史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

府中 Ⅶ

2022年09月24日 | 東京都

(多磨霊園つづき)

 

光照院殿無量真實日文大居士(河鰭實文の墓)

 

 河鰭實文は弘化二年(1845)の生まれ。父は内大臣三条実万。養父は世々神楽をもって奉仕する河鰭公述。万延元年(1860)二月、河鰭公述の養子となり、従五位下に叙され、文久三年(1863)、従五位上に進んだ。慶應四年(1868)二月九日、有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任命されると、錦旗奉行を拝命し、同十五日親王に従って京都を発し、四月江戸城に入り、ついで大総督府参謀加勢に任じられ、七月帰京。八月、錦旗奉行を免じられ、明治二年(1869)正月、侍従に任じられ、六月戊辰の戦功により賞典禄百石を永世下賜された。明治三年(1870)三月、東京府出仕を命じられ、十月東京府権少参事となった。その後、内務省御用掛、内務権少書記官、元老院議官等を歴任し、貴族院議員に互選され、明治四十三年(1910)、死去の日特旨をもって従二位に昇叙された。年六十六。【21区1種10側】

 

藤田家之墓(藤田高之の墓)

 

 藤田高之は弘化四年(1847)の生まれ。通称は次郎。藩校に学んで、文久三年(1863)、句読師になった。慶應三年(1867)、神機隊の参謀となり、慶応四年(1868)戊辰戦争では、初め備中地方の鎮撫に従い、のち江戸に出て、五月、大総督府から軍監として武蔵国埼玉郡忍に派遣され、さらに奥州各地を転戦した。明治七年(1874)、司法省に出仕して少丞に進んだ。のち立憲改進党の創立に関係した。大正十年(1921)、年七十五で没。【10区1種12側】

 

清渓山井先生之墓

 

 山井清渓は弘化三年(1846)の生まれ。父は淀藩士内田成允。山井璞輔(介堂)の養子となった。安井息軒に入門し、伊予西条藩の藩校択善堂の学頭をつとめた。維新後は東京の養正塾などで教え、明治二十九年(1896)には一高の教授となった。明治四十年(1907)、年六十二にて没。【3区1種9側】

 

介堂山井先生墓

 

 山井介堂(璞輔)は、文政五年(1822)の生まれ。松崎慊堂に朱子学を学び、足利学校にて古典籍を比較考証した。慊堂の推薦によって、長く断絶していた山井崑崙の家名を再興。伊予西条藩の藩校拓善堂の教授となった。文久二年(1862)、四十一歳にて没。【3区1種9側】

 

守田家累代之墓(守田勘弥の墓)

 

 歴代守田勘弥の墓である。十二代守田勘弥は、弘化三年(1846)の生まれ。本名は寿作、俳名は是好と称した。文久三年(1863)、守田家の養子となり、勘次郎といった。元治元年(1864)、十二代を相続し、江戸三座の一つ守田座の座元になった。明治五年(1872)、劇場を従来の猿若町から率先して新富町に移し、ガス燈、椅子席の新設、「留場」「かっぱ」の廃止など、劇場制度の一新を断行した。明治八年(1875)十一月には劇場名を新富座と改め、団菊左をはじめ当代の人気俳優と河竹黙阿弥を作者に擁して、以後の五、六年間新富座時代と称される黄金時代を現出した。一方、政府の高官、学者、文人と交わり、俳優と演劇の地位向上に努めた。晩年は新富座の経営困難と多大な負債のため、明治三十年(1897)、不遇のうちに没した。年五十二。【1区1種6側】

 

専光院殿妙感久利大居士(仙石久利の墓)

 

 ありがた山を調査した後、吉盛氏の要望に応えて多磨霊園に移動して、仙石久利・政固の墓を訪ねた。以下、吉盛氏の「但馬の殿様」より抜粋。

 仙石久利は、文政三年(1820)の生まれ。父は五代出石藩主久道。文政七年(1824)、襲封。先代政美の急死で家督を継ぎ、先々代の久道が後見した。天保六年(1835)、いわゆる仙石騒動により仙石家は二万八千石を召し上げられ三万石に減封となり、久利は藩政を離れて学問に精進するように命じられた。減知後の出石藩では、依然として内紛が続き、久利は酒匂清兵衛を執政に任じ、藩士の削減を命じ、反対派は追放する強権を発動した。天保十四年(1843)、再び幕府の処分が検討されたが酒匂の切腹により回避した。以後、帰参した追放組の堀新九郎や桜井一太郎が藩政を主導し、海防負担の裏付けもあって嘉永三年(1853)、二千五百石余ではあるが旧領の一部復活に成功した。文久二年(1862)、藩政を私物化したとして堀新九郎に切腹を命じ、同年十二月、藩主直裁を宣言した。明治二年(1869)、藩知事。翌明治三年(1870)、致仕。出石鍛冶屋町の清水屋敷に居住したが、明治九年(1876)、上京。明治三十年(1897)、年七十八で没。

 同じ墓域に仙石政固も葬られている。政固は天保十四年(1843)の生まれ。慶應元年(1865)、久利の養嗣子となり、明治二年(1869)には新政府に出仕して学校権判事となり、明治三年(1870)、承継して出石藩知事、明治四年(1871)、廃藩により免官。大正六年(1917)、七十五歳にて没。

 仙石家の墓は、手入れがされていない様子で、雑草が腰の高さくらいまで伸びている。

 

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茂原 Ⅱ

2022年09月24日 | 千葉県

(藻原寺)

 海外出張から夜行便で戻り、成田に早朝に着いた。このまま自宅に帰るのはもったいないので、千葉で下車して外房線に乗り換え、茂原を訪問することにした。

 茂原公園は、桜やツツジで有名な自然豊かな公園である。公園の南側に、茂原の地名の由来となった藻原寺(そうげんじ)がある。

 

茂原公園

 

藻原寺

 

山門

 

 藻原寺の山門は、昭和八年(1932)建造されたもので、今や茂原市のランドマークとなっている。

 

 本堂の裏には、いくつか石碑が並べられており、その中に大田和斎、嶺田楓江の顕彰碑がある。

 

大田和斎先生精頌之碑(左)

楓江嶺田先生碑(右)

