史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「『幕末』に殺された女たち」 菊池明著 ちくま文庫

2015年06月26日 | 書評
「幕末」に殺された二十二人の女性を紹介した本である。タイトルにあるとおり、基本的にこの本で紹介されている女性は、「殺された」のであり、自らの意思によって死地に身を投じたのではない。たまたま相手が清河八郎や関鉄之助や相楽総三のような憂国の士であったという、それだけで命を奪われることになった。それだけに彼女たちの最期は、いずれも憐れであり、悲惨である。
幕末史において、女性が顔を出す場面は極めて限られている。さらに彼女たちの墓もほとんど残されていない。気が付けば、私も、本書で紹介されている、北は川内美岐から中野竹子や斎藤きち(唐人おきち)や村山可寿江に至るまで、各地の女性の墓を訪ねて来た。残っているのは九州である。何とか効率よく九州の史跡を回る手立てを考えたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「『征韓論政変』の真相」 川道麟太郎著 勉誠出版

2015年06月26日 | 書評
「西郷『征韓論』の真相」の続編である。前著に劣らず、刺激的で挑戦的かつ挑発的な本である。それにしても、前著が刊行されて相当時間も経っているが、前著において名指しで批判された歴史家・学者は、何らかの反論を発表されているのだろうか。私が知らないだけで、どこかで堂々たる反論をされているのかもしれない。そうであれば是非読んでみたいが、もし沈黙を守っているとすれば、それは脱帽・降参を意味しているのではないか。
本書でも、これまで歴史家によって語られてきた「史実」の虚偽虚構を遠慮なく断罪する。その手際は鋭利かつ論理的で、爽快ですらある。
明治六年の政変(所謂征韓論政変)において、反西郷派が逆転の秘策として断行したのが「一の秘策」といわれるものである。しかし、仰々しく「秘策」といわれるたびに、私は何となく違和感を抱いていた。つまり太政大臣である三条実美が重病に倒れた時点で、その職務を代行するのは右大臣岩倉具視をおいてほかに存在しない。わざわざ明治天皇まで引っ張り出して、攝行を命じる必要があったのかという疑問である。
その素直な疑問に初めて腑に落ちる答えを出したのは、本書を置いてほかにない。筆者がいうには、太政官職制章程には左右大臣について「職掌太政大臣に亜ぐ。太政大臣欠席の時はその事務を代理するを得る」と定めてられており、三条が執務不能に陥れば、岩倉がその職務を代行するのは、自然なことであった。にもかかわらず、敢えて令により攝行を命じたのは、三条不在の間、三条に代わって太政大臣の職務に就いて天皇輔弼の最高責任者になるという意味である。だからこそ、敢えて明治天皇が岩倉邸まで行幸し、直々に命じているというのである。
十月二十二日、西郷隆盛および西郷支持派の参議が岩倉邸に押し掛けた際、その中で最も弁の立つ江藤新平が「攝任者の務めは、原任者の意を遵行するにある」と問い詰めたのに対し、岩倉は「自分は三条に代わって職事を理めるのではない。(天皇の)旨を奉じて太政大臣の事を攝行するのである。自分の意見を併せて具奏するのに何の不都合があるか。」と応じ、これを聞いた江藤が反論することなく引き下がったのも、実はこれこそが反西郷派の想定問答の一つであり、「待ってました」という問いであった。これを言い放つための「一の秘策」だったのである。
明治六年の政変において、もう一つ私が疑問に思っているのが、本当に政変の鍵となったのが、三条実美の突然の重疾だったのだろうかという点である。岩倉が自らの意見を付して奏上したように、三条も同じようにできなかったのだろうか。宮中工作をしてまで岩倉を太政大臣攝行に任命した反西郷派にしてみれば、三条に働きかければそれくらいのことは簡単にできそうな気がするのだが。結局、閣議で西郷に押し切られてしまった三条にそのような芸当を求めるのは無理ということなのだろうか。とすれば、三条が人事不省の重病に陥ったのは、反西郷派にとってみれば、僥倖以外の何物でもなかった。
本書では繰り返し、史料の信頼性を説き、歴史家の調査・検証の不十分さを厳しく批判する。信頼性の検討や内容の吟味をすることなく、史料を使っても、正確な歴史を語れるはずはない。史料にもとづいて虚偽や虚構の歴史が語られているとする指摘は重い。
ともすれば史料にこだわる余り、結局何も見えてこないこともあるが、著者は一方で大胆かつ論理的な推論により、斬新でありながら納得性の高い主張を展開してみせる。歴史の醍醐味を改めて堪能できる一冊である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「江戸東京幕末維新グルメ」 三澤敏博 竹書房

2015年06月26日 | 書評
私は比較的「食」には興味が薄い方で、テレビでグルメ番組が流れていたら、直ぐにチャンネルを変える性質(たち)である。人間喰わなきゃ生きていけないわけで、「食」に興味を持つ人が多いのは理解するが、どうしてテレビというのはあっちもこっちも似たようなグルメ番組ばかりなのだろう。
先日、長崎・佐賀を旅したときも、食べている時間が惜しい。土地の美味いものには一切見向きもせず、朝夕はコンビニのサンドイッチかおにぎりで済まし、ほとんど昼食はパスした。ロンドン出張中も、ほとんど食事には時間を費やさなかった。基本的には、メシを喰っている時間が惜しいのである。
さて、本書の著者三澤敏博氏は、「東京「幕末」読み歩き」を読めばわかるように、幕末史跡に関する知識、造詣の深さは並大抵ではない。本書も三澤氏の薀蓄が炸裂する読み応えのある一冊となっている。
本書では幕末・維新(どちらかというと、維新後の方が多い)に所縁の深い東京の老舗など、約五十を紹介している。
考えてみれば、幕末・維新に生きた人たちも人間である。人間である限り、当たり前のことながら三度のメシも喰うし、好き嫌いもあっただろう。人の数だけ、所縁の老舗や料亭があっても不思議はない。
私もここいらで旅のスタイルを改めて、「食」を通じてあの時代のことに思いを馳せるような大人に変化しなければいけないな、と本書を読んで反省しました。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小浜 Ⅱ

