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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「信州明治維新」 堀内泰 武田武ほか著 柏企画

2013年02月23日 | 書評
この本は、長野県在住の郷土史家や学校の先生らが、分担して執筆したものである。
幕末維新期の信州と聞いて何を連想するだろうか。佐久間象山、飯山戦争(戊辰戦争中、唯一信州で行われた戦闘)、赤報隊の処刑、それとも元治元年(1864)の天狗党の通過か。「おわりに」に発行者の方が書いているように、「信州の明治維新は、いくつもの政治的諸事件が起こるが、一つ一つが散発的」という指摘は的を射ている。
その信州において、明治初年、世直し騒動が連発しているのが特徴である。明治元年(1868)に五件、二年に十三件、三年に九件と三年間に二十七件が起きており、その合計数は全国の発生件数の約一割を占めているという。
騒動の原因や経緯は様々であるが、いずれも明治新政府への失望、圧政への反発が背後に存在している。新政府は、ある程度農民の主張に妥協する形で決着しているが、一方で首謀者は捕えられて斬刑に処されている。彼らは騒動を起こした時点で、成功しても死を覚悟していたのである。無名の士であるが、もっと着目されても良いように思う。

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「企業家たちの幕末維新」 宮本又郎著 メディアファクトリー新書

2013年02月23日 | 書評
日本においては、創業百年以上という企業が約二万四千社(帝国データバンク)にのぼるという。筆者がいうには、「諸外国については正確なデータはありませんが、各国せいぜい1000社程度ではないかといわれていますので、この点では明らかに日本は世界ナンバーワン」という。
幕末維新期は政治だけでなく、経済的にも激動の時代であった。この時代をくぐり抜けて現代まで生き残っている会社は決して多くない。
嘉永二年(1849)発刊の「大日本持丸長者鑑」という、言わば当時の長者番付に載っていた富豪は二百三十一家。これが次の時代(文久四年(1864))の「大日本諸商売分限者繁栄鑑」では、半分以下の百二家しか残っていない。明治三十五年(1902)の大日本経済会調査「日本全国五万円以上資産家一覧」まで継続して掲載されているのは、わずかに二十家、即ち十分の一まで淘汰されている。この数字を見ても、この時代(わずかに五十余年)を生き抜くことが如何に困難だったかを実感するこができる。豪商として名を馳せた鴻池家や司馬遼太郎先生の「菜の花の沖」にも登場する北風家なども、姿を消している。
生き残った老舗に共通しているのは何か。筆者は、①時代の変遷に合わせた事業の再構築、そのための②組織と人材の思い切った刷新、③家政の改革、の三点に要約している。現代は、ある意味では幕末維新期以上の激変の時代である。前述した老舗再生の三つの秘訣は、現代にも通じるのではないだろうか。

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亀岡

2013年02月11日 | 京都府
(大本本部~南郷公園)
 大阪高槻の実家から亀岡まで、府道46号線で三十分余りのドライブである。久し振りにこの道を走ったところ、昔は曲がりくねっていた道が真っ直ぐになり、随分と走り易くなっていた。

 亀山城は、天正六年(1578)、丹波統治の拠点として明智光秀によって築城された。寛延元年(1748)に丹波篠山から形原松平氏が入封して居城とした。現在、この城址は、宗教法人大本(おおもと)の所有となっている。維新後、荒廃していた城址を、新宗教大本が引き継ぎ整備を進めた。政府は拡大を続ける大本に警戒を強め、徹底的な弾圧を加えた。その後、太平洋戦争の敗戦とともに、大本に返還され現在に至っている。ほとんど遺構らしきものは見当たらいが、大本本部の北側に堀が残されており、それをうまく取り入れて南郷公園として市民に開放されている。


明智光秀公築城亀山城跡趾


南郷公園


形原神社

 形原神社は、寛延元年(1748)に亀山藩に入封された松平信岑(のぶみね)を主祭神とし、歴代藩主を祀る社として明治十三年(1880)に創建されたものである。藩政時代にここには大手門があり、近くには御館(藩主の居館)が置かれていた。

(光忠寺)


光忠寺

 光忠寺は、亀山藩主形原松平家の菩提寺である。


清徳院殿□豆州従四位行拾道倹誉俊鵞峯大居士
松平信義の墓

 亀山藩七代藩主(形原松平家十二代藩主)松平信義は六代藩主松平信豪の養子となって家督を継ぎ、若くして幕府の奏者番兼寺社奉行、大阪城代などの要職に任じられ、大老井伊直弼を助けて安政の大獄にも協力した。万延元年(1860)十二月には老中、外国事務取扱に就任して、生麦事件や薩英戦争などの事後処理でイギリスとの交渉に当たっている。文久三年(1863)老中を辞任。慶応二年(1866)家督を養子の松平信正に譲ると、ほどなく死去した。四十三歳であった。


恭徳院殿正四位子爵弘譽昌雲龍峰大居士
(松平信正の墓)

 信義のあとを継いで最後の藩主となった松平信正は、新政府の圧力を受けて早々に降伏し、東征に兵を送っている。明治四十二年(1909)、五十八歳にて死去。

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岡崎 Ⅴ

2013年02月10日 | 京都府
(金戒光明寺 つづき)


井汲恭平墓

 井汲恭平こと、谷川辰蔵の墓を訪ねて金か戒光明寺を訪ねること三度目にしてようやく行き当てることができた。結果からいうと、谷川辰蔵の墓は、豊岡随資の墓のすぐそばにあった。
 谷川辰蔵は備中倉敷の出身という。元治元年(1864)、国許で事件を起こして大阪に出奔した。土佐人と交わるうちに土佐浪士の大阪焼き討ちの謀議があることを知り密告。その縁で新選組に入隊した。入隊後は、本名の和栗吉次郎を名乗ったが、同年十二月に脱走して井汲恭平と改名して新政府軍に加わって奥州を転戦した。戦後、京都に移って七十二歳で世を去った。

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京都御所 Ⅳ

2013年02月10日 | 京都府
(富岡鐵齋邸跡)


富岡鐵齋邸跡

 富岡鉄斎は、天保七年(1836)京都の法衣商の家に生まれた。十五歳頃から絵を学んだ。勤王の志士とも交際があった。維新後は、各地で神職を務めていたが、四十六歳のときこの地に居を定めて画業に専念し、大正十三年(1924)に没するまで四十年以上をここで過ごした。

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堀川寺ノ内 Ⅱ

2013年02月10日 | 京都府
(妙顕寺)


妙顕寺

 堀川寺ノ内は、寺院が密集するいかにも京都らしい一角である。その中にあって一際広大な境内を持つのが妙顕寺である。元亨元年(1321)に日蓮上人の孫弟子である日像上人が創建したと伝えられる古刹で、天正十一年(1583)に豊臣秀吉の命により現在地に移された。慶応三年(1867)十一月二十八日、芸州藩主浅野長勲は、藩兵三百を率いて妙顕寺に入った。

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御室

2013年02月10日 | 京都府
(仁和寺)


仁和寺山門

 仁和寺は、真言宗御室派の大本山である。仁和四年(888)、宇多天皇によって創建された門跡寺院である。第三十代門跡純仁法親王は、慶応三年(1867)還俗して仁和寺宮嘉彰(よしあき)親王と改めた。新政府の議定・軍務総裁を命じられ、鳥羽伏見の戦いに参加した。維新後は、東伏見宮、さらに小松宮彰仁と名を改めた。佐賀の乱、西南戦争にも従軍した。日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。明治三十一年(1898)には元帥の称号を賜る。明治三十六年(1903)薨去。五十七歳。


仁和寺本堂


鐘馗さん


山門の仁王像

(妙光寺)


妙光寺

 福王子神社の交差点を真っ直ぐ北進すると、突き当りに妙光寺がある。幕末、ここでは勤王の志士が謀議を交わしたと伝えられる。
 品川弥二郎や田中顕助ら勤王の志士たちの相談相手となっていたのが、天章和尚である。天章は、大原重徳の知恵袋として活躍し、文久二年(1862)、勅使派遣の際に、当初岩倉具視が推挙されたのを、天章の推薦により大原重徳の決まったといういきさつがあった。明治四年(1871)、七月九日、妙光寺の書斎で読書しているところを何者かに襲われ、斬殺された。


天章和尚の墓

 すぐ近くには、陶工として名高い野々村仁清の墓もある。

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鳴滝 Ⅱ

2013年02月10日 | 京都府
(三寶寺)


三寶寺

 鳴滝の三寶寺の墓地の一番高いところ、中川家墓域に新選組水口市松の供養塔がある。墓石正面には、水口市松忠輝のほか、藤田兵助忠善、藤田慶三音人の名前が刻まれている。側面には「明治元年一月伏見役戦没」とある。
 水口市松は若狭藩の出身で、京都の医師水口家の養子となった。慶応二年(1866)九月の三条制札事件で活躍し、報奨金十五両を下賜された。鳥羽伏見の戦いで戦死した。享年四十五歳。


水口市松供養塔


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三井寺 Ⅱ

2013年02月02日 | 滋賀県
(長等小学校)


長等小学校


梅田雲濱先生湖南塾址

 若き梅田雲濱は、大津の上原立斎に学んだ後、立斎の娘信子を妻とし、同地に湖南塾を開いた。市立長等小学校の正門前に「梅田雲濱先生湖南塾址」と記された石碑が残されている。

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栗東

2013年02月02日 | 滋賀県
(和中散本舗)


舊和中散本舗

 和中散とは、徳川家康の腹痛を治したことで知られる万能薬である。東海道沿いの六地蔵にて和中散を販売していた大角弥右衛門家の店舗兼住宅である。建物は、寛永年間(1624~1644)に建設されたというもので、小堀遠州作と伝えられる庭や、隠居所なども現存している。本屋敷は本陣として使用され、文政九年(1826)、江戸出府のオランダ商館長に随行したシーボルトもここに宿泊した記録が残っている。


ぜさい屋

 複数在った和中散の同業者のうち、本家がこの店である。本家は是斎屋という屋号を称していた。

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