史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「勝海舟と幕末外交」 上垣外憲一著 中公新書

2015年01月29日 | 書評
維新後、勝海舟は「海舟座談」や「氷川清話」など多くの証言を残している。読み物としては結構面白いが、法螺話や自慢話のオンパレードで、どこまで信じてよいものやら、読者としては戸惑いを感じる本でもある。
「氷川清話」の中でロシアによる対馬占拠事件(ポサドニック事件)について、こう語っている。語り口はまるで講談のようで、海舟の面目躍如といったところである。
――― さあ、こゝだ。対馬は、この時、事実上すでに露西亜のために占領せられたも同様であつたのだ。つまりかういふ場合こそ、外交家の手腕を要するといふものだ。ところでおれは、この場合に処する一策を案じた。それは当時長崎に居った英国公使といふのは、至極おれが懇意にして居つた男だから、内密にこの話をして頼み込み、また長崎奉行からも頼み込みました。さうすると公使は、直に北京駐在英国公使に掛合ひ、その公使は。また露国公使に掛合つて、堂々と露国の不条理を詰責して、わけもなく露西亜をして対馬を引き払はせてしまつたことがあつた。これがいはゆる彼に由りて彼を制するといふものだ。

本書では、時の英・米・露・仏の思惑とか、東アジアの勢力図、政治情勢などを紹介しながら、海舟の座談を裏付けていく。ただし、前後の外交裏面史については、ほとんど史料らしきものが残っておらず、本書でも著者の想像や推測の積み重ねである。本書では至るところに「に違いない」「と私は考える」「おかしなことでは決してない」「と考えられる」「ということがあってもおかしくない」「と推測する」という表現が多用されている。史料が残っていないのであるから、相当部分は推測や想像で補完するしかないのであるが、印象としては「推測や想像」があまりに多くて、やや信憑性に欠ける。
たとえば万延元年(1860)十二月のヒュースケン暗殺事件について、「ヒュースケンは、巧みな日本語能力でアメリカ以外の外交も助け、プロイセン公使にも大いに援助をしていたので、この堀利熙を殺すことになったプロイセンとの外交に余計な加勢をしたヒュースケンが暗殺の対象となったという見方が可能」と結論づけている。堀織部正利熙の自刃は同年の十一月六日のことである。つまり堀の死からヒュースケンの暗殺まで一か月しかない。現代のように日々の事件をテレビや新聞が報じている時代ではない。堀の死を幕府が速やかに公表したとは思えない。この情報を暗殺団が把握し、暗殺のターゲットを絞り、その行動パターンを調査し、暗殺を実行するのに一か月はあまりに短い。ヒュースケン暗殺を堀の自刃への報復措置と位置付けるのはかなり強引のように思う。
著者が前提として話を進めているフランスによる対馬租借問題についても、横井小楠の書簡に触れられている一節をもとに想像を膨らませているものであり、若干根拠が弱い印象は免れない。ただし、ロシアが起こしたポサドニック事件前夜に、各国の様々な思惑が絡んで、水面下で駆け引きがあったことは(著者の想像がどの程度当たっているかは別として)そうだったのだろうと思う。水面下の駆け引きがたまたま表面化したのが、ポサドニック事件だったということかもしれない。
いかに大風呂敷の勝海舟とはいえ、実際に自分が関与していないことについて、堂々と法螺を吹くこともできないだろう。勝海舟の証言にも、事実が含まれているとすれば、ポサドニック事件の解決に、何らか海舟が関わっていたことは否定できない。一方で、本書でも水野忠徳の支援や横井小楠の助言があったとしているように、この事件の解決が、ほぼ海舟一人の発案と行動によって、全面解決したとまで言うのはちょっと抵抗がある。

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「吉田松陰「人を動かす天才」の言葉」 楠戸義昭著 知的生きかた文庫

2015年01月24日 | 書評
今年の大河ドラマは、吉田松陰の妹・文が主人公である。年が明けて、大河ドラマの放送も始まった。書店の店頭にはさっそく大河ドラマ関連書籍が並んでいる。関連本は、まさに玉石混淆、良書から読むに足らない本まで幅広いので、購入前に慎重に見極めなくてはならない。
本書は、タイトルからして松陰のことを「天才」と規定したもので、松陰礼賛本であることは間違いない。その点を割り引く必要があるが、松陰の言葉が、多くの若者を国事に駆り立てた。その秘密を知りたいと想い、この本を手に取った。
門下生の一人、渡邉蒿蔵(旧名・天野清三郎)によれば、松陰は「背丈は高からず。痩せていて。顔色は白っぽく、天然痘のあばた痕があった。おとなしい人で、言葉遣いは甚だ丁寧だった」という。入門希望者が教授を願うと「教授などはできないが、一緒に研究しましょう」といい、幼い生徒には松陰自ら風呂敷包みを背負わせ、玄関まで送ってやった。松陰は「婦人のようだった」という同時代人の証言もある。その印象からすれば、今年の大河ドラマの松陰は、あまりに男性的で証言からほど遠い。
ただし、吉田松陰という人は、見た目の優しさとは裏腹に、極めて過激で、剛直で、感情の起伏が激しい人であった。本書で紹介される松陰の言葉は、いずれも激烈である。時に松陰は江戸や京都に遊学する塾生に言葉を送る。「往け六人、本藩方に飛耳長目を以って務めと為す。爾等を使ふ所以なり。」飛耳長目とは、松陰の好んだ言葉で、平たく言えばスパイのことである。こうした熱い言葉をはなむけに贈られた若者は、やはり奮い立たざるを得なかったであろう。
松陰は、塾生に見たこと、聞いたことを書き留めておくことを推奨した。もちろん本人も日記や本の抄録をせっせと記録した。そのために常に指にはタコができていたというくらいで、お蔭で我々は松陰の思想や行動の背景を手に取るように知ることができる。
松陰によれば「今年抄録した箇所が、来年になればこんな所をなぜ抜き書きしたかと愚かに見える。その翌年にまた抄録すると、前年のものが愚かに見える。それだけ年々、自分の知識が向上している徴(しるし)だ」というのである。
なるほど…と思うが、なかなか実践できるものではない。私も、読んだ書籍は、できる限り感想を書き残すことにしているが、確かに振り返って自分の書評を読むと、自分がこんなことに関心を示したのかと思うことも多々ある。偉人の言だからというのではなく、お勧めしたい習慣である。
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「全国藩校紀行」 中村彰彦著 PHP文庫

2015年01月24日 | 書評
ほぼ十年前、作家中村彰彦氏が藩校を訪ねて全国を旅した紀行文である。このたび文庫化されたが、なかなか教唆に富んだ内容となっている。中村氏は ――― 少々、会津藩に肩入れしている傾向はあるものの ――― 薩長土肥といったメジャーな存在だけでなく、全国の無名の藩の歴史まで精通している方である。本書でも、会津藩校日新館、薩摩の造士館、長州の明倫館といった比較的知られた藩校だけでなく、高遠藩や徳島藩のような、あまり取り上げられることのない、マイナーな藩にも光を当てているのが特徴である。
藩校における教育が、藩風を形成する一要素となっているのは間違いのないところであろう。
巻末の山内昌之東大名誉教授との対談で、中村彰彦氏が
「概して西国が蘭学などの実学の精神を採用してリアリズム的であるのに対して、いわゆる東北諸藩が気候的にも厳しいし内陸部の藩もあって、どちらかというと観念論的な傾向が強いですね。その結果として、戊辰戦争とは“観念論対リアリズム”の角逐だったようにも思える。」
と指摘しているのは、全国の藩史に満遍なく精通している中村氏ならではの至言である。
幕末には、ほぼ各藩に藩校が開設されたが、今日まで往時の姿をとどめている例は少ない。その多くが「藩校跡」の石碑が設置されているのみとなっている。自分も福井藩校明道館を前身とする高校を出ただけに藩校への想いはひとかたならぬものがある。是非、藩校創設の想いや藩校の産み出した人材を大事にして欲しいと願うばかりである。

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「日本は外国人にどう見られていたか」 「ニッポン再発見」倶楽部 知的いきかた文庫

2015年01月24日 | 書評
日本人は、自分たちが外国人の目にどう映っているのか、非常に気にする民族である。褒められれば素直に嬉しいし、貶されれば腹も立つ。いちいち気にしなければ良い話だが、何故だか気になってしょうがない。最近でも外国人に日本を語らせたり、外国人旅行者に日本のどこがお気に入りなのか、どこがヘンなのかを語らせるTV番組が連日放映されているが、つい視てしまうのも性分なのである。
本書は、「ニッポン再発見」倶楽部と称するグループが、江戸から幕末、明治期に我が国を訪れた外国人の目に日本がどう映っていたのかを紹介したものである。恐らく複数の著者によるものであろうが、古今の日本見聞録を調査し、かなり面白い読み物となっている。
江戸時代の人たちは「非常に高貴な人な人々の家ですら、簡素・単純極まるもので」「貧しくとも貧困ではない」「笑い上戸で心の底まで陽気」と、西欧人の目に映ったようである。江戸時代と比べれば、現代は物質的には遥かに恵まれているように思われるが、当時の方がよほど精神的には満足度が高かったのかもしれない。
西欧にはチップという習慣がある。私はどうもあれが苦手である。荷物を運んでもらったり、部屋の掃除をしてもらったら、素直に感謝したいが、金銭を渡すという行為によって、上下関係が生じるような気がして、どうもギクシャクしてしまう。チップのない社会の方が、個人的には過ごしやすい。金銭の対価を求めないで施す親切こそが、本当の親切だろうと思ってしまう。
現代の西洋化した日本人の目から見ても、チョンマゲや鉄漿(おはぐろ)、既婚女性が眉を剃り落すという風習は違和感があるが、当然西欧人から見ても理解不能な風習だったようである。
外国人に親切で、識字率が高く、礼儀ただしく、金銭に淡泊で、いさかいを嫌うという国民性は今も日本人に息づいている。本書ではその起源を「武士道」に求めているが、果たしてどうだろうか。武士階級は全国民の一割前後であり、残りの日本人は武士道とは無縁の世界で生活していた。「道」などという大層なものではなく、狭い土地に隣近所の人たちと肩寄せ合うように生活していた人たちの生活の知恵として、今の国民性が形成されただけではないのか。
実をいうと私は、こういうちょっとせせこましくて、一生懸命な日本の国民性が大好きなのである。

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古河 Ⅱ

2015年01月24日 | 茨城県
(古河本陣跡)


古河城下本陣址

 少し時間があったので、電車で古河まで往復してきた。駅前で無料のレンタサイクルを手に入れ、市内を一時間ほど散策した。
 JR古河駅近く、線路に平行して南北に走る道が旧日光街道で、周辺に昔の風情を残す建物が点在している。商店街のちょうど真ん中辺り、足利銀行の前に古河宿本陣の石碑がある(古河市中央町1‐2‐37)。その向いには、高札場の跡もある。古河宿は日光参詣の旅人の往来などにより賑わった。


史蹟 古河城下高札場址

 ここから少し北に行くと、尊勝院というお寺の角に「日光道中古河宿道標」が往時の姿のまま立っている(中央町1‐10)。


日光道中古河宿道標

 この道標は文久元年(18861)に太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ら十一人によって建てられたもので、常夜灯形式のものである。正面には「右江戸衛」右側面には「左日光道」と刻まれている。

(神宮寺)
 日光道中古河宿道標の向い側が、神宮寺の境内である(古河市横山町1‐1‐11)。墓地に水戸藩殉難者追悼碑が建てられている。


神宮寺


水戸藩元治甲子之變殉難追悼碑

 那珂湊では、元治元年(1864)十月五日より幕府軍と筑波勢、大発勢、潮来勢の連合軍が交戦し、激戦の末連合軍が勝利を収めた。ところが、筑波勢らと同一視されることを恐れた榊原新左衛門は、幕府側からの接触に応じて、十月二十三日に投降した。武田耕雲斎、山国兵部らはこれに強硬に反対したが、榊原新左衛門の意思は変わらなかった。
 投降した旧頼徳軍は、佐倉藩や高崎藩、関宿藩に預けられたが、簡単な取調のあとは、投降時の密約とは裏腹に罪人扱いであった。その後、彼らは佐倉、高崎、関宿三藩と、古河、忍、福島、大多喜等二十二藩に分割して預けられた。さらに同年十二月十一日には、榊原新左衛門ら百人余りは古河藩に引き渡された。
 翌慶応元年(1865)四月、榊原新左衛門らのうち四十三名は古河藩牢獄内にて切腹・斬首に処された。神宮寺墓地の追悼碑はその霊を慰めるために建立されたもので、傍らの墓標に切腹した十七名と斬罪に処された十二名の俗名と法名が記されている。その中には、榊原新左衛門(三十一歳)、谷鉄蔵(三十一歳)といった幹部や、大胡聿蔵(四十三歳)の名もある。大胡聿蔵は、早くから尊攘活動に参画した志士で、井伊直弼襲撃にも関与したといわれる人物である。

(東片町自治会会館)


鎮火稲荷神社

 東片町自治会会館の前に小さな稲荷社がある。この辺りが古河藩藩校盈科堂の跡である(古河市大手町4‐19)。


古河藩盈科堂及教武所趾

 古河藩盈科堂は、宝暦十二年(1762)、六代藩主土井利益によって開かれた藩校である。土井家は古河から鳥羽、鳥羽から唐津、そして唐津から古河へと国替えの多い大名であった。利益が唐津時代に城内に学館を建て盈科堂と名付けたという記録が残る。土井氏が再び古河に移り、盈科堂も城内梅町に置かれ、幕末まで存続した。

(水戸藩勤王志士殉難之地)
 盈科堂址から西へ百メートルほどの住宅街の中に水戸藩勤王志士殉難之地碑がある(古河市西町2‐2)。


水戸藩勤王志士殉難之地碑

 榊原新左衛門らが切腹、斬刑に処された古河藩牢獄跡である。背面には、切腹した十七名と斬首された十二名の名前が刻まれている。

(鷹見泉石生誕之地)


鷹見泉石生誕之地碑

 古河第一小学校の北側に鷹見泉石生誕の地碑がある(古河市中央町3‐10)。
 鷹見泉石は、天明五年(1785)六月、土井氏代々の家臣鷹見忠徳の長男としてこの地に生まれた。十一歳のときから藩主の側にあり、利厚、利位の二代に仕えた。江戸家老として敏腕を奮った。取り分け藩主土井利位の大塩平八郎の乱の平定、京都所司代から老中への昇進、幕政への参画など、利位の活躍の蔭には常に泉石の補佐が預かって大きかったといわれる。

(永井路子旧宅)
 直木賞作家永井路子は東京で生まれたが、結婚するまでの約二十年間を母の郷里である古河で過ごした(古河市中央町2‐6‐52)。旧宅は江戸末期に建てられた二階建て土蔵造りである。
 永井路子というと、中世を題材にした小説家というイメージが強いが、近年、『岩倉具視‐言葉の皮を剥ぎながら』(文春文庫)では岩倉具視を中心に幕末維新史を取り上げた。


永井路子旧宅

(河鍋暁斎誕生之地)


河鍋暁斎誕生之地碑

 永井路子旧宅と同じく江戸町通り沿い、二百メートルほど駅寄りに行ったところに河鍋暁斎誕生の地碑が建てられている(古河市中央町2‐3‐50)。
 河鍋暁斎(ぎょうさい)は、天保二年(1831)古河藩士の子に生まれた。七歳のとき歌川国芳の画塾に入門し、父の命で十歳から狩野派の洞白陳信に画法を学んで頭角を現した。明治に入って書画会で高官批判の画を描いて投獄され、以後暁斎と名乗るようになった。暁斎の画業は、伝統的な日本画から錦絵、狂画、漫画など多彩である。個人的には上野戦争や西南戦争を描いた錦絵が印象に残っている。明治二十二年(1889)没。五十九歳。

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北茨城 磯原

2015年01月17日 | 茨城県
(天妃山)
 早朝から茨城県の史跡を回ってきて、本日最後の訪問地北茨木市の磯原海岸に行き着いたときには、夕日が山端に沈もうとしていた。このすぐ近くに詩人野口雨情の生家もある。
 北茨木市磯原の天妃山は、元禄三年(1690)、光圀が天妃神をここに祀り、磯原の海の守護神とした。以来、この小さな山は天妃山と呼ばれることになった。標高二十一メートルという低山で、あっという間に山頂に達することができる。その後、天保二年(1831)、斉昭が日本尊の妃、弟橘媛(おとたちばなひめ)を海陸の守護神として合祀し、麓の神社は弟橘媛神社と改称された。


弟橘媛神社


磯原海岸

(磯原防災コミュニティー・センター)


吉田松陰先生遊歴之地碑

 弟橘媛神社のすぐ近くの磯原防災コミュニティー・センターに吉田松陰遊歴之地碑がある。吉田松陰が東北遊歴の旅に出たとき、この地に立ち寄っている。それを記念した石碑である。

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日立 Ⅲ

2015年01月17日 | 茨城県
(友部海防陣屋跡)


友部海防陣屋跡

 日立市の櫛形小学校の西側に少し広い空間があり、そこが友部海防陣屋の跡地である。
 水戸藩では、助川城のほか、現・日立市内に相当するエリアに七つの海防施設を建設した。その中の一つが友部海防陣屋(友部異国船御番陣屋とも)である。天保七年(1836)、斉昭の命を受けて普門寺のあったこの場所に陣屋が建設された。現在も残る稲荷神社は、当時から物頭の屋敷脇にあったものである。

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常陸太田 Ⅲ

2015年01月17日 | 茨城県
(太田落雁碑)
 今回の「水戸八景碑」巡りの旅も、常陸太田の二つの石碑を残すのみとなった。一筆書きで八つの石碑を走破すると、ざっと九十キロメートルになる。昔の人は、これを歩いて達成したのだが、今回自動車で回っても、結構体力を要した。


大田落雁碑

 太田落雁碑は、小高い場所に建てられている。今ここから見る景色はありきたりの住宅街であるが、かつて阿武隈連山を背景として、稔りの秋や雁が刈田に降りる情景を見ることができた。
 なお石碑に刻まれる漢字は「大田」となっているが、「大」は「太」の古字である。

(西山研修所)
 西山研修所の敷地内に山寺晩鐘碑がある。これが、私にとって八つ目の石碑である。


山寺晩鐘碑

 この場所は、もと久昌寺の境内で、全国から学僧が集まり、盛時には数千という学僧が修業に励んだという。斉昭は周囲の寺々から打ち出される鐘の音を松籟とともに聞き「山寺の晩鐘、幽壑(ゆうがく)に響き」と詠んだ。


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水戸 城北

2015年01月17日 | 茨城県
(鹿島香取神社)
 水戸市青柳の鹿島香取神社は、その近くに水戸八景の一つ、青柳夜雨碑があることから、「夜の雨神社」とも称される。


鹿島香取神社


青柳夜雨

 青柳夜雨碑は、神社境内から那珂川畔側にある。大きな柳の木が目印である。

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水戸 偕楽園 Ⅱ

2015年01月17日 | 茨城県
(偕楽園)
 今回、偕楽園を訪ねたのは、斉昭が定めた水戸八景の一つ、僊湖暮雪碑が目的である。好文亭の南門から少し歩いたところにある。「莫」は「暮」の古字である。


僊湖莫雪碑

 偕楽園は秋を迎えて、美しい紅葉を楽しむことができた。


偕楽園

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