(洞雲寺)
一年半振りの越前大野訪問となった。前回訪問時は真冬で、墓地には雪が残っていたため、満足の行く探索ができなかった。今回の大野訪問についても時間的には余裕はないことは予めはっきりしていたので、大野市観光協会に事前にボランティア・ガイドを依頼し、当方が訪ねたい寺院や墓を照会した。
大野市観光協会によれば、墓目当てに大野を訪れる人は多くなく、少なくともそういった問い合わせを受けたのは初めてのことだそうだ。大変真摯に事前調査をしていただき、当日には資料のコピーもどっさり頂戴してしまった。ガイド料は千円であったが、とてもそのガイド料でカバーしきれないほどの手間をおかけしてしまった。
前日の宿泊は石川県の小松であった。小松を早朝六時前に出る特急に乗り、福井駅で一旦下車して荷物をコインロッカーに放り込み、越美北線に乗り換える。約束とおり、七時半に越前大野に降り立つと、駅にはガイドのOさんとHさんのお二人が待っていた。さらに最初の目的地である洞雲寺ではMさんが合流し、三人の方のご案内で大野市内を歩くことになった。
これまで史跡訪問は、たまに父親が付き合ってくれることがあっても、基本的には単独行動で、黙々と目当ての墓を探す作業の繰り返しであったが、こうしてガイドの方の話を聞きながら寺を巡るのも、大変楽しいひと時であった。Oさんは、昭和七年(1932)のお生まれというから、八十三歳というご高齢の婦人であるが、大野の歴史についての造詣の深さは並大抵ではない。耳が遠いらしく、こちらの質問に答えていただけないのは少々残念であったが、(時に脱線しつつ)色々なお話しを聞かせていただくことができた。
洞雲寺
内山良休墓
洞雲寺は、内山良休(よしやす)、隆佐(たかすけ)兄弟の菩提寺である。
山門を入るとすぐ左手に良休の墓がある。
内山良休は、文化四年(1807)に生まれた。父は家老内山良倫。幼より学を好み、朝川善庵に経学を学び、将来の発展の素地をつくった。大野藩は四万石の山間僻地で実収はその七割に過ぎなかった。良休は藩主土井利忠の信任を得て、多額の債務返済に尽力し、藩士の批難の商法を布行して貨殖の策を講じた。安政二年(1855)、大阪に大野屋を開いて領内に産物を売りさばき、その他北海道の海産物も商い、名古屋、岐阜、福井、三国、敦賀、今庄にも大野屋を開き、藩庫を富裕に導いた。あるいは領民に桑・漆を植えさせ、製茶・製紙を勧め、また病院を起こして種痘を普及させるなど、救荒の策にも力を用いた。維新後は士族授産の法を講じ、また交通の利便を図るなど、経営の功績が大きかった。明治十四年(1881)七十五歳で没。

内山良隆(隆佐)墓
内山隆佐は良休の弟。文化九年(1812)に生まれた。若くして医を大阪に修め、さらに藩命により江戸に出て朝川善庵に経学を学び、また佐久間象山に就いて兵学を究め、帰藩して藩士の育英にあたった。安政二年(1855)二月、幕府が東西蝦夷地を収公するや、かねて「颶風新論」を読んで航海術の必要を唱えていた隆佐は、北辺開拓の藩論を起こして藩主土井利忠を動かし、翌三年(1856)総勢三十余名で蝦夷地に向かった。その後、大野丸を建造し、同六年(1859)、開拓総督として開拓司令早川弥五左衛門、藩士十余名、領民二十七名とともに敦賀を出帆。隆佐は箱館に留まり、早川は樺太の鵜城に至るなど、造船および北辺開拓に力を尽くした。文久三年(1863)執政に任じられ、軍務総督を兼ねたが、翌元治元年(1864)、年五十三にて死去。前後して大野丸も根室沖で座礁沈没し、大野藩の蝦夷地開拓は頓挫してしまった。
元治元年(1864)十二月四日、蠅帽子峠を越えて大野藩領に入った武田耕雲斎は、大野藩兵により灰燼に帰した民屋を見て
「内山隆佐は不在ならん。若し隆佐在りさば、かかる幼稚なる仕業はなさざらん。大野藩の取るに足らざる、この一挙にて思い知られる。ただ憐れむべきは沿道の民よ」
と慨嘆したと伝えられる。不幸にして維新を迎える前に世を去ってしまったが、大野藩での存在感は兄良休よりも大きかったのではないか。
吉田家縁者の墓
洞雲寺には箱館戦争で戦死した吉田留五郎と鷹見政雄の墓があるはずであったが、ガイドの方によれば、吉田留五郎のものと思われるものは現存しておらず、その縁者と思しき墓が残っているのみだという。右の写真の墓は、寛文九年(1669)という没年が刻まれており、明らかに吉田留五郎のものではない。
吉田留五郎は、明治二年(1869)二月九日、矢不来の戦いで銃創を負い、深手三名とともに青森大病院養生局(米屋清六方)へ転療したが、他の兵士が回復したのに独り客死した。行年十九歳。
鷹見家
鷹見家墓誌には明治二年(1869)九月二十九日に死亡した「鉄心院忠山義勇居士」という法名が刻まれている。これが矢不来の戦いで腹部貫通銃創により即死した鷹見政雄である。鷹見家の墓に合葬されているものと推定される。
(託縁寺)
洞雲寺、最勝寺を見た後、観光協会に車を置いて、寺町の寺院を回る。観光協会に近い託縁寺に廣田憲寛の墓があると門前に説明があった。観光協会に戻った際に確認しようと思ったが、そのまま失念してしまった。これは次回訪問時の宿題。
廣田憲寛は、大野藩で禄百石の家に生まれ、佐久間象山に蘭学と砲術を学ぶ。安政四年(1857)、和蘭辞書「増補改正訳鍵」五巻を翻訳出版。豊富な語彙により蘭学者から賞賛を受ける。元治元年(1864)、水戸天狗党の全貌を「武田耕雲斎一件」として纏めた。
(願了寺)
寺町の一番北に所在しているのが願了寺である。当初、今回の大野訪問では訪問先に入れていなかったが、ガイドのOさんの勧めで立ち寄ることになった。ここには先覚者西川兄弟の墓がある。

願了寺
西川兄弟の墓
西川倍太郎(ますたろう)、貫蔵、寸四郎兄弟の墓である。門前の石柱には三兄弟とあるが、実際には七人兄弟だったらしく、うち四人の名前が墓石に刻まれている。父は西川甚内。
長兄倍太郎は、咸臨丸の測量方乗組員となって文久二年(1862)小笠原父島に渡ったが、現地で望郷の念が募りノイローゼの果てに病没。三十一歳。父島には墓があるらしい。
貫蔵は、安政二年(1855)、選ばれて大阪適塾に入門。のち大野藩洋学館助教となった。「三兵用訣精論」を英訳上木している。
弟寸四郎は、幕府が築地に海軍操練所を開くと、吉田拙蔵とともに入学した。咸臨丸の測量方として小笠原へ渡っている。
(願成寺)
願成寺
願成寺には箱館戦争の戦死者(廣木治左衛門と和田實之輔)を葬った墓があるというが、やはり雪のため一歩も進入できず。説明によれば、大野藩では箱館におよそ二百名を出兵し、うち十一人が戦死している。ほかの九名についても墓が残っているらしいので、是非再チャレンジしたい。
忠膽一勇居士(廣木治左衛門の墓)
忠良皈勇信士(和田實之輔の墓)
ガイドさんのご案内で、願成寺の廣木治左衛門と和田實之輔の墓を訪ねた。
廣木治左衛門は、明治二年(1869)四月二十九日、矢不来にて戦死。行年二十五。
和田實之輔も五月一日、矢不来にて腹部に重傷を受け、翌月戦地の病院で没した。二十五歳であった。
(善導寺)

土井家墓所
土井利忠は、文化八年(1811)の生まれ。父は土井利幸であるが、この人は井伊直幸(なおひで=井伊直弼の祖父)の九男土井利義の長男に当たり、即ち井伊直弼とはいとこという関係になる。墓石に刻まれた「柳涯」は雅号である。
文政元年(1818)。襲封。文政十二年(1829)藩地大野に入部し、以来藩の財政困難に際し、その建て直しに努力した。朝川善庵、杉田成卿、小関三英らを招いて、救世済民・西洋の学問を学んで大いに啓発された。内山良休、石川勘右衛門、早川弥五左衛門、吉田拙蔵らの良臣を得て蘭学館を建て、伊藤慎蔵(緒方洪庵の高弟)を招いて蘭学を盛んにし、西洋医・砲術・製砲を興し、大野丸を建造して蝦夷地の開発、樺太の開拓を始めた。その他、面谷鉱山、種痘奨励、病院の新建等を行って治績大いに挙がった。文久二年(1862)十一月、致仕。領民はその徳を慕って柳廼社を建てて祀った。明治元年(1868)、年五十八で没。
土井利忠という人は、中央政界ではまったく無名の存在であるが、大野という僻地で蘭学の花を咲かせた治績は、名君と称するに値する。もっと評価されてよい人物であろう。
柳涯墓(土井利忠墓)

文良院殿正四位子爵忍譽徳賢利恒居士
土井利恒は、利忠の三男。利忠の跡を継いで越前大野藩八代藩主となった。維新後は版籍奉還で知藩事。明治十七年(1884)、子爵に叙された。明治二十六年(1893)没。
さらにその横に利恒の長男、利剛の墓もある。
子爵土井利剛墓
忠鑑義詳居士(金子庫治郎の墓)
金子庫治郎の墓である。ガイドさんの事前調査によると善導寺には金子家の墓は一つしかないそうである。現在の金子家の当主に確認していただいたところ、先祖に「金子庫治郎という人はいない」という回答であったという。念のため金子家の墓を見に行ったところ、古い墓石に金子庫次郎の名前を発見することができた。あとでガイドの広作さんが、金子家の方にこの「発見」を報告されていた。

高橋常太郎墓
善導寺の本堂側の墓地に高橋常太郎墓と刻んだ墓がある。西南戦争戦死者のものか。