2015年06月20日 | 福井県
(若狭高校)
 福井県立若狭高校は、実はタイガースOBの川藤幸三の出身校である。

 
若狭高校


旧順造館正門

 若狭高校には藩校順造館の正門が移築されている。小浜藩校順造館は、市内一番町にあったが、昭和五十五年(1980)に若狭高校に移築された。


伴信友先生誕生地

この地は、国学者伴信友の生誕地でもある。正門を入って右手に伴信友誕生地碑がある。
伴信友は、安永二年(1773)、この地にあった山岸家に生まれた。十四歳のとき伴家に養子として入り、十五歳で江戸に上って酒井家に仕えた。四十九歳のとき致仕して国学に専念した。我が国の古典、歴史など広く国学を研究し、学に篤きこと無比と言われた。「若狭旧事考」「比古婆衣」「仮名本末」「神社私考」など百部五百巻を越える著作を残した。国名若狭は「稚櫻」に由来するとした。弘化三年(1847)京都で没した。七十四歳。

(松源寺)


松源寺


梅田雲浜像

 松源寺に梅田雲浜の墓がある。梅田雲浜の墓は、東京浅草の海禅寺にあるが、郷土の有志が相はかって昭和四十五年(1970)、分骨して両親の菩提寺である松源寺に新しい墓碑を建立した。


梅田雲濱先生之墓


矢部義比墓

 松源寺墓地には、梅田雲浜の実父で小浜藩士、矢部岩十郎義比の墓もある。梅田という姓は雲浜の祖父の本姓に復したものである。
 同じ墓地には矢部家の墓が集められている。恐らく雲浜の血縁者のものであろう。


矢部家の墓

(小浜城趾)


小浜城趾

 小浜城(別名雲浜城)は、慶長六年(1601)、京極高次が着工し、その子忠高に至る三十三年間に城郭の大半が造られた。寛永十一年(1634)、酒井忠勝が藩主となり、三層の天守閣を築いた。以後、明治維新に至るまで酒井氏十五代二百六十年の居城であった。明治四年(1871)、大阪鎮台第一分営を設置するための工事中の失火により城郭の大部分を焼失した。


小浜神社

 現在、本丸跡に小浜神社がある。この神社は、明治八年(1875)、旧藩臣が相はかって、藩祖酒井忠勝を祀って建立したものである。

(雲浜小学校)
 雲浜小学校の正面に梅田雲浜の石像が置かれている。この像は、郷土の生んだ彫刻家松木庄吉の手によるものである。松木庄吉は昭和十八年(1943)ニューギニアで戦死。三十一歳であった。この石像は松木庄吉三十歳の作品である。


梅田雲濱先生像

 梅田雲浜は、文化十二年(1815)、小浜藩士矢部岩十郎義比の次男に生まれた。通称は源二郎。藩校順造館で学んだ後、海防策に関する意見書を藩主に提出したが、その中で幕府を批判したため藩主の怒りを買い、浪人となった。苦しい生活を送りながら志士の指導者となる傍ら、長州と物産交易を行った。安政の大獄で捕えられ、翌安政六年(1859)獄中で死亡した。

(空印寺)


空印寺

 空印寺は、小浜藩士酒井氏の菩提寺である。本堂の裏に酒井家の墓所がある。


酒井家墓所


桓盛院殿賢質英量大居士(酒井忠氏の墓)

 酒井忠氏は、第十三代小浜藩主。前藩主酒井忠義が安政の大獄に加担したことを責められて隠居処分を受けたため、文久二年(1862)急遽家督を継ぐことになった。元治元年(1864)二月、帝鑑間席より奏者番に進み、寺社奉行を兼任した。慶応三年(1867)末、江戸を発して、上京の途次大阪にあるとき、藩兵は鳥羽伏見の戦いに与って敗れた。そのため京都朝廷に対して謝罪。自ら若狭に帰る途中、山陰道鎮撫総督西園寺公望の陣門に降った。朝廷は忠氏を謹慎とし、再び忠義(そのとき忠禄と称す)を藩主とした。明治九年(1876)、四十二歳で没。
 ここで幕末の藩主酒井忠義の墓を探したが、結局見つけられなかった。酒井家の墓に合葬されているのかもしれない。

 空印寺から遠敷小学校に向かう途中、青木という集落に迷いこんでしまった。警察が出動し、マスコミが一つの民家を取り囲み、いかにも物々しい雰囲気であった。どうやら総理官邸にドローンを飛ばしたという男の住居らしい。今年は敦賀気比高校が春の選抜で全国制覇したことといい、何かと福井県が話題になる年である。

(遠敷小学校)
 JR東小浜駅近くの遠敷(おにゅう)小学校前に、やはり梅田雲浜の像がある。その横には、有名な雲浜の漢詩「決別」を刻んだ小さな石碑もある。


梅田雲浜像


梅田雲浜歌碑

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敦賀 Ⅱ

2015年06月20日 | 福井県
(本妙寺)


本妙寺

 本妙寺も水戸浪士が収容されている。武田魁介以下二百五名が本妙寺に護送されている。三寺に監禁された浪士たちを金沢藩、小浜藩が厳重に警戒したが、脱走する者は一人もいなかった。
元治二年(1865)一月二十九日、浪士たちは幕府城代田沼意尊、大目付黒川近江守、目付滝沢喜太郎に引き渡されることになった。

(永巌寺)


永厳寺

 金ヶ崎地区の永巌寺(ようごんじ)は、天狗党のうち幼年者十一名が仏弟子として引き取られた寺である。


(祐光寺)
 葉原に陣屋を置いていた加賀藩は、水戸浪士が降伏して敦賀市内の寺院に収容されると、祐光寺に本陣を移した。


祐光寺跡

 祐光寺があったと思しき場所には三階建てのビルが建っている。寺はどこかに移転してしまったのだろうか。

(永覚寺)
 若年寄田沼玄蕃頭らは手勢百五十名、部手組五十名、計二百名が二月一日に敦賀に到着。永建寺を本陣と定めた。即日、浪士に対する訊問が開始されたが、その会場となったのが永覚寺境内に設けられた仮決断所であった。幹部以外の取調は至極簡単で、各所の合戦に参加したと白状した者は死罪、参加しないと答えた者は流罪か追放に処された。


永覚寺

(永建寺)


永建寺

 元治二年(1865)二月一日、幕府軍の田沼玄蕃頭意尊ら二百人が本陣永建寺に入ると、直ちに浪士らに対する取り調べが開始された。僅か五日間で全員の調査を完了している。

(来迎寺)
 元治二年(1865)二月四日から、水戸浪士の処刑が始まった。来迎寺の境内に三間四方の穴を五カ所掘り、徒目付斎藤大之進、関東取締渋谷鷲郎が出張して、斬罪の申し渡しをし、首切りの太刀役には福井藩、小浜藩、彦根藩が申し付けられた。福井藩は松平春嶽の意向を受けて、浪士の賊徒扱いに抗議して太刀役を断り、大半が帰国した。


来迎寺 敦賀城中門

 水戸浪士の処刑は次のとおり執行された。

 二月四日 二十四名 武田耕雲斎以下幹部
 二月十五日 百三十九名 堤清八ら
 二月十六日 九十九名 玉造清之進ら
 二月十九日 七十五名 島山七蔵ら
 二月二十三日 十六名 藤田小四郎ら
 以上、三百五十三名。


来迎寺

 来迎寺は、百五十年前に凄惨な処刑が行われたとは想像し難いほど静謐であった。ただ鳥のさえずりが聞こえるだけであった。

(葉原)


明治天皇葉原御小休所

 元治元年(1864)十二月八日まで近江海津願慶寺に滞陣していた金沢藩は、早朝に出発し、九日午後五時頃、敦賀に到着した。その日は本妙寺を仮陣とし、その他は舞崎に宿泊した。浪士が今庄に達したという知らせを受け、葉原で決戦すべく同月十日、葉原に達した。
 葉原宿本陣は沢崎家である。そこに軍監永原甚七郎以下、金沢藩兵が陣を置いた。そこに華厳寺の僧栄林が武田耕雲斎の書状を持参して現れた。以後、浪士側から嘆願書や始末書が提出されたが、幕府側には無視同然に扱われ、一戦に及ぶのか、ここで降伏するのか二つの選択肢を前に、最期の決断を迫られることになった。
 耕雲斎は、十二月十二日、藤田小四郎ほか二名を葉原の金沢藩陣営に遣わし、再度一橋慶喜への取り成しを懇願した。永原も懸命にその想いを取り継いだが、幕府の反応は冷淡で、むしろ金沢藩は浪士勢に臆しているのではないかと難詰するばかりであった。最終的に浪士勢が全面降伏したのは二十日のことであった。


葉原区公会堂 葉原ふれあい会館

 現在、葉原宿本陣沢崎家跡は、葉原区公会堂とふれあい会館が建てられ、その前に明治天皇葉原御小休所跡という石碑が置かれている。

(新保)


新保本陣跡

 この場所は、葉原保から分れて保を形成したことから、新保と呼ばれるようになった。古くから今庄に通じる宿駅として栄え、江戸時代最初は福井藩領、続いて小浜藩領、さらに旗本酒井氏の知行となった。水戸浪士本隊が新保に入ったのは、元治元年(1864)十二月十一日のことであった。筑波山挙兵から十か月が経過し、衣類も着たままでボロボロであった。武田耕雲斎らは本陣塚田家に入り、幹部を集めて今後の対策を練った。


意力寺

 片敷きて寝(いぬ)る鎧の袖の上(へ)に 思ひそつもる越の白雪
耕雲斎

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大野 Ⅳ

2015年06月13日 | 福井県
(岫慶寺)


岫慶寺


心樹院矩方圓成居士(中村雅之進の墓)

 中村雅之進は、天保九年(1838)、武田家の生まれ。宗家中村短誠の遺言により中村家六百石を継いだ。文久二年(1862)参政に就任。明治元年(1868)四月、国老。同年九月、隊長として箱館戦争に出征し、翌年六月、凱旋した。明治三十三年(1900)、六十三歳で没。酒を愛し、常に瓢を手元より離さなかったと伝えられる。

(徳巌寺)
 ガイドのOさんの調査によれば、寺田竹次郎の墓は近年(六~七年前か)縁者の手により他に移されたという。
 寺田竹次郎は、慶応三年(1867)正月十五日、格式御供小姓格に召し出され、料理の間詰めとなった翌年に従軍。四月二十九日、矢不来の戦いで頭部貫通銃創を受け、翌月一日、茂辺地の病院で長逝した。二十一歳。墓石には「秀弘院忠肝的勇居士」と刻まれていたそうである。

(最勝寺)


河合家の墓

 最勝寺には河合家の墓はこれしかないそうで、河合富蔵もここに合葬されているのではないかと推定。河合富蔵は従軍時に日記を残している。


安親院楽了一閑居士(村井競の墓)