 

 大田和斎は、文政五年(1822)の生まれ。江戸に出て、詩人山地蕉窓に詩文を学び、天保十二年(1841)に幕府の昌平黌に入って漢学を学んだ。その後、諸国遊歴に出て、各地の篤学者、大家から学問を学んで見聞を広め、清河八郎ら勤王の志士たちと交流をはかり国事を論じた。安政四年(1857)、浅草馬道の裏通りに小桃源閣(儒道塾)を開き、八百余人の門下生を育成したと伝えられる。維新後、帰郷して明治十一年(1878)、郷里長柄郡芦網村(現・茂原市)において芦村塾を開き、広く漢学、詩文を教授するとともに、明治二十年(1887)、英学科を加えて私立英漢育才学校と改称し、英語の教育にも力を入れた。明治三十四年(1901)、没。頌徳碑は、徳川家達の篆額。

 

 嶺田楓江は、丹後田辺藩士。蝦夷地を調査して幕府老中安藤信正に蝦夷地開拓を説いた。維新後、請西(現・木更津市)へ移住。明治十年(1877)には、藻原寺の塔頭東光院に賛化学校が開校されると、同校の教頭として生徒の育成に力を注いだ。明治十六年(1883)、没。この顕彰碑は、明治四十三年(1910)、楓江を慕う門人たちの手によって建てられた。

 

板倉胤臣之碑

 

 墓地中央に板倉胤臣の墓碑がある。島田篁村(重禮)の撰文、金井之恭の書。

 板倉胤臣は、天保十一年(1840)の生まれ。二十五歳で江戸に上り、芳野金陵らの塾に学んだ。また東条一堂の門人清河八郎らと交わり、大いに尊王の精神を培った。慶應四年(1868)、東海道先鋒総督一行が池上本門寺屯営すると、胤臣は進んで参謀安場保和と面会して時事を論じた。かくて参謀の認めるところとなり、総督柳原前光の上総地方巡察に際して先導を務めた。同年九月、上総安房監察兼知県事柴山典の属官となり、訴訟事務を担当した。廃藩置県後、千葉県第七大区(長柄、上埴生)郡副戸長、さらに第八大区区長となり、郡村の政治に尽力した。明治十二年(1879)、県会開設とともに県会議員となり、議長に推された。明治二十三年(1890)、衆議院議員となり、自由党に属した。明治二十八年(1895)、年五十六にて没。

 

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宇都宮 Ⅷ

2022年09月24日 | 栃木県

(宇都宮城址公園つづき)

 

天皇親臨賜酺處

 

 この日は、宇都宮駅前でレンタサイクルを調達し(一日百円)三時間ほどかけて宇都宮市内を回った。かいた汗の量に比して、収穫は少なかった。

 

 宇都宮城の「天皇親臨賜酺處」は、明治二十五年(1892)十一月二十六日、陸軍特別大演習後、明治天皇臨席のもと、この地で大宴会を催されたことを記念したもの、「酺(ほ)」とは、集まってともに酒を飲むという意味である。翌日、天皇は宇都宮駅から汽車で東京に帰還した。

 

(報恩寺つづき)

 

戸田三男君墓

戸田操松日子墓

 

 戸田三男は、会津飯寺にて濃霧の中、一隊を率いて進軍中、長岡藩家老の山本帯刀隊と遭遇し、彼らを捕捉した。軍監中村半次郎の判断により山本帯刀らは処刑されたが、その際に自分の愛刀と金二百両を戸田に渡し「これを貴藩に提供す。相当の費用に充てられんこと」を託した。戸田は有志の賛同を得て、戦後六道の辻にあった旧幕府軍の墓地を整理して建碑した。なお、山本帯刀の佩刀は、現在栃木県護国神社の所蔵となっている。

 

光形君 元治元年九月十六日

(戸田光形の墓)

 

 戸田光形の墓である。

 戸田光形は、天保七年(1836)の生まれ。父は藩老戸田光利。安政元年(1854)頃脱藩。江戸に出て初め講武所師範戸田八郎左衛門に、ついで安政四年(1857)より斎藤弥九郎の門に学び、万延元年(1860)、帰参を許されたが、長ずるに及び宇都宮天狗党を結成してその首領となった。元治元年(1864)六月五日、筑波勢の池尻嶽太郎の隊に加盟して幕軍と戦い、敗戦後、筑波本隊に転じ、戸田弾正の名において総轄兼調練奉行に任じられ各地を転戦した。同年九月十六日、磯浜において戦死。年二十九。主義を異にして、藩老縣信緝(六石)をつけ狙った。直情径行の人であった。

 

(慈光寺つづき)

 

孝二郎彦坂輿譲墓

 

 彦坂孝次郎(孝二郎とも)は、慶応四年(1868)八月三十日、会津倉谷村にて戦死。二十二歳。

 

齋田權兵衛重虎

 

 齋田権兵衛は武具奉行。慶應四年(1868)六月二十六日、下野藤原村にて戦死。四十六歳。

 

(生福寺)

 


生福寺

 

 生福寺に菊池教中の墓を訪ねた。菊池教中は、文政十一年(1828)、宇都宮城下に生まれた。父は呉服商を営む菊池淡雅。江戸にも出店して巨富をなした。家業を継いだ教中は、業務の拡張に精励する傍ら、困窮者や貧しい文人墨客に対する援助を厭わなかった。安政二年から文久年間にかけて、鬼怒川沿岸岡本、桑島の荒地の開墾に尽くした。国事多端の折、姉巻子の婿、大橋訥庵に感化され熱烈な尊王攘夷論者となった。政治的な活動に目覚めた教中は、老中安藤信行の暗殺計画にも関与し、宇都宮藩士による一橋慶喜擁立挙兵計画が露見すると、逮捕投獄された。文久二年(1862)一旦出獄したが、間もなく病のために没した。三十五歳であった。

 

義烈院真岸澹如居士(菊池教中の墓)

 

澹如菊地教中之墓(菊地教中の墓)

 

 生福寺を再訪した。菊地教中の墓はどうやら二カ所にあることが分かった。

 

東海院淡雅温卿居士(大橋淡雅の墓)

