(桑山つづき)
遊撃軍墓碑
遊撃隊は、文久三年(1863)十月、周防国宮市(現・防府市市宮市)の町人や農民、土佐を脱藩した池内蔵太などの浪士を組織して結成された諸隊の一つで、来嶋又兵衛が初代総督を務めた。元治元年(1864)の禁門の変では主力部隊として参戦した。同年十二月には高杉晋作の功山寺挙兵に呼応し、幕府に恭順しようとする俗論党との戦い(内訌戦)に参戦した。慶応元年(1865)には藩の正規軍として認められ、第二次長州征伐(四境戦争)や戊辰戦争を戦った。
ここにある九つの墓碑は、禁門の変で戦死した玉之石卯兵衛、松村喜代蔵、那須唯一(下野壬生藩士)のほか、内訌戦の戦死者、田村勇人、萩原忠一郎、病死した所郁太郎、今枝恭蔵(丹波園部藩士)、桑原義之助(土佐藩士)、国弘忠吾らである。
干城隊等墓碑
干城隊は、慶応元年(1865)一月、高杉晋作の功山寺挙兵に呼応し、萩において、藩論統一を希望する藩士だけで結成された。総督は福原駒之進、頭取はのちに前原一誠。戊辰戦争では、奇兵隊とともに官軍の主力部隊となり、北陸方面で戦った。五つの墓碑のうち、二名は第二次長州征伐における戦傷死者(熊野基三、柳恭蔵、熊野基三の墓碑が両端二つある)、戊辰戦争の戦死者は二名(木屋彦三郎、沓屋兵衛)である。
高知藩士田所壮輔墓
望東尼の墓の右隣には、土佐脱藩で元治元年(1864)九月、三田尻で自刃した田所壮輔の墓がある。
福岡縣士族結城澹三郎墓
墓石には変名「結城澹三郎」と刻まれているが、仙田淡三郎の墓である。
仙田淡三郎は、福岡藩脱藩。生野の変に加わったが辛うじて脱出し三田尻に逃れたが、元治元年(1864)四月、当地で病没。二十七歳であった。
木原亀之進多々良弘幸
木原亀三郎は、文久三年(1863)十月、病気を苦に三田尻の自決した奇兵隊士。「奇兵隊日記」には、葬儀は神式で行われ、奇兵隊士が参列したと記録されている。
野村望東尼歌碑
この歌碑には、野村望東尼が最後に残した歌が刻まれている。討幕軍の戦勝、あるいは間近に迫った維新の夜明けを予感し、それを祝う内容となっている。
冬籠り怺(こら)えこらえて
ひとときに花咲きみてる 春は来るらし
(野村望東尼旧宅跡)
野村望東尼旧宅跡
慶応三年(1867)九月、薩長連合の討幕軍東上を聞くと、山口から勝坂を越え、三田尻(防府)に入り、歌友である荒瀬ゆり子宅の離れに身を寄せ、九月二十五日から十月二日まで、防府天満宮に「七日詣」をして戦勝を祈願した。しかし、約束した期日に薩摩軍が現れず、望東尼はそのまま三田尻に留まった。薩軍の到着を見届けた後、病に倒れ、荒瀬宅にて手厚い介護を受けたが、同年十一月六日、六十二歳の生涯を閉じた。防府高校の南西角に荒瀬家旧宅が移築されている。
明治維新勤王志士 正五位野村望東尼終焉の宅
百拾周年記念之碑
野村望東尼終焉の宅跡の向い側に、昭和五十一年(1976)の建立された、明治維新百十周年記念碑が建てられている。
(大楽寺)
大楽寺には女優夏目雅子(本名西山雅子)の墓があることで知られる。
大楽寺
大楽寺南墓地に楫取素彦、美和夫婦の墓がある。楫取素彦の墓正面には、「正二位勲一等男爵楫取素彦墓」と刻まれているが、美和の墓には「楫取家之墓」とあるだけである。裏面に「美和子 大正十年九月七日」と没年月日が記録されている。
楫取素彦 美和夫婦の墓
GWの中国地方の旅はここまで。防府から新山口に出て、新幹線で京都に戻った。竹さん御夫婦は、防府から山口、宇部、下関を経て萩、須佐を回って、鳥取経由で大阪に戻り、そこでレンタカーを返却。高速バスで仙台に戻る計画で、まだこの時点では中間点であったが、当方としては嫁さん、子供を放置して気ままな旅を続けるのはこの辺が限界であった。
新山口で新幹線に乗ってしまえば、二時間で京都の雑踏に立つことができる。東京から山口というとかなり遠いが、京都からだと意外と近いということが分かった。