これは古本ではなくて、普通に書店で入手。二年前に発刊された比較的新しい本である。
陸奥宗光といえば「剃刀大臣」という異名をとるほど頭の切れる人物であった。自他ともに認める才子であり、能吏であり、策士であった。そして同時に、学究肌の智の人でもあった。その人となりは、「智力の輪転機」であるとか、「神経質の才子」で、そこから野心と覇気を除けば詩人・文学者に近いかもしれないなどと評された(本書「はじめに」)。
幕末、海援隊に属し、坂本龍馬の片腕として頭角を現した陸奥は、維新後、新政府に出仕し、外国事務局、大阪府、兵庫県知事、神奈川県知事などを歴任する。客観的にみれば、相応の地位を与えられていたように思われるし、いわゆる藩閥出身者と比べても、一歩か半歩遅れる程度であった。しかし、陸奥はそのわずかな差に我慢ならず、慶応四年(1868)四月、早くも辞職願兼意見書を提出した。「能力のない者が僥倖で重任を担い、あるいは門地によって登用の有無が決まるなどということがあっては新政の一大事」であり「もとよりその選任に誤りはないだろうが、不才の自分のような例もあるので」「能力不足を理由に辞職したい」という。もちろん陸奥自身は自分が不相応の重任を与えられているとは露ほども思っておらず、能力本位の人材登用がされていない。言い換えれば、自分をもっと重用せよと訴えているのである。強烈な自信家である。
陸奥は、その後もたびたび政策論などを建言しているが、藩閥という後ろ盾のない陸奥にとってそれは常にどうすれば自分が力を発揮できる環境を作り出せるか、という話でもあり、不満や焦りの裏返しでもあった。
その焦りが生んだ最大の失敗が、土佐立志社系の政府転覆計画への関与であった。西南戦争のさなか、陸奥は大阪で大江卓と会い、要人暗殺や挙兵、武器調達の計画を聞いたが、それを政府に報告することをしなかった。陸奥と親しい西園寺公望は「才子で敏感すぎるから、一時失脚したのだね。西南役の折、もしかすると西郷が勝つかもしれんから、幾分その場合に処する用意をして置こうとした」のだと解説しているが、まさにそのとおりであろう。
陸奥宗光という名を歴史上不滅のものとしたのは、明治日本の積年の課題である条約改正を達成し、日清戦争の難局を巧みに乗り切った外交指導者としてである。その冷徹な現状認識と交渉手腕は「陸奥外交」として名高い。あたかも陸奥が明確な方針や展望をもって整然と外交を仕切っていたというイメージで語られるが、本書によれば先々の展開を見通して決断を下していったわけでなく、その時点でかけたコストに見合う対価を獲得し、さらに利益の最大化を図るというのが陸奥の判断基準であった。その結果が、日清の武力衝突であり、陸奥が外務大臣でなければ、あるいは日清戦争は避けられた戦争だったのかもしれない。
藩閥という後ろ盾を持たず、己の才覚と知力のみで大臣まで上り詰めた陸奥は、病床に就くことが増えたとはいえ、依然として政治への情熱を失うことはなかった。明治三十年(1897)三月には自由党総理就任が計画された。陸奥自身にも自由党入りや総理就任への意欲はあったに違いない。しかし、ついに体調は好転することなく、陸奥が自由党を率いて首相となる夢は実現しなかった。
その年の八月、陸奥は五十四歳で死去する。天が彼にあと十年、いや五年の寿命を与えれば、首相になれていたかもしれない。心残りもあっただろうが、この手の野心家は、満ち足りるということがないから、どこまでいっても到達感を覚えることはなかったかもしれない。