順性院慈室貞民大姉(菊地民子の墓)

 

 墓地入口付近にある菊地家の墓には、教中の両親、大橋淡雅と菊地民子の墓がある。

 

 大橋淡雅は、寛政元年(1798)の生まれ。初め医者を志したが、十五歳のとき、宇都宮の豪商菊池家(佐野屋)の養子(妻は民子)となると、商才を発揮し、文化十一年(1814)正月、江戸日本橋元浜町に借地して商売を始めて、一代にして巨富を成した。営業内容は、呉服、木綿、質屋、両替などで、金貸も行った。財なるや、渡辺崋山をはじめ当代一流の文人墨客と交遊し、また自らも書筆に長じ、鑑定を能くした。菊地家の養子であったが、大橋姓を名乗り続け、後嗣に「商人は不都合」として大橋訥庵を娘巻子の婿とした。坂下門外の変の遠因と言われる。年六十五で没。

 

 菊池民子は、寛政七年(1795)の生まれ。父は、佐野屋治右衛門こと菊池治右衛門。大橋淡雅(佐野屋孝兵衛)を婿養子として迎えた。菊地教中、大橋巻子の母である。淡雅は、江戸日本橋元浜町に分家出店してより、呉服・木綿等を取り扱い一代にして巨富をなした。淡雅は文人墨客を友とし、書道に長じたが、民子も文才に富み、国学、和歌を大国隆正、吉田敏成に学び、すこぶる和歌に長じ歌集「倭文舎集」を版行した。他面女丈夫であったことは、大橋訥庵、実子菊池教中らが坂下門外の変に連座、入牢した際の関係書翰によって知られる。元治元年(1864)、年七十で没。

 

(台陽寺つづき)

 

堀君碑銘(堀貞道の墓)

 

 堀貞道は、弘化元年(1844)の生まれ。父は宇都宮藩士堀内記。通称は兵吾、豹吾。幼少から文武の道に励み、万延元年(1860)正月、藩の訓読師となった。筑波挙兵後、藤田小四郎らが宇都宮城を訪れたころから、これを支援しようとする同志の動きが激しくなり、ついに同志の小山剛介ら八人と脱藩、城下竹下村に屯集した池尻嶽五郎の隊に参加し、変名して早川新介と称して、しばしば幕軍と戦ったが、のちに那珂湊の戦で捕らえられ、長岡村にて斬られた。年二十一。台陽寺の墓碑は、明治二十一年(1888)十二月の建碑。圓山信庸の撰文、関貞良の篆額および書。

 

 

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水戸 常磐共有墓地 Ⅻ

2022年09月17日 | 茨城県

(回転神社・水戸常磐共有墓地つづき)

 

梶清次衛門信基墓

 

 梶清次衛門は文政四年(1821)の生まれ。天保末年、家督を継いで、床几廻より歩士目付・小十人組・土蔵番頭を経て、安政二年(1855)、寺社役に進み、馬廻役に列した。万延元年(1860)十月、富小路任節が勅書を奉じて水戸に微行した時、原市之進と図り、家老大場一真斎に致した。文久三年(1863)正月、一橋慶喜に随従して上京し、翠紅館の志士会合に列席して諸藩の同志と交わり、攘夷の気運を高めた。元治元年(1864)の国難に那珂湊に拠り、城兵並びに諸家の兵と戦い、十月二十三日、総督榊原新左衛門の自首に従い古河藩に禁固され、翌慶應元年(1865)、死罪に処された。年四十五。

 

福地勝衛門道遠墓

 

 福地勝衛門は、天保元年(1830)の生まれ。父福地広延は神発流砲術指南。幼より学を好み、神童の聞こえ高かった。嘉永六年(1853)、進仕して床几廻に選ばれ、九月、砲術出精をもって賞された。安政三年(1856)、重ねて賞され、同年馬廻組に班した。文久三年(1863)、軍用掛見習となり、二月、藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治元年(1864)八月、父と行動をともにし、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、斬罪に処された。年三十六。

 

沼田久次郎泰誨墓

 

 沼田久次郎(きゅうじろう)は、文化八年(1811)の生まれ。歩行目付、普請奉行を経て、文久三年(1863)、奥右筆頭取に進んだ。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため小金駅に屯集し、八月、松平頼徳を護衛して那珂湊に陣し、城兵と交戦したが、十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、死罪に処された。年五十五。

 

真木彦之進敬嗣墓

 

 真木彦之進は、文政七年(1824)の生まれ。天保十三年(1842)、床几廻に選ばれ、安政五年(1858)、家督を継いで普請奉行となる。文久三年(1863)、藩主徳川慶篤の上京に随従。同年六月、西郡奉行に任じられた。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集。松平頼徳に従って那珂湊に拠り諸戦に参加した。同年十月二十一日、榊原新左衛門が自首を決すると、会合の場において評決することを主張し、新左衛門はこれに従った。二十三日、降伏して古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、自刃に処された。年四十二。

 

村田理介正興墓

 

 村田理介は文化五年(1808)の生まれ。文政元年(1818)、家督を継ぎ、天保十三年(1842)、東郡奉行となり、弘化の難に際し、藩主徳川斉昭の雪冤に奔走した。安政元年(1854)、反射炉築造に当たって、金子孫二郎とともに奉行に任じられた。文久三年(1863)、北郡奉行に移った。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集した。八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、那珂湊に残留して負傷者の看護に従事した。十一月、銚子に禁固され、慶応元年(1865)四月、自刃を命じられた。年五十八。

 

鈴木庄蔵宜大墓

 

 鈴木庄蔵は、文政五年(1822)の生まれ。天保十三年(1842)、床几廻となり、安政元年(1854)、家督を継いで、安政四年(1857)、大番組頭。文久二年(1862)六月、先手同心頭となり、海岸防御として磯浜定詰となった。元治の役に際して、松平頼徳の陣営に入り、那珂湊に拠って城兵と戦い、十月二十三日の総督榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され自刃に処された。年四十四。

 

三木孫大夫玄順墓

 