 村井外記。諱は安親、隠居後は一閑斎と称した。明治元年(1868)第四隊長として出征。明治七年(1874)有終小学校で訓導を拝命した。明治三十三年(1900)死去。


土田家遺骨

 大野藩医土田龍湾の墓を探して、ボランティア・ガイドのOさんはわざわざ寺に問い合わせていただいたが、寺からは「何の権限で…」という厳しい拒絶にあったそうである。最勝寺門前には市が付した説明があり、そこに「土田龍湾の墓がある」と記載されているが、市に問い合わせても「分からない」との回答。墓地に土田家の墓は二つあるが、参考としてそのうちの一つの写真を掲載しておく。
 土田龍湾は、林雲渓とともに種痘の普及に尽くした人である。

(篠座神社)


篠座神社


招魂社

 篠座神社境内には、箱館戦争戦死者をまつる大野招魂社がある。入口には「戦死之碑」が建てられ、そこに箱館戦争にて戦死した岡良賢以下十一名の名前が刻まれている。


戦死之碑


吉田拙蔵紀念之碑

 篠座神社に吉田拙蔵の記念碑がある。吉田拙蔵は、文政九年(1826)、大野藩士の家に生まれ、十六歳の時、内山隆佐の門に入って、政治、経済を学んだ。十九歳で出仕して明倫館の助教補となり、藩主土井利忠に従って、江戸に出て、蘭学を杉田成卿、伊東玄朴に学び、安政二年(1855)帰藩して蘭学授業師となった。幕府の蝦夷地開拓計画を知り、大野藩は積極的にこれに応じ、内山隆佐、早川弥五左衛門とこれに従事し、大野丸の竣成とともに拙蔵はその船長となって、遠く樺太鵜城に達したが、その守備に耐えず、明治元年(1868)幕府に上地した。のち大野藩少参事として藩政改革に従事。明治四年(1871)の廃藩後は、学区取締、あるいは郡吏として庶民教育に尽力した。明治二十年(1887)、年六十二で没。

 Hさんは篠座神社の近くに住んでおられるそうで、何度もこの神社を訪れているが、ここに吉田拙蔵記念碑があることは今回初めて知ったそうである。越美北線の発車時間が迫る中であったが、敢えてここまで足を伸ばした値打ちがあったというものである。
 この後、Hさんの運転で越前大野駅まで送っていただいた。短時間であったが、ガイドの皆様には本当にお世話になった。大野には、天狗党関係の史跡がある。次の機会には、天狗党の足跡を追ってみたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大野 Ⅲ

2015年06月13日 | 福井県
(長興寺)


長興寺

 長興寺には、大野藩医中村岱佐の墓がある。中村岱佐は、安政三年(1856)の大野藩の蝦夷地開拓団に加わり、船医として大野丸に乗船した。帰藩後も種痘普及に尽力した。文久元年(1861)没。


中村家之墓


竹田家

 ガイドのOさんによれば、無縁墓を集められたところにある竹田家の水盤は、竹田貞蔵の墓の前に置かれていたものだという。貞蔵の墓石も、あるいはここに山積されている無縁墓の中に埋もれているのかもしれない。ここで竹田貞蔵の名前を聞くとは思ってもいなかった。
 竹田貞蔵は、大野藩士竹田勝五郎の三男に生まれた。当時心理学者として名を成していた松崎百太郎が早世したため、その妹鉄子に婿養子に迎えられ、以後松崎貞蔵と名乗った。しかし、二人の仲はうまくいかず、貞蔵は藩が大野丸を建造すると、航海術の修業を願い出て大野丸船番を拝命することになった。大野丸は敦賀から北海道への航海を繰り返し、貞蔵も活躍した。大野丸が沈没すると一旦国に戻ったが、文久二年(1862)、大野を出奔して江戸に出た。やがて水戸藩家老武田耕雲斎に召抱えられ、耕雲斎と行動をともにすることになった。水戸浪士一行の中に大野藩出身の貞蔵がいることに、大野藩では激震が走った。貞蔵は剣の使い手であることは定評があっただけに、召し捕りには慎重が期された。大野藩では吉田拙蔵以下計十名を逮捕のために送った。追手の中にかつて大野丸では上司部下の関係であった吉田拙蔵らの姿を見た貞蔵は、黙って頭を下げ、刀を差しだしたといわれる。


(大宝寺)


大宝寺

 大宝寺には、蘭学者山崎譲の墓がある。山崎譲は、選ばれて大阪の適塾に入門し、帰藩後、大野藩蘭学館助教として藩の人材育成に努めた。元治元年(1864)没。


山崎家先祖代々之墓

(妙典寺)


妙典寺

 妙典寺には蘭学者松村九山、松村矩明の墓がある。松村九山の墓碑のみ、比較的出入り口に近い場所にあったため、撮影することができた。
 松村矩明は、藩主の命により松村九山の養子となって跡を継いだ。伊藤慎蔵に蘭学、大鳥圭介に英学、松本良順に洋医学を学んだ。土井利恒の侍医となり、そののちに大阪大学大教授となった。明治十年(1877)四月、三十六歳の若さで郷里にて病没。


春境院矩明日到居士(松村矩明の墓)


松村九山の墓

(蓮光寺)


蓮光寺

蓮光寺には箱館戦争の戦死者、岡鍛、山本太三郎の墓がある。


岡良賢墓

 岡鍛の墓である。墓石には良賢と刻まれる。天保四年(1833)小田部家に生まれ、のちに岡家の養子となった。明治二年(1869)、四月十三日、木古内峠の戦闘にて、敵弾が腹部を貫通。直ちに江差に葬られた。


