史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「近代日本暗殺史」 筒井清忠著 PHP新書

2024年02月24日 | 書評

年末に帰国した際に購入した一冊。あまりに面白くて休日にほぼ一日で読破してしまった。

本書で取り上げている事件は、①赤坂喰違門の変(明治七年)②紀尾井坂の変(明治十一年)③板垣退助岐阜遭難事件(明治十五年)④森有礼暗殺事件(明治二十二年)⑤大隈重信爆弾遭難事件(明治二十二年)⑥星亨暗殺事件(明治三十四年)⑦朝日平吾事件(安田善次郎暗殺事件)(大正十年)⑧原敬首相暗殺事件(大正十年)の八件。うち六件が明治期に起こった事件で、大正年間の事件は二件に過ぎないが、本書に占めるページ数でいえば、圧倒的に⑦と⑧の解説に比重が置かれていることが分かる。

こうして暗殺史を概観すると、いずれの事件も暗殺者はターゲットのことを良く調べもせず、世の中に流れている皮相的な情報のみで一方的に怒りを高じさせ、暗殺に及んでいるということに気が付く。

その典型例は森有礼を暗殺した西野文太郎である。西野は、森有礼が伊勢神宮の門扉の帳(とばり)をステッキで高く掲げたということを「東京新聞」が報じ、そのことが襲撃の直接的な動機となっている(「伊勢神宮不敬事件」)。

事件後、森家の遺族は「伊勢神宮不敬事件」の真否を随行員や石井邦猷(くにみち)三重県令に確認し、門扉が外宮第四の門で、参詣人が賽銭を投げ、最下級の神官が守るところであり、それほど重んじる場所ではないことなどが判明している。つまりほぼ誤解に基づいて森は暗殺されたことになる。

明治三十四年(1901)、星亨が心形刀流十代目伊庭想太郎(伊庭八郎の実弟)によって刺殺された。星は政治手法の強引さから「おしとおる」とも呼ばれ、政治資金をめぐる疑惑が絶えなかったが、彼の死により真相は分からないままとなってしまった。

事件当時、犯人伊庭想太郎は五十歳と、当時としては老人であったが、兄八郎が旧幕府に殉じて早逝した人であった。その青年剣士のイメージが想太郎に重なったことで、暗殺者に同情が集まったという。

朝日平吾に暗殺された安田善次郎は、両替商や金融商として成功をおさめ、安田銀行や帝国火災海上保険(のちの安田火災海上保険、現・損保ジャパン)を創設して、保険分野でも成功し、一代の金融王となった人物である。この人には生前から「吝嗇」(りんしょく)つまりケチというマイナス・イメージで語られることが多いが、実際には東大に安田講堂を寄附するなど社会貢献にも熱心であった。事件直後の読売新聞にも「世の人人からは、高利貸と罵られ、自己一身の私利を願う外他を顧みず、残忍酷薄な有財餓鬼として呪われ(略)」と報じられているように世間一般のイメージは相当悪かった。

朝日平吾という人物のことは本書で初めて知った。詳細は本書に譲るが、家出をして長崎の鎮西学院に入学したが、ほどなく退学して上京して早稲田商科、日本大学法科と中途退学を繰り返し、その後も第一八師団に属して看護兵として従軍した履歴もある。満州に渡って馬賊になろうとしたり、朝鮮や中国東北部を転々としていた時期も長い。その間、たびたび勤務先を変えており方向性が見えないが、一貫しているのは弱者救済や言論活動の実践であり、その方面への志向が強かく、文筆の才能があったのも事実であろう。

国内に戻ると父の経済的支援を得て福岡県戸畑にて旅行具店を開くことになる。当初は神妙に働いていたようだが、八幡製鉄所にて空前の大争議が発生すると、朝日は争議支援のため資産の全部を注ぎ込んでしまった。

その後、西岡竹次郎の青年改造連盟とともに九州一円を遊説する等、政治活動に傾倒していく。「武家専制の遺物たる、貴族的軍閥的の階級思想を固執して、自由平等たるべき陛下の赤子を窘迫し、民本思想を指して危険視する頑迷不霊の痴漢」「正義人道を無視し国利民福を侵すの輩」への攻撃を強めて行った。

いったん政治との関係を切って宗教に入ろうとしたが、その後、労働者向けの宿泊施設「労働ホテル」の建設を思い立ち、知名士を回って資金を集めたが、結局この事業は失敗。今でいう投資詐欺のような事件である。