 三木孫太夫(まごだゆう)は、文政五年(1822)の生まれ。嘉永六年(1853)、床几廻に選ばれ、安政元年(1854)、家督を継ぎ、文久元年(1861)、同心頭となった。文久三年(1863)、藩主徳川慶篤の上京に従った。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集した。八月、松平頼徳を護衛して水戸に下り、那珂湊に拠って転戦。十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、自刃に処された。年四十四。

 

福地政次郎廣延墓

 

 福地政次郎は、文化七年(1810)の生まれ。福地勝衛門は長男。天保六年(1835)、進仕して小十人組に班し、嘉永六年(1853)、小姓頭取に進んだ。同年十一月、大砲献上の介添えを勤めた。安政元年(1854)、神発流指南の功により賞され、安政四年(1857)、指南出精により持筒頭格となり、安政五年(1858)、鉄砲頭、軍用掛に任じられた。元治元年(1864)八月、松平頼徳を神勢館に迎え、目代の入城を計った。しかし、城中の市川三左衛門らはこれに応じず、再び戦闘となり、政次郎は頼徳に属して城兵と対抗した。同年十月二十三日、総督榊原新左衛門の自首するに及び、政次郎もこれに従い、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、自刃に処された。年五十六。

 

門奈三衛門直方墓

 

 門奈三衛門は、兄直章の養子となり、天保三年(1832)、家督を継いだ。弘化元年(1844)、歩行頭を経て、安政三年(1856)、大番頭となり、同年八月致仕。元治の難にその二子が現地に赴き、そのため有司に忌避され、官舎に禁固され、慶応元年(1865)五月、獄死した。年齢不詳。

 

谷彌次郎政常墓

 

 谷弥次郎は文化元年(1804)の生まれ。天保十三年(1842)、家督を継いで大番組。安政元年(1854)、町奉行となり、安政五年(1858)、用人を経て万延元年(1860)、新番頭に進んだ。文久三年(1863)、用人を再勤。藩主徳川慶篤の上京に従った。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集して、武田耕雲斎らと画策した。八月、松平頼徳を護衛して下国。那珂湊に拠って転戦したが、十月二十三日に至り榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、自刃に処された。年六十二。

 

富田三保之介知定墓

 

 富田三保之介は、天保九年(1838)の生まれ。万延元年(1860)、側用人となり、文久元年(1861)、若年寄に進んだ。文久三年(1863)、藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治の役では、松平頼徳に属し、那珂湊に拠って城兵と戦火を交えた。元治元年(1864)八月末、軍事奉行に任じられ、中備の将となった。同年十月二十三日、総督榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月五日、自刃に処された。年二十八。

 

谷鉄蔵忠吉墓

 

 谷鉄蔵は弘化元年(1844)の生まれ。父は谷弥次郎。嘉永四年(1851)、本家谷重和の養子となって家督を継ぎ、中寄合、小姓、使番、歩行頭と進んだ。安政五年(1858)、藤田小四郎、佐野竹之介らと奉勅を唱えて奔走した。元治の役では、榊原新左衛門に属して那珂湊に拠り城兵と交戦したが、幕府に抗する意はなく、十月五日、幕軍が那珂湊に迫るに及んで退陣した。同月二十三日、総督榊原の自首に従い、父政常とともに古河藩に禁固され、翌年四月、自刃に処された。年二十二。

 

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水戸 常磐共有墓地 Ⅺ

2022年09月17日 | 茨城県

(回転神社・常磐共有墓地つづき)

 

佐々與右衛門成徳墓

 

 佐々(さつさ)与衛門は、文政八年(1825)の生まれ。嘉永六年(1853)床几廻に選ばれ、安政元年(1854)、命により江戸に出て外夷の変に備えた。砲技を能くし、しばしば賞された。安政五年(1858)、小十人組に補され、同年家督を継ぎ、馬廻組に移った。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため小金に屯集し、八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、砲隊を指揮して城兵、幕兵と転戦した。同年十月、降伏して古河に禁固され、慶応元年(1865)、囚中に没した。年四十一。

 

林忠左衛門以徳墓

 

 林忠左衛門は天保十一年(1840)の生まれ。安政四年(1857)、床几廻に選ばれ、のち馬廻組となる。安政五年(1858)の藩難、ついで安政六年(1859)の勅書返納阻止に奔走した。万延元年(1860)二月、金子孫二郎らが評定所に召喚されたことを聞き、これを奪わんとして藩兵と消魂橋に戦って負傷し、ために大老井伊直弼邀撃に加わることができなかった。同年八月、薩摩藩邸に三十七人とともに投じ、攘夷の先陣たらんとした。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集した。同年八月、松平頼徳を護衛して那珂湊に拠り、少年隊を指揮して城兵と戦い、神勢館の砲戦にて負傷して十月二十三日、総督榊原新左衛門の自首に従い、久留里藩に禁固中、慶応元年(1865)正月、病死した。年二十六。

 

武石権三郎重方墓

 

 武石権三郎は、文政三年(1820)の生まれ。弘化四年(1847)、進仕して歩行士に列し、与力となった。万延元年(1860)、格式小十人組の次に班した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため小金に屯集。八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、各地で城兵と交戦し、十月二十三日、降伏して忍藩に禁固され、慶応二年(1866)六月、囚中に病死した。年四十七。

 

平方金五郎忠善墓

 

 平方金五郎は、天保五年(1834)の生まれ。嘉永六年(1853)、床几廻に選ばれ、安政年中両度武芸出精により賞された。文久三年(1863)二月、歩行目付となった。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集した。同年八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、城兵ならびに幕兵と交戦し、十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、慶応三年(1867)十月、久留里藩に禁固中、病死した。年三十四。

 

天埜虎次郎格墓

 

 天野虎次郎は、天保十三年(1842)の生まれ。元治甲子の乱で榊原新左衛門に属して那珂湊に拠り、城兵と転戦して元治元年(1864)十月二十三日、榊原が自首するに際してこれに随い、忍藩に禁固されて慶應三年(1867)正月、囚中に病死した。年二十六。

 

田尻新介和好墓

 

