史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「大久保利通 「知」を結ぶ指導者」 瀧井一博著 新潮選書

2022年10月29日 | 書評

ハノイに赴任してからこちらの事情が色々分かってきた。日本国内ではどこにいても普通にインターネットを通じてFM放送を聴取することができたが、海外は「エリア外」となり、中学生の時以来の趣味であるライブ録音を聴くことができなくなってしまった。さすがにこちらに来てしまえば史跡探訪は諦めざるを得ないことは覚悟していたが、書籍を入手できないのには困ってしまった。気になった書籍があれば日本の自宅に届けてもらい、まとめて郵送してもらうしかない。三十年前に駐在していたシンガポールでは日系の書店が進出していて日本語の書籍も入手できたが、今やネットを通じて書籍も購入する時代となったことによる思わぬ弊害であった。野球やソフトボール、テニスといったスポーツをやるにも、同好の人がみつからなければ始めることもできない。日本に住んでいたときには、普通にできた趣味が何一つできない事実に愕然としている。今のところ、日本で購入して当地に持ち込んだ貴重な書籍を、休みの日に少しずつ読み解いている。本書はその一冊である。

著者瀧井一博氏は、「伊藤博文」「大隈重信」(以上、中公新書)、「明治国家をつくった人びと」(講談社現代新書)などの著作がある。どちらかというと、明治期の法制史が専門という印象が強いが、本書では大久保利通を正面から取り上げた。維新前は専門外かと勝手に思っていたが、見事に大久保利通という人物の本質を突く論説であった。

維新前夜の西郷隆盛と大久保利通は、時に陽となり時に陰となり、お互いを支えながら倒幕という共通目標に邁進した。両者は一体化した存在という印象が強いが、当然ながらそうはいっても別人格であり、必ずしも両者の思想や行動は、一致しているわけではない。条理に基づいた政治を意識し、「非義の勅命は勅命に非ず」と断定した大久保は、思想面でいえば西郷の一歩も二歩も先を見ていたといえるだろう。

本書において、著者は大久保利通を「知の政治家」と定義し、その思想を明らかにすることを目指した。大久保利通については、リアリズムに徹した「夢を持たぬ」政治家という批評もある(田中惣五郎「大久保利通」(千倉書房、1938年))。大勢順応主義、対立撤去主義、多数主義者であって、自らの夢などを持たず、政治家としての理念も抱かず、ひたすら国家の維持のために旧藩的対立を糊塗しようとしたというのである。長らくこういった大久保像が広く受け入れられてきた。

これに対し筆者は、「大久保には夢があった」「夢見る政治家だった」と反論する。その夢とは、「藩による割拠を克服した国民的宥和としての国家建設」である。その夢の実現のために大久保が手掛けたのが明治十年(1877)の内国勧業博覧会であった。

博覧会というと、そのイベントに慣れてしまった現代の人間にとっては、地域経済活性化のためのありきたりの施策の一つとしか思わないが、確かに我が国で初めて開かれたこのイベントは、極めてエポックメイキングなものであった。現代において博覧会が開かれれば、プロデューサーと呼ばれるエキスパートが取り仕切るが、第一回内国勧業博覧会はまさに大久保利通その人がプロデューサーであった。

大久保は欧米視察を通じて万国博覧会の存在を知っていたし、見世物的イベントであれば、その時外国からも博覧会への参加の打診があったというし、外国からの出品を受け入れれば、もっと集客の術はあっただろう。しかし、大久保は「今度の博覧会は全く内地の物産を繁殖せしむるというのが趣意であり、外国の輸入品は一切陳列を差し止める」と拒絶し、「内国勧業」にこだわった。大久保が語った開会の辞によれば、日本全国の物産を一堂に集め、その優劣や差異を判別し、工芸の進歩を促し、国富を増進する催しなのである。実際にこの内国勧業博覧会を機に、我が国の陶磁器業は技術の向上を遂げ、殖産興業、輸出力強化に寄与することになった。同じようなことが、機械工業にも言える。

大久保は「公論に立脚した国制を希求していた。」「公論との同一化に支えられた熱烈な使命感と不動の信念」を政治家の資質として弁えていた。一方で、処士横議を口にし、言路洞開を主張する浪士を毛嫌いし、旧習に拘泥する公家勢力や旧大名層も排除の対象となった。政敵を排除しただけでなく、讒謗律や新聞紙条例によって政府批判も弾圧して封じ込んだのも事実である。結果として、大久保は有司専制の象徴として最後は征韓派士族に暗殺される。

