史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治維新を読みなおす 同時代の視点から」 青山忠正著 清文堂

2017年06月24日 | 書評
歴史学の泰斗、現佛教大学教授の青山忠正先生の近著である。学術雑誌や一般読者向けの商業誌に掲載された文章ばかりであり、本格的な論文と比較すれば、ずっと読み易い印象である。
取り上げられるテーマはまちまちであるが、「昭和戦前期の国家が、自らの正統性を主張するために創作した物語を修正しながら、明治維新を読み直す」という姿勢は一貫している。副題にあるとおり、同時代の視点を大事にしながら、幕末の事象を丹念に読み直している。
その顕著な例が、坂本龍馬が重要な役割を果たした薩長同盟や船中八策にかかわる記述である。
坂本龍馬といえば、一介の浪士の身でありながら、犬猿の仲にあった薩長の間を仲介し、討幕派の成立を決定付けた。船中八策と呼ばれる政治構想を立案し、さらには土佐藩の重役である後藤象二郎に提案して大政奉還を実現させ、その結果、将軍徳川慶喜による大政奉還が成った ――― と小説やドラマで描かれていて、我々の頭にもそのように刷り込まれている。青山先生は作り上げられた龍馬の虚像を暴いてみせる。
薩長同盟の大前提として、当時毛利家が受けていた官位停止(かんいちょうじ)措置がある。この時点の木戸孝允の最大の関心は、官位停止の解除にあり、この冤罪を晴らすために薩摩の「周旋尽力」を期待していたというのである。青山先生によれば、木戸が書簡で一切官位停止という言葉を用いていないのは、明治になってから長州はひたすら朝敵の前科を隠し、その事実を口にすることを憚ったため、この大前提が曖昧になってしまったというのである。
小説では、木戸は薩摩藩邸に入ったものの、国事にわたるような話題は何も出ず、いたずらに日が過ぎるばかりであった。それが十日以上も続くので、もはや帰国しようと決心したところに龍馬が登場し、西郷を説得し、急転直下薩長盟約が結ばれることになったと描かれる。これは木戸の回想録に叙述されたものに拠っているが、肝心のことが記述されていないという。つまり毛利父子の官位復旧問題について、間もなく伝達されるはずの処分の受け入れをめぐり、木戸と西郷は押し問答を繰り返していたのである。処分案は、将軍・老中・一会桑・天子との間で最終調整中であった。この決着がついたのが、将軍から天子へ処分案が正式に奏聞された正月二十日のことであり、ちょうど龍馬が京都の薩摩藩邸に入った日であった。木戸は敢えて長州藩にとって屈辱的な毛利父子の官位停止に触れずに、あたかも龍馬の登場に拠って事態が解決したかのように記述したというのである。
龍馬の「船中八策」に至っては「創作された偽文書」と断定する。この問題に関して、知野文哉氏が『「坂本龍馬」の誕生 ― 船中八策と坂崎紫瀾』(二〇一三)という研究で、その過程を明らかにした。
明治二十九年(1896)、弘松宣枝が「阪本龍馬」において、「建議案十一箇条」を取り上げた。これが「船中八策」の初出原型にあたるという。著者弘松は、生存する関係者からの伝承を基にこれを書いたと見られる。その後、坂崎紫瀾「少年読本・坂本龍馬」(博文館 一九〇〇)などで手を加えられ、明治四十年(1907)、宮内省編纂による「殉難録稿 巻之五十四 坂本直柔」において形式と内容が整えられた「建議案八條」として掲載された。これが「船中八策」の確定版という。つまり「船中八策」はもともと存在しないものであり、弘松、坂崎そして岩崎鏡川(「坂本龍馬関係文書」の文部省維新史料編纂官)という、いずれも土佐出身者が、土佐の事績を顕彰しようという意図をもって作り上げたものだというのである。
青山先生は有名な「龍馬暗殺」について言及している。ここでは詳細は省くが、「学問研究のレベルではなく、もはや政治的な言説の世界」と結論付けている。
本書では安政の大獄から大日本憲法の制定まで論じ、井伊直弼から高杉晋作、赤松小三郎、伴林光平、横井小楠、大村益次郎まで幅広い人物を取り上げる。西南戦争について「西郷は、みずからの最期を承知のうえで、鹿児島士族のために身命を預けた」と総括するが、詳しい論証は省かれている。その論拠を知りたいものである。