 田尻新介は文政二年(1819)の生まれ。年少の頃より会沢正志斎に学び、天保末横目役に任じられ里正を兼ねた。弘化の変に、出府して藩主の無実を老中牧野忠雅邸に訴えて発覚し、獄に繋がれた。藩政回復するに及んで赦され、安政初め横目役に復して郷士に列した。同六年の難に南上して意見を開陳し、勅書返納の議が起こると憤激して大老井伊直弼襲撃を唱えた。元治元年(1864)春、選ばれて郡方勤となって徒士に列し、潮来郷校の取締を命じられ、動乱には那珂湊に拠って城兵と戦った。のち降伏して岩槻村に禁固され、慶応元年(1865)四月、死罪に処された。年四十七。

 

床井荘三親徳墓

 

 床井(とこい)荘三は、天保九年(1838)の生まれ。藩校に学んで俊秀の聞こえが高かった。茅根伊予之介、原市之進につき塾生を教授した。安政三年(1856)、史館雇となり、歩士に転じ、小十人組に班した。文久三年(1863)、藩主に随従して上京した。元治の役には、武田耕雲斎に属して各所を転戦したが、十月、榊原新左衛門らの自首に従い、忍藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、死罪に処された。年二十八。

 

宮本辰之介信守墓

 

 宮本辰之介は、天保三年(1832)の生まれ。安政元年(1854)、床几廻に選ばれ、安政四年(1857)、家督を継いで小十人組に班し、普請奉行を経て小十人目付となった。文久二年(1862)、勅使大原重徳の東下に際し、下野遠明と間行して出府し、重徳に接して上書建言するところがあった。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい、藩邸に入り、八月、目付代松平頼徳に随従して那珂湊に入り、城兵と交戦して十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され翌年四月、死罪に処された。年三十四。

 

大胡聿蔵資敬墓

 

 大胡聿蔵は、文政五年(1822)生まれ。天保十三年(1842)、文武出精により賞され、弘化の藩難に奔走して処罰された。嘉永二年(1849)、免じられたが、嘉永六年(1853)、床几廻に選ばれ、安政四年(1857)、家督を継いで小十人組に班した。安政五年(1858)、勅書伝達をはかり住谷寅之介と西海南海道に遊説し、このとき立川で坂本龍馬と会見している。安政六年(1859)二月帰藩。同年八月、高橋多一郎らと出府し、薩摩藩士高崎五六らと会合し除奸計画に加わった。文久二年(1862)冬、一橋慶喜の上京に随従した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集し、七月、松平頼徳に従って那珂湊に拠り、諸生隊を率いて城兵並びに幕兵と交戦。同年十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、自刃に処された。年四十四。

 

林了蔵正竜墓

 

 林了蔵は、文政十二年(1829)の生まれ。安政三年(1856)、弘道館舎長に挙げられ、安政四年(1857)、訓導となった。万延元年(1860)、奥右筆に転じ、文久元年(1861)、馬廻組を経て奥右筆に復した。元治元年(1864)六月、市川三左衛門らの執政就任に反対し、江戸に向かうため下総小金に屯集した。同年八月、松平頼徳に随従して下向、那珂湊に拠って城兵と戦い、十月二十三日に至って榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固されて慶應元年(1865)四月、死罪に処された。年三十七。

 

三浦平太郎忠武墓

 

 三浦平太郎は文化三年(1806)の生まれ。通称は初め平太郎、のちに贇男(よしお)。文化十年(1813)、家督を継ぎ、天保十二年(1841)、町奉行に挙げられた。弘化の藩難に際し、藩主徳川斉昭の雪冤に奔走したが、幕忌にふれて免職閉居に処された。安政の初め、小姓頭取となり、君側にあること前後三十年に及んだ。文久二年(1862)八月十七日の斉昭三回忌に幕府代新見正興を迎え、城付代を命じられた。文久三年(1863)、用人に進み、同年九月本丸御城付となった。元治元年(1864)八月、反対派のために職を免じられ、慶応元年(1865)十月二十四日、元家老杉浦政安(羔二郎)らと獄に投じられ、翌日死罪に処された。年六十。

 

原熊之介忠愛墓

 

 原熊之介は、文政八年(1825)の生まれ。天保十三年(1842)、床几廻に選ばれ、弘化の難に藩主徳川斉昭の無罪を老中阿部正弘に訴えて罪を得、幽閉された。安政四年(1857)、吟味役となり、文久三年(1863)、藩主慶篤に随従して上京した。同年家督を継いで勘定奉行見習となった。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため、下総小金に屯集した。同年八月、松平頼徳の下国に随従。那珂湊に拠って城兵と交戦、十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固されて慶應元年(1865)四月、死罪に処された。年四十一。

 

下野準次郎遠明墓

 

 下野準次郎は、文政六年(1823)の生まれ。安政三年(1856)、進仕して弘道館訓導に挙げられ、史館勤を兼ねた。安政五年(1858)八月、勅書問題が発生すると、国事に奔走し、文久元年(1861)五月、同藩の原市之進とともに宇都宮藩士大橋訥庵らと会合して安藤老中要撃を画策した。文久二年(1862)冬、一橋慶喜の上京に随従し、文久三年(1863)正月、翠紅館の会合に列席し、諸藩の同志と交わり、攘夷の気運を高めた。同年三月、軍用見習となる。元治元年(1864)の役では、松平頼徳に属して那珂湊に拠り、山國喜八郎とともに軍議に与った。同年十月二十三日、総督榊原新左衛門の自首に従い、岩槻藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、死罪に処された。年四十三。

 

 

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水戸 常磐共有墓地 Ⅹ

2022年09月17日 | 茨城県

(回天神社・常磐共有墓地つづき)

 元治甲子の乱(いわゆる天狗党の乱)がいかに水戸藩の人材を浪費したか。無論全てではないが、常磐共有墓地に葬られている水戸藩の有為の人材を紹介したい。

 

榊原新左衛門照煦墓

 

 榊原新左衛門は、天保五年(1834)の生まれ。嘉永二年(1849)、養子となって家督を継いだ。安政五年(1858)、大番頭、大寄合頭を経て、文久三年(1863)、執政に挙げられた。元治元年(1864)六月、市川三左衛門らの執政就任に反対して江戸に向かい、その解任に成功した。ついで同年八月、藩主目代として下向する松平頼徳を護衛して水戸へ下ったが、三左衛門らに入城を阻止され、転じて那珂湊に陣して遂に城兵と交戦するに至った。同年八月二十九日、頼徳は陣容を改めて新左衛門を軍事総督に任じた。やがて幕府目付戸田五助の誘引により頼徳は江戸に向かい幕府に陳情することになったが、九月二十六日、那珂湊を去るに臨み、新左衛門を留守総督に任じ、後命を待たせた。しかし、休戦を破られて戦闘は再開された。彼は幕軍と戦うことは本意ではないことと、城中の戸田銀次郎らの勧めもあって、十月二十一日、会合を開き自首を評決した。同月二十三日、千余人を率いて幕軍に降伏し、古賀藩に禁固され、翌慶應元年(1865)、自刃に処された。年三十二。

 

篠本亀松寛墓

 

 篠本(ささもと)亀松は、天保十年(1839)の生まれ。安政四年(1857)、侍医有隣の養子となり、小十人組に列した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かったため、下総小金駅に屯集し、八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り転戦。十月、降伏して忍藩に禁固され、慶応四年(1868)二月、赦されて江戸に向かう途中、病死した。年三十。

 

植原伊平次壽之墓

 

 植原亀五郎の父、伊平次の墓。水戸藩士。二十石五人扶持。二男亀五郎とともに、元治元年(1864)九月六日、戦死。

 

立花辰之介氏順墓

 

 立花辰之助は、弘化元年(1844)の生まれ。元治元年(1864)三月、筑波の挙兵に参加して常野の間に城兵並びに幕兵と戦った。のち波山勢より分離して、内藤文七郎ら六十余と鹿島地方に拠り、外人襲撃を意図したが、同年九月六日に至って幕兵に包囲され、捕らえられて下総岩井に禁固され、同年十月、死罪に処された。年二十一。

 

植原亀五郎壽則墓

 

 植原亀五郎は、弘化四年(1847)の生まれ。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい下総小金駅に屯集し、八月松平頼徳の水戸下向に随従し、那珂湊に拠って城兵、幕兵と交戦したが、のち営を去って鉾田の三光院に拠って上京を計ったが、九月六日、幕兵と戦って父伊兵次とともに戦死した。年十八。

 

永井芳次郎道正墓

 

 永井芳次郎は天保四年(1833)の生まれ。安政四年(1857)、進仕して史館雇、万延元年(1860)、転じて与力となった。元治の役に榊原新左衛門に属し、那珂湊に滞陣中営を去って鹿島地方により、幕兵に囲まれたが脱し、葛飾郡小堤村にて古河藩兵に捕らえられ、臨時処断法により十月十六日、斬に処された。年三十二。

 

岡部忠蔵以忠墓

 

 岡部忠蔵は、文政五年(1822)の生まれ。安政元年(1854)、家督を継ぎ、安政四年(1857)、書院番頭、万延元年(1860)六月に大番頭に進み、文久三年(1863)には大寄合頭となり、元治元年(1864)、藩主徳川慶篤の命を受けて上京。関白二条斉敬に攘夷鎖港の説を進言し、帰国して執政に挙げられた。ついで市川三左衛門らとともに藩主を補佐したが、市川らの志を得るに及び、執政を罷免され、十月、幕命により江戸の獄に下り、翌慶應元年(1865)、囚中に没した、年四十四。

 

加藤八郎太夫直博墓

 

 加藤八郎大夫は、天保三年(1832)の生まれ、嘉永六年(1853)、家督を継ぎ、小姓頭、書院番頭を経て万延元年(1860)、大番頭となった。元治元年(1864)八月、松平頼徳が那珂湊に陣して城兵と戦うと、頼徳の命を受けて情状を藩主徳川慶篤に報ずるため、参政三木直とともに江戸に向かい、書を藩家老岡部忠蔵に託したが、幕命をもって拘束され、同年十月、江戸の獄に下り、慶応三年(1867)、囚中に没した。年三十六。

 

肥田金蔵政方墓

 

 肥田(ひだ)金蔵は天保十一年(1840)の生まれ。家督を継ぎ、安政四年(1857)、大番組に班し、奥小姓となった。文久三年(1863)二月、藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい、八月、松平頼徳に従って那珂湊に拠り、十月二十三日、久留里藩に禁固され、慶応二年(1866)七月、病死した。年二十七。

 

本澤平太夫宗孝墓

 

 本澤(もとざわ)平太夫は、天保十年(1839)の生まれ。安政四年(1857)、家督を継ぎ、文久二年(1863)、大番組となり、文久三年(1863)、大番組頭に進んだ。この年二月、藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集した。八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従って久留里藩に禁固され、慶応元年(1865)五月、囚中病死した。年二十七。

 

伊藤田宮友誠墓

 

 伊藤田宮は、天保十年(1839)の生まれ。安政年中、床几机廻に選ばれ、万延元年(1860)、家督を継ぎ、馬廻組を経て大番組に移り、公子傳を兼ねた。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい小金駅に屯集し、八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、城兵、幕兵と交戦。同年十月二十三日、榊原新左衛門に従って自首し、古河藩に禁固され、慶応三年(1867)三月、獄死した。年二十九。

 

金子勇二郎久雄墓

 

 金子勇二郎は天保十四年(1843)の生まれ。父は金子孫二郎。文久三年(1863)家督を継いだ。同年十一月、父孫二郎の遺体帰葬の命により帰府し、同月、大番組郡奉行見習となった。滞京中、翠紅館に諸藩の同志と会同し、攘夷の気運を高めた。元治元年(1864)三月、願いなく出府し、松平頼徳に従って那珂湊に拠り郷民を率いて転戦したが、榊原新左衛門に従って自首し、古河藩に禁固された。慶應二年(1866)十一月、獄中にて病死。年二十四。

 

天埜藤次衛門景忠墓

 

 天野藤次衛門は、文政十一年(1829)の生まれ。嘉永六年(1853)、床几廻に選ばれ、安政四年(1857)、家督を継いで、馬廻組、ついで公子付となった。元治元年(1864)五月、諸生ら大挙江戸に向かい、ために武田耕雲斎ら執政を免じられ、市川三左衛門らがこれに代わると、江戸に向かい下総小金に屯集した。同年八月、目代松平頼徳の下国に際し、執政榊原新左衛門に属し那珂湊に出陣して城兵と戦い、十月二十三日、榊原の自首に従い、慶応三年(1867)十一月、囚中に病死した。年三十九。

 

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小林 野尻

2022年09月10日 | 宮崎県

(大塚原公園)

 「道の駅ゆ~ぱるのじり」は、入浴施設と宿泊施設を完備した全国でも珍しい、道の駅である。道の駅に隣接して大塚原公園がある。おお塚原公園は小高い丘になっていて、頂上からは野尻町を見渡すことができる。

 

大塚原公園

 

道の駅ゆ~ぱる野尻

 

平和之礎

 

奉招神魂碑

 

 展望台付近に招魂碑を集めた一画があり、そこに西南戦争招魂碑がある。野尻地区からも多くの従軍者が出ている。

 小林市域からは三百六十八人が参加し、うち戦死者は五十一人。旧須木村域からは二十四人が参加し、戦死者は五人。旧野尻町域からの参加人数は不明であるが、戦死者三十二名との記録がある。

 この招魂碑は、明治十一年(1878)十一月に建立され、旧野尻町域から西郷軍に参加し、戦死した人々の名前が刻まれている。元々は東麓字小立中に他の慰霊碑とともにあったのを、昭和二十年(1945)八月に日本軍の一中隊によってこの地に運ばれたものである。

 正面に「奉招神魂碑」と刻まれ、その周囲に二十四名の氏名が刻まれている。

 

(野尻町歴史民俗資料館)

 のじりこぴあという遊園地があり、そこにある城館風の建物が、野尻町歴史民俗資料館である。小林市内の遺跡からの出土品や歴史資料、民具などが展示されている。

 

野尻町歴史民俗資料館

 

西郷札展示

 

「のじりこぴあ」は、さすがにGW中ということもあり、大勢の家族連れで賑わっていた。遊園地の喧騒を通り過ぎて、取り残されたような静かな場所に歴史民俗資料館が建てられている。玄関は開いているが、まったく人の気配がない。照明も消えているが、どうやらセルフサービスらしい。自分でスイッチを入れて展示物を拝見するという仕組みである。西南戦争関係の展示もあり、そこに西郷札が展示されている。

西郷札は、二枚の布の間に紙を芯として張り合わせたもので、金額ごとに色分けされていた。裏面には「通用三年限」と書かれ、紙幣番号も記されていた。当初より信用度が低く、西郷軍の実効支配地域で無理やりに通用させていたものである。西郷軍の敗北とともに価値を失い、明治政府からの補償もなかったため、戦後宮崎県域の経済はかなり混乱したといわれる。

政府軍は、野尻における戦いにおいて、初めて西郷札の存在を知ったとされる。

 

のじりこぴあ周辺は、勝負台場遺蹟と呼ばれ、西南戦争時の九基の台場と一基の濠が残されているというが、残念なことにどこにそれがあるのか分からない。

 

(高妻神社)

 

高妻神社

 

招魂社

 

 小林市野尻町紙屋の高妻神社にも西南戦争の招魂社がある。明治十五年(1882)に建立されたとされるこの石碑には、紙屋地区から西南戦争に参加し、戦死した十二名の氏名が刻まれている。昭和三十五年(1960)に高妻神社境内に移された。

 

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小林

2022年09月10日 | 宮崎県

(東方大丸太鼓橋)

 東方大丸(ひがしかたおおまる)太鼓橋は、薩摩の豪商森山新蔵が、天保十一年(1840)、私財を投じて開田事業を始め、弘化四年(1847)に完成させた石橋で、県内最古の水路橋とされる。この橋(水路)によって、大丸地区に十七町歩の水田が開かれ、その功もあって森山新蔵は武士に取り立てられた。その後、森山は誠忠組に属し、西郷隆盛や大久保利通ら薩摩藩の志士活動を金銭面で支えた。

 文久二年(1862)には、西郷、村田新八らと大阪へ行き、攘夷急進派の過激な企てを止めようと画策したが、島津久光に、彼らが志士たちを扇動していると処断され、帰国を命じられ、流罪に処された。山川港で船が出るのを待っているとき、息子の森山新五左衛門が寺田屋事件に参加し、罪を問われて自害したとの報せを受けると、停泊中の船中で自害した。

 

東方大丸太鼓橋

 

東方大丸太鼓橋

 

東方大丸太鼓橋

 

岩瀬川

 

(魚や鮨まるぼうず)

 

西郷どんの道

 

 小林市真方の魚や鮨まるぼうずの近くに西郷どん(せごどん)の道を解説した説明板と「西郷どんの道」と書かれた木柱が建てられている。

 明治十年(1877)八月二十七日、須木からこの道を経て鹿児島に帰ったのである。

 

(下の馬場)

 

西郷どんの道

 

 先ほどの「西郷どんの道」から五百メートルほど国道265号線を小林方面に行くと、「下の馬場」バス停の手前にもう一つ「西郷どんの道」碑がある。この背後の小山は、小林城跡である。

 

(真方)

 

西郷どんの道

 

藩校文行堂跡

 

 「下の馬場」のバス停を過ぎて次の交差点を右に入ると、石垣と生垣が連なり、ちょっと旧藩時代の風景を思わせる一画がある。そこに三つ目の「西郷どんの道」碑がある。

 さらに道沿いに百メートルほど進むと、藩校文行堂跡がある。

 

(地頭屋敷跡)

 

地頭仮屋敷跡

 

当地にあった地頭仮屋敷は、西南戦争にて焼失したとされる。

一国一城令により小林城が廃城となると、代わって小林の治所として設けられたのが、地頭仮屋である。薩摩藩では、外城と呼ばれる藩内約百二十か所に地頭仮屋を設け、そこに家臣団を派遣し、各地を統治した。以来、明治四年(1871)の廃藩置県まで政治の中心として機能していた。

西南戦争では、小林の地頭仮屋敷に西郷軍が本営を置いたとされる。しかし、明治十年(1877)七月十一日、官軍が小林に進入するに及び、西郷軍は、官軍の進路を遮断する目的で、町に火を放った。その時、地頭仮屋に保管されていた公文書その他の古文書がことごとく灰となり、藩政時代の貴重な歴史史料を失うことになった。

