あまり期待せずに購入したが、予想以上の内容であった。「はじめに」で監修の原口泉氏が西南戦争の「全貌を具体的かつ詳細に知るには『新編西南戦史』など分厚い文献はあるが、本書がもっとも役に立つであろう。」とやや前のめりに記述している。実際に読み進めると、それもあながち誇張ではないことが分かる。
たとえば、人吉の戦い。明治十年(1877)四月、城東会戦に敗れた薩軍は人吉に集結して、そこを本拠に薩摩・大隅・日向の三州に勢力を張り、機を見て攻勢に転じようという作戦をとった。
これに対し、政府軍は人吉攻撃を決定し、人吉に通じる七道を並進して人吉に迫るという作戦を採用した。七道とは、五家荘道、五木越道、種山道、万江越道、照岳道、球磨川道、佐敷道をいう。
政府軍が水も漏らさぬ慎重策をとったのは、可愛岳の包囲を抜かれて以降のことかと思っていたが、実はもっと早い時期から、物量に勝る政府軍は慎重な上にも慎重な手段をとっていたのである。
政府軍は要所に拠る薩軍を漸次撃破し、徐々に包囲網を狭め、六月一日に市街地に進撃してその日の午後人吉を制圧した。
その時、既に西郷、桐野らは人吉を放棄して宮崎に向っていた。西南戦争においては、熊本攻城戦、田原坂決戦、城東会戦など、雌雄を決する重要な局面があったが、その最後の戦闘が人吉の戦いであった。
八月十六日、薩軍幹部は俵野の西郷隆盛の宿営所・児玉熊四郎宅に集まり、軍議を開いた。政府軍の包囲を破った後、野村忍助は豊後進出を、別府晋介は鹿児島帰還を、桐野利秋は熊本城攻略を主張した。豊後に出るということは、瀬戸内をとおって海路大阪に出ることも可能であり、野村はまだ政府への尋問を諦めていなかったことを意味する。この時点で熊本城を攻略したところで戦略的には何の意味もなく、将棋でいえば、王将を狙わずに飛車をとることに躍起になっているようなものである。つまり突囲後、どこに向かって進むかという問題は、単なる戦術論ではなく当初の目的を諦めるのか否かを決めるものであった。
判断を仰がれた西郷は「まずは可愛岳を突破し、三田井に出る。豊後に出るか、熊本に行くか、それとも鹿児島に帰るか、それからのことはそのときに決めればよい」と決断を下したというが、西郷の腹の中は既に決まっていたであろう。弱兵といわれた鎮台兵であったが、その圧倒的な物量に薩軍は追い込まれていた。たとえ豊後に進出したところで、政府軍の重囲を破って東京に至ることは到底不可能ということを、西郷は理解していたであろう。
たとえば、人吉の戦い。明治十年(1877)四月、城東会戦に敗れた薩軍は人吉に集結して、そこを本拠に薩摩・大隅・日向の三州に勢力を張り、機を見て攻勢に転じようという作戦をとった。
これに対し、政府軍は人吉攻撃を決定し、人吉に通じる七道を並進して人吉に迫るという作戦を採用した。七道とは、五家荘道、五木越道、種山道、万江越道、照岳道、球磨川道、佐敷道をいう。
政府軍が水も漏らさぬ慎重策をとったのは、可愛岳の包囲を抜かれて以降のことかと思っていたが、実はもっと早い時期から、物量に勝る政府軍は慎重な上にも慎重な手段をとっていたのである。
政府軍は要所に拠る薩軍を漸次撃破し、徐々に包囲網を狭め、六月一日に市街地に進撃してその日の午後人吉を制圧した。
その時、既に西郷、桐野らは人吉を放棄して宮崎に向っていた。西南戦争においては、熊本攻城戦、田原坂決戦、城東会戦など、雌雄を決する重要な局面があったが、その最後の戦闘が人吉の戦いであった。
八月十六日、薩軍幹部は俵野の西郷隆盛の宿営所・児玉熊四郎宅に集まり、軍議を開いた。政府軍の包囲を破った後、野村忍助は豊後進出を、別府晋介は鹿児島帰還を、桐野利秋は熊本城攻略を主張した。豊後に出るということは、瀬戸内をとおって海路大阪に出ることも可能であり、野村はまだ政府への尋問を諦めていなかったことを意味する。この時点で熊本城を攻略したところで戦略的には何の意味もなく、将棋でいえば、王将を狙わずに飛車をとることに躍起になっているようなものである。つまり突囲後、どこに向かって進むかという問題は、単なる戦術論ではなく当初の目的を諦めるのか否かを決めるものであった。
判断を仰がれた西郷は「まずは可愛岳を突破し、三田井に出る。豊後に出るか、熊本に行くか、それとも鹿児島に帰るか、それからのことはそのときに決めればよい」と決断を下したというが、西郷の腹の中は既に決まっていたであろう。弱兵といわれた鎮台兵であったが、その圧倒的な物量に薩軍は追い込まれていた。たとえ豊後に進出したところで、政府軍の重囲を破って東京に至ることは到底不可能ということを、西郷は理解していたであろう。