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金沢 寺町 Ⅱ

2017年06月18日 | 石川県
(妙慶寺)
福井市内の史跡探索を十四時半に切り上げ、レンタカーを返却すると、特急に飛び乗って金沢に移動する。家族とは金沢の宿で落ち合うことになっている。
八年振りの金沢である。前回も家族旅行であったが、あの時は息子が寝台特急に乗りたいというのに付き合って、移動が目的のような旅行であったが、今回は私たち夫婦の銀婚式と娘たちの卒業・進学、息子の二十歳の成人のお祝いという主旨で、金沢に集まることになった。
家族が集まる夕食の時間までに、八年前に行けなかった金沢市内の二つの寺院を回ることにした。一つは松平大弐の墓があるという妙慶寺。もう一つは宝町の宝円寺である。二つの寺は方向も違うので、自転車を使うのが効率的である。
金沢市内には観光客向けに「まちのり」というレンタサイクルがある。自転車を借りると最初に二百円がかかるが、その後はポートと呼ばれる駐輪場が市内十八か所に設置されており、三十分以内にポートに返却すれば料金がかからないというシステムである(逆に三十分を超えると、三十分ごとに二百円が加算される)。できるだけ多くの人に自転車を利用してもらおうという発想で考え出されたこの仕組であるが、利用者はポートから次のポートにいかにして短時間で渡り歩くかを考えながら行動しなければならない。一種のゲームのようなものである。しかし、妙慶寺も宝円寺もポートから離れている。わずかな時間もロスが許されない私は、結局ポートに自転車を返却することもなく、二時間余り一台の自転車を使い放しにしてしまったため、普通のレンタサイクルより割高になってしまった。前回(八年前)にも痛感したのだが、道路地図ではなかなか読み取れないが、金沢市街は結構アップダウンが激しく、場所によっては自転車ではかなり厳しい坂道もある。八年前の教訓がまったく生かされず、今回も自転車で喘ぎながら妙慶寺と宝円寺の間を移動することになった。
妙慶寺には松平大弐の墓がある。門前には「贈四位松平大弐墓道」と記された石柱もあり、それは間違いないのだが、墓地に入ると「松平家」の墓がたくさんあって、どれが大弐のものか特定できなかった。なお、当寺は松平氏の菩提寺であり、ミュンヘン・オリンピックで男子バレーが金メダルを獲得した時の監督松平康隆氏や我が国の初代国連大使松平康東氏などの先祖の墓があるそうである。
門を入って右手に松平大弐の顕彰碑があり、それに出会っただけで満足して妙慶寺をあとにした。


妙慶寺


贈従四位松平大弐墓道


贈従四位大弐松平君碑


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金沢 Ⅱ

2017年06月18日 | 石川県
(兼六園)


日本武尊像

 兼六園の日本武尊の像は、明治十年(1877)の西南戦争で戦死した郷土出身の将兵を祀った記念碑である。銅像の身長は五・五メートル、台座の高さだけで六・五メートルという大きさである。明治十三年(1880)の建立。


根上松

 根上松(ねあがりのまつ)は、十三代藩主斉泰が、稚松を高い盛土に手植えし、徐々に土を除いて根を著したものと伝えられる。


成巽閣

 成巽閣(せいそんかく)は、文久三年(1863)、前田斉泰が母堂真龍院の隠居所として兼六園内の竹沢御殿跡の一隅に造営されたもので、金沢城から見て東南方向(すなわち巽)の方位にあるため、当初は巽新殿と名付けられた。明治七年(1874)に兼六園が一般公開された際に、成巽閣と改称された。
 成巽閣は、二階建て、寄棟造り、杮葺きの建物で、幕末武家造りの意向として他に類例がないものと評価されている。階下は謁見の間、御寝所の亀の間、蝶の間など整然とした武家書院造りとなっている。一方、階上は群青の間を中心とした数寄屋風書院造りの七室から成った。

(石川護國神社)


石川護國神社

 石川護國神社は、はじめ招魂社と称し、卯辰山にある卯辰神社の下にあった。草創は、明治元年(1868)、越後奥羽の乱で戦死した加賀藩兵百八名の御霊を祀るため、加賀藩十四代藩主前田慶寧の命を受けて建立された。後に西南戦争や日清・日露戦争の戦没者も合祀されている。現地に移転したのは昭和十年(1935)のことで、昭和十四年(1939)に石川護國神社と改称した。


大山元帥御手植 竜の松

 護國神社の境内に大山元帥御手植の竜の松がある。明治天皇が明治十一年(1878)十月、当地へ行幸された際、御供をした大山巌が片町の三島茂太郎邸とその後、大桑酒造店(現・三日市ビル)に部下四名とともに三泊し、記念に松を植えたとされる。この松は、昭和三十七年(1962)、片町の整備工事に伴い、三日市与三次郎氏が寄進したものである。


乃木将軍所縁 水師営の棗(分根)

 日露戦争における最大の激戦であった旅順要塞戦のあと、乃木将軍と敵将ステッセルとの水師営における会見は、軍歌にも歌われ名場面として語り継がれることになった。のちに戦史研究のために金沢在住の岩下岩松氏が、現地から棗の分根を持ち帰り、石川護國神社に奉献したものである。

(石川県立歴史博物館)
 最終日、二時間ほど自由行動を許されたので、石川県立歴史博物館と加賀本多博物館(旧・藩老本多蔵品館)を拝観することにした。県立歴史博物館は、かつて陸軍兵器庫として使われた赤レンガの建物を改装して博物館として利用している。第一展示室には縄文時代から江戸時代、第二展示室には明治以降の展示、企画展示室では今回は「北前船と日本海開運」特別展を開催していた。連休中の金沢の観光地は、どこも凄まじい人で、特に人気の近江市場など何時間並んでも食事にありつけないような状態であったが、歴史博物館はゆったりと見学ができた。


石川県立歴史博物館

 数ある展示の中で、目を引いたのは島田一郎の宣言文であった。


島田一郎の宣言文

(金沢健康プラザ大手町)


金沢医学館跡地

 金沢城の大手門を出たところ、金沢健康プラザ大手町の前に金沢医学館跡地を示す石碑がある。
 金沢藩では、明治三年(1870)二月、津田玄蕃邸跡に金沢医学館を開設し、翌年オランダ人医師スロイスが着任し、西洋医学の教育と診療を始めた。医学館は、その後、官立第四高等学校医学部、金沢医学専門学校、金沢医科大学、金沢大学医学部へと発展した。

(金沢近江町郵便局)


金沢郵便発祥之地

 ここまで来ると、有名な近江町市場に近い。近江町郵便局前に金沢郵便発祥の地の碑が建てられている。

(宝円寺)
 宝円寺は、加賀百万石の藩祖前田利家が、越前府中(現・福井県越前市)に在城したとき、当時郊外の高瀬村にあった宝円寺の大透圭徐和尚に深く帰依した。のちに利家が加賀に移った時、大透和尚を招き入れ一寺を創建し、宝円寺と名付けた。さらに利家が金沢城主となると、再び大透和尚を金沢に招き、宝円寺を建立した。宝円寺は藩公から毎年二百二十余石の供養米が寄進された。前田家累代の菩提寺となり、往時には本堂、客殿、庫裡、山門が並ぶ豪華絢爛なもので、「北陸の日光東照宮」と称された。しかし、慶応四年(1868)二月に寺内からの失火により全伽藍を失った。その後、本堂と庫裡を造営して今日に至っている。


宝円寺

 本堂の裏手に墓地があり、そこに長連豪の墓がある。
長連豪(つらひで)は、安政三年(1856)加賀藩士の子に生まれる。漢文学舎の豊島洞斎に師事。のちに加賀藩校明倫堂に学んだ。薩摩の西郷隆盛を信奉し、桐野利秋や別府晋介らと親交をもった。西南戦争後、大久保利通の暗殺を企て上京。明治十一年(1878)五月十四日、島田一郎らと紀尾井坂にて大久保を暗殺すると、そのまま自首し、同年七月に処刑された。二十三歳。


長連豪墳

 宝円寺の山門を入ると幕末の藩主前田斉泰の顕彰碑が建てられている。
 

前田斉泰公顕彰碑

 前田斉泰は文化八年(1811)、前田斉広の子に生まれ、文政五年(1822)襲封。施政の基本は、門閥八家の年寄による米穀中心の保守的農政であり、幕末には公武合体を主張した。これに対し、世子慶寧は側近の勤王党の補導により親長的、革新的で、文久三年(1863)の政変後、上洛して長幕間の周旋に務めたが、翌年元治の変が起こると、幕府への遠慮から世子に謹慎を命じて、勤王党をいっせいに処刑した。慶応二年(1866)には致仕して慶寧が襲封し、斉泰は金谷御殿に隠居、以後、大勢を見ながら朝幕間の裏面工作に専念した。慶応四年(1868)、倒幕が決定的になると積極的に新政府軍を支援して、北越戦争にも参加、その功によって慶寧は知藩事に任命された。明治四年(1871)廃藩により東京に移住。明治十七年(1884)、七十四歳で波乱の生涯を閉じた。

 ゴールデンウィーク中の金沢は、とにかく凄い人であった。最近人気の高い21世紀美術館は、チケットを手に入れるのに一時間も並ばなくてはいけない。係の方の「コンビニでも買えます」という助言に従って、近所のコンビニに走ったところ、既にコンビニにも長い行列ができていて、結局一時間近くかかってしまった。
 昼食はどこも一杯で、二時間三時間待ちは当たり前。結局、私たち家族は駅弁を買って特急列車の車内で済ませた。観光客の数が完全に受入側のキャパを越えている印象である。一方で隠岐の島の白鳥海岸など、言葉を失うくらいの絶景であったが、私のほか誰もいないような場所もある。利便性や宣伝力の差かもしれないが、ゴールデンウィークは「穴場」に限る。
 名古屋から始まった今回の史跡旅行で撮影した写真は六百枚を数え、万歩計は一週間で十四万歩を越えた(つまり一日平均二万歩)。山登りまがいのハイキングや長距離ドライブ、船での移動も、何とか計画どおり遂行することができた。半年前の腰椎ヘルニアの手術以来、ずっと腰の不安につきまとわれてきたが、今回の旅行を終えて「復調宣言」を出せる状態まで回復した。油断は禁物だが。

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福井 Ⅷ

2017年06月17日 | 福井県
(足羽山招魂社)


足羽山招魂社


西南戦争殉難者碑

 山頂には足羽山招魂社が建てられている。当初は禁門の変の福井藩犠牲者十七名と戊辰戦争の戦死者十三名の霊を慰めるために建立されたもので、その後、西南戦争、日清日露戦争の犠牲者も合わせ祀ることになった。境内に西南戦争殉難者の碑を見つけた。説明によると越前・若狭からの出兵のうち百五十人もの戦死者を出していたという。


岡島佐三郎碑

 西南戦争に従軍し、戦死した岡島佐三郎の供養碑である。


死事十二人碑

 戊辰戦争で戦死した福井藩士十二人の慰霊碑である。

(瑞源寺)


瑞源寺


機業碑

 機業碑は、福井県の絹織物業の発展に貢献した三宅丞四郎の顕彰碑。瑞源寺には三宅丞四郎の墓もあるらしいが発見に至らず。


鷗波富田先生墓

 富田鷗波(おうは)は天保七年(1836)の生まれ。福井藩士。江戸で安積艮斎、安井息軒に学び、帰藩して藩校明道館で教授を務めた。明治五年(1872)福井県初の新聞「撮要新聞」を発行した。明治十二年(1879)、明新中学校校長。明治四十年(1907)没。七十二歳。

(妙観寺)


妙観寺


智遊童女霊(橘曙覧 三女 健子の墓)

 幕末の歌人橘曙覧三女健子の墓である。四歳の時、天然痘で亡くなった健子の死を悲しみ、曙覧は側面に自筆の墓銘を刻した。時を隔てて、娘を亡くした親の悲しみが伝わる墓碑である。

今とし四歳にて身みまかりける
むすめ健子がなきがらを
此処にをさめて
かしのみひとりはいかで
おくつきをならべて父も
ここにすみ身ぞ 橘尚事

(福井市立郷土歴史博物館)


福井市立郷土歴史博物館


松平春嶽公像

 福井市立郷土歴史博物館は、その昔、足羽山にあったらしいが、平成十六年(2004)に現在地である宝永三丁目に移ってきたそうである。確かに私がこの近所に住んでいた四十年前、このような施設はここになかった。時間があれば、ゆっくり展示を拝見したいところであったが、今回は時間がなかった。建物の前の松平春嶽像の写真を撮影してここを立ち去った。

(こども歴史文化館)


こども歴史文化館

 こども歴史文化館という施設ができたのは、平成二十一年(2009)のことだそうである。建物の前に「吉田東篁先生の碑」が置かれている。


吉田東篁の碑

 碑文によれば、この場所にはかつて吉田東篁の墓があったらしく、その後「東墓地公園」に移転したとされるが、その東墓地公園がどこにあるか分からず、現在墓の行方ははっきりしない。

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福井 Ⅶ

2017年06月17日 | 福井県
(神明神社)
 中根靱負宅跡に近い神明神社の境内に公園が整備されており、その一角に中根雪江の座像がある。


神明神社


中根雪江像

(足羽山)


大久保盤山碑

 大久保盤山は和算家(数学者)。家塾を開いた。安政二年(1855)に藩校明道館が開校すると算科局の教師として活躍した。碑は盤山の生前に建立されたもの。


伴閑山碑

 伴閑山は福井藩士。儒学を学び、家塾で門人を育てた。個人の能力に応じた教授法で知られる。明治十二年(1879)、年六十一で病没。


笠原白翁碑

 笠原白翁は町医師の出身。嘉永二年(1849)、天然痘予防の種痘法を初めて福井にもたらし、除痘館の開設や出張種痘など普及に大きな役割を果たした。


高島鷹洲寿碑

 高島鷹洲は旧福井藩士。明治五年(1872)に学制が公布されると河南小学校の教員となり、その後も永く小学教育に従事した。


杉田定一記念碑

 杉田定一は、福井県初の衆議員議長。この石碑は、地租改正の際、国に強く再調査を要求し、減祖に尽力したことに感謝して、明治十六年(1883)に建立されたものである。

(足羽神社)


足羽神社

 足羽神社ではちょうど結婚式が開かれていて、本殿前では記念撮影の真っ最中であった。
 境内には、天壌無窮碑がある。
 この石碑は、明治天皇の即位礼に参列した福井藩士由利公正が、その時の祭具を邸内に建てた神宝神社に納め、皇室の安泰を祈った。その由来を記録したものである。


