史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

防府 Ⅳ

2019年07月06日 | 山口県

(桑山つづき)

 

                     

遊撃軍墓碑

 

 遊撃隊は、文久三年(1863)十月、周防国宮市(現・防府市市宮市)の町人や農民、土佐を脱藩した池内蔵太などの浪士を組織して結成された諸隊の一つで、来嶋又兵衛が初代総督を務めた。元治元年(1864)の禁門の変では主力部隊として参戦した。同年十二月には高杉晋作の功山寺挙兵に呼応し、幕府に恭順しようとする俗論党との戦い(内訌戦)に参戦した。慶応元年(1865)には藩の正規軍として認められ、第二次長州征伐(四境戦争)や戊辰戦争を戦った。

 ここにある九つの墓碑は、禁門の変で戦死した玉之石卯兵衛、松村喜代蔵、那須唯一(下野壬生藩士)のほか、内訌戦の戦死者、田村勇人、萩原忠一郎、病死した所郁太郎、今枝恭蔵(丹波園部藩士)、桑原義之助(土佐藩士)、国弘忠吾らである。

 

干城隊等墓碑     

 

 干城隊は、慶応元年(1865)一月、高杉晋作の功山寺挙兵に呼応し、萩において、藩論統一を希望する藩士だけで結成された。総督は福原駒之進、頭取はのちに前原一誠。戊辰戦争では、奇兵隊とともに官軍の主力部隊となり、北陸方面で戦った。五つの墓碑のうち、二名は第二次長州征伐における戦傷死者(熊野基三、柳恭蔵、熊野基三の墓碑が両端二つある)、戊辰戦争の戦死者は二名(木屋彦三郎、沓屋兵衛)である。

 

 

高知藩士田所壮輔墓

 

 望東尼の墓の右隣には、土佐脱藩で元治元年(1864)九月、三田尻で自刃した田所壮輔の墓がある。

 

 

福岡縣士族結城澹三郎墓

 

 墓石には変名「結城澹三郎」と刻まれているが、仙田淡三郎の墓である。

 仙田淡三郎は、福岡藩脱藩。生野の変に加わったが辛うじて脱出し三田尻に逃れたが、元治元年(1864)四月、当地で病没。二十七歳であった。

 

 

木原亀之進多々良弘幸

 

 木原亀三郎は、文久三年(1863)十月、病気を苦に三田尻の自決した奇兵隊士。「奇兵隊日記」には、葬儀は神式で行われ、奇兵隊士が参列したと記録されている。

 

 

野村望東尼歌碑

 

 この歌碑には、野村望東尼が最後に残した歌が刻まれている。討幕軍の戦勝、あるいは間近に迫った維新の夜明けを予感し、それを祝う内容となっている。

 

 冬籠り(こら)えこらえて

 ひとときに花咲きみてる 春は来るらし

 

(野村望東尼旧宅跡)

 

野村望東尼旧宅跡   

 

 慶応三年(1867)九月、薩長連合の討幕軍東上を聞くと、山口から勝坂を越え、三田尻(防府)に入り、歌友である荒瀬ゆり子宅の離れに身を寄せ、九月二十五日から十月二日まで、防府天満宮に「七日詣」をして戦勝を祈願した。しかし、約束した期日に薩摩軍が現れず、望東尼はそのまま三田尻に留まった。薩軍の到着を見届けた後、病に倒れ、荒瀬宅にて手厚い介護を受けたが、同年十一月六日、六十二歳の生涯を閉じた。防府高校の南西角に荒瀬家旧宅が移築されている。

 

明治維新勤王志士 正五位野村望東尼終焉の宅

 百拾周年記念之碑

 

 野村望東尼終焉の宅跡の向い側に、昭和五十一年(1976)の建立された、明治維新百十周年記念碑が建てられている。

 

(大楽寺)

 大楽寺には女優夏目雅子(本名西山雅子)の墓があることで知られる。

 

大楽寺 

 

