これまた古本。
筆者芳賀徹先生は比較文学、近代日本比較文化史がご専攻である。比較文学といわれても今一つピンときていないが、本書はいわゆる歴史学者の本とは少し切り口が異なる読み物になっている。
幕末、徳川幕府はその歳末期の七、八年のあいだに、ほとんど一年おきないし連年という忙しさで大小の外交使節団を欧米諸国に派遣した。第一回は万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准を目的とした遣米使節団で、勝海舟や福沢諭吉らを乗せた咸臨丸の太平洋横断で有名である。第一回目の使節団と比べると知名度が劣る第二回目の遣欧使節団が本書の主題である。文久二年(1862)、竹内下野守保徳を正使とする遣欧使節団の目的は両都両港開市開港の最大限の延期が主要使命であった。
一行は、遅れて渡欧してロンドンで合流した森山多吉郎と淵辺徳蔵を含めて三十八名。筆者の眼は正使副使といった幹部よりも、福沢諭吉、箕作秋坪、松木弘安、杉徳輔(孫七郎)、益頭(ますず)駿次郎、福地源一郎といった下級随行員に注がれている。
彼らは「何でも有らん限りの物を見やうと計りしていた」(福沢)という証言とおり、ヨーロッパ文明を精力的に見学した。博物館、製陶所、印刷所、病院学校、兵器製造所、軍港や造船所、港湾施設等あらゆる場所で日本人はフランス人、イギリス人を感心させるほど質問攻めにし旺盛に知識を吸収しようとした。第一回目の遣米使節団と違って、竹内使節団には明瞭な意図とプランをもって幕府主導下の近代化の方策を探ることが使命とされていた。随行員にはそれぞれ専門別に調査対象の分担があったらしく、帰国後、それぞれの報告を集めて百科全書的な集大成が編集された。
しかし、この時点で日本には五十年以上にわたる医学や兵学、砲術、地理などに関する蘭学の蓄積があった。フランスやイギリスでは、極東からやってきた未開人に、近代的文明をこれでもかとばかりに見せつけたが、日本人にとってその原理は既知のものであり、目新しいものはなかった。福沢はこのように書き残している。「理学上の事に就ては少しも胆を潰すと言ふことはなかったが、一方の社会上の事に就ては全く方向が付かなかった。」
福沢らの問題意識は、西欧文明を取り込むことにあるのではなく、それを実現するためには「大変革」を行わなければならないというところにあった。青年らしい気概と焦燥感と呼ぶべきかもしれない。福沢は技術を組織し運営する主体にまでさかのぼって研究し受容しなければ、輸入した技術をさえ活用することができない、それを我が日本の実力として養い、国の独立の保障とすることはできないということを悟っていた。そういう意味で彼の問題意識は一行の中でも一歩先をいっていたといえよう。
ほかの随行者がレールの寸法や汽車の速度に興じている間に、福沢は鉄道商社の構成や経営法について研究していた。ほかの連中が外科術や病理標本に驚嘆しているとき、一人福沢は病院の経営法や社会保障制度を調査していた。福沢の研究対象は、選挙や外交、専売制などにまで及び、さすがに福沢と「三人組(トリオ)」を構成した松木弘安、箕作秋坪といえども、そこまで福沢を追いかけることはできなかった。
福沢が欧米視察によって得た知見は帰国後「西洋事情」としてまとめられ空前のベストセラーとなった。「西洋事情」はわが国が近代化を推進する上で不可欠の設計図となったのである。
坂本龍馬が単細胞の衝動的な攘夷派の剣士から、現実的・計画的な維新の志士、さらに深謀遠慮の政治家(ステートマン)に変貌していく過程をプリンストン大学のジャンセン博士はsophisticationと表現したという(M.B.Jamsen, Sakamoto Ryoma and the Meiji Restration, Princeton U.P 1961)。筆者によれば、福沢諭吉についても、緒方塾の蕃カラな秀才から江戸藩邸内の蘭語教師、渡米を経て幕府外国方翻訳局員となって渡欧するに伴い、ソフィスティケーションの過程を経てきたとする。筆者はソフィスティケーション=不純化・悪ずれという訳を当てているが、一般的には洗練されたとか、教養を身に付けたという意味に解されている言葉である。確かに福沢は脱皮を重ねて洗練されていったのであろう。
竹内施設団が帰国した文久三年(1863)一月末のことであった。文久三年(1863)は、幕末においても最も攘夷運動が過激化した年であった。使節団が持ち帰った膨大な西欧文明の情報は密封され、幕府内でも歓迎されるでもなく、その労を深くねぎらわれることもなく、幕府の内政外交に何らかの変革をもたらすこともなかった。福地源一郎などは身分の低い自分にも、将軍じきじきの御下問はあり得ないとしても、老中や若年寄や同僚朋輩から西洋事情を問われるだろうと期待していた。あわよくば立身出世のチャンスにもなると、あれもやろうこれもやろうと準備もしてきたというのに、いざ帰国してみると彼を歓迎してくれたのは細君と老僕と二、三の学友ばかりであった。福地に限らず、狂信的な攘夷党の横暴を前に、随行員は身を慎んで自宅に引きこもることしかできなかった。使節団が日本国内において政治面で及ぼした直接的影響はほとんと無に等しかった。
ただし、彼らの成果が全て雲散霧消してしまったというわけではない。その代表例が福沢の「西洋事情」であるが、福沢以外の随行員が書き残したもので、たとえば各国で集められた「探索」書は明治二年(1869)刊の橋爪貫一著「開知新編」十巻に再録された。幕府は倒壊したが、その遺産としてこのような形をとって明治早々の日本人の啓蒙に一役を果たすことになった。筆者によれば、家系内、家庭内での西洋経験の感化と継承という形で引き継がれたものもある。たとえば、明治大正の演劇改良に活躍した岡鬼太郎、知的叙情詩人岡鹿之助画伯、国際法・外交史の権威立作太郎博士、作家上田敏らが使節団随員の家系から生まれている。これも遣欧使節団の成果というと大げさかもしれないが、余波であることは間違いない。