忠旭義荘信士(山本太三郎の墓)

 山本太三郎は、藩の軽卒。第四小隊員として箱館戦争に従軍。明治二年(1869)、四月十三日、木古内峠にて討死とされるが、実際には行方不知。三十二歳。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大野 Ⅱ

2015年06月13日 | 福井県
(洞雲寺)
 一年半振りの越前大野訪問となった。前回訪問時は真冬で、墓地には雪が残っていたため、満足の行く探索ができなかった。今回の大野訪問についても時間的には余裕はないことは予めはっきりしていたので、大野市観光協会に事前にボランティア・ガイドを依頼し、当方が訪ねたい寺院や墓を照会した。
 大野市観光協会によれば、墓目当てに大野を訪れる人は多くなく、少なくともそういった問い合わせを受けたのは初めてのことだそうだ。大変真摯に事前調査をしていただき、当日には資料のコピーもどっさり頂戴してしまった。ガイド料は千円であったが、とてもそのガイド料でカバーしきれないほどの手間をおかけしてしまった。
 前日の宿泊は石川県の小松であった。小松を早朝六時前に出る特急に乗り、福井駅で一旦下車して荷物をコインロッカーに放り込み、越美北線に乗り換える。約束とおり、七時半に越前大野に降り立つと、駅にはガイドのOさんとHさんのお二人が待っていた。さらに最初の目的地である洞雲寺ではMさんが合流し、三人の方のご案内で大野市内を歩くことになった。
 これまで史跡訪問は、たまに父親が付き合ってくれることがあっても、基本的には単独行動で、黙々と目当ての墓を探す作業の繰り返しであったが、こうしてガイドの方の話を聞きながら寺を巡るのも、大変楽しいひと時であった。Oさんは、昭和七年(1932)のお生まれというから、八十三歳というご高齢の婦人であるが、大野の歴史についての造詣の深さは並大抵ではない。耳が遠いらしく、こちらの質問に答えていただけないのは少々残念であったが、(時に脱線しつつ)色々なお話しを聞かせていただくことができた。


洞雲寺


内山良休墓

 洞雲寺は、内山良休(よしやす)、隆佐(たかすけ)兄弟の菩提寺である。
 山門を入るとすぐ左手に良休の墓がある。
 内山良休は、文化四年(1807)に生まれた。父は家老内山良倫。幼より学を好み、朝川善庵に経学を学び、将来の発展の素地をつくった。大野藩は四万石の山間僻地で実収はその七割に過ぎなかった。良休は藩主土井利忠の信任を得て、多額の債務返済に尽力し、藩士の批難の商法を布行して貨殖の策を講じた。安政二年(1855)、大阪に大野屋を開いて領内に産物を売りさばき、その他北海道の海産物も商い、名古屋、岐阜、福井、三国、敦賀、今庄にも大野屋を開き、藩庫を富裕に導いた。あるいは領民に桑・漆を植えさせ、製茶・製紙を勧め、また病院を起こして種痘を普及させるなど、救荒の策にも力を用いた。維新後は士族授産の法を講じ、また交通の利便を図るなど、経営の功績が大きかった。明治十四年(1881)七十五歳で没。


内山良隆(隆佐)墓

 内山隆佐は良休の弟。文化九年(1812)に生まれた。若くして医を大阪に修め、さらに藩命により江戸に出て朝川善庵に経学を学び、また佐久間象山に就いて兵学を究め、帰藩して藩士の育英にあたった。安政二年(1855)二月、幕府が東西蝦夷地を収公するや、かねて「颶風新論」を読んで航海術の必要を唱えていた隆佐は、北辺開拓の藩論を起こして藩主土井利忠を動かし、翌三年(1856)総勢三十余名で蝦夷地に向かった。その後、大野丸を建造し、同六年(1859)、開拓総督として開拓司令早川弥五左衛門、藩士十余名、領民二十七名とともに敦賀を出帆。隆佐は箱館に留まり、早川は樺太の鵜城に至るなど、造船および北辺開拓に力を尽くした。文久三年(1863)執政に任じられ、軍務総督を兼ねたが、翌元治元年(1864)、年五十三にて死去。前後して大野丸も根室沖で座礁沈没し、大野藩の蝦夷地開拓は頓挫してしまった。
 元治元年(1864)十二月四日、蠅帽子峠を越えて大野藩領に入った武田耕雲斎は、大野藩兵により灰燼に帰した民屋を見て
「内山隆佐は不在ならん。若し隆佐在りさば、かかる幼稚なる仕業はなさざらん。大野藩の取るに足らざる、この一挙にて思い知られる。ただ憐れむべきは沿道の民よ」
と慨嘆したと伝えられる。不幸にして維新を迎える前に世を去ってしまったが、大野藩での存在感は兄良休よりも大きかったのではないか。


吉田家縁者の墓

 洞雲寺には箱館戦争で戦死した吉田留五郎と鷹見政雄の墓があるはずであったが、ガイドの方によれば、吉田留五郎のものと思われるものは現存しておらず、その縁者と思しき墓が残っているのみだという。右の写真の墓は、寛文九年(1669)という没年が刻まれており、明らかに吉田留五郎のものではない。
 吉田留五郎は、明治二年(1869)二月九日、矢不来の戦いで銃創を負い、深手三名とともに青森大病院養生局(米屋清六方)へ転療したが、他の兵士が回復したのに独り客死した。行年十九歳。


鷹見家

 鷹見家墓誌には明治二年(1869)九月二十九日に死亡した「鉄心院忠山義勇居士」という法名が刻まれている。これが矢不来の戦いで腹部貫通銃創により即死した鷹見政雄である。鷹見家の墓に合葬されているものと推定される。

(託縁寺)
 洞雲寺、最勝寺を見た後、観光協会に車を置いて、寺町の寺院を回る。観光協会に近い託縁寺に廣田憲寛の墓があると門前に説明があった。観光協会に戻った際に確認しようと思ったが、そのまま失念してしまった。これは次回訪問時の宿題。

 廣田憲寛は、大野藩で禄百石の家に生まれ、佐久間象山に蘭学と砲術を学ぶ。安政四年(1857)、和蘭辞書「増補改正訳鍵」五巻を翻訳出版。豊富な語彙により蘭学者から賞賛を受ける。元治元年(1864)、水戸天狗党の全貌を「武田耕雲斎一件」として纏めた。

(願了寺)
 寺町の一番北に所在しているのが願了寺である。当初、今回の大野訪問では訪問先に入れていなかったが、ガイドのOさんの勧めで立ち寄ることになった。ここには先覚者西川兄弟の墓がある。


願了寺


西川兄弟の墓

 西川倍太郎(ますたろう)、貫蔵、寸四郎兄弟の墓である。門前の石柱には三兄弟とあるが、実際には七人兄弟だったらしく、うち四人の名前が墓石に刻まれている。父は西川甚内。
 長兄倍太郎は、咸臨丸の測量方乗組員となって文久二年(1862)小笠原父島に渡ったが、現地で望郷の念が募りノイローゼの果てに病没。三十一歳。父島には墓があるらしい。
貫蔵は、安政二年(1855)、選ばれて大阪適塾に入門。のち大野藩洋学館助教となった。「三兵用訣精論」を英訳上木している。
 弟寸四郎は、幕府が築地に海軍操練所を開くと、吉田拙蔵とともに入学した。咸臨丸の測量方として小笠原へ渡っている。

(願成寺)


願成寺

 願成寺には箱館戦争の戦死者(廣木治左衛門と和田實之輔)を葬った墓があるというが、やはり雪のため一歩も進入できず。説明によれば、大野藩では箱館におよそ二百名を出兵し、うち十一人が戦死している。ほかの九名についても墓が残っているらしいので、是非再チャレンジしたい。


忠膽一勇居士(廣木治左衛門の墓)


忠良皈勇信士(和田實之輔の墓)

 ガイドさんのご案内で、願成寺の廣木治左衛門と和田實之輔の墓を訪ねた。
 廣木治左衛門は、明治二年(1869)四月二十九日、矢不来にて戦死。行年二十五。
 和田實之輔も五月一日、矢不来にて腹部に重傷を受け、翌月戦地の病院で没した。二十五歳であった。

(善導寺)


土井家墓所

 土井利忠は、文化八年(1811)の生まれ。父は土井利幸であるが、この人は井伊直幸(なおひで=井伊直弼の祖父)の九男土井利義の長男に当たり、即ち井伊直弼とはいとこという関係になる。墓石に刻まれた「柳涯」は雅号である。
 文政元年(1818)。襲封。文政十二年(1829)藩地大野に入部し、以来藩の財政困難に際し、その建て直しに努力した。朝川善庵、杉田成卿、小関三英らを招いて、救世済民・西洋の学問を学んで大いに啓発された。内山良休、石川勘右衛門、早川弥五左衛門、吉田拙蔵らの良臣を得て蘭学館を建て、伊藤慎蔵(緒方洪庵の高弟)を招いて蘭学を盛んにし、西洋医・砲術・製砲を興し、大野丸を建造して蝦夷地の開発、樺太の開拓を始めた。その他、面谷鉱山、種痘奨励、病院の新建等を行って治績大いに挙がった。文久二年(1862)十一月、致仕。領民はその徳を慕って柳廼社を建てて祀った。明治元年(1868)、年五十八で没。

 土井利忠という人は、中央政界ではまったく無名の存在であるが、大野という僻地で蘭学の花を咲かせた治績は、名君と称するに値する。もっと評価されてよい人物であろう。


柳涯墓(土井利忠墓)


文良院殿正四位子爵忍譽徳賢利恒居士

 土井利恒は、利忠の三男。利忠の跡を継いで越前大野藩八代藩主となった。維新後は版籍奉還で知藩事。明治十七年(1884)、子爵に叙された。明治二十六年(1893)没。
 さらにその横に利恒の長男、利剛の墓もある。


子爵土井利剛墓


忠鑑義詳居士(金子庫治郎の墓)

 金子庫治郎の墓である。ガイドさんの事前調査によると善導寺には金子家の墓は一つしかないそうである。現在の金子家の当主に確認していただいたところ、先祖に「金子庫治郎という人はいない」という回答であったという。念のため金子家の墓を見に行ったところ、古い墓石に金子庫次郎の名前を発見することができた。あとでガイドの広作さんが、金子家の方にこの「発見」を報告されていた。


高橋常太郎墓

 善導寺の本堂側の墓地に高橋常太郎墓と刻んだ墓がある。西南戦争戦死者のものか。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福井 Ⅵ

2015年06月12日 | 福井県
(清円寺)
 清円寺は、日下部太郎の菩提寺である。本堂の前に「日下部太郎 菩提寺」と大きな看板が出ている。しかし、墓地らしいものは近くに見当たらず、恐らく日下部太郎の墓もここには存在していない。
 実は日下部太郎の墓は、ニュージャージー州のラトガーズ大学の近くにある。機会があれば、訪問してみたい。


清円寺

(岡田天心郷家の跡)


岡倉天心郷家の跡

 岡倉天心は、言うまでもなく明治画壇の重鎮である。特に東洋美術を世界に紹介することに尽力した。この石碑のある場所は、父岡倉覚右衛門の住居跡である。天心は父の離藩後、文久二年(1862)、横浜で生まれたが、父祖の地である福井を愛し、常に自分は福井人である、自分の郷土は福井であると称し、在世中幾たびか福井に来遊した。