天壌無窮碑

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永平寺

2017年06月17日 | 福井県
(火薬局跡)
 先日、坂本龍馬の新たな書簡が発見され、そこに三岡八郎(由利公正)のことが記されていたことから、由利公正のことが俄かに注目を集めている。ついこの間もNHKの番組で由利公正のことを取り上げていて、その中であまり有名とはいえない、火薬局が紹介されていた。今回の福井行では、是非この火薬局跡を訪ねたいと思っていた。


火薬局跡

 永平寺といえば何といっても道元によって開かれた大本山永平寺が有名であるが、個人的には中学生のとき野球県大会の決勝で永平寺中学に敗れたことが記憶に残っている。その後、我が中学校の野球部は優勝の常連校となったが、そのきっかけとなったのがこの時の決勝進出であった。もっとも私は補欠の補欠で、決勝進出には一つも貢献はしていないのだが…。

 松岡神明一丁目の九頭竜川に近い場所に福井藩の火薬局跡を示す石碑が建っている。ちょっと分かりにくい場所である。
ペリーの来航をきっかけにアメリカと和親条約が結ばれると、三岡八郎(のちの由利公正)は藩の命を受けて大銃および火薬の製造掛を命じられた。安政四年(1857)には兵料掛を命じられ、橋本左内らと明道館にておおいに文武の道を講ずるとともに火薬局を松岡芝原用水の開口部近くに設ける計画を進めた。ところが、安政四年(1857)四月二十七日、火薬局が自然爆発を起し、多くの同士を失うことになった。翌年三月にも再度爆発し、火薬局は半焼した。三岡八郎は火薬製造を復興することを建議したが、終に許されることはなかった。この石碑は安政六年(1859)に建てられたものである。

(安泰寺)
 松岡神明町三丁目に位置する安泰寺には、福井藩士佐々木権六の墓がある。もともと佐々木権六の墓は東京青山霊園にあったが、平成二十一年(2009)に故郷の菩提寺である安泰寺に移設改葬されたものである。


安泰寺


佐々木長淳(権六)墓

 佐々木権六、諱は長淳。天保元年(1830)に福井藩士佐々木長恭の長男に生まれた。嘉永六年(1853)より砲術修業と大砲製造調査のため、江戸へ行き、帰って大小銃弾薬御製造掛となり、ついでその頭取となって明道館でその研究を命じられた。福井藩で初めて二本檣の西洋型帆船「一番丸」を造り、藩主松平茂昭もこれに乗った。慶応三年(1867)には柳本直太郎とともにアメリカに留学し、ジョンソン大統領に謁し工場を視察した。帰朝後、兵器、書籍の購入、軍規法の輸入に尽力した。明治二年(1869)、製造局用事となり三インチ砲を造った。翌年、新政府に出仕して工部省勧工寮(のち勧業寮)に勤め、明治九年(1876)にはイタリアの養蚕公会所出張を命じられた。翌年には内務省に転じ、上州新町駅紡績所、青山御所養蚕御用掛などを歴任し、養蚕業の発展に尽くした。明治二十八年(1895)官を辞し、大正五年(1916)死去。年八十七。

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丸岡 Ⅱ

2017年06月17日 | 福井県
(高岳寺)


高岳寺

 前回、丸岡訪問時は、寒さと強風と小雨のために気力が萎えてしまい、断念した有馬家菩提寺高岳寺を真っ先に訪問する。高校サッカーの強豪校丸岡高校のすぐ近くである。


有馬家歴代墓所

 本堂に向かって左手奥に有馬家歴代の五輪塔が生前と並んでいる。幕末までは日向時代の直純、康純や初代丸岡藩主清純、三代孝純の墓のみであったが、明治四十三年(1910)に延岡から殉死者十三人の墓を、大正五年(1916)には東京上野の本覚院から江戸で亡くなった藩主の墓を高岳寺に移した。藩主の墓の前には、奥方の壮麗な墓も置かれている。福井大震災(昭和二十三年(1948))によって倒壊したが、その後復旧されて今日に至っている。


有馬徳純公の墓


有馬温純公の墓

 六代藩主有馬徳純は、高田藩主榊原政敦の四男に生まれ、文化三年(1820)、有馬藩主の養子となった。文化十三年(1830)、養父誉純の隠居に伴い家督を継いだ。天保八年(1837)、三十四歳で死去。あとを婿養子の温純が継いだ。

 七代藩主温純は、五代藩主有馬誉純の子、戸田純祐の子。養父徳純の死去により家督を継いだ。安政二年(1855)、二十七歳の若さで死去。温純のあとは、播磨山崎藩から養子に入った道純が継いだ。道純は、寺社奉行や奏者番、若年寄、老中といった重職を歴任し、幕末の幕府を支えた。なお、道純の墓は谷中霊園にある。


和翁先生之墓(有馬徳太郎の墓)

 有馬徳太郎(和翁)は、丸岡藩藩儒。城下霞町に日新塾を開き、漢学を教授した。明治八年(1875)没。

(台雲寺)


台雲寺


合屋文仲の墓

 台雲寺には、蓑笠庵梨一という江戸中期に活躍した高名な俳人の墓がある。蓑笠庵梨一は、縁あって地方役人として坂井郡下兵庫村(現・坂井町下兵庫)の代官として着任し、その後、丸岡藩主有馬誉純の賓客として招かれ、儒官となった。老いて私塾蓑笠塾を開き多くの門人に学問を教えた。特に晩年には芭蕉の研究に没頭した。
 同じ墓域に丸岡藩医合屋文仲の墓がある。合屋文仲は、維新後、成美堂という私塾を開いた。明治三十八年(1905)、七十四歳で没。

(丸岡城不明門)
 丸岡町野中山王の集落の中に、丸岡城の不明門が移設されている。


丸岡城不明門

(舟寄霊苑)


邨野先生之碑

 舟寄町の舟寄霊園に邨野良郷の墓がある。邨野良郷は、医師、教育者。長崎に留学して医術を学び、三十歳の頃、舟寄村に移住して開業した。医業の傍ら、邨野塾を開き、近隣の子弟を教えた。明治十八年(1885)、七十歳にて死去。

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勝山

2017年06月17日 | 福井県
(勝山市役所)
 福井の人は勝山のことを「かっちゃやま」と呼ぶ。
勝山は雪の多い福井県でも有数の豪雪地帯である。今でも語り草になっている「三八豪雪」(昭和三十八年)のとき、除雪して積み上げられた雪の上を歩いていて躓き、何かと見たら電信柱の頭だったという、ウソのような話が伝わる。
人口数万人という山奥の小都市に私は、中学生のとき一度訪れたことがある。勝山には県内有数のスキー場が複数存在している。勝山でのスキーが、初めてのスキー体験であった。
 覚えていることといえば、スキー場の窪みに入ってしまい、そこから這い出るのに半時間くらいかかってしまったことである。私以外に見ず知らずのオジサンもその蟻地獄に陥っており、そのオジサンと無言で悪戦苦闘したのが不幸なスキー初体験であった。
社会人になった頃、世はスキー・ブームで、会社の行事や友人たちによって幾度となくスキーに連れていかれたが、今一つスキーを好きになれなかった根底には、勝山での不幸な原体験があったような気がしてならない。


勝山城址之碑

 勝山藩は元禄年間以降、小笠原氏の城下であった。藩庁のあった勝山城には天守閣は築造されず、明治になって破却されたため、遺構は見事なほど何も残っていない。市役所の入口に城址碑があるのみである。
 なお、勝山市の中心部から離れた平泉町に勝山城博物館という施設があり、立派な城郭状の建物を備えているが、実際には勝山城とは何の関係もない。

(開善寺)


開善寺

 開善寺は、勝山藩主小笠原家の菩提寺である。元禄四年(1691)、小笠原貞信が美濃高須から勝山に移ってきたことに伴い、勝山に移ってきた。墓域は三段に仕切られ、正面の最上段に歴代藩主の墓が並ぶ。向かって左から七代長貴、初代貞信、二代信辰、三代信成、四代信胤、五代信房、六代長教、そして一男右が八代長守のものである。
 西側には家族の墓が並んでいる。


小笠原家墓所


小笠原長守の墓

 小笠原長守は、幕末の勝山藩主。天保十一年(1840)、家督を継いだ。天保十四年(1843)には藩校成器堂を開設した。嘉永元年(1848)には軍制改革し、専売制を導入し、藩政改革に成功した。しかし、幕命により河川工事普請を務め、さらに安政の大地震により藩邸が崩壊したため出費が重なり、藩財政は逆戻りしてしまった。長守は家老林毛川を罷免した。元治元年(1864)には幕府の大阪加番に登用された。戊辰戦争では新政府側につき、明治後は藩知事にも任じられた。明治二十四年(1891)五十八歳で死去。

(神明神社)
 以下、長守が開いた藩校成器堂の遺構を紹介する。最初は神明神社に移築された成器堂講堂である。


神明神社


旧成器堂講堂

 成器堂は、天保十二年(1841)、勝山城外追手筋に建てられた藩校で、もとは読書堂といわれ、藩医秦魯斎の熱意と魯斎の進言を取り入れた家老林毛川の努力により実現した者である。
この建物は、明治四十四年(1911)、現在地に移築された講堂である。瓦には勝山藩主小笠原家の家紋「三階菱」があり、外観はほぼ当時のままである。

(成器堂門と土蔵)
 この門と土蔵は、成器堂の遺構である。明治に入ると成器堂の建物と建学精神は成器小学校に引き継がれたが、古くなった藩校の建物は、新学舎建設に際し解体された。その際、今井家が門と土蔵を買い取り、この地に移した。


成器堂門と土蔵

(成器堂演武寮)
 この建物は藩校成器堂演武寮である。明治十二年(1879)、大火により布市の道場が焼失した時、この建物を買い取り移築したものである。藩校の建物が、これだけ現存している例は、全国的に見ても珍しいだろう。


成器堂演武寮
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大野 Ⅵ

2017年06月17日 | 福井県
(託縁寺)


憲寛院九鱗居士
(廣田憲寛の墓)

 前回見逃してしまった託縁寺の廣田憲寛の墓を掃苔。ついでに観光協会を訪ねて、二年前にお世話になった観光ボランティアの皆さんにご挨拶だけでもと思ったが、例によって観光協会がオープンする遥かに早い時間だったため、当然ながら扉は閉じられたままで、人影もなかった。

(宝慶寺)
 元治元年(1864)十二月七日、本木村を出発し、宝慶寺峠へ向かった。天気は晴れであったが、五尺ほどの積雪があった。宝慶寺峠は標高約六百四十メートル。峠下の宝慶寺の名に由来するものである。


宝慶寺


橋本家住宅

 宝慶寺の門前村の庄屋橋本家の住宅が、宝慶寺の前に移築保存されている。国の重要文化財に指定されているが、茅葺の屋根が半分崩れ落ちており、修復の手が急がれる。この建物は江戸時代中期十八世紀前半頃の建築とされる。
 天狗党は、宝慶寺とその近在に分宿し、そろって碑田川の谷に沿って池田宿へ進んだ。

(杉本家)


杉本家

 天狗党の先触れは、木本の杉本弥三右衛門家に行き「今晩御宿下されたく、何の御構えも要りませんから、只風呂さえあればよろしく、是非お願いしたい」と申し入れをし、了解を得た。元治元年(1864)十二月六日夜、浪士隊は本木村に到着し、大庄屋杉本家を本陣とし、約五十戸あったという全戸に分宿した。厳寒の雪の中、野営を重ねて来た浪士一行は、ここで入浴できたことで大いに生気を取り戻したことであろう。
 この時、大野藩は町年寄の布川(ぬのかわ)源兵衛を使者とし杉本家に派遣した。「大野城下に入らず、宝慶寺峠を越えて、池田から今庄を抜ける道が最短距離なので、この道を通って欲しい」と繰り返し説得した。浪士隊は布川の誠意に納得し、宝慶寺峠越えを選んだ。

 本木の集落で元庄屋の杉本家を探していると、一人の老人がと出会った。「庄屋の杉本家を探している」と事情を話すと、「それはうちだよ」と教えてくれた。庄屋の家らしく、周囲を堀で囲った重厚な住宅である。


(殉難碑)


大野一揆殉難碑

 本木の集落から大野市街に向かう途中に蝋燭の炎を象った殉難碑がある。これは明治六年(1873)、三月に起こった大野一揆(みのむし騒動)で処刑された農民の殉難の碑である。
 明治初年の神仏分離、廃仏運動に反発した、仏教信仰が盛んな大野の民衆は不安にさらされた。これを見た友兼村専福寺の金森顕順は、上据(かみしらがみ)村最勝寺の柵専乗と相談して、地元豪農竹尾五右衛門らと語らい、門徒を集めて連判状に血判をさせた。このことが役人に探知され、顕順と五右衛門が捕えられた。これを知った三千余の農民は、「南無阿弥陀仏」のむしろ旗を揚げて、本町の敦賀県庁出張所に押し寄せた。役人や大商人への日頃の不平不満が爆発して、三日間に及ぶ大暴動となった。最終的に、政府の策略により、実効性のない空手形同然の書付を渡され、騒動は終息した。政府は直ちに兵力をもって暴動を主導した農民を捕え、牢屋に押し込めて厳しい吟味を行った。金森顕順、柵専乗、竹尾五右衛門、高橋太右衛門、末吉町桶屋治助の斬刑、穴田與八郎は絞罪となり、同年四月四日に刑が執行された。ほかに農民十八名が懲役十年から一年の刑を申し渡された。この石碑は、明治十四年(1881)に建立されたもので、「南無阿弥陀仏」と記されたその両脇に、顕順、専乗、竹尾五右衛門らの法名が刻まれている。




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大野 Ⅴ

2017年06月17日 | 福井県
(大野城)



大野城

 前回の大野訪問から二年が経過した。三度目の大野である。これまで麓から見上げただけだった大野城にもチャレンジした。柳廼神社脇から登山道をゆっくり歩いて二十分程度で亀山山頂(標高二四九メートル)に行き着く。


土井利忠像

 山頂近くに大野土井家七代目藩主土井利忠の銅像が立っている。利忠は在位四十四年(文政元年(1818)~文久二年(1862))。藩政改革に取り組み、財政再建を成し遂げたほか、藩校明倫館や洋学館の開設、西洋医学・砲術の採用、藩店大野屋の展開、蝦夷地探検と開拓、藩船大野丸の建造など、次々と事業に着手した。全国的な知名度は低いが、幕末を代表する名君の一人である。


大野城からの眺望
シバザクラ祭り

 山頂からは大野市街を一望することがきる。反対側は、対照的に建物のない、田園風景である。ちょうど「シバザクラまつり」の真っ最中で、水田の畦道は鮮やかなピンク色で覆われていた。思わず声を挙げたくなるほどの美しさであった。

 登山道途中には大野丸の碑がある。大野丸は安政年間に大野藩が建造した洋式帆船で、蝦夷地開拓と交易のため蝦夷地との間を幾度も往復した。しかし、元治元年(1864)八月、根室沖で座礁沈没。その直前に蝦夷地開拓を主導した内山隆佐も世を去っており、これ以降、大野藩の蝦夷地開拓の試みは頓挫した。


大野丸の碑

(柳廼神社)
 柳廼(やなぎのやしろ)神社は、明治十五年(1882)の創建。土井利忠を祀る。境内に利忠を支えた三人の家老の顕彰碑が建立されている。


柳廼神社


内山良休翁の碑

 内山良休は土井利忠を支えた家老の一人。経済に明るく、地場産業奨励に尽力し、藩店大野屋を大阪等に三十店余開き、直接販売を通して利益を上げ、藩財政の立て直しを図った。維新後は、良休社を設立して士族の生活を支えた。私財を投じて大野‐福井間の道路の改修を実現。


貫斎先生(内山隆佐)の碑

 内山隆佐は蝦夷地開拓、大野丸建造に尽力した。


中村矩倫翁の碑

 中村矩倫も土井利忠を支えた家老の一人。天保十三年(1842)の藩政改革の際には、政務の一切を委任され、士風刷新に尽力し、藩の規律が矯正された。

(結ステーション多目的広場駐車場)
 広瀬病院の目の前、結ステーション多目的広場駐車場が大野藩の開いた洋学館跡である。この場所には大野藩の招いた高名な洋学者伊藤慎蔵の顕彰碑、伊藤の名を慕って藩内外から集まった人々の名前を記録した石碑、それに洋学館跡を示す石碑、以上三つの石碑が並べ建てられている。


伊藤慎蔵先生顕彰碑

 伊藤慎蔵は、文政八年(1825)、長州萩に医師の子に生まれた。嘉永二年(1849)、緒方洪庵の適塾に入り、のちに塾頭を務めた。この頃、慎蔵と名乗った。安政三年(1856)、土井利忠の招きで大野藩洋学館教授として来藩。教育とともに我が国初の気象学翻訳書「颱風新話」など蘭学書訳出など多数を残した。文久元年(1861)、大野藩を辞去し、大阪ついで名塩(現・兵庫県西宮市)で蘭学塾を開いた。明治二年(1870)、大阪開成所にて数学教授、明治四年(1872)には文部大助教を拝命。明治六年(1874)辞職。明治十三年(1880)、東京で病没。年五十五歳。


幕末の大野藩に遊学した人々

 この碑には、安政二年(1855)、伊藤慎蔵が着任して以降、大野藩に遊学した人々の名前が刻まれている。有名なところでは、美濃赤坂の所郁太郎や緒方洪庵の二男三男、緒方平三、緒方四郎らの名前が見える。出身地でいえば、大野藩周辺の福井、丸岡、鯖江、府中、勝山、大聖寺に留まらず、遠く肥前や豊前中津、讃岐高松からの留学生もいた。


大野藩洋学館跡の碑

 土井利忠は、安政三年(1856)、この地に蘭学所を開設し、伊藤慎蔵に蘭学指導を委嘱した。藩士の西川貫蔵、山崎譲らが伊藤を補助した。蘭学所は、のちに洋学館と改称し、原書や辞書も充実していた。大野藩の蘭学は、その砲術訓練や蝦夷地開拓と合わせて全国に知られ、当城下に留学した者は、二十余藩から数十名に及んだ。

(武家屋敷旧内山家)
 洋学館跡から歩いて数分、有終西小学校の向い側に内山家の屋敷が、ほぼ当時のまま復元展示されている。


武家屋敷旧内山家
母屋


内山良休肖像

 内山家は、衣裳蔵、米蔵、味噌蔵を備え、母屋と離れが渡り廊下で繋がれた広壮な住宅である。内山良休と隆佐兄弟を偲ぶために、平成五年(1993)に解体復元したものである。母屋は明治十五年(1882)頃に建築されたもので、現在は瓦葺きであるが、元は板葺きだったことが復元の段階で判明したそうである。また離れは、大正期に建設された数寄屋風書院である。

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