 大楽寺南墓地に楫取素彦、美和夫婦の墓がある。楫取素彦の墓正面には、「正二位勲一等男爵楫取素彦墓」と刻まれているが、美和の墓には「楫取家之墓」とあるだけである。裏面に「美和子 大正十年九月七日」と没年月日が記録されている。

 

楫取素彦 美和夫婦の墓   

 

 GWの中国地方の旅はここまで。防府から新山口に出て、新幹線で京都に戻った。竹さん御夫婦は、防府から山口、宇部、下関を経て萩、須佐を回って、鳥取経由で大阪に戻り、そこでレンタカーを返却。高速バスで仙台に戻る計画で、まだこの時点では中間点であったが、当方としては嫁さん、子供を放置して気ままな旅を続けるのはこの辺が限界であった。

 新山口で新幹線に乗ってしまえば、二時間で京都の雑踏に立つことができる。東京から山口というとかなり遠いが、京都からだと意外と近いということが分かった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

防府 Ⅲ

2019年07月06日 | 山口県

(桑山)

 

桑山招魂社

 

 防府護国神社は、桑山招魂場とも呼ばれ、慶應元年(1865)五月、御楯隊士等が調練の場として開拓に着手し、同年九月完工した。明治三年(1870)九月には、元整武隊士等が相諮り、ここに招魂社を創建し、明治維新殉国の烈士品川喜一等五十三柱の英霊を奉祀した。その後、日清、日露の両役を始め、太平洋戦争に至る数次の国難に殉じた郷土出身の戦没者を合祀して今日に至っている。現社殿は昭和三十九年(1964)に竣工したものである。

 境内北隅には松前、箱館などで戦死した飯田孫七等六十八柱の墳墓と枢密顧問官山田顕義揮毫の桑山招魂場の石碑があり、南隅には文久三年(1863)赤間関にて戦死した山本弥八等海軍将士七柱の墳墓、また力士隊那須唯一等十柱、騎士沓屋兵衛等五柱の墳墓がある。

 

桑山招魂場碑

 

 桑山招魂場碑は、有栖川宮熾仁親王の篆額。山田顕義の撰文。山田顕義(当時、市之允)は慶應三年(1867)十月三日、野村望東尼と桑山に登り、勤王諸有志の墓を詣でた。この時、山田は二十四歳、望東尼は六十一歳。高杉晋作との縁もあり、両者は親密で、望東尼は山田の武運を祈って歌を贈り、お守りも授けたといわれる。その後、山田は整武隊総督、薩長東上軍の第一陣の指揮官などを務め、維新後は陸軍中将、初代司法大臣などを歴任するとともに、日本大学、國學院大學を創始した。

 

御堀耕助墓(左)

 

 御楯隊士等墓碑    

 

 御楯隊は、禁門の変の後、大田市之進(のち御堀耕助と改名)、山田顕義、品川弥二郎らが中心となり結成された諸隊の一つ。総督は大田市之進、隊士は二百三十人。屯所は三田尻に置かれた。元治元年(1864)には高杉晋作の功山寺挙兵に呼応し、幕府に恭順しようとする俗論党と戦い、第二次長州征伐では遊撃隊などとともに幕府軍と戦った。御楯隊は、その後、鴻城隊と合併して整武隊となった。

 

 戊辰戦争中、病死または戦死:神代周治、徳久蘇八、飯田孫七、木村清助、吉武多作、吉村盛之助、水田善作、柴田文七、渡辺与八郎

 第二次長州征伐中病死:梅田正三

 佐賀の乱戦死:石崎佐久馬

 

 

陸軍軍曹長石崎佐久馬墓

 

 佐賀の乱で戦死した石崎佐久馬の墓である。

 

 整武隊墓碑     

 

 整武隊は、長州藩諸隊のうち、御楯隊と鴻城隊(総督 井上聞多)が合併して編成され、三田尻出征後、海路尾道へ、京都から東北、箱館へと転戦した。総督は山田市之允(維新後、顕義)。墓碑は、禁門の変、藩内の内訌戦(功山寺挙兵)、第二次長州征伐、戊辰戦争などの時に戦死した六十八柱である。

