(高橋公園)
今般、出張で実に久方ぶりに熊本市内を訪ねる機会を得た。駅前のホテルにチェックインすると、まず朝食に時間を確認する。七時からというのを交渉して、六時五十分から朝食を取れるようにしてもらった。というのに、目が覚めたのはちょうど七時。慌てて飛び起き、十分で身支度を済ませ、十分で朝食を終え、ホテルを出た。
外は生憎の大雨であった。このところ晴天が続いていたのに、この土砂降りには天を呪った。市電で市役所前に移動し、早速高橋公園を訪ねた。高橋公園には、横井小楠と小楠にゆかりの深い四人の像が建っている。
横井小楠と維新群像
中央が横井小楠。左から坂本龍馬、勝海舟、松平春嶽、細川護久の像である。
横井小楠は、文化六年(1809)に熊本坪井町に生まれ、八歳のときから藩校時習館に学んだ。文章の研究や字句の穿鑿に傾倒する時習館学校党に反発して、長岡監物、元田永孚らと実践を重んじる実学党を結成した。当初は水戸学に心酔していたが、攘夷論に疑問をもち始め、開国論に転じている。安政五年以降、越前福井藩に招かれ、殖産貿易による積極的富国論を実行に移して藩政改革を指導した。維新後、新政府に招かれて上京し、新政府参与となったが、明治二年(1869)一月、退庁の途上、京都寺町通りで刺客の凶刃に倒れた。享年六十一。
小楠の思想は、多くの人に影響を与えた。細川護久は、文久三年(1863)弟護美とともに藩主名代として上京し、国事に奔走した。七卿落ちに際しては幕府に対して長州宥免を乞うている。明治元年(1868)朝廷に召されて新政府の議定に任じられた。同年三月には護美とともに参与に就任した。明治三年(1870)家督を譲り受け、熊本藩の藩政改革に乗り出した。このとき小楠門下の竹崎律次郎、徳富一敬(蘇峰・蘆花の父)、嘉悦氏房(嘉悦学園の創始者)、安場保和らとともに実学党的改革に尽力し、進歩的政策に取り組んだ。明治四年(1871)廃藩置県により藩知事を辞めた護久は、細川家当主として華族となり、貴族院議員などを歴任した。明治二十六年(1893)、年五十五で没。
谷干城像
高橋公園には、西南戦争で五十二日間の籠城戦に耐えた熊本鎮台司令長官谷干城の銅像がある。この銅像は、昭和十二年(1937)、西南戦争六十周年を記念して建てられたもので、戦時中の金属供出でいったん失われたが、昭和四十四年(1969)明治百年を記念して再建された。
本当は熊本城を散策する予定であったが、雨はますます激しさを増し、コートもカバンもびしょ濡れになったので、早めに切り上げることにした。
(くまもと阪神)
元田永孚先生誕生地碑
この日、熊本市内に着いたのは、夜十時に近かったが、このままホテルに入って寝てしまうのはもったいない。空港からのバスを一つ手前の交通センターで下車して、くまもと阪神百貨店の南壁にはめ込まれている「元田永孚先生誕生地碑」を訪ねた。
元田永孚は、「明治第一の功臣」と称される。ドナルド・キーンの「明治天皇」(新潮文庫)にも元田永孚はしばしば登場するが、私利私欲を持たず、誠実な姿勢に感銘を受けた。明治天皇の信任が厚かったのも頷ける。
永孚は、横井小楠とともに実学党の結成に参加した。以後、熊本藩を維新の方向に向かわせるよう力を尽くしている。明治四年(1871)宮内省に出仕し、その後二十余年明治天皇の君側にあって儒学を講じた。明治十九(1886)年、宮中顧問官、明治二十一年(1888)、枢密院顧問官となる。儒教主義による国民教化に尽力し、明治二十三年(1890)の教育勅語の草案を作成した。明治二十四年(1891)年七十四歳にて死去。