年末に帰国した際に購入した一冊。あまりに面白くて休日にほぼ一日で読破してしまった。
本書で取り上げている事件は、①赤坂喰違門の変(明治七年)②紀尾井坂の変(明治十一年)③板垣退助岐阜遭難事件(明治十五年)④森有礼暗殺事件(明治二十二年)⑤大隈重信爆弾遭難事件(明治二十二年)⑥星亨暗殺事件(明治三十四年)⑦朝日平吾事件(安田善次郎暗殺事件)(大正十年)⑧原敬首相暗殺事件(大正十年)の八件。うち六件が明治期に起こった事件で、大正年間の事件は二件に過ぎないが、本書に占めるページ数でいえば、圧倒的に⑦と⑧の解説に比重が置かれていることが分かる。
こうして暗殺史を概観すると、いずれの事件も暗殺者はターゲットのことを良く調べもせず、世の中に流れている皮相的な情報のみで一方的に怒りを高じさせ、暗殺に及んでいるということに気が付く。
その典型例は森有礼を暗殺した西野文太郎である。西野は、森有礼が伊勢神宮の門扉の帳(とばり)をステッキで高く掲げたということを「東京新聞」が報じ、そのことが襲撃の直接的な動機となっている(「伊勢神宮不敬事件」)。
事件後、森家の遺族は「伊勢神宮不敬事件」の真否を随行員や石井邦猷(くにみち)三重県令に確認し、門扉が外宮第四の門で、参詣人が賽銭を投げ、最下級の神官が守るところであり、それほど重んじる場所ではないことなどが判明している。つまりほぼ誤解に基づいて森は暗殺されたことになる。
明治三十四年(1901)、星亨が心形刀流十代目伊庭想太郎(伊庭八郎の実弟)によって刺殺された。星は政治手法の強引さから「おしとおる」とも呼ばれ、政治資金をめぐる疑惑が絶えなかったが、彼の死により真相は分からないままとなってしまった。
事件当時、犯人伊庭想太郎は五十歳と、当時としては老人であったが、兄八郎が旧幕府に殉じて早逝した人であった。その青年剣士のイメージが想太郎に重なったことで、暗殺者に同情が集まったという。
朝日平吾に暗殺された安田善次郎は、両替商や金融商として成功をおさめ、安田銀行や帝国火災海上保険(のちの安田火災海上保険、現・損保ジャパン)を創設して、保険分野でも成功し、一代の金融王となった人物である。この人には生前から「吝嗇」(りんしょく)つまりケチというマイナス・イメージで語られることが多いが、実際には東大に安田講堂を寄附するなど社会貢献にも熱心であった。事件直後の読売新聞にも「世の人人からは、高利貸と罵られ、自己一身の私利を願う外他を顧みず、残忍酷薄な有財餓鬼として呪われ(略)」と報じられているように世間一般のイメージは相当悪かった。
朝日平吾という人物のことは本書で初めて知った。詳細は本書に譲るが、家出をして長崎の鎮西学院に入学したが、ほどなく退学して上京して早稲田商科、日本大学法科と中途退学を繰り返し、その後も第一八師団に属して看護兵として従軍した履歴もある。満州に渡って馬賊になろうとしたり、朝鮮や中国東北部を転々としていた時期も長い。その間、たびたび勤務先を変えており方向性が見えないが、一貫しているのは弱者救済や言論活動の実践であり、その方面への志向が強かく、文筆の才能があったのも事実であろう。
国内に戻ると父の経済的支援を得て福岡県戸畑にて旅行具店を開くことになる。当初は神妙に働いていたようだが、八幡製鉄所にて空前の大争議が発生すると、朝日は争議支援のため資産の全部を注ぎ込んでしまった。
その後、西岡竹次郎の青年改造連盟とともに九州一円を遊説する等、政治活動に傾倒していく。「武家専制の遺物たる、貴族的軍閥的の階級思想を固執して、自由平等たるべき陛下の赤子を窘迫し、民本思想を指して危険視する頑迷不霊の痴漢」「正義人道を無視し国利民福を侵すの輩」への攻撃を強めて行った。
いったん政治との関係を切って宗教に入ろうとしたが、その後、労働者向けの宿泊施設「労働ホテル」の建設を思い立ち、知名士を回って資金を集めたが、結局この事業は失敗。今でいう投資詐欺のような事件である。
朝日平吾の思想や活動履歴を評価する向きもあるかもしれないが、私の印象としては社会的不適合者である。このような人物に殺された安田善次郎はえらい災難だったというほかはない。
本書でもっともページを割いて詳しく紹介されているのが東京駅で原敬を暗殺した中岡艮一のことである。本書で興味深かったのが予審判事山崎佐(たすく)の記録である。予審制度というのは今は存在していないが、大陸法系の制度で、当時も地方裁判所と大審院の第一審のみに適用された。有罪か無罪かを決める刑事公判の前に、公判に付するかどうかをきめるために必要な事実を取り調べることが主な目的である。
山崎佐という人は大変有能な人だったようである。中岡が殻を固く守って一向に本心を吐露しようとしないのを見て、被告を怒らせて本心を引き出すことに成功している。また取調の最中に昼食に誘われると「この男は命がけで総理を暗殺したのだ。今それを調べているのだ。鰻飯の冷えることなど問題ではない。昼飯の一度や二度ぐらい喰わなくとも一向差支えない。僕は昼飯を食わないから、みんなにそういってくれ給え、もう催促に来ないでくれ給え。」と追い返してしまった。それを見た中岡は泣き崩れて一切を自白した。結局、中岡艮一の動機は、政治的関心がなかったわけではないが表面的なもので、その内奥を覆っていたのは恋愛・人間愛・映画・文学的作品執筆などであった。原敬は呆れるほど薄っぺらい理由から殺されたのである。
筆者は「結び」において、明治・大正期の暗殺を総括している。筆者によれば⑴判官びいき ⑵御霊信仰に由来する非業の死を遂げた若者への鎮魂文化 ⑶仇討ち・報復・復仇的文化 ⑷暗殺による革命・変革・世直しといった長期的・歴史的・文化的起源があって、暗殺者に同情的な文化的土壌があるとしている。「これは諸外国には見られない、かなり特異な日本の文化的特色」としている。
「なるほど」と思う一方で、現在私が在住しているベトナムでもテロリスト(Lý Tự Trọng・Võ Thị Sáu・Nguyễn Thị Lợiら)を礼賛する文化がある。暗殺者に同情的な文化がほかの国に存在していないのか、についてはもう少し検証が要るかもしれない。