 岡倉天心郷家の跡碑のある場所は、我が母校である進明中学校の校区内である。卒業以来、久しぶりに母校を訪れた。当時野球部に属していた私は、学校の周囲を毎日ランニングしたものだが、何の記憶も蘇らないほど記憶が薄れていた。
 ついでに中学校近くにある、高校の時私が下宿していた家も訪ねてみた。当時からギシギシいっていた古い家屋だが、四十年近く経過した今も昔のままであった。

(市立図書館)
 市立図書館は、母校県立藤島高校の近くにある。私の記憶が正しければ、在学中にこの地に開館したもので、当時は随分新しくて綺麗な図書館だった。良くここで自習したものであるが、今ではすっかり古びてしまって、どこにでもある図書館に過ぎない。
 市立図書館の裏に、日下部太郎とグリフィスを顕彰した堕涙碑が建てられている。


堕涙碑

(大安禅寺)


大安禅寺

 福井市内から田ノ谷町の大安禅寺まで、ざっと十キロメートル以上はあるだろう。自転車で行くにはちょっと厳しい距離であったが、天気も良かったし、時間もあったので、思い切って敢行した。福井市外を見下ろす山の中腹に位置しており、運動不足の中年には決して楽な道のりではなかったが、行ってみる値打ちはある。


大安禅寺庭園

 この寺は、織田信長の越前攻略の兵火により、全山焼き討ちに遭ったが、万治二年(1659)、第四代越前藩主松平光通により再建され、以来歴代越前藩主の菩提寺とされた。今日、北陸三十三観音霊場の札所の一つとして、また一般の人も利用できる参禅修養の場として、訪客も絶えない。拝観料五百円を支払えば、本堂や宝蔵館などを見ることができる。


従四位毛受洪墓

 毛受洪(めんじゅひろし)は、文政八年(1825)、藩の世臣の家に生まれ、藩校明道館の講究師・訓道師・外塾師取扱掛・他国学問修行取扱等を歴任し、安政六年(1859)に家督を継いで大番頭となり、のち書院番頭格、用人奏者兼軍帳掛を務めた。元治元年(1864)、京都に出て堺町御門の戦いに遭い、直ちに帰藩して報告し、その後藩命により京阪の間にあって国事に奔走した。明治元年(1868)正月、参与役兼弁事となり、五月これを免じられ、翌二年(1869)十月に福井藩権大参事に任じ、ついで集議院幹事となった。明治三十三年(1900)年七十六で没。


千畳敷

 墓地の一番奥まって高いところに千畳敷と呼ばれる越前松平家の墓所がある。
 この墓所は、第四代藩主松平光通が、両親および先祖の恩を想って、万治二年(1659)から翌年にかけて造営完成させたもので、正面中央に初代結城秀康の墓碑を置き、それを囲むように歴代藩主の霊が祀られている。四方を高さ二メートルほどの石柱玉垣で囲み、その中を笏谷石の石板千畳を敷き詰めたもので、「千畳敷」と呼ばれている。


橘曙覧歌碑

 橘曙覧の墓所へ通じる道の入口付近に曙覧の歌碑がある。

 たのしみは朝おきいでて昨日まで
 無かりし花の咲ける見る時

 この和歌は、平成六年(1994)六月、訪米中の天皇皇后陛下に、ホワイトハウスの歓迎式典において、クリントン大統領がスピーチの中で、今後の日米関係の理想像を表わす例として引用したものである。


橘曙覧之奥墓


笠原白翁君墓

 笠原白翁が世を去ったのは、明治十三年(1880)八月、病気療養していた東京においてであった。享年七十二。

(西藤島公民館)


杉田定一君治水謝恩之碑

 杉田定一は、嘉永四年(1851)、越前国坂井郡波寄の庄屋杉田仙十郎の子に生まれた。父仙十郎とともに救世済民の志厚く、九頭竜川の改修、国会開設、地租改正などに尽力した。昭和四年(1929)没。七十七歳。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福井 Ⅴ

2015年06月12日 | 福井県
(鈴木主税宅跡)
 前回、福井を訪問したのは一年半前のことになる。粉雪が舞う中、史跡を訪ねたことが思い出される。今回は春の盛りであった。現在、北陸新幹線は金沢までしか通じていないが、それでも随分時間距離は短くなった。以前、金沢まで家族旅行したときは夜行列車で半日かかったが、わずか二時間半で金沢に行き着くことができる。
 強いて苦言を申せば、金沢で新幹線を降りてから次の北陸本線上りの特急が来るまで四十分以上も待ち時間があったことである。特急に乗ってしまえば、金沢‐小松間は十五分程度のものだが、せっかく新幹線で近くなったというのに、そこから先の便も改善してもらいたいものである。
 小松での仕事は一日で終了したので、翌日からの週末は大野・福井・小浜・敦賀の史跡を訪ねることにした。
 その日の夜は高校の同窓が集まってくれた。中には卒業以来という旧友も駆けつけてくれた。彼は原型を留めないほど肥満しており(体重でいえば、ざっと私の倍になろうとしている)、一見しただけではどこの誰だか分からないほどである。酒が進むにつれ昔話に花が咲き、とても愉快な時間を過ごすことができた。


鈴木主税宅跡

 宿泊した駅前のビジネスホテルの裏の駐車場辺りが鈴木主税宅跡らしい。石碑等もないが、駅前の地図に辛うじてそのことが記載されている。

(吉田東篁生誕の地)