 

(浄信寺)

現在、浄信寺のあった辺りで西郷軍が銃器製造所を置いたとされる。残念ながら、案内板も石碑も何もないが、浄信寺の写真だけ掲載しておく。

 

浄信寺

 

(時任家)

 

西郷隆盛宿陣之地

 

 この石碑が建つ小林市細野は、JR小林駅にも近く、小林市の中心街と言っても良い。

 西郷隆盛は明治十年(1877)の西南戦争時に時任為英宅に二度宿泊している。一度目は、人吉本営が陥落する前の五月二十九日のことで、いち早く小林に入り、時任家に一泊したのち、宮崎に向かった。

 二度目は、延岡の和田越決戦で敗北し、解散命令を出した後、山中を逃げ須木の川添源左衛門宅で一泊した後、八月二十八日に再び宿泊している。

 時任為英は、当時十七歳で、西郷軍に参加した小林の若者である。時任為英は、命からがら生き延びて郷里に帰っていた一人であった。西郷は、二度目の宿泊の際、御礼として座布団の下に身に付けていた金時計を置いて、鹿児島に向かったとの逸話も残されている。

 

 ここは薩摩藩領である。西郷には、鹿児島まであと少しという気持ちが高まっていたであろう。

 

(緑ヶ丘公園)

 

緑ヶ丘公園

 

招魂塚

 

 緑ヶ丘公園は、その名前のとおり、広い緑地のある気持ちのいい公園である。その一画に立派な忠霊塔があり、その傍らに戦没者慰霊碑が並べられている。一番端に西南戦争の戦没者を慰霊する招魂塚がある。明治四十年(1907)の建立。堤地区の招魂塚は三松にあるが、その九名を除く四十五名の名前が刻まれている。

 

(旧岩間橋)

 

永仁の碑

 

旧岩間橋

 

 旧岩間橋は、大正十四年(1925)に上武構造の建て替えが行われた。橋脚や橋台には、明治二十五年(1892)当時に築かれた石造構造物がそのまま使用されているので、橋脚部分は明治二十五年(1892)製、鉄骨トラス部は大正十四年(1925)製ということになる。歴史的には、貴重な文化財であるが、流石に現在、この橋を自動車で通ることは禁止されている。

 明治十年(1877)七月十一日、官軍が小林に進軍すると、西郷軍は、高原・野尻方面に後退した。その際に岩瀬川に架かる岩瀬橋も焼き落としたと言われる。七月十四日には川を挟んで砲撃戦となり、西郷軍は川沿いの岩牟礼城跡に陣を構え官軍を迎え撃ったが、高原が陥落したとの報せを受け、陣を棄てて東方へ後退した。

 

(岩牟礼城跡)

 

岩牟礼城跡

 

 西郷軍が陣を置いた岩牟礼城跡である。岩牟礼城は、市内でも最も高い場所にある山城跡である。築城年代は不明であるが、当初は伊東氏、天正四年(1576)の高原城陥落以降は、島津氏の領有となり、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。

 今も岩牟礼城跡では、西南戦争時の塹壕跡などが確認できるという。

 

(三松公民館・三松保育園) 

 

招魂碑

 

 小林市堤の三松公民館、三松保育園に招魂碑がある。この招魂塚は当初三松小学校校庭にあったが、のちに三松公民館敷地内に移されたもので、堤地区出身者を祀った慰霊碑である。背面に九名の氏名と、それぞれが戦死した場所が刻まれている。ほかに日清・日露出征記念碑や日中。太平洋戦争忠霊碑、御即位大典記念碑などが並ぶが、特徴的なのは、関ヶ原記念碑である。

 

招魂塚

 

 関ヶ原記念碑は、明治三十二年(1899)に、関ヶ原合戦三百年を記念して建立されたものである。

 

関ヶ原記念碑

 

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小林 須木

2022年09月10日 | 宮崎県

(西郷隆盛宿営の地碑)

 

西郷隆盛宿営之地碑

 

西郷南洲翁仮宿之地碑

 

 熊本方面における戦闘に敗れた西郷軍は、次第に後退し、肥後から日向へと追いやられた。延岡和田越での決戦に敗れた西郷は、手兵約三百を率いて可愛岳を突破、一路故山の鹿児島を目指して敗走を続けた。

 明治十年(1877)八月二十七日、九州山地を南下した西郷とその一隊は、下槻木を経て、本市堂屋敷に達した。そこから川沿いに下って、その日の夕刻、夏木中藪に至り、この地にあった川添源左衛門方とその周辺一帯に宿営した。

 家人の後日談によると、一丁の駕籠が着いて、中から出てきた西郷は、直ぐに奥の六畳間に入った。それから翌朝出発するまで、誰一人その姿を見た者はなかった。翌日、西郷の一隊は、九瀬から小妻木を経て小林に向かったとされる。

 

(大年神社)

 

大年神社

 

 須木中学校に隣接する大年神社境内に戦死追吊碑が建てられている。旧須木村域の戦死者を弔うために建てられたと言われているが、建立年月日も戦没者名も建立者名も記されていない。逆賊とされた西郷軍に加担した人たちを慰霊するものであったため、世間体をはばかったものと言われている。碑文も風化して損耗も激しかったため、平成元年(1989)、改修が施され、当時に新しく「西南戦争従軍者」の碑も併設された。須木地区から西郷軍に参加した人数は二十四名と記録されているが、ここには二十三名の名前が記されている。残る一名の「彦左衛門」は手掛かりがなく、不明な点が多いため、従軍者の碑には含まれていないという。

 

戦死追吊碑

 

西南戦争従軍者碑

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高原

2022年09月10日 | 宮崎県

(高原護国神社)

 

高原護国神社

 

 高原護国神社の下はグラウンドになっており、ちょうど小学校高学年か中学生くらいの年頃のチームが試合をしていた。見るともなく見ていたが、結構両軍ともレベルが高い。試合前のノックでも、外野からの中継プレーも流れが良く、確実である。我々の少年時代と比べれば、格段にレベルが上がっているように思う。

 

高原護国神社

 

招魂碑

 

 ここにも招魂碑が建てられている。

 

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