史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

都留 Ⅱ

2021年12月18日 | 山梨県

(和みの里)

 

種徳館

 

 青い壁が印象的な種徳館は、明治二十年代の建築物である。幕末から明治時代に活躍した天野開三(海蔵)によって、都留の境区に建てられたものである。「種徳」とは「広く徳を世に施すこと」であり、青少年の修身鍛錬のために建てられたという。太平洋戦争の末期には学童疎開児童の臨時教育の場としても使われ、現在も様々な体験施設として利用されている(キャンプ場の受付施設のように思われる)。

 

種徳館

 

 正面には「種徳館」の額と、天野開三の肖像写真等が展示されている。特に和みの里に用事のなかった私には中に入るのは憚られたため、遠くから写真を撮影するだけに終わってしまった。

 

種徳館

 

 中央玄関の上部には半円形のバルコニーが設けられており、そこにも「種徳館」の額が掲示されている。

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勝沼 Ⅲ

2021年12月18日 | 山梨県

(生福寺)

 

生福寺

 

 勝沼町下岩崎の生福寺に高野積成(せきせい)の墓がある。生福寺の境内には墓地がない。Google Mapの航空写真で確認したところ、生福寺から数百メートル南側に墓地が確認できたので、すぐさまそちらに向かった。ぶどう畑に囲まれた墓地には高野家の墓所は一つしか確認できない。大きな墓石の裏面を確認すると、「傳正院」という積成の法名を確認することができた。

 

高野家之墓(高野積成の墓)

 

 高野積成は弘化三年(1846)の生まれ。少年時代古屋蜂谷に学び、勧業の志厚く、当時養蚕の改良すべき点の多きを見て、慶応二年(1866)、蚕種製造に着手し、桑園の改良、籠飼等を実施して近隣に勧誘した。明治の初めには、甲州産の良繭のほとんどが武州などの商人に買い取られ流出していたため、地方婦女子の職業の貧しさを憂慮し、県内に機械製糸工場の建設のために努力。明治七年(1874)には県内初の三六人繰工場を完成した。のちに県勧業掛、養蚕業と葡萄栽培の発達に寄与した。明治四十二年(1909)、六十四で没。

 

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石和 Ⅱ

2021年12月18日 | 山梨県

(妙油寺)

 石和町東油川の妙油寺に、甲州屋忠右衛門の墓を訪ねたが、完全な空振りに終わった。どうもこのところ空振りが多い。

 

妙油寺

 

 甲州屋忠右衛門は、本姓篠原といい、東油川村の名主の家に生まれた。村名主を務めるとともに、安政六年(1859)に横浜が開港されると、横浜本町に甲州屋を開き、甲州の物産を売り捌いた。明治七年(1874)に八王子に移住して、教育者を設立した。明治十一年(1878)には相模の上鶴間で原野を開拓した。のちに郷里に隠退した。明治二十四年(1891)、年八十二にて没。

 

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甲府 Ⅴ

2021年12月18日 | 山梨県

(愛宕神社)

 

愛宕神社

 

小野實命之墓

 

 実は愛宕神社には、医者にして文人でもあった小野泉の墓を訪ねることが目的であったが、墓地を探した結果、小野家の墓所はあったものの、そこに小野泉(小仙)の墓はなく、実弟小野實の墓を発見したにとどまった。神社は山の斜面に建てられており、この斜面を登ったり下りたり、近くの寺院の墓地まで足を伸ばしてみたものの、小野泉の墓に出会うことはできなかった。

 小野泉、實の父親である小野通仙も医者として名を成した人で、蘭方医学を学び、人体解剖を行ったことでも知られる。

 小野泉は、天保元年(1830)に通仙の長男に生まれ、初め松井渙斎に学び、弘化四年(1847)江戸に出て、嘉永二年(1849)には京都で広瀬元恭の時習館で蘭学を学んだ。帰国して父とともに種痘館を建てて牛痘法を広めた。明治元年(1868)、公立病院の設立を唱え、明治三年(1870)に県病院の実現を見た。のちに歴史地誌編輯主任としても活躍。私塾を甲府紅梅町に開いて和漢英書を講じた。明治十七年(1884)、年五十五にて没。

 小野實は、通仙の二男。天保八年(1837)の生まれ。安政三年(1856)、広瀬元恭の門に入り蘭医を修めた。明治五年(1872)、県立睦合病院、日野春分院長などを歴任した。

 

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市川三郷 Ⅲ

2021年12月11日 | 山梨県

(花園院)

 

花園院

 

医学士村松學佑 夫人信子墓

 

 宝寿院に隣接する花園院も広い墓地を持つ寺院である。しかも、村山姓の墓石もたくさんあり、ここから岳佑の墓を探し当てるのはかなりの困難が予想されたが、幸いにして比較的短時間で発見することができた。

 村松岳佑は、文政五年(1822)の生まれ。通称を岳佑といったが、墓石には學佑と刻まれている。どちらでも可ということかもしれない。妻の先夫岳仲の医業を継ぎ、嘉永初年に京都と長崎に学び、蘭医モーニッケの門に入った。嘉永三年(1850)の冬、長崎から巨摩郡の内藤泰順、大久保黄斎に送った牛痘苗が、甲州における牛痘種法の嚆矢といわれる。嘉永五年(1852)春、長崎からの帰途緒方洪庵門に入って学び、帰郷後、市川代官荒井清兵衛より支配内施行の允許を得て、自家製造の痘苗を各地の医師に分与するとともに、安政年間多くの種痘医を養成して、甲斐から痘瘡を駆逐することに努めた。明治元年(1868)年四十七にて没。

 

村松学佑君碑

 

 同じ墓所に立つ村松学佑顕彰碑は、三島中洲の撰文、渡辺青洲の書。明治二十九年(1896)の建碑。

 

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南アルプス Ⅱ

2021年12月11日 | 山梨県

(明行寺)

 広瀬平五郎の墓を求めて南アルプス市藤田(とうだ)の明行寺を訪ねた。本堂の近くに広瀬中庵の墓があり、同じ墓域に平五郎の墓もある。

 

明行寺

 

廣保院中庵日周(広瀬中庵の墓)

 

 広瀬中庵は、江戸後期の儒医。名は周平、中庵と号した。市川大門の広瀬保益の四子で、藤田村五味季政の娘と婚し、広瀬家を称した。早くから俊敏の名を高め、藤田の儒学者五味釜川、京都の儒医香川南洋などから漢学、医学などを学んだ。天然痘研究書の「痘科鍵抜粋」「中庵集」他の著書がある。明治初年、京都の病院長となった名医広瀬元恭は孫にあたる。文化七年(1810)、七十八歳にて没。

 

雨鳴院廣瀬和達居士(広瀬平五郎の墓)

 

 広瀬平五郎は、文政元年(1818)の生まれ。諱は和達、雅号は雨鳴と称した。父は医師広瀬恭平。少年時代家業である医術とともに、西花輪村の時習館で儒学その他諸学を学び、天保五年(1834)、十七歳で村役人見習、同村の長百姓となった。京都にいる弟元恭から種痘法を学び、村民に普及したのが甲斐における種痘の始まりとなった。現存する嘉永年間の種痘日記、さらに安政五年(1858)から慶應三年(1867)にいたる種痘人名録は、詳細に種痘の普及分布を物語っている。明治初年、同村名主・戸長に専念して医師は廃業、地主化した。明治四十一年(1908)、年九十一にて没。

 

広瀬家

 

 明行寺の近くに立派な門構えの屋敷がある。広瀬の標札を掲げているので、広瀬中庵、平五郎の実家かもしれない。

 

 

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北杜 Ⅳ

2021年12月11日 | 山梨県

(下教来石)

 

明治天皇御小休所址

 

 前回見落とした下教来石の明治天皇小休所址碑である。

 

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上野原 Ⅱ

2021年07月03日 | 山梨県

(犬目)

 

犬目宿

 

 犬目も甲州街道の宿場町である。往年賑やかだった宿場町も、今や高速道路や国道から離れた場所にある寒村である。

やはり明治十三年(1880)の行幸の際、明治天皇が休息をとった本陣跡地に石碑が建てられている。残念ながら本陣の遺構はまったく残っていない。

 

明治天皇御小休所址

 

義民「犬目宿兵助」の生家跡

 

 犬目は義民犬目宿の兵助を生んだ町である。今も町には兵助の生家跡や墓が残されている。

 天保七年(1836)、犬目宿で旅籠「水田屋」を営んでいた兵助は、下和田村(現・山梨県大月市)の武七とともに、天保の大飢饉と商人の米買い占めで苦しむ村人たちを救うため百姓一揆を起こした。兵助は一揆に先立ち、幕府の厳しい処分を覚悟して、妻りんと離縁し、生後間もない娘たきが水田屋を継げるように書き置きを残した。一揆は兵助らの意図に反して暴徒化し、甲斐一国を巻き込む激しい打ち毀しに発展した。世にいう天保の甲州一揆(甲州騒動)である。因みに同年には大阪で大塩平八郎が叛乱を起こしている。

 兵助は絶望し、一揆を離れて逃亡の旅にでた。兵助直筆の日記には、一年余りの苦しい旅の様子が記録されている。望郷の念がつのり、時には野宿先で娘たきを抱く夢を見ている。

 その後の兵助の足取りは定かではなく、一説では犬目に戻って家族とひっそり暮らし、慶応三年(1867)、七十一歳で亡くなったといわれる。

 町の墓地には奈良家の墓域に兵助の墓がある。

 

犬目村兵助之碑

 

(野田尻)

 

野田尻宿

 

 野田尻宿も甲州街道中の宿場である。天保十四年(1842)には、本陣一、脇本陣一、旅籠は大二、中三、小四計九という比較的小さな宿場であった。今も何となく宿場町の風情が残っている。

 

明治天皇御小休所址

 

 本陣跡には明治十三年(1880)六月の明治天皇の行幸の際の記念碑が建てられている。

 

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大月 Ⅱ

2021年07月03日 | 山梨県

(森武七墓碑)

 

的翁了端信士(森武七の墓)

 

 森武七(武七)は、下和田村次左衛門とも呼ばれる。天保七年(1836)の郡内の農民により端を発した、甲斐一国の農民一揆となった天保騒動(郡内騒動)の中心的人物である。郡内の農民たちと国中の米穀商へ交渉にいくときに頭取に選ばれ、農民を率いて笹子峠を越えたが、人数が増えて暴徒化し、頭取の指揮に従わなくなった一揆勢に見切りをつけ、途中で引き返した。

 その後、罪を被って役人のもとに出頭し、天保七年(1836)十一月十六日、石和牢舎に送られ、同日牢死した。

 墓石は高さ九十五センチ、幅六十五センチの自然石で作られている。

 

桂川

 

 森武七の墓の近くを桂川の清流が流れている。

 

(上大月)

 富士急行線上大月駅の近くにやはり明治天皇の御召換碑が建てられている。

 

明治天皇御召換所趾

 

 明治天皇が当地を訪ねたのは明治十三年(1880)六月十六日のことである。天皇に供奉したのは、伏見宮貞愛親王、太政大臣三条実美、参議寺島宗則、伊藤博文、山田顕義、宮内卿徳大寺實則、文部卿河野敏鎌、内務卿松方正義、侍従長米田虎雄、山口正定、陸軍中将三浦梧楼、宮内少輔土方久元、元太政少書記官伊藤巳代治といった錚々たる人々であった。

 

(鳥沢)

 鳥沢駅付近において、JR中央線に並行して甲州街道(国道20号線)が走っている。その甲州街道に面しているセブンイレブンの近くに明治天皇駐蹕地碑が建てられている。

 

明治天皇駐蹕地碑

 

(初狩)

 初狩駅から甲州街道を西へ一㎞ほど行くと、中初狩宿に行き着く。旧本陣小林家の前に明治天皇御小休遺跡碑が建てられている。

 石碑は直ぐに見つけることができるが、近くに自動車を停めるところがない。道路脇に寄せて後ろから来る自動車をやり過ごそうとしたが、道幅が狭いため、ちょっとした渋滞を引き起こしてしまった。自動車で行く場合は、駐車場所を事前に探しておくことをお勧めする。

 

明治天皇御小休遺跡

 

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笹子

2021年07月03日 | 山梨県

(黒野田)

 笹子は大月市に合併されて、現在は大月市笹子町となっている。黒野田宿は笹子峠の難所を控える宿場町であった。

 本陣跡には明治天皇行在所趾碑が建てられている。明治天皇が当地に宿泊したのは、明治十三年(1880)六月十八日のことであった。

 

明治天皇行在所趾

 

(矢立の杉)

 

矢立の杉

 

 笹子峠は大月から甲州へ抜ける最大の難所であった。その後、昭和十三年(1938)、笹子隧道が貫通し、昭和四十年(1965)、さらに別ルートである国道20号線の新笹子隧道が開通し、旧街道の交通量は激減した。昭和五十二年(1977)には全長4・7キロメートルの中央高速道路笹子トンネルが穿たれ、今となっては難所というイメージはないが、むしろ渋滞の名所として知られるようになった。平成二十四年(2012)に天井崩落により死者九名を出す大事故が起きたことは記憶に新しい。

 今やほとんど見向きもされることがなくなった旧道であるが、天然記念物矢立の杉や明治天皇御野立所跡碑を訪問した。

 国道から旧道に入って4キロメートルほど行くと入り口がある。そこから矢立の杉まで百メートルである。

 

天然記念物笹子峠の矢立のスギ

 

 矢立の杉は、樹齢千年を超えるという古木である。戦国時代、笹子峠を通って合戦に行く武士は、必勝を祈願してこの杉に矢を射ったことがその名の由来という。江戸時代に甲州街道が整備されると、ここも人々の往来が盛んになった。葛飾北斎や二代目歌川広重の浮世絵にも描かれている。

 矢立の杉の幹は空洞になっていて、強風に襲われれば何時倒壊しても不思議はないが、それでも青々とした葉が茂っている。千年の樹齢を経てなお生命力を感じさせる巨木である。

 矢立の杉から二百メートルほど下ると明治天皇御野立所の石碑がある。

 

明治天皇御野立所跡碑

 

 明治十三年(1880)六月の明治天皇の山梨、三重、京都への御巡幸の際、同月十九日、御野立所として利用された場所である。今や鬱蒼たる木立に囲まれているが、往時この場所には天野治兵衛家があった。昭和十二年(1937)、天野の手により陸軍大将菱刈隆の揮毫を得てこの記念碑が建立された。

 

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