朝日平吾の思想や活動履歴を評価する向きもあるかもしれないが、私の印象としては社会的不適合者である。このような人物に殺された安田善次郎はえらい災難だったというほかはない。

本書でもっともページを割いて詳しく紹介されているのが東京駅で原敬を暗殺した中岡艮一のことである。本書で興味深かったのが予審判事山崎佐(たすく)の記録である。予審制度というのは今は存在していないが、大陸法系の制度で、当時も地方裁判所と大審院の第一審のみに適用された。有罪か無罪かを決める刑事公判の前に、公判に付するかどうかをきめるために必要な事実を取り調べることが主な目的である。

山崎佐という人は大変有能な人だったようである。中岡が殻を固く守って一向に本心を吐露しようとしないのを見て、被告を怒らせて本心を引き出すことに成功している。また取調の最中に昼食に誘われると「この男は命がけで総理を暗殺したのだ。今それを調べているのだ。鰻飯の冷えることなど問題ではない。昼飯の一度や二度ぐらい喰わなくとも一向差支えない。僕は昼飯を食わないから、みんなにそういってくれ給え、もう催促に来ないでくれ給え。」と追い返してしまった。それを見た中岡は泣き崩れて一切を自白した。結局、中岡艮一の動機は、政治的関心がなかったわけではないが表面的なもので、その内奥を覆っていたのは恋愛・人間愛・映画・文学的作品執筆などであった。原敬は呆れるほど薄っぺらい理由から殺されたのである。

筆者は「結び」において、明治・大正期の暗殺を総括している。筆者によれば⑴判官びいき ⑵御霊信仰に由来する非業の死を遂げた若者への鎮魂文化 ⑶仇討ち・報復・復仇的文化 ⑷暗殺による革命・変革・世直しといった長期的・歴史的・文化的起源があって、暗殺者に同情的な文化的土壌があるとしている。「これは諸外国には見られない、かなり特異な日本の文化的特色」としている。

「なるほど」と思う一方で、現在私が在住しているベトナムでもテロリスト(Lý Tự Trọng・Võ Thị Sáu・Nguyễn Thị Lợiら)を礼賛する文化がある。暗殺者に同情的な文化がほかの国に存在していないのか、についてはもう少し検証が要るかもしれない。

 

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「仇討ちはいかに禁止されたか?」 濱田浩一郎著 星海社新書

2024年02月24日 | 書評

「仇討ちはいかに禁止されたか?」という書名につられて購入した。我が国において仇討ちが禁止されたのは、明治六年(1873)二月のいわゆる「仇討ち禁止令」とされる。本書では仇討ち禁止令が布告された経緯や、その後の一時復活した「復讐の律」などを解説したものかと思って取り寄せたが、ページを捲って分かったのは、明治四年(1871)二月の「高野の仇討ち」の経緯を追ったもので、本題である「仇討ちはいかに禁止されたか?」に触れた部分は、本書の十分の一にも満たない。タイトルの付け方に疑念は残ったものの、「高野の仇討ち」について、ここまで詳述した書籍に初めて出会ったので、それはそれでとても楽しく読み通すことができた。

私が「高野の仇討ち」の舞台となった高野山や赤穂市を訪れたのは、今から十二年も前のことで、当時、どの書籍を読んでこの仇討のことを知ったのか、今となってはよく覚えていない。本書「あとがき」によれば、「歴史書として刊行されるのは(私家版・非売品の書物を除いて)戦後においては、これが初めでだと思われる」としており、おそらく当時の私もこの仇討ちについて詳細な情報を持ち合わせないまま現地を取材していたのであろう。本書を読むともう一度赤穂市や高野山を歩いて見たいという欲望がふつふつとわいてくる。

筆者は「村上方、赤穂十三士方、どちらにも偏らず、できるだけ客観的にその歴史を叙述したい」と記述している。確かに筆者の立ち位置は一貫して中立的で、決してどちらかに肩入れした態度はとらない。読者としては安心感がある。

高野山における仇討ちは、その九年前の文久二年(1862)、赤穂藩で起こった文久事件が発端であった。赤穂藩の文久事件というのは、文久二年(1862)十二月九日の夜、赤穂藩の参政であり、儒学者村上真輔が面会に訪れた尊攘派五~六名により斬殺された事件をいう。その日の夜、国家老の森主税も二の丸城外で暗殺されている。さらに村上真輔の二男で藩の要職にあった河原駱之輔にも凶刃が迫り、追い詰められた駱之輔は福泉寺にて自刃する。

