史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末維新 銅像になった人、ならなかった人」 三澤敏博著 交通新聞社

2016年12月23日 | 書評
入院に備えて購入した本の二冊目が本書である。本屋で面白そうな本を探していて本書を見付けた。著者三澤敏博氏は、「江戸東京幕末維新グルメ」や「東京「幕末」読み歩き」といった幕末関連書籍があり、いずれも私は座右に置いている愛読書である。ということで迷わず購入した。
帰宅してメールを開くと、筆者三澤氏から
――― この度、交通新聞社より「幕末維新 銅像になった人、ならなかった人」という本を上梓致しました。
というメールが届いていた。購入した日に筆者その人からメールをいただくという偶然に驚きと興奮を隠せなかった。
本書は「第一章 靖国神社の大村益次郎像」「第二章 上野公園の西郷隆盛像」「第三章 皇居外苑の楠木正成像」「第四章 二宮金次郎像」「第五章 銅像の悲劇」という章立てになっている。第一章から第三章までは、いわゆる東京の三大銅像を紹介したものである。
先日、大阪から上京してきた義父と姪に付き合ってはとバスツアーに参加した。皇居から浅草、東京タワーを回るありきたりのコースであった。皇居外苑の楠木正成像を見た後、ガイドさんが
「東京の三大銅像を知っていますか。上野の西郷さん、皇居外苑の楠木正成像ともう一つは何でしょう。」
と参加客に質問したところ、誰も答えられなかった。正答を知っていた私はちょっとばかり鼻が高々といったところであったが、本書では私の知らない情報満載で、一つの銅像にこれほどの秘話が隠されていたものかと改めて目を見張ることばかりであった。
上野の西郷像については、自分では割と知っているつもりであった。薩摩川内市の藤川天神のツンの像も訪問済みであるし、西郷さんが連れている薩摩犬のモデルは、仁禮景範の犬がモデルだという話も聞いたことがある。それでも本書で初めて知る情報も多かった。たとえば、当初西郷像は陸軍大将の軍服を着て馬に乗った姿が計画されていたこととか、立地についても上野公園ではなく皇居が候補に挙がっていたというのは初耳であった。
今に至るまで西郷像は、本人に似ている、似ていないといった議論が続く。大村益次郎像の作成に当たっても、作成者大熊氏廣はキヨソネの肖像を参考にしただけでなく、未亡人である琴子ら親族に取材して念入りに原型を制作している。楠木正成像については、正成がまたがる馬の前足について、高村光雲と後藤貞行の間に激しい議論が交わされたという。
明治に建てられた銅像は、一つひとつに重い歴史があり、製作者の熱い想いがあった。それに比べて昨今、大河ドラマが放送される都度、観光目的で安易に建てられている銅像はいかにも軽い。筆者がいうように「竜馬や(新島)八重、本人の姿より、近代的で美しい姿が優先されたこれらの像は、まさに「ひこにゃん」「くまもん」同様、完全なるキャラクター化された「観光大使」」と化しているのである。
筆者の指摘に激しく同意しつつ、本書で前橋市に楫取県令の像が建立されたことや高知にも新しい龍馬像が建立されたことを教えてもらった。手術の傷が癒え体調が戻れば、また銅像を訪ねる旅に出なければ…

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「三条実美 孤独の宰相とその一族」 刑部芳則著 吉川弘文社

