授を歴任し、のち郡奉行、勘定奉行、評定奉行等の要職に就いた。慶應四年(1868)四月十四日、庄内征討を議した藩重臣会議の折、勤王を説いて、以来一貫して勤王の立場にたった。四月十七日、評定奉行当時、勘定奉行志賀為吉とともに、奥羽鎮撫副総督澤為量に藩議の錦旗受領と庄内問罪までの進行猶予願の両面作戦の使者として派遣され、天童で謁し秋田藩の立場を説明した。維新後は、秋田藩権大参事に任じられたが、廃藩により辞任した。

 

(常演寺)

 常演寺に白土右門の墓がある。白土右門は、明治十四年(1881)、五月、年六十七で没した。

 

常演寺

 

贈正五位

故秋田藩権大参事白土清直君之墓

 

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