こうした藩内抗争の裏側には、国元の守旧派と江戸の革新派、尊攘派と佐幕派の対立があるのが常であるが、赤穂藩の場合は殺された村上真輔も勤王派であり、襲撃した西川升吉らは薩摩や長州、土佐とも交わりを持つ尊攘過激派であった。西川らの行動を義挙とする立場からは「赤穂志士」と称されるが、一方で村上方の証言では「無頼の徒」「不逞の徒」とまで酷評されている。少なくとも執政森主税は彼らの行動を快く思っていなかったようで、事件前に升吉らを捕らえて入牢させている。

西川升吉には、一度召捕られたことに対する恨みがあり、それが不平を募らせていく原因になった可能性も否定できない。筆者は「赤穂藩の下級武士たちが、同藩の要職にある主税と真輔を斬殺した理由は、これまで見てきた通りだが、筆者にはその理由が牽牛付会なものに思えてならない」としている。彼らの残した斬奸状によれば森主税は大任の職にありながら日夜、宴遊に耽り、驕奢増長していたという。しかし、筆者は「非難されるほどの遊興をしたとの証拠はない」としている。さらに村上真輔の殺害趣意書に至っては「主税の奢りを取り押さえることもなく、下々の苦しみを救う処置をしていない」ことが理由となっており、真輔自身の悪行は一つも挙げられていない。

村上真輔は藩の財政悪化を認識し、それを改善しようと建白を行っている。筆者は「頑迷固陋な保守派ではない」としているが、実直な能吏だったのだろう。その父を一方的に斬殺されたのだから、遺子遺族の怒りは想像に余りある。

明治四年(1871)一月、赤穂藩は村上一族に村上家の家督相続と加増、そして故村上真輔の無罪を伝達した。その際、真輔を殺害した下手人に対して、恨みを保持し仇を討つようなことのないように説くことも忘れなかった。その時点で真輔を殺害した下手人は六人(八木源左衛門、山本隆也、西川邦治(升吉実弟)、吉田宗平、田川運六、山下鋭三郎)まで減っていたが、彼らには赤穂藩主森家の紀州高野山釈迦文院にある廟所を守護せよとの沙汰があった。六人を高野山に追ったのは、村上一族による仇討ちを避ける意図があったのだろう。赤穂藩は、双方を引き離して大騒動に発展することを避けたのである。

しかし、村上の遺族は引き下がらなかった。むしろ六士が高野山に派遣されることは、彼らの復讐の実行を決定的にしたといって良い。結論から見れば、遺族が仇討ちに走る背景には、藩による不公平な判決があった。このことは元禄時代の赤穂藩の仇討ち(いわゆる「忠臣蔵」)にも共通して言えることである。仇討ちという行為は、同時に藩(あるいは公権力)への抗議も意味している。

本書のクライマックスは、仇討ちシーンである。本書の記述は、当事者の一人村上四郎(村上真輔四男)の残した「速記録」や事件後司法省臨時出張所による村上行蔵(同五男)の取調記録「口書」に拠っているが、誰が誰を斃したと詳細に乱戦の模様が記録されている。村上四郎は目から耳の下にかけて斬り付けられ、傷口が割れて肉がはみ出し、味方にも判別がつかないほど人相が変わっていたそうだ。そのため、あわや同士討ち寸前だったところを、目印としていた白襷に気が付き辛うじて討ち取られるのを逃れたと乱戦の現実を伝えている。助太刀として参加した水谷嘉三郎は、のちに「幾ら深傷を負っても急所でない限りは、容易に倒れるものではない」と証言しているが、実戦を経験した者だけが発言できるものであろう。

忠臣蔵の影にかくれて「高野山の仇討ち」は今日ほとんど忘れられた事件となっているが、当時は世間の話題になった。事件直後から仇討ちを伝える絵入り瓦版が複数出版され、明治時代には「高野の仇討絵葉書」が発行された。「赤穂藩士讐討略記」という小冊子が現場近くの観音茶屋で定価五銭で販売されていた。その後も絵馬に描かれたり、小説や芝居になったこともある。やはり日本人は仇討ちが大好きなのである。得てして小説や芝居で美化されがちであるが、仇討ちのリアルは、困難に満ちて、しかも最後は命を懸けた壮絶な斬り合いなのである。そのことを実感できる大変価値ある一冊である。

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