吉田東篁生誕の地

 駅の東側、荒川に架かる日向橋の西に、吉田東篁生誕の地碑と岡田啓介生誕の地という二つの石碑が並んで建てられている。
 吉田東篁は、身分の低い家柄に生まれたが、幼少の頃から学問を志し、山崎闇斎の主唱する崎門学派の学問に傾倒した。藩校正義堂、明道館で教鞭を取る傍ら、私塾を開いた。門下から矢島立軒、鈴木主税、橋本左内、由利公正、杉田定一らを輩出した。
 岡田啓介は、福井県の生んだ唯一の首相である。

(世直神社)
 先に世直神社を紹介したが、こちらはみのり二丁目にある別の世直神社である。同じく祭神は、鈴木主税。


世直神社


贈正四位 鈴木重榮生祀之碑

 境内に鈴木重榮生祀之碑がある。重榮は、鈴木主税の諱である。
 鈴木主税は、天保八年(1838)、二十四歳のとき町奉行となり、木田地方荒田に「あさだ」という苛税があったのを撤廃したため、百姓からその徳を慕われ、「世直神祠」として生祠を建てられた。

(由利公正像)


由利公正像

 幸橋の南東に由利公正像がある。かつて中央公園にあったものが移設されたのかもしれない。中央公園の像が無くなっているかどうか確認していないので断言できない。


議事之体大意(ぎじのていたいい)

 像の傍らに「議事之体大意」を記した小さな石碑が置かれている。五箇条の御誓文の原文となったもので、これを土佐藩の福岡孝弟が修正し、さらに木戸孝允が加筆修正してほぼ最終案となった。
 その全文。
――― 一、庶民志を遂げ、人心をして倦まさらしむるを欲す 一、士民心を一にし盛に經綸を行ふを要す 一、知識を世界に求め廣く皇基を振起すへし 一、貢士期限を以て賢才に譲るへし 一、万機公論に決し、私に論するなかれ

(日下部太郎とグリフィス像)


日下部太郎とグリフィス像

 幸橋の北詰に日下部太郎とグリフィスの像がある。
 日下部太郎は、慶応三年(1867)福井藩で初めての海外留学生に選ばれ、アメリカに渡った。ニューブランズウィック市のラトガーズ大学に入学し、学問に励んだ太郎は、広い分野で優秀な成績を修めたが、卒業を目前にして病気のため二十六歳で客死した。彼の死は大学関係者や一般の市民に惜しまれ、大学では卒業生と同等の資格を与えるとともに、同校の優等生で組織されるファイ・ベータ・カッパー協会の会員として彼を推薦し、その印として金の鍵を贈った。ウィリアム・エリオット・グリフィスは、大学の先輩として太郎を指導していたが、その勉学態度を見て日本人の節度、勤勉さに心を動かされ、日本に興味を持つようになった。明治四年(1871)、グリフィスは福井藩からの招きに応じて藩校明新館の理化学の教師として来福し、多くの若者を指導した。国内情勢の変化のためにわずか十か月で福井を離れたが、その後も「皇国」という本の出版を始め、アメリカにおける日本の紹介と理解に貢献した。昭和四十九年(1974)、福井青年会議所の人々の働きかけによって、日下部太郎とグリフィスの絆をいつまでも後世に語り継ごうという機運が高まった。これを機に福井市とニューブランズウィック市との交流が進み、昭和五十七年(1982)、両市は姉妹都市として提携した。この像は、平成十四年(2002)、両市の姉妹都市提携二十年を記念して建てられたものである。

(孝顕寺)


孝顕寺


正四位勲四等村田氏壽之墓

 足羽山トンネルの東出口付近にある孝顕寺は、結城秀康の菩提所として知られる。本堂の裏手に墓地があり、そこに村田氏寿の墓がある。表面が剥落して、氏寿の墓と読み取るのがやっとである。
 村田氏寿は福井藩の鈴木主税、橋本左内らと親交が深かった。嘉永六年(1853)ペリー来航に際して江戸に出て、諸藩の士と交わった。安政三年(1856)、藩命により横井小楠を招聘するため熊本に使した際、鍋島、島津両候のほか、勝海舟、西郷隆盛、梁川星巖、梅田雲浜といった天下の名士と会談した。文久二年(1862)以降、松平春嶽が政事総裁職に就くと、左右に近侍して輔佐した。戊辰戦争では越後口に出陣した。帰藩後は、藩参政、大参事、足羽敦賀両県参事、岐阜県令、内務大丞兼警保頭を歴任した。明治三十二年(1899)、年七十九で死去。

(春山法務合同庁舎)
 フェニックス通りと名付けられた大通りに面して地方裁判所と法務合同庁舎が建っている。合同庁舎前に除痘館跡を示すモニュメントが置かれている。


除痘館跡

 除痘館は、笠原白翁が開設した種痘場のことである。笠原白翁は、文化六年(1809)足羽郡深見村にて医者竜斎の長男に生まれ、藩医学所済世館で学んだ。京都の蘭学者日野鼎哉から種痘法を学ぶと、それを福井で実践しようとした。しかし、種痘を行うには、まず痘苗を手に入れなくてはならない。鎖国をしていた日本では入手が困難であった。そこで白翁は藩主松平慶永(春嶽)に請願し、二度の請願の結果、慶永の尽力もあり、幕府の許可を得ることができた。白翁は種痘法を知って約六年を費やしてようやく痘苗を手にすることができた。それでも漢方医を中心に種痘に対する中傷もあり、なかなか種痘の普及は進まなかった。この間、仲間の町医者や重臣中根雪江、藩医半井元沖ら、多くの人々の協力を支えられ、数年後には順調に種痘が行われることになった。白翁の入手した痘苗は、敦賀、鯖江、大野、大阪、江戸、金沢、富山へも送られ、多くの人を天然痘から守った。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする