史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「戦況図解 西南戦争」 原口泉監修 サンエイ新書

2019年01月26日 | 書評
あまり期待せずに購入したが、予想以上の内容であった。「はじめに」で監修の原口泉氏が西南戦争の「全貌を具体的かつ詳細に知るには『新編西南戦史』など分厚い文献はあるが、本書がもっとも役に立つであろう。」とやや前のめりに記述している。実際に読み進めると、それもあながち誇張ではないことが分かる。
たとえば、人吉の戦い。明治十年(1877)四月、城東会戦に敗れた薩軍は人吉に集結して、そこを本拠に薩摩・大隅・日向の三州に勢力を張り、機を見て攻勢に転じようという作戦をとった。
これに対し、政府軍は人吉攻撃を決定し、人吉に通じる七道を並進して人吉に迫るという作戦を採用した。七道とは、五家荘道、五木越道、種山道、万江越道、照岳道、球磨川道、佐敷道をいう。
政府軍が水も漏らさぬ慎重策をとったのは、可愛岳の包囲を抜かれて以降のことかと思っていたが、実はもっと早い時期から、物量に勝る政府軍は慎重な上にも慎重な手段をとっていたのである。
政府軍は要所に拠る薩軍を漸次撃破し、徐々に包囲網を狭め、六月一日に市街地に進撃してその日の午後人吉を制圧した。
その時、既に西郷、桐野らは人吉を放棄して宮崎に向っていた。西南戦争においては、熊本攻城戦、田原坂決戦、城東会戦など、雌雄を決する重要な局面があったが、その最後の戦闘が人吉の戦いであった。
八月十六日、薩軍幹部は俵野の西郷隆盛の宿営所・児玉熊四郎宅に集まり、軍議を開いた。政府軍の包囲を破った後、野村忍助は豊後進出を、別府晋介は鹿児島帰還を、桐野利秋は熊本城攻略を主張した。豊後に出るということは、瀬戸内をとおって海路大阪に出ることも可能であり、野村はまだ政府への尋問を諦めていなかったことを意味する。この時点で熊本城を攻略したところで戦略的には何の意味もなく、将棋でいえば、王将を狙わずに飛車をとることに躍起になっているようなものである。つまり突囲後、どこに向かって進むかという問題は、単なる戦術論ではなく当初の目的を諦めるのか否かを決めるものであった。
判断を仰がれた西郷は「まずは可愛岳を突破し、三田井に出る。豊後に出るか、熊本に行くか、それとも鹿児島に帰るか、それからのことはそのときに決めればよい」と決断を下したというが、西郷の腹の中は既に決まっていたであろう。弱兵といわれた鎮台兵であったが、その圧倒的な物量に薩軍は追い込まれていた。たとえ豊後に進出したところで、政府軍の重囲を破って東京に至ることは到底不可能ということを、西郷は理解していたであろう。
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「ひとり白虎」 植松三十里著 集英社文庫

2019年01月26日 | 書評
巻末の中村彰彦氏による解説にあるように、植松三十里は「忘れられた人物に深い眠りから醒めてもらい、その人生を歴史小説、史伝文芸という形で描き出すことを目指す作家」である。この評は、まさに植松三十里という作家の本質をついている。白虎隊の生き残り飯沼貞吉を主人公とした本作も、戊辰戦争のその後の飯沼定吉の人生や苦悩を描いて秀逸である。
飯沼貞吉は楢崎頼三に見込まれて、敵地長州で過ごすことになる。飯沼貞吉と楢崎頼三の交流については、この本で初めて知ったが、これも史実にそった話である。本書に登場するもう一人の長州人松野礀と飯沼貞吉の関係は、どこまでが史実なのかよく分からないが、松野礀がドイツ人女性クララと結婚したというのは事実である。
飯沼貞吉は挫折を乗り越えて電信技師として成功する。結婚をして子供にも恵まれた。基本的にはハッピーエンドの「長調」なのだが、根底に流れるのは「短調」の主題である。飯沼貞吉には、終生「死に損ね」というレッテルがつきまとった。きっと実際に彼は重たい人生を歩んだのであろう。
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仙北 Ⅱ

2019年01月19日 | 秋田県
(天寧寺)
 角館の天寧寺は、会津若松市内の天寧寺から寛永年間に分れて建立された。当時、葦名氏が角館に移されたのを機に、横手の正平寺から鉄心快牛和尚を迎えて開山されたものである。


天寧寺


官軍 佐土彦七忠光墓

 佐土(もしくは佐戸)彦七は、佐竹河内支配角館足軽。明治元年(1868)九月十九日、羽後阿仁板にて負傷。十月十日、死亡。三十三歳。

(松庵寺)


松庵寺

 白坂(白沢とも)兵右衛門は秋田藩卒。明治元年(1868)九月十九日、羽後板戸村にて負傷。十月十日(一日とも)、死亡。四十三歳。


白坂兵右衛門忠利墓

(本明寺)


本明寺


官軍 秋藩 植田新太郎之墓

 植田新太郎は銃士。慶応四年(1868)八月十三日、羽後角間川(横手とも)にて戦死。三十七歳。

(龍泉寺)
 武田七之丞は佐竹河内支配角館足軽。慶応四年(1868)八月二十三日(二十四日とも)、羽後国見にて戦死。三十九歳。


龍泉寺


官軍 秋藩 武田七之丞墓

今回の秋田県下の旅は以上である。結果的にはあと一つ二つ角館町のお寺を回ることはできたが、飛行機の時間も迫っておりここで切り上げることにした。万歩計は二日で五万歩近くに達し、レンタカーの走行距離は約五百キロメートルを記録した。天気にも恵まれ、渋滞に巻き込まれることもなく、至ってストレスの少ない旅であった。今回は大館・能代方面まで足を伸ばせなかったのが心残りであるが、これは次の楽しみにとっておくとしよう。

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大仙 下鶯野

2019年01月19日 | 秋田県
(鈴木家墓地)


官軍 鈴津重政霊神安鎮座
顕名 鈴木清松

 鈴木清松は夫卒。領内下鶯野の農。慶応四年(1868)八月二十八日、羽後で敵地探索中殺された。二十八歳。

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大仙 豊川

2019年01月19日 | 秋田県
(豊川南観音堂)


南無妙法蓮華経(戦死之首塚)

 豊川南観音堂バス停の三つの石碑が並んでいる。その中の右手にあるのが戊辰戦死者の首塚である。被葬者は、墓石の裏側に記載されたところによれば、「明治元戊辰年 旧八月二十三日」に戦死した同盟軍兵士らしい。

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にかほ Ⅱ

2019年01月19日 | 秋田県
(浄専寺)


浄専寺


肥州藩 釈陣良大渡岩太良墓

 大渡岩太郎(吉太郎とも)は肥後藩軽卒。鍋島上総家来。明治元年(1868)九月二十七日、羽後観音森にて戦死。二十二歳。

(蚶満寺)


蚶満寺

にかほ市の蚶満寺は松尾芭蕉も訪れたという名刹である。
カーナビの案内に従って蚶満寺南側に着いたので、その門から進入を試みたが、いかに軽自動車でも通れないような幅だったので、諦めて自動車を民家の前に乗り捨てて境内に入った。閻魔堂の回りに戊辰戦争殉難者の墓が集めて置かれている。


閻魔堂


官軍肥州 戸田基一郎能宣墓

 戸田基一郎は慶應四年(1868)七月十三日、羽前三崎峠(羽後小砂川とも)にて戦死。二十六歳。


肥州 西久保平九郎 多々良鉄之助
荒木文八郎 川原泰三 墓

 西久保平九郎は鍋島孫六郎家来。慶応四年(1868)七月十六日、羽後女鹿にて戦死。二十二歳。
 多々良鉄之助も同じく鍋島孫六郎家来。慶応四年(1868)七月十六日、羽後女鹿にて負傷。のち死亡。十九歳。
 荒木文八郎も鍋島孫六郎家来。慶応四年(1868)七月十六日、羽後女鹿にて戦死。三十一歳。
 川原(河原とも)泰三も鍋島孫六郎家来。慶応四年(1868)七月十六日、羽後女鹿にて戦死。二十七歳。


肥州 兵夫多七墓

 多七は肥後藩夫卒。明治元年(1868)九月二十七日、羽前三崎峠にて戦死。


肥州 兵夫仁助墓

 肥後藩仁助は明治元年(1868)九月二十七日、羽後塩越村にて戦死。

写真を撮って自動車まで戻ろうとすると、女性が追いかけてきた。彼女がいうには、蚶満寺入場には拝観料を払わねばならず、お前はそれを払っていないというのである。事情を話して赦してもらえたが、確かに女性がいうように南門の前の細い道路をさらに進めば蚶満寺の正門前に出て、そこに広い駐車場も用意されている。そこに車を停めれば自動的に受付を通ることになり拝観料を払う仕組みとなっている。

(小砂川)


JR小砂川駅

JR羽越本線は一日に十本という典型的なローカル線である。羽越本線小砂川駅からほぼ真西側の海岸(断崖の上)に小さな空間があり、東屋なども設置されている。松が生い茂っていて必ずしも見通しが良いわけではないが、この辺りの変化に富んだ海岸線を楽しむことができる。そこに「騎馬士墓」がある。葬られているのは寺内郡治という秋田藩士斥候で、慶応四年(1868)閏四月二十三日羽後大素郷で戦死。二十六歳。騎馬にて単身庄内軍に突入して戦死したのを憐れんで庄内藩の黒谷市郎兵衛によって建立されたものである。


騎馬士戦死墓


小砂川海岸
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由利本荘 Ⅱ

2019年01月19日 | 秋田県
(東林寺)


東林寺


官軍本荘藩 遠田房吉

 遠田房吉は「幕末維新全殉難者名鑑」では遠藤房吉。本荘藩従者。慶応四年(1868)八月六日、本荘城下にて戦死。十七歳。


本荘藩 早坂嶺右衛門

 早坂嶺右衛門は平士。慶応四年(1868)八月八日、本荘城下にて戦死。四十二歳。

(蓮化寺)


蓮化寺


官軍 本荘藩和田幸作

 和田幸作は松沢順左衛門の手。慶応四年(1868)七月十六日、羽後三崎(小砂川とも)にて戦死。二十六歳。


官軍 本荘藩鎌田志馬司


官軍 本荘藩石川音之丞

 鎌田志馬司は平士。慶応四年(1868)八月八日、矢島にて戦死。五十五歳(五十七歳とも)。
 石川音之丞は明治元年(1868)九月八日、羽後小種村にて負傷。九日、死亡。四十六歳。

(永泉寺)


永泉寺

永泉寺(ようせんじ)は、本荘藩六郷藩主の菩提寺である。藩主墓所には最後の藩主六郷政鑑らの墓がある。平成六年(1994)の火災により本堂や庫裏を焼失したが、幸いにして幕末に建てられた山門は被害を免れた。山門に施された見事な木彫や天井画を今も見ることができる。


永泉寺山門


山田祐五郎の墓

 山田祐五郎は半隊司令。慶応四年(1868)七月十六日、羽後三崎にて負傷。二十七日、病院にて死亡。十九歳。


官軍 本荘藩金沢権太夫

 金沢権大夫は重役。隊長。慶応四年(1868)八月八日、本荘城下にて戦死。五十歳。


贈従四位服部平右衛門之墓

服部平右衛門は、文政四年(1821)生まれ。名は宗忠。通称ははじめ和七郎といった。江戸詰めから帰藩後、郡奉行、寺社奉行、表用人と藩の重職を歴任した。戊辰戦争では新政府軍にしたがって鶴岡藩とたたかった。戦後は領内の復旧と領民救済に尽力。明治二年(1869)大参事。明治三年(1870)死去。五十歳。


贈正五位守屋杢右衛門之墓

守屋杢右衛門は文化十二年(1815)生まれ。郡奉行、表用人をへて慶応四年(1868)家老となった。服部平右衛門とともに藩論を勤王にみちびき、奥羽鎮撫使との連絡にあたった。のち大参事。明治十年(1877)死去。六十三歳。

(超光寺)


超光寺

 超光寺本堂前の大願海という墓碑は、当山墓地西南端に戊辰戦役戦死者遺骨を埋葬したと伝わる小高い丘があったが、昭和初期、これを整地して近くに無縁塚を建てて納骨した。
 後日、その周辺を掘り起こしたところ、地下二尺広さ一坪程から二百余体と思われる遺骨が出た。もはや遺骨の由来を問うことはせず、大願海に往生することを願い、これを機縁として改めて無縁墳墓を建立したものである。


大願海

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由利本荘 岩城 Ⅱ

2019年01月18日 | 秋田県
(龍門寺)


龍門寺

 龍門寺は亀田藩二万石岩城家の菩提寺である。この寺は室町時代に福島県いわき市荒川に創建され、その後寛永五年(1628)にこの地に移建されたものである。岩城家墓所は、正面に初代宣隆の位牌、その右に二代重隆、左に七代隆喜の木像が安置され、左右に五輪塔が並ぶ。五輪塔は、十代隆政、四代隆韶、三代秀隆、十一代隆邦、七代隆喜、その後方に八代隆永の室となっている。


岩城隆邦の墓

岩城隆邦は出羽国亀田藩十二代藩主。天保十五年(1844)、八代藩主・岩城隆喜の七男として生まれた。文久元年(1861)、兄で十一代藩主隆政の死去により家督を継いだ。慶応4年(1868)四月、明治新政府の命に従って上洛し、明治天皇に拝謁。戊辰戦争では当初奥羽越列藩同盟に参加したが、同年七月、久保田藩の呼びかけで本荘藩・新庄藩・矢島藩と共に同盟を脱退し、新政府に加担した。
その後、庄内軍に敗れた新政府軍が本荘、亀田を見捨て、秋田まで退却したことを受けて庄内藩の説得に応じて和議を結び、庄内軍と共に再び奥羽越列藩同盟軍の一員として新政府軍と交戦した。しかし、援軍により勢いを盛り返した新政府軍に敗れ、降伏した。明治元年(1868)十二月、亀田藩は二千石の減封となり、隆邦は隠居を命じられた。江戸の菩提寺・総泉寺で謹慎。明治三年(1870)、亀田藩知藩事になっていた隆彰の後見人に任命されたが、同年七月、廃藩置県のため免職。その後、岩城家の家督は隆邦の長男・隆治、次いで三男・隆長が相続したが、明治四十一年(1908)、隆長が隠居したため、隆邦が再び当主に就いた。それに伴い子爵となった。明治四十四年(1911)、東京にて死去。享年六十八。


岩城隆政の墓

岩城隆政は亀田藩十一代藩主。天保十三年(1842)、八代藩主・岩城隆喜の六男として生まれる。安政二年(1855)、兄で十代藩主・隆信の死去により、家督を継いだが、文久元年(1861)、亀田で死去。享年二十歳。

 亀田藩士小田部忠蔵(忠次とも)は、慶応四年(1868)八月一日(七月十四日とも)、羽後関村にて戦死。十九歳。


忠徹儀孝居士(小田部忠蔵の墓)

(太平寺)


太平寺


即安明心居士(石塚英治の墓)

 石塚英治は物頭。慶応四年(1868)八月一日、羽後関村にて戦死。三十四歳(三十六歳とも)。

(正念寺)
 正念寺は岩城亀田市街に位置する寺である。墓地が二か所に分れているが、一方に四倉安兵衛、もう一方に羽賀賢助の墓がある。
 亀田藩は小藩の悲哀というべきだろうか、東西両軍の間にあって翻弄された。一時は奥羽越列藩同盟に参加したが、秋田藩の離脱により官軍につき、その後庄内藩に攻められると同盟軍に寝返った。
 四倉安兵衛は西軍(官軍)の兵士として戦死したが、羽賀賢助は東軍(同盟軍)側の戦死者である。


正念寺


四倉安兵衛胤精墓

 四倉安兵衛は物頭。慶応四年(1868)七月十四日(十六日とも)、羽後三崎にて戦死。三十七歳。


忠山英徹居士(芳賀賢助の墓)

 羽賀賢助は慶應四年(1868)、羽後由利郡大正寺にて戦死。

(天鷺神社)
 天鷺神社に戊辰戦争における亀田藩の犠牲者十六名を慰霊するために、明治十一年(1878)に建てられた戊辰戦死碣(碑の異体字)がある。
 亀田藩は官軍、同盟軍両軍についたが、この石碑の特徴は両軍の戦死者が合葬されている点である。


天鷺神社


戊辰戦死碣

 殞命弾丸 凛○峻節
 金鐡可銷 姓名不滅


忠烈碑

 忠烈碑は明治四十年(1907)建立。篆額は大島久直。撰文は大槻文彦。書は阪正臣(ばんまさおみ)。

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湯沢 院内 Ⅱ

2019年01月18日 | 秋田県
(院内銀山跡)


院内銀山 異人館跡

 前回(六年前)訪問時は残雪のため通行止めとなっていて断念した院内銀山跡を訪ねた。
 院内銀山は慶長十一年(1606)に発見され、以来江戸期を通じて我が国最大の銀山であった。維新後は工部省に移管され、近代化が推し進められた。明治十二年(1879)、ドイツ人技師ハンザ―、ロージングの両名を招き、その指導のもと、最新式諸機械を移入設置した。入口付近の異人館跡は外人技術者の居宅として洋式住宅が建築されていた場所である。
 異人館はのちに古河組に移管され、代々の鉱山所長宅となった。鉱山の衰微にともない大正末期に払い下げられ、当時の十文字の植田銀行の建物として使用された。
 院内銀山は大正年間に規模を大幅に縮小した。その後も細々と操業を続けていたものの、昭和二十九年(1954)、閉山となった。


三番共葬墓地

 院内銀山は開山以来賑わいを極め、諸国から入山した有縁無縁の人々がこの地で生涯を終え、数知れない人たちが数カ所の寺に葬られた。その多くは共葬墓地に葬られ、その数三千余柱と推定されている。墓石に刻まれている最も古い年号は延享五年(1748)である。地元の老人クラブの手により定期的に清掃されているそうだが、墓石はいずれも厚く苔むしている。
 三番共葬墓地の道路に面した場所に小倉藩小山勇の墓がある。
 小山勇は小倉藩戦士。慶応四年(1868)七月十四日、羽後銀山にて戦死。二十七歳(二十一歳とも)。


官軍 小山勇墓

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横手 十文字

2019年01月12日 | 秋田県
(ジャンプ十文字工場)


官軍 柴田傳之助墳墓

 ジャンプという会社の十文字工場の横に立派な墓がある。秋田藩軍に参加した鍋倉出身の夫卒柴田傳之助の墓である。明治元年(1868)九月十九日、羽後増田村にて戦死。四十一歳。

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