 

 南側に立つ少し大きな墓石は、田中正七郎のもの。墓碑によれば、明治十年(1877)五月三十一日、西南戦争の大分戦線で戦死した。行年二十四。

 

 

田中正七郎之霊

 

 

明治天皇御製

 

長州藩海軍関係墓碑     

 

 長州藩海軍関係墓所には、馬関戦争で戦死した九人の墓石が一線に並び、その前に長州藩海軍の創設・発展に功績のあった山田亦助と松嶋剛蔵という二人の墓碑が立つ。

 ロシア船の北方(樺太や択捉島)への襲来事件(文化露寇)は、対外的危機意識を海、長州藩における対外防備の景樹となった。第七代藩主毛利重就が創設した会計機関「撫育方」の資金をもとに、陸海軍の洋式化が進められた。元治元年(1864)には下関における四か国連合艦隊による報復により、長州藩海軍は多くの若い人材を失った。高杉晋作の挙兵と諸隊の蹶起により成立した新政権は慶應元年(1865)、藩是を「武備恭順」へと転換し、かつて敵対した薩摩藩と接近して軍事力の近代装備化をさらに進めた。

 

 

松嶋剛蔵之墓

 

 松島剛蔵は、楫取素彦の実兄。高杉晋作や久坂玄瑞らとともに御楯隊を結成。萩海軍局初代管轄者で、長州藩の洋式海軍創設に中心的役割を果たした。野山獄にて刑死。享年四十。

 

 

山田亦介源公章之墓

 

 山田亦助は、村田静風の甥。山田顕義の叔父にあたる。弘化二年(1845)以来、長州藩の海防の実務において中心的役割を果たした。野山獄にて刑死。享年五十五。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

湯野

2019年07月06日 | 山口県

(湯野招魂社)

 

湯野招魂社

 

 維新の中核をになった長州は、幕府との戦いや戊辰戦争でも多くの殉難者を出した。殉難者の顕彰と慰霊のため、県下にはいくつもの招魂社が設けられた。慶応四年(1868)に湯野の堅田領主が建立した湯野招魂社もその一つであるが、これまで見てきた県下の招魂社の中でもっとも手入れが行き届いていないものであった。二百八段の石段が続く参道は雑草で覆われ、参道の両側はほとんど密林のような有り様で、招魂社に行き着くのに非常に苦労を強いられる。もう少し何とかならないものか。

 

 

湯野招魂社への参道

 

 竹さんご夫婦と合流して三日目は、湯野温泉芳山園で日帰り温泉を楽しんだ後、近くの「道の駅」で車中泊であった。私は車中泊に備えて寝袋を持参し、それなりの対策をうったつもりであったが、どういう体勢をとろうと、寝付けない。毎晩、悶々としながら夜明けを迎える繰り返しであった。対照的に竹さんは横になって三分も経たないうちに寝息をたてるほどであった。羨ましい特技である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新南陽

2019年07月06日 | 山口県

(永源山公園)

 永源山にある招魂社には、山崎隊士、献功隊士の墓がある。

 

永源山招魂社

 

山崎隊士の墓

 

 永源山招魂社は、徳山藩士で結成された山崎隊や献功隊士を祀っている。

 山崎隊は、徳山藩士民の有志によって、慶応元年(1865)四月に編成された徳山藩諸隊の一つ。慶応二年(1866)の四境戦争を皮切りに各地を転戦した。戊辰戦争では、同じく徳山藩士で編成された献功隊とともに、慶應四年(1868)の鳥羽・伏見の戦いから、その翌年の箱館戦争に参加した。明治三年(1870)の脱退騒動では徳山藩の主力として鎮圧に動いた。明治四年(1871)、徳山藩が山口藩と合併する際に解散した。

 

 

有福次郎招魂墓

 

 有福次郎は、厳密にいえば戦死者ではない。戊辰戦争で各地を転戦して戦功のあった有福次郎は、戦後イギリスへの留学生に選ばれ、ロンドンに渡ったものの、現地で病を得て没。今もロンドン近郊に墓がある。

 

 

永源山招魂場碑

 

 この碑は大正四年(1915)に建立。明治維新に際して、藩のために尽くした十八名の名前や、招魂社が官祭に指定されたことなどが刻まれている。撰文は大野直輔。山崎隊創設時の総監を務めたほか、鳥羽伏見の戦いの後、徳山藩第九代藩主毛利元蕃(もとみつ)の世子元功(もといさ)に随行してイギリスで経済学を学び、帰国後は造幣局長や会計検査院部長を務めた人物である。

 題字は元功の子にあたる毛利元秀によるものである。

 

 

明治天皇御製

 

 世と共に 語り傳へよ國の為

 命捧げし 人の勲を

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳山 Ⅲ

2019年07月06日 | 山口県

(大迫田霊園)

 

羽嶋喜市(鬼一)利正墓

 

 羽嶋喜市は、第二大砲組。干城隊付属斥候隊。慶応四年(1868)九月五日、岩代館ノ原にて負傷。二十日、死亡。十八歳。

 

 

贈従四位 風月江村君墓(江村彦之進の墓)

 

 江村彦之進は、天保三年(1832)の生まれ。嘉永六年(1853)、徳山藩校鳴鳳館の句読師となり、安政四年(1857)江戸に出て、安積艮斎に学んでその塾長となった。安政六年(1859)、実兄の本城清と九州諸国を遊歴し、帰国して萩の明倫館に入った。文久二年(1862)、萩の同志とともに攘夷実行のことに奔走し、朝議の攘夷決定を見て帰藩。学館訓導役となり、藩政に参じて海防局長、会計局長となった。元治元年(1864)、禁門の変に際して。八月十一日、恭順派のため禁固に処され、翌日弁論のため外出途中に殺害された。年三十三。

 

 

西南戦争戦没者官軍墓

 

 大迫田霊園はかなり広い。竹さんご夫妻と手分けして羽嶋喜市の墓を探すことにした。三人で勢いよく車を飛び出して、隈なく探したものの、なかなか見つからない。江村彦之進や西南戦争戦没者の墓は、たまたま歩いていて発見したものである。探せばもっと面白い墓が見付けられたかもしれない。

 結局、何のことはない。羽嶋家の墓は我々が車を停めたすぐ目の前にあったのであった。

 

(泉原墓地)

 

林與喜之墓 

 

 林與(たすく)は、徳山藩士麓の長男。物頭・旗奉行。慶応三年(1867)京都で筆商に扮し探索。変名を林屋与右衛門。慶応四年(1868)献功隊参謀兼軍監として東征。明治二年(1869)五月十一日(墓石には五月八日とある)、蝦夷大川にて戦死。二十七歳。傍らに追慕碑が建てられている。

 

 

追慕碑

 

(福田寺)

 

福田寺        

 

 

古志義人直庸墓

 

 古志義人(蔵人とも)は徳山藩士信邦の嫡子。献功隊。明治二年(1869)五月十一日、蝦夷神山村にて戦死。三十七歳。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光 浅江 Ⅱ

2019年07月06日 | 山口県

(浅江神社)

 

 

浅江神社

 

 松岡梅太郎墓碑   

 

 浅江神社に松岡梅太郎の招魂墓がある。

 松岡梅太郎は、遠近付士登人の二男。四十六石余、八組士。変名を多々良梅太郎といった。第一大隊小隊司令。下関攘夷戦、幕長戦に活躍。慶応四年(1868)五月二十六日、箱根で負傷。六月二十四日、横浜病院で死亡。二十二歳。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田布施 Ⅱ

2019年07月06日 | 山口県

(ふるさと詩情公園)

 

 

岸家之墓(岸信介の墓) 

 

故干城隊々長平野捨五郎墓

 

 ふるさと詩情公園の麓に岸家の墓所があり、そこに岸信介も葬られている。その近くに平野捨五郎の墓がある。

 平野捨五郎は精鋭隊小隊司令。八組士小太郎の長男。慶応四年(1868)七月二十九日、越後長岡で負傷。十月九日、越後高田にて死亡。三十六歳。

 

 ここから直ぐのところに岸信介の実家がある。びっくりするくらい広壮な屋敷である。

 

岸家

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳井 Ⅱ

2019年07月06日 | 山口県

(岩休寺)

 

尾川猪三良平の墓

 

 岩休寺の奥に墓地があることは気が付かなかった。そこに尾川家の墓地があり、鳥羽伏見の戦いで戦死した尾川猪三郎の墓がある。

 尾川猪三郎の墓は、浦靱負家来。第二奇兵隊半隊司令。慶応四年(1868)一月四日、伏見高瀬川堤で戦死。二十二歳。

 

 ついでに岩休寺の現状写真を載せておく。前回訪ねたのは、もう十五年以上も前のことになる。その時、既に岩休寺は無住の寺となっていたが、あれから時間が経過したこともあり、本堂は一部崩れ落ち、幽霊屋敷化している。

 

岩休寺

 

(白井小介屋敷跡)

 これまで柳井市阿月には二回訪問しているので、もう新しい発見はないかと思っていたが、竹さんの調査で、白井小介屋敷跡があることが判明。民家の脇の小道の先に石碑が建っている。

 

                       

第二奇兵隊軍監白井小介屋敷跡

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大島 Ⅲ

2019年07月06日 | 山口県

(神浦共同墓地)

 竹さんの事前調査によれば、作詞家の星野哲郎の墓が、出身地である大島の和佐地区の共同墓地にあるという。星野哲郎は「アンコ椿は恋の花」「三百六十五歩のマーチ」「兄弟船」などのヒット曲の作詞を手掛け、平成二十二年(2010)、八十五歳で没した。

 少し苦戦したが、やっとのことで星野哲郎の墓を探しだした。ところが、いくら墓域を確認しても星野雄助の墓がみつからない。一旦、諦めてここを離れることになった。

 竹さんが持参した「幕末維新全殉難者名鑑(三)」によれば、星野雄助は和佐の隣の神浦郷の出身となっている。念のため帰りに神浦の墓地で探してみると、墓地の中央辺りに星野雄助の墓を発見した。これはまさに発見と呼んでよいだろう。

 因みに「幕末維新全殉難者名鑑」は、厚さが四センチもあるハードカバーの本で、少しでも荷物を減らしたい旅行に、この本を持って行こうとはなかなかそういう考えにはならないものである。何としてでもという竹さんの熱意が、この発見に結び付いたといえよう。

 

 

星野雄助霊神

 

星野雄助は建武隊。和田筏八幡神社の神官。大島郡神浦住。慶応四年(1868)伏見に戦い、四月九日、京都で病死。

 墓石正面には戒名らしきものが刻まれているが、読み取ることはできない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩国 Ⅲ

2019年07月06日 | 山口県

(岩国護国神社)

 十五年ぶりの長州入りとなった。最初の訪問地は、岩国護国神社である。

 岩国護国神社は、旧藩主吉川経幹が、維新前後の騒乱に斃れた二十二名の御霊を慰めるために、明治元年(1868)秋、関所山に社殿を造営したのを起源とする。その後、西南・日清・日露・大東亜戦争において散華した戦没者を合祀し、現時点で三千三十一柱を奉斎している。明治二十四年(1891)、それまで岩国町関所山招魂社と称していたのを、岩国護国神社と改称した。

 

岩国護国神社

 

 

社殿の奥に維新前後の殉難者の墓が並ぶ

 

 

戦死者三十年祭紀念碑 

 

 明治三十年(1898)、即ち戊辰から三十年目に祭典が開かれたことを記念した石碑である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする