史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

ミュンヘン Ⅲ

2024年10月11日 | 海外

(聖ルートビッヒ教会)

シーボルトは、安政五年(1859)、鎖国が撤廃されると和蘭商事の評議員として二度目の来日を果たし、長崎に滞在した。文久元年(1861)には幕府に招聘され江戸に赴いたが、わずか四か月で職を解かれて長崎に戻った。このとき日本の関連資料を精力的に収集し、翌年にはそのコレクションをオランダ、アムステルダムに送っている。オランダに戻ったシーボルトは、そのコレクションの購入をオランダ政府に要請したが最終的に断られ、バイエルン国王ルートビッヒ二世にコレクションの購入を依頼した。以降、シーボルトはミュンヘンに移り、ここでコレクションの整理に没頭した。このころシーボルトは3回目の日本渡航を計画しており、その資金作りのためにもできるだけ早くコレクションを整理し売却する必要に迫られていたのである。しかしながら、風邪をこじらせたシーボルトは敗血症を引き起こし、1866年10月18日、ミュンヘン市内で息を引き取った。享年70。シーボルトの葬儀は、ミュンヘン大学の大学教会を兼ねる聖ルートビッヒ教会にて行われ、10月21日にはミュンヘン南墓地に葬られた。

 

聖ルートビッヒ教会

 

(勝利の門)

勝利の門(Siegestor)のことを「米欧回覧実記」では凱旋門と記している。

――― 府ノ北ニハ、凱旋門アリ、伯林(ベルリン)ニテミル所ト、同法ノ結構ナリ、

 

勝利の門

南側より撮影

 

勝利の門

北側より撮影。こちらが正面である。

 

勝利の門の脇の並木道

 

(エングリッシャーガルテン)

「勝利の門」に続いてエングリッシャーガルテン(Englischer Garten)が紹介されている。

――― 此辺ニ公苑アリ、「インギリス・ガーテン」ト云、区域広大ニテ、中ニ大池ヲ掘リ、河流ヲ曲折ス、水流急ニシテ、時ニ淙淙(そうそう)ノ声アリ、山丘ノ設ケナケレトモ、樹老鬱ニテ、水清麗ナル、亦一種ノ勝概アリ、中央ニ亭アリ、麦酒茶菓ヲ売リテ、憩息ノ地トス、其亭ハ支那風ヲ模シタルトテ、木製ノ奇亭ナリ、

「勝概」とは「優れた景色」を意味する漢語表現である。

 

エングリッシャーガルテン

 

エングリッシャーガルテン

 

中国の塔Chinesischer Turm

「中国にもこんな建物はないだろう」というほど奇妙な形をした建造物。周囲はビア・ガーデンになっている。平日の昼間というのにたくさんの老若男女が集まってビールを飲んでいる。ミュンヘンの人たちの無上の楽しみなのだろう。

 

レバーケーゼ(leberkasse)

 

ここでドイツ料理の一つであるレバーケーゼなるものを注文してみた。Leberはレバー、Kasseはチーズのことらしいが、実態としてはソーセージの肉をケーキ状に固めたもので、大きなソーセージみたいな食べ物である。ドイツ人は余程ソーセージが好きなのだろう。でなきゃ、こんな食べ物を思いつくはずがない。

店員に勧められるまま断り切れず、お皿にフライド・ポテトを山盛りにされ、どう考えても本日の食事はこれでお終い。腹いっぱいである。

 

ビール

 

精算時にコインを渡され、飲み終わったジョッキとコインを渡すと、1€が返金される(デポジット方式)。ウェイターを使わなくてもジョッキが回収できるといううまい仕組みである。

 

昼間からビールを楽しむ人たち

 

ジョッキの返還場所

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ミュンヘン Ⅱ

2024年10月08日 | 海外

(五大陸博物館)

一旦バスで中央駅まで戻り、そこからトラムに乗ってKammerspieleという電停で下車すれば、五大陸博物館が近い。

シーボルトが二回目の日本渡航した際に集めた資料は、シーボルトの死後、1868年にギャラリー館にて展示されることになった。これがのちのミュンヘン国立民族学博物館(現・五大陸博物館=Museum Fünf Kontinente)へと引き継がれる。最終的にバイエル公国は、シーボルトからの要請を受け入れ、1874年頃、彼の日本関係資料約5,400点の購入を決めている

 

五大陸博物館

 

日本関係の展示

 

ハイネの描いた江戸とその周辺の展示

 

五大陸博物館に行けばシーボルト・コレクションの一部だけでも見ることができるのでは…という淡い期待を持っていたが、残念ながらシーボルト・コレクションは公開されていなかった。

代わりにハイネが明治初期の江戸やその周辺で描いた絵を展示していた。これはこれで興味深いものであった。

 

(ミュンヘン・レジデンス)

ここからエングリッシャーガルテンまで全て徒歩で移動である。

明治六年(1873)五月六日、岩倉使節団一行はミュンヘン市内を視察している。最初に訪れたのが拝焉(バイエル)王の宮殿である。これまでオーストリアで見てきた各所の宮殿と比べても引けを取らない豪華絢爛な宮殿である。この宮殿は、現在州立博物館として公開されミュンヘン・レジデンス(Residenz München)と呼ばれている。

 

――― 拝焉王ノ宮殿ハ、府ノ中央ナル広街ノ衝ニアリ、「パレイ・ローヤル」ト名ク、荘麗ナル宮ナリ、築造新ニシテ粋白ナリ、先王「マキシミリアン」ノ代ニアタリ、此宮ヲ経営シタリ、高廠ナル三層ノ殿ニテ、窓ヲ開ク恢宏ナリ、裏面ノ建築ハ旧(ふる)シ、東面ニ菩提寺、芝居アリ、門ニハ兵隊アリテ守ル、熊毛ヲ背ヨリ欹(そばだ)テタル帽兜(ぼうとう)ヲ冠シ、藍衣ニ銀鈕釦(ぼたん)ヲ施ス、普魯西(プロシャ)ノ兵ト異ナリ〈今朝騎兵ノ隊ヲナシテ過ルヲ見シニ是モ同装ニテアリヌ〉、裏面に大苑ヲ抱ク、樹陰清ク、層層ニ榻(こしかけ)ヲ列シ、酒茶ヲ売ル、是モ王宮ノ囲ヒノ内ニ属セリ、王宮モ縦覧ヲ許ストナリ

 

ミュンヘン・レジデンス

 

中庭

 

中庭

 

中庭の銅像

 

祖先画ギャラリー

 

祖先画ギャラリー 

 

グロット宮殿(Grotto Courtyard):貝殻でできた装飾

 

グロット宮殿

 

アンティクアリウム(Antiquarium)

 

アンティクアリウム

 

ストーブ

 

選帝候の寝室

 

豪華な調度品

 

騎士の像

 

インペリアル・ホール(Imperial Hall)

 

置時計

 

飾り部屋(Ornate Rooms) 

 

緑のギャラリー(Green Gallery)

 

客人のための寝室

 

時計

 

 

出入口にあった彫像

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ミュンヘン Ⅰ

2024年10月08日 | 海外

ミュンヘンはシーボルト終焉の地である。滞在時間は短いが時間の許す限り、シーボルトの足跡を追ってみたい。

シーボルトの生まれ育ったヴュルツブルクもミュンヘンから電車で二時間程度の距離にある。ヴュルツブルクにもシーボルト所縁のスポットがあるが、今回は時間の都合で立ち寄ることができなかった。

明治六年(1873)五月五日および六日、岩倉使節団も、当時バイエルン(拝焉国)公国の首府であったミュンヘン(「米欧回覧実記」ではミュンチェン、漢字では慕尼克と表記されている)を訪れている。

――― ミュンチェン府ハ、英語の慕尼克ニテ、北緯四十八度九分、東経十一度三十二分ニ位シ、人口十七万四千六百八十八人アリ、此辺ハ、山谷間ニ開ケタル、平衍(へいえん)ナル高原ニテ、東南ニハ「アルフス」山脈ノ「チロリー」ニ走ル峰峰、一帯ノ遠岑(えんしん)、白雪ヲ瑩(みが)キテ、蜿蜿嶄嶄(えんえんざんざん)タリ、冬ハ山風烈シク、夏ハ炎熱甚シトナリ、「チロリー」ノ山脈、最高ノ峰ハ、海面ヲ抜クコト一万五千尺ニ及フ、

「遠岑」とは遠くに見える山のこと。蜿は「うねるさま」、嶄は「山が高いさま」をいう。

 

(バヴァリア)

岩倉使節団一行は、王宮や勝利の門、エングリッシャーガーテンを見学した後、市の南にあるバヴァリア(Bavaria-Statue)を訪れた。

――― 河ヲ渡リテ南スレハ、一ノ広野ニ至ル、高所ヲ占テ、一宇ノ博物観アリ、此ニ石像ヲ集ム、其前ノ広場ハ。以テ調練場トス、山峰右ニ環繞(かんにょう)シ、府中ノ烟火ハ、前ニ湧ク、眺望甚タ快ナリ、此ニ一ノ大銅像ヲ立ツ、一千八百三十三年ヨリ鋳造ヲ始メテ、十年ニテ成就セリ、其長サ五十八尺(約17・5メートル)、身ノ幅八尺(2・4メートル)、女神ノ立像ナリ、左手ニ草ノ箍(わ)ヲ執リテ、首上ニ挙ケ、右手ニ剣ヲ執リテ、獅子ニヨリカゝル、当国ノ保護神ニ象(かたど)ル、是ヲ石ノ方台、高サ三十余尺ノ上ニ安立ス、其重サ八十噸、中ヲ空シクシテ、石台ノ中腹ヨリ、螺旋ノ階ヲ施シテ、観客ヲ上ラシム、因テ是ニ上レハ、守人燭火ヲ与フ、之ヲ執リテ級ヲ拾ヒ、上ルコトスヘテ六十五級ニテ、石基ヲ尽ス、又六十級ニテ、像ノ領(うなじ)ニ至ル、面部ノ両側ニ、榻(こしかけ)アリ突出ス、即チ両齶(りょうがく)ナリ、此ニ六人ヲ坐セシメテ余リアリ、咽喉ノ大サハ、長大ノ人モ、首ヲ屈スルニ至ラス、目睛(もくせい)及ヒ口孔より明(あかり)ヲ引ク、此ヨリ府中ヲ一眺ス、此左手ノ横(よこた)フヲミル、老樹ノ横タワルカ如シ、欧洲ニテ無双ノ大像ナリ、

 

「箍」は普通に訓読みすると、樽などを締める「たが」であるが、ここでは「わ」と読ませている。つまり草で編んだ環のことである。

 

実際に行ってみると、「米欧回覧実記」に描かれているとおりであった。「実記」の記述が正確を期していることが改めて確認できた。

 

(旧南墓地)

バヴァリアから旧南墓地には62番のバスを利用するのが便利である。

旧南墓地内のシーボルトの墓は、日本風の宝篋印塔を模した形をしているので近くまで行けば直ぐに見つけることができる。

 

シーボルトの墓

 

墓標

 

シーボルトの肖像

 

強哉矯

 

墓石背面に刻まれている「強哉矯」という言葉は「中庸」の一節。「強なるかな矯たり」と読み下すらしい。現代日本語に訳すと「まことに強いことよ」となる。

 

Exforscher Japans:元日本研究者

 

 

シーボルトは、1796年、ドイツのバイエルン公国ヴュルツブルグ生まれた。父は大学教授。長じてヴュルツブルグ大学に医学、植物、動物、地文、人種の諸学を学んだ。1822年、和蘭東インド会社に入り、1823年、長崎出島に商館付医員として着任した。医学・博物学の研究の傍ら、日本人を診療し、医学生の教授に当たった。文政九年(1826)、商館長スツルレルの江戸参府に随行して日本人との交友を深めた。文政十一年(1828)八月、帰任に当たり、いわゆるシーボルト事件により国外追放を受け、オランダに帰った。帰国後は日本関係の著作の執筆に従事した。日蘭修好条約、通商条約が結ばれてからは、日本の外交政策について種々画策して、安政六年(1859)七月、和蘭商事会社評議員として再来日を果たした。文久元年(1861)幕府より顧問として招聘を受け、江戸に上って種々建言し、また学術面でも教導に当たったが、必ずしも彼の熱意を満たすものではなく、幾ばくもなくして解職。同年十二月、長崎に帰り、翌文久二年(1862)、日本を去った。翌年、オランダ政府の官職を辞し、1866年、ミュンヘンで没した。年70。

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ウィーン Ⅲ

2024年09月26日 | 海外

(リンク)

リンクRingはかつて存在していた城壁を撤去し環状道路として整備された道路である。リンク沿いには、王宮やマリア・テレジア広場、国会議事堂、ラートハウスパークなどが連なる。

リンクについて「米欧回覧実記」では次のとおり解説している。

――― 此都ノ旧部ヲ囲ミタル、五稜郭ノ墩塁ハ、内外部ヲ隔絶シ、市民ノ生意ニ不便ナルヲ以テ、仏国巴黎府ノ「プートワルイタリアン」ノ例ニナラヒ、一千八百五十七年、皇帝ノ命ヲ下シ、其墩塁ヲ取崩シテ平地トナシ、併セテ乾濠ヲ埋メ、闊(ひろさ)五十七「メートル」ノ大路ヲ修メ、名ケテ「リングストラセ」ノ通街ト云、今ニ猶修繕中ナリ、此大路ニハ、人道、馬車、重車道、及ヒ中央ノ軽車道、合セテ五条ノ道ニテナル、各道ノ界線ニハ、緑樹ヲウエ、猶伯林府(ベルリン)ノ「ウンテルデンリンデン」街ニ同シ、又街車ノ鉄規ヲシク、米利堅ノ都府ニ同シ、此ヲ府中ニ於テ第一ノ街衢(だいく)トス、両側ノ家屋モ、ミナ壮麗ニテ、気象甚タ優美ナリ、然レトモ甃石ノ設ケハ、未タ整備セズ、乾燥ノ時ハ塵土飛散シ、雨後ニハ泥淖(でいどう)ヲ掻キタテ、水道ノ設ケ足ラズシテ、水ヲ灑(ちら)シ塵ヲ鎮メル方法モ未タ完全セス、夜ハヲ照シテ、光華爛然タリ、電信柱ハ鉄ヲ以テ美麗ニ製セリ、

 

国会議事堂

19世紀に竣工したもの

 

ブルク劇場

ブルク劇場Burgtheaterは、やはり19世紀に建築された歴史的建造物

 

(軍事歴史博物館)

シェーンブルン宮殿から軍事歴史博物館へも地下鉄とトラムを乗り継いで移動した。

軍事歴史博物館(Heeresgeschichtliches Museum)は、当初兵器収蔵庫として建てられたもので、岩倉使節団がウィーンを訪ねた時もまだ兵器収蔵庫(武器庫=Arsenal)として使用されていた。使節団は熱心に武器庫を見学して刻銘な記録を残している。

明治六年(1873)六月七日、岩倉使節団は朝からウィーンの武器庫に赴いている。「米欧回覧実記」の記載に従えば、この武器庫はウィーンの南にあり、1849年より建設が着手され、およそ10年の歳月をかけて落成した。

――― 域中ニ建起セル、武器庫ノ屋造、尤モ高大ナリ、中央ニ円塔ヲ起シ、彎弧ノ法ヲ以テ輳合セル、高廠ナル巨屋ヲ縦横ニ造営シ、二層ノ高館ナリ、内景ハ摺金ニテ飾リ、光彩爛然ナリ、所所ニ画ヲ張ル、ミナ墺国ノ軍隊、隣国トノ戦争ノ図ナリ、造営ノ壮美ナルコト目ヲ驚ス

中ニ蔵セル武器ハ、古甲古兵ヲ玻瓈(ガラス)ノ箱ニ盛リ陳列ス、一千五百七十七年ヨリ、一千六百二十四年ノ間、普魯(プロシャ)王ノ著用セシ甲冑、及ヒ同時代ヨリ、一千七百四十年マテニ分捕シタル、独逸各王侯ノ甲冑、戎衣数領アリ、中ニモ一千六百七十八年ヨリ、同七百二年マテ、拝焉(バイロン)国公ノ著用セシ甲冑ノ如キハ、甚タ我邦ノ甲冑ノ製作ニ似タリ、(以下、略)

 

軍事歴史博物館

 

フランツ・ヨーゼフ一世胸像

 

 

 

 

 

 

熱気球

 

気球は18世紀末にフランスで発明され、1783年には有人飛行に成功している。1794年のフランス革命時に敵情視察と着弾地点観測のためにガス気球を使用したという記録が残る。1870年の普仏戦争でも拠点間の連絡目的で気球が使用されており、戦争を視察した日本人もこれを目にしたかもしれない。明治十年(1877)の西南戦争において包囲された熊本城との連絡用に気球の活用が発案されたが、実用化の前に開城されてしまったため幻に終わってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

軍事歴史博物館

 

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ウィーン Ⅱ

2024年09月26日 | 海外

(ウィーン世界博物館)

ウィーン世界博物館Weltmuseum Wienにおける日本関係の展示品は、明治六年(1873)のウィーン万博の際、日本が出展した品々である。今回のウィーン訪問では是非見たかったものの一つである。

「墺國維也納府 スタイン殿」という書簡が目を引いた。このスタインとは法学者ローレンツ・シュタインのことだろうか。明治政府幹部とスタインの交流はこの頃から始まっていたのか。興味が尽きない。

 

ウィーン世界博物館

Weltmuseum Wien

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

墺國維也納府 スタイン殿

 

ローレンツ・フォン・シュタイン(1815~1890)はドイツ出身の法学者であり思想家。キールやベルリンで法哲学や歴史法学を学んだ後、パリに留学した。その後はウィーン大学で国法学者・行政学者・財政学者として名声を高めた。明治十五年(1882)、伊藤博文はウィーンのシュタインのもとを訪ね、2か月にわたって講義を受けた。その際、伊藤博文にドイツ式の立憲体制を勧めたことで知られる。シュタインのもとを訪ねたのは、伊藤博文だけでなく、山県有朋、谷干城、黒田清隆、西園寺公望、乃木希典、陸奥宗光ら錚々たる顔ぶれが含まれており、「シュタイン詣で」とまでいわれた。またキールに保管されている「シュタイン関係文書」の中には、日本人から送られてきた多数の書簡が含まれている。差出人の中には伊藤や黒田、陸奥、谷のほかに福沢諭吉、森有礼、松方正義の名がある。シュタイン自身は日本を訪れたことはないが、当時のお雇い外国人並みの信頼を集めていたことが伺われる。瀧井一博氏の研究によれば、「シュタイン関係文書」の中でもっとも古いものが明治十五年(1882)の福沢諭吉からの書簡というが、日本とシュタインとの交流はそれ以前からあったという。

明治六年(1873)、ウィーン万博の際、当時外務省通商政策局長を務めていたガーゲルン男爵(Maz von Gargern)の屋敷で開かれた園遊会に、「日本からの使者」や日本公使館員とともにシュタインも招かれており、そこで接触があったと考えらえる。瀧井先生は「(ウィーン万博で)醸し出されたウィーンの日本熱に、シュタイン自身も巻き込まれていたということが一つ考えられよう。」と述べておられるが、シュタインがこの頃から日本への関心を高めていったことは想像に難くない。

私がウィーン世界博物館で目にしたシュタイン宛の文書(切手が貼られていることから郵便物である可能性が高い)が、何時のものか、何が書かれているのか、残念ながら詳細は分からないが、非常に興味深いものがある。

 

 

 

(ホーフブルク王宮)

 

ホーフブルク王宮

 

明治六年(1873)6月8日の午後、岩倉使節団一行はホーフブルク王宮(Hofburg Wien)を訪い、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世および皇后エリザーベトに謁見している。ホーフブルク王宮は、「米欧回覧実記」では「ウルテボルク宮」と紹介されている。

――― 一時ニ宮内省ヨリ、御車三輛ヲ粧飾シ、馭者盛粧シ、護衛ノ騎ヲ備ヘ、宮内ノ貴官来リ迎ヘテ、帝宮ニ於テ、「フランシス・ショーセフ」皇帝、及ヒ皇后ニ謁見ス

 

(国立図書館プルンクザール)

国立図書館ブルンクザール(Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek)は、18世紀後半に建設されたもの。かつては王宮図書館であった。プルンク(Prunk)とは豪華という意味である。その名に相応しく大理石の柱と優美な天井画に囲まれた空間は紛れもなく豪華である。

 

 

国立図書館プルンクザール

 

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ウィーン Ⅰ

2024年09月26日 | 海外

ウィーンはいうまでもなく「音楽の都」である。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナー、マーラー、ヨハン・シュトラウスといった音楽の歴史を彩る錚々たる音楽家がこの街を拠点に名作を生み出した。岩倉使節団がウィーンを訪れた明治六年(1873)は、ブラームスやブルックナーが活躍していた時期である。

ところが、岩倉使節団の公式記録である「米欧回覧実記」(久米邦武著)では一切「音楽の都」という表現は使われず、それどころがベートーヴェンもモーツァルトも登場しない。彼らの興味は芸術や音楽よりも産業や兵器であって、ウィーン滞在期間中にコンサートに行った形跡はない。

ウィーンを漢字で書くと「維納」である。

――― 維納ハ英仏ニテ「ヴイヤナ」と云、多悩(ドナウ)河ノ西岸ニアリ、北緯四十八度十二分、東経十六度二十三分に位シ、人口八十三万四千二百八十四人アリ、其繁盛ナルコト、伯林府(ベルリン)に匹敵シ、其壮麗ナルコト、巴黎(パリ)ニ亜ス、多悩河ハ、此地に至リテ支派数条ヲ分ツテ流レ、河中に洲島ヲナス、当府ハ其西派ノ一流を含ミ、市屋ハ流ヲ挟ミ、洲上ニマテ溢レ、雲甍(ウンポウ)ヲ連ネ、府中ヲ流ルル、西多悩ノ支河ハ、其水勢甚タ浩汗(コウカン)ナラサルナリ、全府スベテ平地ニテ、市中ニ高低少ナシ、地気暖ニシテ、草木暢茂(チョウモ)ス

 

(プラーター公園)

プラーター(Prater)公園はウィーン万博会場となった場所である。 (Prater 99, 1020 Wien)久米邦武の「米欧回覧実記」でもウィーン万博について子細に報告されている。

岩倉使節団がウィーンに到着したのは明治六年(1873)六月三日のことであった。

――― 英、仏、両国の如キハ、ミナ文明ノ旺スル所ニテ、工商兼秀レトモ、白耳義(ベルギー)、瑞士(スイス)ノ出品ヲミレハ民ノ自主ヲ遂ケ、各良宝ヲ蘊蓄スルコト、大国モ感動セラル、普(プロシャ)ハ大ニ薩(ザクセン)ハ小ナルモ、工芸ニ於テハ相譲ラス、而シテ露国ノ大ナルモ、此等ノ国トハ、猶其列ヲ同シクスル能ハス、墺国(オーストリア)ノ列品ヲミレハ、勉強シテ文明国ニ列スルヲ得ルニスギス

と述べている。「国民自主ノ権利ニ於イテハ、大モ畏ルルニ足ラス、小モ侮ルベカラス」と主張する「米欧回覧実記」には一貫して「小国」への共感がある。根底には我が国も小国であっても、国民に「自主の生理」「自主の精神」があれば大国にも対抗できるという信念が感じられる。

博覧会場となったプラーター公園についての叙述。

――― 博覧会場ハ、維納ノ東北ナル、「プラーテル」偕楽苑ニ於テ、大円堂、長廊榭(ギャラリー)ヲ建起ス、此「プラーテル」苑ノ地タル、多悩(ドナウ)河ノ中州ニ位シ、全洲ハ五方英里(マイル)余、平坦ノ場所ナリ、此ニ細草ヲ播蒔(はじ)シ、樹木ヲ植エ、中ニハ茶亭ヲ中枢トシ、三条ノ斜線ヲ日脚状ニ劃シ、大路ヲ開ク、両側ニ「ホースチェストナット」〈楢ニ似テ緑陰愛スヘキ樹ナリ〉樹ヲウエ、毎条坦平、遠キニ連リ髪ノ如シ、其壮美ナルコト、仏国巴黎ノ「バーデブロン」(ブローニュの森)ニ比スヘキ勝地ナリ、今度其正中ニ於テ、会場ノ地域ヲ相シ、堂榭(どうしゃ)ヲ建築セリ、

プラーター公園

 

「堂榭」とは今でいうドームのことだろう。

 

残念ながら150年前のウィーン万博の痕跡を見ることはできなかったが、公園中央を貫く真っすぐな大通りは、万博の会場の名残かもしれない。この風景とそっくりな絵が「米欧回覧実記」に掲載されている。

 

プラーター公園

 

以下、日本の展示品に関する「米欧回覧実記」の記述である。

――― 我日本国ノ出品ハ、此会ニテ殊ニ衆人ヨリ声誉ヲ得タリ、是其一ハ其欧洲ト趣向ヲ異ニシテ、物品ミナ彼邦人ノ眼ニ珍異ナルニヨル、其二ハ近傍ノ諸国ニ、ミナ出色ノ品少キニヨル、其三ハ近年日本ノ評判欧洲ニ高キニヨル、其内ニテ工産物ハ、陶器ノ誉レ高シ、其質ノ堅牢ニシテ、制作ノ巨大ナルニヨルノミ、火度ノ吟味、顔料ノ取合、画法ノ研究等、ミナ門戸ヲモ窺(うかが)フニ足ラス、絹帛ノ類モ、其糸質ノ美ナルノミ、織綜(しょくそう)ノ法、多クハ不均ニシテ、染法は僅ニ植物ノ仮色ニテナルヲ以テ、光沢ノ潤ヒナシ、漆器ハ、日本ノ特技ナレハ、評判高シ、銅器ノ工モ精美ヲ欠ケトモ、七宝塗、鑲嵌(ぞうがん)細工ハ、大ニ賞美セラルル工技ナリ、画様ハ西洋ト別種ニテ、花鳥ノ如キハ、風致多シトシテ賞美スレトモ、人物ノ画ニ至リテハ、或ハ俳優ノ粉飾ヲ模シ、陋醜(ろうしゅう)ノ面目、人ヲシテ背ニ汗セシム、寄木細工モ評判ナレトモ、接合ノ際ニ術ヲ尽サス、漆ノ功ヲ恃ムノミ、欧洲ニテ此技工ヲナセルヲ一見シテ、更ニ発明スル所アラハ、一ノ国産トアンルヘシ、麦藁細工モ、亦評判アレトモ、元来価アルモノトハ看認スシテ雑作シタル物ユヘ、早ク損スルヲ如何セン、染革ノ製作ハ、反テ劇賞ヲ受ケタリ、是或ハ欧人ノ未タ知ラサル秘蘊(ひうん)ヲ漏セルカ、紙ト麻枲(まし)トハ看官ノ目ヲ驚カセタリ、紙ハ材料、抄法、共ニ別法ナレハナリ、越後枲皮ノ白質ニシテ光輝ナル、西洋人之ヲミテ賽絹(まがいきぬ)ノ織物トナサンコトヲ思付タルモノアリト、楮皮(ちょひ)モ亦大ニ貴重セラレタリ、油絵ノ如キハ曾テ欧洲ノ児童ニモ及ハス、本色ノ画法、反テ価ヲ有セリ、

 

久米邦武は努めて冷静かつ公正に記述しているが、総じて日本の出展は好評だったようである。久米が記しているように、西洋の展示品と比べて「珍異」であり、注目を集めたのであろう。ウィーン万博への我が国の参加は、この後世紀末に向けてヨーロッパで起こったジャポニズムの契機となったといわれる。

 

(ホテル・オーストリア)

地下鉄で一駅行って、ドナウ運河を渡って西側に出る。ホテル・オーストリアを訪ねる。

明治六年(1873)六月三日、ウィーンに入った岩倉使節団はホテル・オーストリア(Hotel Austria)に旅装を解いた。ホテル・オーストリアが現在も存続しているのか、よく分からない。同名のホテルが市内のFleischmarktにある。このホテルが150年の歴史を持つものか調べきれなかったが、看板にSeit 1955とあるので明治六年に所在したホテル・オーストリアとは別物と考えられる。

 

ホテル・オーストリア

 

(シュテファン大聖堂)

シュテファン大聖堂はウィーンのシンボル的存在である。

「米欧回覧実記」において「セント、スチーブル」あるいは「セントテュヴン」と表記さえているのが、シュテファン大聖堂(Domkirche St. Stephan)のことである。「米欧回覧実記」中に挿絵が掲載され、そこには(高さ七十四間)と注記が付されている。一間は約1.82メートルなので、これをもとに計算すると135メートルほどになるが、実際の南塔の高さは137メートルである。当初南塔と同じ高さで建設されるはずだった北塔の方は、経済的な理由から途中までで断念されてしまったとされている。

 

入場料を払うと南塔を登ることができる。螺旋階段は343段。勢いよく駆け上がると目が回るので、ゆっくり上るのがコツである。

下るときは昇ってくる人とすれ違うことになる。

「あとどれくらい?」

「まだまだ」

と会話を交わしながら行き来するのが楽しい。

昇り切るとお土産屋さんのある少し広い空間になっており、四方を眺めることができる。自分の足で登った末の眺望は格別である。それに

しても、ここで著しく体力を消耗した。既に両脚がガクガクとなる。

 

「米欧回覧実記」によれば

――― 皇帝ノ菩提寺ニテ、高塔ノ尖ハ、四百四十五尺(やはり約135メートル)ニ及ヒ、欧洲ノ大寺中ニテ、第三等ニオル高塔ナリ、市街稠密ニテ、微(かすか)ニ高低ノ地アリ、街路不規則ニテ狭隘ナリ、其広街ハ濶(ひろ)サ七八間ニスキズ、家屋ハ五六階ノ層楼ヲ森列シ、街路尽ク堅石ヲ甃シタリ、人歩車行ノ喧闐(けんてん)ナルコト、此部ヲ最トス

とシュテファン大聖堂周辺の繁華な様を描いている。なお、「甃」とは石畳みのことである。

 

 

シュテファン大聖堂

 

 

 

 

 

 

南塔からの眺望

 

南塔を昇ると、展望台の手前に鐘楼跡があり、何体かの石像が置かれている。

 

南塔 見張り台

螺旋階段を昇り切ったところにある売店

 

 

 

壮麗な内陣

 

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フランクフルト

2024年09月22日 | 海外

ロシア、北欧を周遊した岩倉使節団一行は、明治六年(1873)五月三日、フランクフルト(漢字表記は仏蘭克弗)に到着した。五日の朝十時半にはミュンヘンに向けて出立しており、フランクフルト滞在時間はわずか数日であった。

以下、「米欧回覧実記」の記述

――― 仏蘭克弗「オンセ」米因府トハ、普国(プロシャ)ノ仏蘭克弗「オンセ・オデル」ニ分別セル名称ナリ、北緯五十度十分東経八度三十七分ニ位ス、人口九万〇九百三十二人ノ都会ナリ、元ハ独立都府ニテ、共和政治ヲ以テ、聯邦ニ加わハリ、且独逸聯邦ノ政府モ、此府ニ設ケタリシニ、一千八百六十六年ノ戦ヒニ、普国ニ滅サレ、今ハ其州県ニ隷ス、此政府ハ米因(マイン)河ノ下流ニヨリ、日耳曼(ゲルマン)ノ中心ニ位シ、貿易ノ要衝ナレハ、豪富ノ商賈(しょうこ)多ク、殊ニ猶太ノ族多ク、蓄財最モ富ムト云、其市街ハ、久シキ名都ナレハ、古時ノ規制ニヨリテ、街路狭隘ニテ、不規則ナリ、古キ屋造多クシテ、皎美(こうび)ナラサレトモ、中間ニ大路ヲ通シ、四囲ニハ星形状ノ土壁ヲ匝(めぐら)シ、狭長形ナル花園ヲ処処ニ修メ大路ハ塢上(おじょう)ヲユク、米因ノ河岸ニハ、向岸ノ平原広濶ニテ、遠巒(えんらん)ヲ望ミ、流水清ク、中ニ長橋ヲ架ス、風景美ナリ、

短い滞在時間であったが、岩倉使節団は「ハリマ・ガーデン」(Palmengartenのことか?)や禽獣園(動物園)、大聖堂、紙幣工場を見学している。

 

フランクフルト国際空港

 

フランクフルト市街:マイン(Main)川が東西に走る。

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シンガポール Ⅱ

2023年10月21日 | 海外

(日本人墓地公園)

 今回二泊三日でシンガポールに赴いたのは、昔シンガポールに勤務した時のローカルスタッフと会食することと、当時所属していたソフトボールチームの仲間と会うこと、合わせてソフトボールの練習に参加することが目的であった。

 もう一つの目的が音吉の墓を訪ねることにあった。チャンギ空港に到着すると、MRT(地下鉄)でマックファーソン(MacPherson)駅まで移動し、そこからバスに乗り換えて二十分ほど揺られると日本人墓地公園の最寄りのバス停である。

 シンガポール在勤中は一度も訪ねたことがなかったが、ここ日本人墓地公園は二葉亭四迷や南方軍総司令官元帥寺内寿一(寺内正毅の長男)らが眠る、歴史ある墓地なのである。

 日本人共有墓地は、娼館主であり雑貨商として成功した二木多賀次郎が自己所有のゴム林の一部を提供したことに始まる。それまで当地で死去した日本人の遺骨は牛馬の棄骨場に埋められており、そのことを悲しんだ二木は、明治二十一年(1888)、同朋の渋谷吟治、中川菊三と連名で英国植民地政庁に自己所有地八エイカー(約一万坪)を日本人共有墓地として使用する申請を行い、その三年後に正式許可を得た。

 

 平成十六年(2004)二月、シンガポール土地管理顧問リョン・フォク・メン氏の調査により、音吉の墓が、チョア・チュー・カン(Choa Chu Kang)国立墓地に現存していることが判明した。これを受けて愛知県美浜町、シンガポール日本人会、シンガポール政府観光局が連携して、同年十一月二十七日、墓地を発掘し、火葬の上、遺灰を日本人墓地公園の納骨堂に安置した。翌平成十七年(2005)二月、美浜町民を始めとする百有余人の訪問団が音吉の御霊を迎えにシンガポールを訪問し、遺灰の一部を持ち帰った。音吉は、百七十三年ぶりに日本への帰還を果たしたのである。

 

 納骨堂の正面に彫られているのは、仏教の紋「大法輪」である。終戦後ブキ・ティマ・ヒルの忠霊塔と本願寺別院にあった遺骨が、作業隊として残されていた人々の手により小甕十個に入れられ、この納骨堂に納められたと記録されている。

 

日本人墓地公園

 

納骨堂

 

御堂(みどう)

 

南光院大圓智覺居士位(二木多賀次郎の墓)

 

 楳仙和尚は、兵庫県出身の曹洞宗の僧侶。明治二十七年(1893)、インドの釈迦生誕の地に詣でる途上シンガポールを訪れた際、当地の日本人に懇願され、この地に留まることを決意し、日本人墓地内に草庵を結んだ。浄財を集めて明治四十四年(1911)、西有寺を建立した。現在、納骨堂の横にある御堂の前身である。現在の建物は昭和六十年(1985)、曹洞宗神奈川県西有寺会によって建て直され、日本人会に寄贈されたもの。日本人会の方針として無宗教主義のもとに特定の宗派に属さないこととしており、仏教風の「寺」を用いず、「御堂」と称することとした。

 

楳仙大和尚の墓

 

二葉亭四迷之碑

 

 二葉亭四迷は元治元年(1864)の生まれ。本名は長谷川辰之助といった。近代ロシア文学の影響を受け、創作や翻訳に現実主義を導入した。自らの小説総論に基づいた「浮雲」は言文一致体で書かれた我が国最初の近代散文小説といわれる。東京外国語学校教授を経て、明治四十一年(1908)、朝日新聞特派員として渡露。明治四十二年(1909)五月十日、肺を患い、帰国途上の日本郵船賀茂丸船中にてインド洋上で死去し、シンガポールの火葬場で荼毘に付された。この碑は墓ではなく、遺骨は東京染井霊園に埋葬されている。

 

からゆきさん精霊菩提

 

 日本人娼婦が初めてシンガポールに現れたのは、明治三年(1870)頃だったといわれる。「からゆきさん」という用語は、第二次世界大戦の領事報告や文献の中では使われておらず、一般的に「からゆきさん」と呼ばれるようになったのは、戦後とくに1970年代以降のことという。一方で、島原、天草、長崎などの地域では、以前から中国、東南アジアへ出向いて娼妓として働く女性のことを「からゆきさん」と婉曲に呼んでいた。中国を指す「唐」ゆきさんというわけである。からゆきさんの中には、貧困のうちに病没するものも多く、墓は大半が木標で、年月の経過とともに朽ち果てたものを集めて、二木多賀次郎が発足させた共済会によって「精霊菩提」とのみ文字を刻んだ小さな墓石がそこに建てられた。

 

佐藤登満の墓

 

 このうち明治二十二年(1889)に亡くなった佐藤登満(とま)の墓が、日本人墓地公園最古の墓とされている。佐藤登満はからゆきさんの一人である。この付近に合わせて十四基のからゆきさんの墓が確認できる。

 

(フォート・カニング・パーク)

 日本人墓地公園から、バスとMRTを乗り継いでフォート・カニング・パークを目指す。

 フォート・カニングには、その名のとおりかつて砦があったが、今では貯水池とそれを取り囲む緑地、ホテルや政府機関が配置された広大な公園となっている。

 ピナコテーク・ド・パリという美術館の前の両側のレンガ壁に墓碑がはめ込まれている。かつてこの場所にはキリスト教墓地があり、およそ六百の人が埋葬されたとされる。このうち三分の一が中国人のキリスト教徒であった。1865年に閉鎖されたが、このうち約二百の墓碑がレンガ塀に埋め込まれた。今は緑地の北東の角にわずかに十基ほどの古い墓石が残されているのみとなっている。

 北側の壁に音吉の娘、エミリーの墓碑がある。エミリーは音吉と最初の妻との間にできた娘だが、わずか四歳で死去した。音吉は最初の妻も病気で失い、上海に移った後、やはりシンガポール人の女性と再婚している。

 

フォート・カニング・パーク

(Fort Canning Park)

 

ピナコテーク・ド・パリ

(Pinacothèque de Paris)

 

セメタリー・ウォール

(Cemetery Wall)

 

キリスト教墓地

(The Old Christian Cemetery)

 

THE MEMORY OF

EMILY LOUISA OTTOSON

Died 11th November 1862

Aged 4 Years

9 Months & 6 Days

 

 Ottosonというのは、イギリスに帰化した音吉が名乗った英語名。墓碑にはエミリーが1862年に亡くなったと記されているが、実際は1852年である。

 

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リヨン

2023年09月30日 | 海外

 結局、リヨン行きのTGVの遅れは一時間以上となった。やはりこの列車も満席であった。

 明治五年(1872)九月二十六日、岩倉使節団とは別に司法省の視察団がマルセイユに上陸している。一行は八名(河野敏鎌、岸良兼養、鶴田晧、川路利良、沼間守一、名村泰蔵、益田克徳、井上毅)。マルセイユからパリに向かう車中で便意を催した川路利良は、新聞紙を床の上に置くと、毛布をかぶって周囲の目を遮蔽し、その上に黄色い大きな塊を落とした。ついでその塊を新聞紙でくるむと汽車の窓から勢いよく投げ捨てた。川路はそのまま何くわぬ顔をして旅を続けた。

 ところが翌日、そのことが現地の新聞に報じられてしまう。「汽車の窓から大便を放り投げた者がいる。それを包んだ新聞紙が日本文字であることから、日本人の仕業に違いない」

 謹厳実直な川路が大便を投げたのはこの辺りかと思いながら、汽車の旅を楽しんだ。

 

 明治六年(1873)七月十五日、一年に及ぶヨーロッパ周遊を終えて、岩倉使節団はスイス・ジュネーブから汽車でリヨンに入った。リヨンには二日間の滞在の後、マルセイユに向けて出発している。なお、副使の一人木戸孝允は同年四月に一足先に帰国の途につき、大久保利通はさらに早い同年三月にベルリンから帰国している。

 「米国回覧実記」ではリヨンを里昴と漢字で表記している。

 

――― 里昴府ハ、仏国ノ大都会ニテ(中略)、仏国中ニテ、巴黎ノ外ハ、此都ノ盛ニ及フ所ナシ、絹織ノ名所ナリ、地勢ハ山脈ノ余ヲウケテ、西北ニハ岡陵起伏シ、東南ニハ平野曠然(こうぜん)タリ、「ソオン」河ノ「ロオン」河ニ会合スル地角ヲ占メ、両河ノ間ヲ、府中ノ尤モ稠密(ちゅうみつ)ナル区トス、

 

(旧グランドホテル)

 TGVが着いたリヨン・パール・デュー駅で荷物を預け、身軽になった。駅の目の前に地下鉄の駅があり、そこから市街地を目指す。Cordeliers駅を下車すれば、旧グランドホテル跡は直ぐそこである。

 竹内保徳ら文久使節団が宿泊した旧グランドホテルは、今はホテルとしては営業していないが、往時の建物が残されている(16 BIS Rue de la République, Lyon)。

 

旧グランドホテル

 

(リヨン・ペラーシュ駅)

 

リヨン・ペラーシュ駅

 

 文久使節団がマルセイユから汽車でリヨン入りし、彼らが降り立ったのがリヨン・ペラーシュ駅(Lyon-Perrache Gare Routière)である。百五十年以上の時間が経過しているが、この駅舎はほぼ当時と変わっていない。

 現在TGVが発着しているのはリヨン・パール・デュー駅であるが、リヨンにはもう一つ大きな駅があって、それがリヨン・ペラーシュ駅である。パール・デューから距離にして約四キロメートル離れている。写真を撮り終えた時点で、パリに向かう列車が出る時刻までちょうどあと三十分。地下鉄に飛び乗り、パール・デュー駅を目指した。Charpennes Charles Hernu駅で乗り換え。ここでホームにあった自動販売機で飲み物を買おうとしたら、なかなか飲み物が下りてこない。そうこうしているうちに電車がホームに来てしまい、諦めて返金ボタンを押したが、今度はお金が出てこない。結局、お金も飲み物も諦めて電車に飛び乗ることになった。閉まったドア越しに、自動販売機から私のおカネを取り出している男の姿が…

 【教訓】フランスの自動販売機は、反応が鈍い。自販機は余裕のあるときのみ利用しよう。

 到着時に駅で預けた荷物を受け取り、電光掲示板で乗車するTGVの時刻を確認したら、「定刻とおり」発車するという表示。こういう時に限って時間通りなのである。

 走って発車ホームに行ったときにはドアが閉まる直前であった。自動販売機でおカネが出てくるのを待っていたら乗り損ねていただろう。

 

(ソーヌ川)

 ここからは史跡とは無関係にリヨン市内を歩いた記録である。

 リヨンの街を二つの川が南北に貫いていて、両者はリヨン市内で合流する。その東を流れているのがローヌ川である。この川はスイスに源流があり、レマン湖を経由し、フランスを経由してアルル付近から地中海に流れ込んでいる。

 西を流れるのがソーヌ川(la Saône)である。

 

ソーヌ川

 

 ここから対岸の旧市街に渡って、リヨン・サン・ジャン大教会とリヨン・ノートルダム大聖堂を目指す。因みにリヨンの旧市街は世界遺産に登録されている。

 

(サン・ジャン大聖堂)

 リヨンのサン・ジャン大聖堂(Cathédrale Saint-Jean-Baptiste)は、十二世紀に着工し、約三百年をかけて1480年に完成したという教会である。この教会のステンドグラスも素晴らしい。

 

サン・ジャン大聖堂

 

大聖堂の内部

 

ステンドグラス

 

欧州最古の天文時計

 

 1379年製の天文時計はヨーロッパ最古のものといわれる。

 

(リヨン・ノートルダム大聖堂)

 

ケーブル車

 

サン・ジャン大聖堂近くの地下鉄のVieux Lyon(旧リヨン)駅からノートルダム大聖堂(La Basilique Notre Dame)までケーブルカーが出ている。乗車時間はわずか三分だが、かなりの急勾配なのでケーブルカーを利用することをお勧めする。

 

リヨン・ノートルダム大聖堂

 

 この大聖堂はフルヴィエール(Fourvière)の丘の上に立っており、美しいリヨンの街並みの見晴らしがとても良い。

 

ノートルダム大聖堂からの眺望

リヨン市街

 

ノートルダム大聖堂からの眺望

リヨン市街

 

モザイク画

 

天井画

 

 この教会は二階建てになっており、豪華絢爛な二階と比べ、一階は厳粛な空間となっている。

 

地下の祭壇

 

聖母像

 

 「米欧回覧実記」でも岡の上に立つノートルダム大聖堂を描いている。

 

――― 河西ニ岡阜(こうふ)アリ、上ニ寺アリ、金ノ馬利(メーリー)像ヲ建ツ、此ヨリ東南ヲ一眺スレハ、府中ノ景、ミナ睫ノ間ニ落ツ、岡前ニ「ソオン」河流ル、数条ノ橋ヲツツリテ往来ヲ利ス、北方ニハ地勢ヲ隆起シ、此ニ織戸多シ、東方ノ野ハ、河ヲ隔テテ連リ、瑞士(スイス)ノ境ニ達ス、此ヲ里昴府ノ大形トス、

 

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マルセイユ Ⅱ

2023年09月30日 | 海外

(デクス凱旋門)

 ここから先は、史跡訪問とは関係なく、マルセイユ市内の観光地を歩き回った記録である。

 

デクス凱旋門

 

 デクス凱旋門(Porte d'Aix)は、マルセイユ・サン・シャルル駅から歩いて五分。

 パリでもそうだったが、フランスでは浮浪者が街にあふれている。華やかな印象の強いフランスにおける陰の一面を見る思いがした。マルセイユでも駅周辺からデクス門周辺エリアは浮浪者が多く、しかもモノの腐ったような悪臭が鼻をつく。

 フランスの治安の悪さや失業率の原因を有色人種や移民の多さに求める向きもあるだろう。有色人種がフランスに多いのは、戦前フランスがアフリカや東南アジアで植民地支配を拡大した歴史がある。彼らの先祖の多くは半ば奴隷のようにしてこの国に連行されてきたのである。もとを糺せば、フランスという国の過去の行いが今に影響しているということなのである。

 

(ヴェスティージュ公園)

 

ヴェスティージュ公園

 

 ヴェスティージュ公園(Port Antique)は、1967年に発掘された古代マルセイユ港の遺蹟である。紀元前三世紀頃、この周辺に海岸線があったという証左である。

 

(サン・ヴィクトール修道院)

 

サン・ヴィクトール修道院

(Abbaye Saint-Victor)

 

修道院の内部

 

 ノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂から真っすぐ坂を下ってきた場所にある古い教会である。中に入ると一瞬にして厳粛な空気に変わる。

 

(マルセイユ石鹸博物館)

 

マルセイユ石鹸博物館

(Le Musée du Savon de Marseille)

 

 こちらに来て初めて知ったことだが、マルセイユは石鹸で有名なのだそうだ。旧港に臨む通り沿いにマルセイユ石鹸博物館がある(入場料小さい石鹸付き二・五ユーロ、大きい石鹸付き五・五ユーロ。無論、私は小さい方を選択)。

 

昔ながらの石鹸製造工程を再現

 

 もともとプロヴァンス地方(南仏)はオリーブオイルの大産地で、中世以来石鹸の製造が盛んであった。十七世紀には、マルセイユは良質の石鹸の産地としてヨーロッパ中に知られるようになっていた。

 隣接するミュージアム・ショップで石鹸を購入することができる。昔ながらの工法で製造した石鹸は、何か懐かしさを感じる風合いで、お土産に最適である。

 

(サン・ジャン要塞)

 港町として栄えたマルセイユは、海洋からの攻撃に備えるために港湾の入り口に要塞を設けた。北側にあるのがサン・ジャン要塞(Fort St-jean)、湾口を挟んで南側にあるのがサン・二コラ要塞(Fort St-Nicolas)である。

 

サン・ジャン要塞

 

(サン・マリ―灯台)

  この灯台は1855年に完成し、1922年には電化されたが、現在はその役割を終えている。

 

サン・マリ―灯台(Phare Sainte Marie)

 

 「米国回覧実記」にもサン・マリー灯台の銅版画が掲載されている。

 

(サン・二コラ要塞)

 

サン・二コラ要塞

(サン・ジャン要塞側から撮影)

 

(サン・ローラン教会)

 

 サン・ローラン教会は、サン・ジャン要塞の入口の向かい側に立つ古い教会である。

 

サン・ローラン教会

(Eglise Saint Laurent)

 

(サンフェレオル・レ・オーギュスタン教会)

 旧港に面した場所に立つサンフェレオル・レ・オーギュスタン教会(Église Saint-Ferréol les Augustins)は、十五世紀の建造。白亜のファサードが印象的である。

 

サンフェレオル・レ・オーギュスタン教会

 

(マルセイユ大聖堂)

 

マルセイユ大聖堂(Cathédrale La Major)

 

 マルセイユ大聖堂は十九世紀の建築。正式にはサント・マリー・マジュール大聖堂という。横縞模様の外壁が美しく、ノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂から街を見下ろしても目立つ存在である。私が訪問したのはまだ朝早かったため、堂内には入れなかったが、外観だけでも一見の価値はある。

 

(マルセイユ・プロヴァンス商工会議所)

 

マルセイユ・プロヴァンス商工会議所

 

 カヌピエール通り沿いにあるマルセイユ・プロヴァンス商工会議所の重厚な建物。目の前に回転木馬がある。

 

(マルセイユ市立歌劇場)

 

マルセイユ市立歌劇場

 

 かつてこの場所には大劇場があったが、火災によって焼失し、現在の市立歌劇場は1924年に再建されたものである。

 

(サン・サンヴァント・ポール教会)

 サン・サンヴァント・ポール教会(Église Saint-Vincent de Paul)は、十九世紀に建立されたネオゴシック建築様式のカトリック教会。時間切れで訪問できなかったが、マルセイユのランドマークの一つである。

 

サン・サンヴァント・ポール教会

 

(カプシーヌ広場)

 噴水と呼ばれているが、残念ながら水は流れていない。1778年に建てられ、1863年に現在地に移設された。

 

フォッサティ噴水

 

 マルセイユから次の目的地リヨンに向かうTGVは九時四十五分発であった。朝から市街地を歩き回り、ホテルに預けていた荷物を取りに戻り、汗を流して半ば駆けるようにして駅に着いたところ、そのTGVが一時間遅れということが掲示されていた。そのせいで元々四時間しかなかったリヨン滞在時間は三時間になってしまった。

 

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