2016年12月23日 | 書評
入院に備えて三冊の本を購入した。「三条実美 孤独の宰相とその一族」はその中の一冊である。入院の前に通勤の電車の中で読もうとしたが、腰が痛くて一日に数ページしか進まない。手術が済まないと読書もままならない身体となっていた。手術を終えて二日目以降、退屈にまかせて読書が進んだ。
本書は、これまで脇役として描かれることが多かった三条実美を主役に据えたもので、著者によれば「太平洋戦争後七十年間刊行されてこなかった」三条の本格的伝記である。
三条実美といえば、明治六年の政変で進退窮まって昏倒する哀れな役回りと相場が決まっているが、著者は三条が胸部の持病を有していたことを明らかにし、決して「発狂」などという精神の病ではなく、急性の狭心症や心筋梗塞により倒れたと見るのが妥当と結論付ける。
政変後、三条はしばらくの静養後、政務に復帰していることからも「発狂」ではなかったのは間違いないだろう。とはいえ、責任への重圧と心労から倒れてしまったことは事実であり、やはり政治家としては脆弱だったと言わざるを得まい。
著者は三条実美という政治家を手放しで絶賛するのではなく「長所は責任感が強くどこまでも誠実」であることとする一方、「短所としては政治的に不器用で要領が悪い」点だと指摘する。彼が得意とするところは「調停」であり、政策立案、財政問題には弱い。著者は客観的かつ公正に三条の美質と弱点を評価する。その姿勢には好感が持てる。
本書の特徴は単に三条の生涯を叙述するだけでなく、彼を取り巻く公家(特に宗族)を紹介して多面的に三条を浮かび上がらせようという視点にある。
ひと言でいえば、この時代の公家出身者には「ろくな奴がいない」という印象である。彼らと比べれば、長く太政大臣を務め明治政府を支えた三条実美は出色の公家だったと言えよう。
まず、取り上げられるのが正親町三条実愛である(維新後は嵯峨と改姓)。正親町三条家は、三条宗族の一家である。幕末には過激な尊攘派公卿として活躍し、討幕の密勅に署名したことでも知られる。
幕末には三条実美の良き相談相手であったが、麝香間祗候となって以降、保守性が際立つようになり、三条とは疎遠になってしまった。当時、麝香間祗候には、中山忠能、大原重徳、松平慶永(春嶽)、伊達宗城といった、幕末にも活躍した公家や大名が名を連ねていたが、彼らは新政府が取る開化政策に危惧を覚え、次第に保守的に傾いていった。結局、政治の中枢にいる三条や岩倉の相談相手にはなり得なかったのである。
本書では次いで、三条の宗族の一つである菊亭家の菊亭脩季(ゆきすえ)を取り上げる。脩季は慶應義塾大学に学び、北海道開拓を志した人物である。北海道開拓は、北辺の国防を強化する意味でも明治政府には重要な命題であり、脩季の志は明治政府の方針にも沿うものであった。しかし、実態としては失敗に継ぐ失敗で、その都度、三条に借金の肩代わりを泣きつき、蜂須賀家との交渉も結局のところ三条頼りであった。三条の足を引っ張るばかりで、彼の存在も三条の悩みのタネであったことだろう。
次いで取り上げられるのが東三条公恭(きんあや)である。私も本書で初めて知ったことであるが、三条実美には本来三条家を継ぐはずだった公睦という実兄がいた。公睦は嘉永七年(1854)に二十五歳で他界し、その時十歳だった公恭は実美の継嗣子となっている。普通であれば、実子公美を優遇して、公恭は別家に出されても文句をいえないところであるが、三条は余程実兄への想いが強かったのであろう。また、愚かな御家騒動を起さないという気持ちも強かったと思われる。
公恭は期待に応えてイギリスに留学し、バリスタ(イギリスにおける弁護士資格の一つ)の学位を取得する。この資格を活かして明治十九年(1886)には英吉利法律学校(のちの中央大学)で教鞭をとっている。この履歴だけ見れば、三条の期待によく応えたことになるのだが、公恭は浪費癖が治らず、不品行から脱することができなかった。辛抱強く支援を続けた三条も、最終的には廃嫡を決めざるを得なかった。
本書では三条家宗族以外の公家についてもわずかながら紹介している。幕末に尊攘派公卿として知られた押小路実潔や滋野井公寿(姉小路公知暗殺の容疑者の一人)、高松実村らも、維新後は鳴かず飛ばずで、目立った業績は見当たらない。それどころか彼らの子どもの世代になると、遊惰不行跡により華族懲戒例の処分を受けたり、借金に首が回らなくなったりしている。これまた本書で初めて知ったことであるが、明治末年まで今の新宿御苑辺りに「公卿長屋」と呼ばれる貧乏住宅があり、綾小路と堤という二つの公家は、退去命令が下される寸前まで自力で転居できないくらいの極貧状態にあったという。
公家出身者の中には、文豪として名を成した武者小路実篤や総理大臣を務めた西園寺公望など、その道で活躍した人物に目が向くが、新しい世に適応できなかった者が圧倒的に多かったというのが現実であろう。
相対的に見ても、明治政府の進める開化政策を理解し、しかも薩長閥の重要性を認識し、さらに政策の対立をバランス良く調停できるという公家は、この当時三条実美を置いてほかにいなかった。彼はずば抜けたリーダーシップを有していたというわけではないが、議会開設前の明治政府を長年にわたって誠実に支え続けた。三条の功績は無視できない。
本書の副題は「孤独の宰相」となっている。確かに、彼の生涯、そして彼を取り巻く宗族や公家華族の体たらくを見ると、「孤独」という形容詞も理解できる。
著者刑部芳則氏は、まだ三十歳代の若い研究者である。非常に楽しみな若い人が出て来た。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「勝海舟の明治」 安藤優一郎著 洋泉社新書

2016年12月23日 | 書評
筆者によれば「江戸無血開城の主役としての印象があまりにも強いがゆえに、その後の海舟、つまり明治維新後の海舟の足跡についてはよく知られていない。」という。そこで「一筋縄ではいかない海舟の後半生を追いかけることで、歴史教科書には描かれることのない明治の時代を解き明かしていく」というのが本書の狙いである。
とはいいながら、海舟は幕末期から日記を残しているし、良く知られているように言いたい放題の談話を集めた「氷川清話」も伝えられている。至って筆まめな人で多くの書簡が残っており、勝海舟全集も編集されている。何が言いたいかといえば、海舟を研究するのに文献にはこと欠かないし、実際に明治以降の海舟をテーマにした書籍も多く発行されている。個人的にも本書で特段目新しい発見はなかった。
著者は一章を割いて「なぜ海舟は人気があるのか」を論じているが、そもそも海舟は人気があるのだろうか。あまり幕末維新期の人物の人気投票というのは見たことはないが、一般的に人気があるのは坂本龍馬とか西郷隆盛とか、高杉晋作、土方歳三といったところではないのか。海舟は上位に入るのだろうか。高校時代の友人に海舟が好きという男がいたが、以来私は海舟フアンという人に出会っていないのである。個人的には、海舟に人気があるとは思えないのである。
本書では海舟のことを一貫して称賛しているが、敢えてケチをつけるとすれば、やはり維新後明治政府に仕えたとはいえ、終始与党内野党であった。気に入らなければプイと辞表を提出してしまう。つまり本気で日本を背負う気はなかったように見える。中国韓国と連携して欧米の帝国主義と戦うという主義を枉げないのであれば、もっと政治に執着し、己の主義の実現に努力するべきではなかったか。維新後の海舟にもそれだけの影響力や政治力はあったはずである。その点で海舟に物足らなさを感じるのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お知らせ

2016年12月18日 | 幕末維新史跡訪問
結局、腰の手術を受けることになりました。
手術は無事終了し、術後の経過も問題なかったので、本日退院致しました。
とはいえ、まだ傷口は痛みますし、日常生活も不自由な状態ですので、当面、史跡探訪の旅はお預けです。
本来、自宅で成すことなく休日を過ごすのは大の苦手で、一日も早く外に出たいのですが、当面は自制します。

という次第で、書評を除き、しばらくの間、お休みになります。ご了承ください。
皆さま、健康で明るい良い年をお迎えください。

植村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静岡 Ⅴ

2016年12月17日 | 静岡県
(洞慶院)


洞慶院

 この土曜日、会社のOB会があったので、沼津に前泊した。当日、早朝五時に起きて静岡に向かった。このところギックリ腰が悪化してヘルニアを発症し特に朝は激痛が走る。脚を引きずるようにしてホテルを出て、早朝の電車に乗った。沼津を出たときは、まだ真っ暗であったが、静岡に着いた頃に夜が明けた。
 静岡駅からバスで約二十分。羽鳥というバス停で下車して、久住谷川に沿ってやはり二十分ほど歩くと、その突き当りが洞慶院である。
 洞慶院は、梅園で有名でその季節になると多くの人で賑わうが、晩秋の洞慶院は閑散としていた。
 洞慶院の駐車場に秋山好古の書による「愛馬追悼碑」が建てられている。大正八年(1919)の建立。


愛馬追悼碑

明治三十七年(1904)、羽鳥出身の陸軍騎兵少尉三浦金蔵は、支給された愛馬「松木」とともに日露戦争に出征した。少尉は勇猛果敢に戦歴を重ねたが、銃弾を受け瀕死の重傷を負い、明治三十九年(1906)、愛馬とともに辛うじて生還した。以降、三浦家で「松木」を養ったが、大正五年(1916)病死した。三浦少尉はその死を惜しみ哀傷の碑を建ててこれを祀ることとした。秋山好古は三浦少尉の上官だったという。

(本覚寺)


本覚寺

 本覚寺は日蓮聖人の直弟子日位上人が延慶元年(1308)に創立した寺で、静岡市内でも有数の古刹である。東静岡駅から歩いて二十分ほどである。広い境内には、鎌倉時代に建造された本堂、金毘羅宮のほか、これまた広い墓地には今川氏の武将で桶狭間の敗戦時に義元の首を駿府に持ち帰った岡部丹波や今川氏の重臣孕石主水の墓がある。


心善院法山日桜信士(安東文吉の墓)

 墓地入口近くに安東文吉(本名・西谷文吉)の墓がある。
 文吉は文化五年(1808)、駿府安東に生まれた。江戸に出て力士となり前頭三枚目まで昇ったが、相撲取りを辞めて侠客となり常に七八十人の子分がいて「海道一の大親分」となった。温厚で争いを好まず、駿府代官所の目明し筆頭となり、大捕り物を演じた。文吉の顔がきくことから、文吉にすがって命を助けられた者数知れず、そのため「首継ぎの親分」といわれた。明治四年(1871)八月、御器屋町の自宅にて六十四歳の生涯を閉じた。以上、墓地傍らの頌徳碑より。

(堀ノ内)


国学者出島竹斎誕生之地

 堀ノ内に出島竹斎の墓があるというので、当てもなくその付近を歩いた。結局、竹斎の墓は発見できなかったが、その代わり、住宅街の中に偶然竹斎誕生地碑を見付けた。早起きした御褒美というわけである。
 出島竹斎は、文化十三年(1816)、駿河小鹿村に生まれた。維新後、勝海舟、大久保一翁の知遇を得て、名主役、郡政方付属として民政に貢献した。明治十二年(1879)、久能山東照宮祠官。明治十八年(1885)、皇典講究分所長となった。明治二十年(1887)、七十二歳で没。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

両国 Ⅵ

2016年12月17日 | 東京都
(緑町公園)


津軽藩上屋敷跡

 北斎通り沿いの緑町公園辺りは、津軽藩上屋敷跡である(墨田区亀沢2‐7‐7)。私がこの地を訪れた時、公園は工事中であった。緑町公園の西側が江川太郎左衛門終焉之地である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王子 Ⅲ

2016年12月17日 | 東京都
(正受院)


正受院


石造近藤守重(重蔵)坐像

 正受院本堂前に石造の近藤重蔵像が置かれている(北区滝野川2‐49‐5)。近藤重蔵は千島列島から蝦夷地を探検し、択捉島に「大日本恵土呂府」という標柱を立てたことで知られる。重蔵は、明和八年(1771)、江戸町奉行所与力の二男に生まれ、家督を継いで通称を重蔵、号を正斎と称した。寛政十年(1798)、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、高田屋嘉兵衛の協力を得て、甲冑に身を固めて択捉島に渡り(石像はこのときの姿がモデルか)、現地の開発に尽力した。また、利尻島の探検にも参加し、文政五年(1822)から九年までの四年間、正受院の東隣に滝野川文庫という書斎を設けて住んでいた。この石像は、このことを記念して、谷文晁に下絵を依頼して製作したと伝えられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白金台 Ⅲ

2016年12月17日 | 東京都
(八芳園)


八芳園

 この日、白金台の八芳園で組合設立五十周年記念式典があった。ご招待を受けたので、少し早目に会場に行って、庭園を散策した(港区白金台1‐1‐1)。
 八芳園はもと大久保彦左衛門の屋敷といわれ、その後の所有者は不明であるが、江戸後期には薩摩藩抱屋敷、島津氏の下屋敷を経て、明治後期に渋沢喜作の手に渡った。大正年代に実業家久原房之助の邸宅となり、建物と庭園が整備された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

洗足池 Ⅱ

2016年12月17日 | 東京都
(鳳凰閣)


鳳凰閣

 鳳凰閣(旧清明文庫)は、勝海舟の精神を基本に、図書の収集閲覧、学習、人材育成を目的に講義を行う場として、財団法人清明会が昭和八年(1933)に開館したものである((大田区南千束2‐3‐1)。この建物は、当時の教育施設に多用されたネオゴシック様式などを基調としたもので、昭和初期の時代を表す歴史的建造物で、平成十二年(2000)に国登録有形文化財に登録されている。現在は外観のみ公開されており、敷地内に立ち入ることはできない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

板橋 Ⅲ

2016年12月10日 | 東京都
(観明寺)
 中山道沿いにある観明寺は、暦応元年(1338)に創建されたともいわれるが、詳細は不明。板橋宿の寺として、多くの人々の信仰を集めた。
 境内に鎮座している出世稲荷神社と赤門は、もと加賀藩下屋敷に祀られていた三稲荷の一つで、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺に遷座されたものである。


観明寺


観明寺山門


加賀稲荷神社

 板橋宿の外側には水田と畑が広がり、南東部一帯は二十二万坪(約72.6ヘクタール)におよぶ加賀藩下屋敷が広がっていた。この下屋敷が板橋宿に移ってきたのは天和三年(1638)といわれる。維新後、江戸内の藩邸や武家地は全て官有地となり、加賀藩下屋敷も没収された。明治九年(1876)、広い敷地は陸軍に払い下げられ、火薬製造所が設けられた。これを機に、それまで農耕が主であった板橋に初めて工場が進出し、さらに軍の下請け工場が付近に集積することになった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする