維新後、勝海舟は「海舟座談」や「氷川清話」など多くの証言を残している。読み物としては結構面白いが、法螺話や自慢話のオンパレードで、どこまで信じてよいものやら、読者としては戸惑いを感じる本でもある。
「氷川清話」の中でロシアによる対馬占拠事件(ポサドニック事件)について、こう語っている。語り口はまるで講談のようで、海舟の面目躍如といったところである。
――― さあ、こゝだ。対馬は、この時、事実上すでに露西亜のために占領せられたも同様であつたのだ。つまりかういふ場合こそ、外交家の手腕を要するといふものだ。ところでおれは、この場合に処する一策を案じた。それは当時長崎に居った英国公使といふのは、至極おれが懇意にして居つた男だから、内密にこの話をして頼み込み、また長崎奉行からも頼み込みました。さうすると公使は、直に北京駐在英国公使に掛合ひ、その公使は。また露国公使に掛合つて、堂々と露国の不条理を詰責して、わけもなく露西亜をして対馬を引き払はせてしまつたことがあつた。これがいはゆる彼に由りて彼を制するといふものだ。
本書では、時の英・米・露・仏の思惑とか、東アジアの勢力図、政治情勢などを紹介しながら、海舟の座談を裏付けていく。ただし、前後の外交裏面史については、ほとんど史料らしきものが残っておらず、本書でも著者の想像や推測の積み重ねである。本書では至るところに「に違いない」「と私は考える」「おかしなことでは決してない」「と考えられる」「ということがあってもおかしくない」「と推測する」という表現が多用されている。史料が残っていないのであるから、相当部分は推測や想像で補完するしかないのであるが、印象としては「推測や想像」があまりに多くて、やや信憑性に欠ける。
たとえば万延元年(1860)十二月のヒュースケン暗殺事件について、「ヒュースケンは、巧みな日本語能力でアメリカ以外の外交も助け、プロイセン公使にも大いに援助をしていたので、この堀利熙を殺すことになったプロイセンとの外交に余計な加勢をしたヒュースケンが暗殺の対象となったという見方が可能」と結論づけている。堀織部正利熙の自刃は同年の十一月六日のことである。つまり堀の死からヒュースケンの暗殺まで一か月しかない。現代のように日々の事件をテレビや新聞が報じている時代ではない。堀の死を幕府が速やかに公表したとは思えない。この情報を暗殺団が把握し、暗殺のターゲットを絞り、その行動パターンを調査し、暗殺を実行するのに一か月はあまりに短い。ヒュースケン暗殺を堀の自刃への報復措置と位置付けるのはかなり強引のように思う。
著者が前提として話を進めているフランスによる対馬租借問題についても、横井小楠の書簡に触れられている一節をもとに想像を膨らませているものであり、若干根拠が弱い印象は免れない。ただし、ロシアが起こしたポサドニック事件前夜に、各国の様々な思惑が絡んで、水面下で駆け引きがあったことは(著者の想像がどの程度当たっているかは別として)そうだったのだろうと思う。水面下の駆け引きがたまたま表面化したのが、ポサドニック事件だったということかもしれない。
いかに大風呂敷の勝海舟とはいえ、実際に自分が関与していないことについて、堂々と法螺を吹くこともできないだろう。勝海舟の証言にも、事実が含まれているとすれば、ポサドニック事件の解決に、何らか海舟が関わっていたことは否定できない。一方で、本書でも水野忠徳の支援や横井小楠の助言があったとしているように、この事件の解決が、ほぼ海舟一人の発案と行動によって、全面解決したとまで言うのはちょっと抵抗がある。
「氷川清話」の中でロシアによる対馬占拠事件(ポサドニック事件)について、こう語っている。語り口はまるで講談のようで、海舟の面目躍如といったところである。
――― さあ、こゝだ。対馬は、この時、事実上すでに露西亜のために占領せられたも同様であつたのだ。つまりかういふ場合こそ、外交家の手腕を要するといふものだ。ところでおれは、この場合に処する一策を案じた。それは当時長崎に居った英国公使といふのは、至極おれが懇意にして居つた男だから、内密にこの話をして頼み込み、また長崎奉行からも頼み込みました。さうすると公使は、直に北京駐在英国公使に掛合ひ、その公使は。また露国公使に掛合つて、堂々と露国の不条理を詰責して、わけもなく露西亜をして対馬を引き払はせてしまつたことがあつた。これがいはゆる彼に由りて彼を制するといふものだ。
本書では、時の英・米・露・仏の思惑とか、東アジアの勢力図、政治情勢などを紹介しながら、海舟の座談を裏付けていく。ただし、前後の外交裏面史については、ほとんど史料らしきものが残っておらず、本書でも著者の想像や推測の積み重ねである。本書では至るところに「に違いない」「と私は考える」「おかしなことでは決してない」「と考えられる」「ということがあってもおかしくない」「と推測する」という表現が多用されている。史料が残っていないのであるから、相当部分は推測や想像で補完するしかないのであるが、印象としては「推測や想像」があまりに多くて、やや信憑性に欠ける。
たとえば万延元年(1860)十二月のヒュースケン暗殺事件について、「ヒュースケンは、巧みな日本語能力でアメリカ以外の外交も助け、プロイセン公使にも大いに援助をしていたので、この堀利熙を殺すことになったプロイセンとの外交に余計な加勢をしたヒュースケンが暗殺の対象となったという見方が可能」と結論づけている。堀織部正利熙の自刃は同年の十一月六日のことである。つまり堀の死からヒュースケンの暗殺まで一か月しかない。現代のように日々の事件をテレビや新聞が報じている時代ではない。堀の死を幕府が速やかに公表したとは思えない。この情報を暗殺団が把握し、暗殺のターゲットを絞り、その行動パターンを調査し、暗殺を実行するのに一か月はあまりに短い。ヒュースケン暗殺を堀の自刃への報復措置と位置付けるのはかなり強引のように思う。
著者が前提として話を進めているフランスによる対馬租借問題についても、横井小楠の書簡に触れられている一節をもとに想像を膨らませているものであり、若干根拠が弱い印象は免れない。ただし、ロシアが起こしたポサドニック事件前夜に、各国の様々な思惑が絡んで、水面下で駆け引きがあったことは(著者の想像がどの程度当たっているかは別として)そうだったのだろうと思う。水面下の駆け引きがたまたま表面化したのが、ポサドニック事件だったということかもしれない。
いかに大風呂敷の勝海舟とはいえ、実際に自分が関与していないことについて、堂々と法螺を吹くこともできないだろう。勝海舟の証言にも、事実が含まれているとすれば、ポサドニック事件の解決に、何らか海舟が関わっていたことは否定できない。一方で、本書でも水野忠徳の支援や横井小楠の助言があったとしているように、この事件の解決が、ほぼ海舟一人の発案と行動によって、全面解決したとまで言うのはちょっと抵抗がある。