筆者がいうように、私も大久保利通という人は、「知の政治家」であり、高邁な理念をもって、さまざまな政治勢力や政策的意見を吸収し、取捨選択し、時には結び合わせて、政治的潮流を作った稀有な存在であったと思う。しかし、本書にはあまり記述がないが、時には強権的であり、反対勢力から怨嗟を集めていたことも事実である。もう少しその辺りにも触れてもらえると、より立体的、複層的な大久保利通論になっただろう。

 

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「明治維新 勝者の中の敗者」 遠山浩規著 山川出版社

2022年10月29日 | 書評

著者遠山浩規氏の本業は「国際政治経済学」であるが、若い時期に「利通暗殺―紀尾井町事件の基礎的研究」(行人社1986年)で、歴史研究の世界でも一躍名を高めた方である。本書はそれ以来調査・研究を積み重ねてきた著者が三十五年振りに世に問う力作で、一般にはほとんど知られていない明治初年の反政府活動の実態を明らかにしたものである。

明治初年の反政府活動というと、佐賀の乱や神風連の乱、秋月の乱、萩の乱そして西南戦争へと続く不平武士による武装反乱が想起されるが、その陰にあって維新に乗り遅れた攘夷派たちは水面下で執拗な活動を続けていた。彼らの動きは、表の歴史に刻まれることもなく、ほとんど史料も残っていないことから、これを扱った関連書籍も少ない。本書では土佐藩士堀内誠之進という一人の活動家の足跡を追うことで、この時代の反政府活動の実態を明らかにしてみせた。奇兵隊の反乱、二卿事件、西南戦争へと続く一連の事件について、私もこれまで個別には知っていたつもりであったが、これを堀内誠之進という人物を通じて、事件を線で結ぶことに成功した。筆者によれば、本書は三十五年にわたって調査・研究した成果だという。つまり「利通暗殺」以来温めてきた構想を形にした集大成といえる。

堀内誠之進は、天保十三年(1842)、高岡郡仁位田郷柿木山村の出身。実家が庄屋という点では中岡慎太郎や吉村寅太郎と共通している。この人物が、幕末どのような活動をしていたのかについては「わずかな情報と資料しかない」という。はっきりしているのは、慶應年間に藩の物産局に勤めていたということくらいである。志士的活動をしていたと思われる節もあるが、はっきりしない。さらに戊辰戦争にも従軍していない。これも理由は明確ではないが、筆者は「歩行に障害があったため」と推定している。なお従兄島村賢之進(土佐勤王党員)は、会津で戦死している。

要するに幕末において堀内誠之進という人物は、志士として特に目立った活躍はしていなかったということであろう。

誠之進が藩外にでて活動を開始するのは、明治二年(1869)一月のことである。当時の京都は、政府の欧化主義、東京遷都、草莽弾圧等に対する不満と批判が渦巻き、当地を訪れた活動家は例外なく「この京都の尊攘的風土と政府批判の風潮の洗礼を受けた」(佐々木克『志士と官僚』)といわれる。京都に入った誠之進もその一人であったろう。

横井小楠が明治二年(1869)正月、京都で暗殺された。維新後初の政府高官暗殺事件であった。小楠を暗殺した刺客が称賛され、減刑・寛典を求める声が相次いだ。その中心にあったのが弾正台京都支台であり、その一員であって、とりわけ犯人助命のために奔走したのが柳川藩士古賀十郎という人物であった。古賀はこの後、誠之進とも関係を持ち、明治天皇の再幸中止を訴え、その実現が難しいと悟ると二卿事件に深く関与していくことになる。誠之進も、引き込まれるように一連の反政府運動に関わっていった。

堀内誠之進は、同じ土佐藩出身の岡崎恭輔(恭助、強介とも)や依岡城雄らと秋田藩の初岡敬冶、古賀十郎らと密儀を重ね、明治二年(1869)九月、大村益次郎襲撃事件を起こす。実行犯は、神代直人(山口)、団伸二郎(山口)、金輪五郎(秋田)、五十嵐伊織(越後)、関島金一郎(信州伊那郷士)。第二組として、伊藤源助(白河脱藩)、太田光太郎(山口)、宮和田進(国学者・中山忠能家来)が加わった。大村襲撃事件後、誠之進は岡崎らとともに全国に指名手配され、彼らは中国・九州を目指して逃亡した。このとき捕縛を逃れたのは堀内誠之進とその弟了之輔、岡崎恭輔だけで、実行犯神代直人以下は全員捕らえられ処刑されている。

肥後熊本の藤崎八幡宮神官鬼丸競(壱岐)方で再会を果たした誠之進と岡崎恭輔は、山口藩奇兵隊の反乱を支援し、その機に乗じて攘夷決行を企てた。二人が頼ったのはまず久留米藩の古松簡二であった。岡崎は古松を連れて当時肥後藩の飛び地であった大分の鶴崎へ河上彦斎を訪ねた。この時四人は、諸藩を鼓舞して大いに兵力を振い、東京に押し出して攘夷親征を実現すると方針を定めた。しかし、彼らの工作は不首尾に終わり、当てにしていた山口の脱退兵も呆気なく鎮圧された。誠之進も鶴崎を離れ、山口宗次郎と変名して東京に潜伏した後、明治三年(1870)十一月には大村事件で指名手配され脱出した京都に一年二カ月ぶりに舞い戻った。再幸後の京都には、公卿の家柄の凋落を嘆き、政府の洋風化、開明策に憤る二人の若い旧公卿がいた。外山光輔と愛宕通旭(おたぎみちてる)である。誠之進は愛宕グループに合流した。ここには比喜多源二(国学者)、古賀十郎、中村恕助(秋田・初岡敬冶の同志、部下)らが旧公卿を盟主として武力蜂起し、東京の政府を転覆するという大胆なクーデター計画を企てていた。しかし、それを実行に移すには彼らには武力がなかった。そこで、愛宕グループの意を受けた誠之進は東京に出て、外務卿澤宣嘉の下でクーデターを目論む岡崎恭輔や同じ土佐藩出身の土居策太郎(幾馬)、坂本速之輔らと接触し、意気投合した。彼らが期待した久保田藩(秋田)の初岡敬冶が藩の権大参となり、武装蜂起にはまったく消極的となっていたため、彼らが頼るのは久留米藩しかなかった。しかし、反政府派のクーデター計画が久留米藩の兵力頼みであることは、明治政府も見抜いていた。

明治四年(1871)三月、久留米藩の処分のため巡察使四条隆謌は山口、熊本の兵を率いて藩境まで兵を進め、久留米藩庁に圧力をかけた。追い詰められた久留米藩では水野正名、小河真文らが出頭し、藩存亡の危機に立たされた。藩内の反政府攘夷派は動揺し、終に藩に匿っていた大楽源太郎を殺害して巡察使に自訴する挙にでた。

同じ頃、広沢参議暗殺の不審人物として堀内誠之進は捕縛され、前後して東京と京都では反政府尊攘派が一斉に捕縛された。こうして愛宕・外山二卿を盟主とした東西同時クーデター計画は、完全に瓦解した。この時、丸山作楽、落合直亮、矢野玄道、権田直助、中沼了三といった反政府派に影響力のある国学者や儒学者も一斉に検挙され、諸藩御預けとなっている。愛宕通旭、外山光輔ともに処刑。幕末から明治にかけて公家出身者が処刑された例は本事件以外ない。

堀内誠之進も国事犯として投獄され、明治四年(1871)十二月には、鹿児島県預けとなった。以後、西南戦争まで鹿児島に軟禁されることになる。とはいえ、早々に英医ウィリアム・ウィリスが住んでいた異人館に転居することになり、比較的自由な生活を送っていたらしい。

西南戦争では、薩軍に従軍志願し、明治十年(1877)五月下旬、桐野利秋から高知に潜入することを命じられた。追い込まれた桐野にとって、土佐からの援軍が形勢逆転の秘策だったのである。

筆者は、誠之進が土佐潜入のため上陸した沖ノ島(現・高知県宿毛市)まで上陸し、誠之進の足跡を追う。尋常ならざる執念である。本書は筆者の執念が形となったもので、歴史の隙間を埋める一冊となっている。

 

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射水

2022年10月22日 | 富山県

(誓光寺)

 

誓光寺

 

明治天皇御駐輦之聖蹟碑

 

 誓光寺は、明治十一年(1878)十月一日、明治天皇の巡幸の際に滞在した。門前に御駐輦聖蹟碑が建てられている。

 

(戸破加茂神社)

 戸破(ひばり)加茂神社には、明治十一年(1878)の明治天皇御巡幸の際、小杉地区の小休所として寺林家に新築された御座所が移築され、社務所として使用されている。御座所跡に設置された明治天皇小杉御小休所碑は、日澄寺の隣に移されている。

 

戸破加茂神社

 

加賀藩旧本陣屋敷

 

 明治天皇の御座所として使用された建物は、加賀藩の旧本陣座敷として建てられたものである。当時、寺林家(下条屋長左衛門)は、寛文七年(1667)に本陣を命じられ、藩主の宿泊や休息をとる宿所の役を勤めた。

 明治三十四年(1901)、時の当主寺林清憲が亡くなり、以来空家となっていたが、大正十三年(1924)、加茂社社務所として移築された。

 

(藤井右門公園)

 日澄寺の隣地は、藤井右門公園と呼ばれ、藤井右門の墓がある。

 藤井右門(1720~1767)は、赤穂藩江戸家老であった藤井又左衛門の長男として小杉新町に生まれた。十六歳で京へ上った右門は、勤王思想家の竹内式部と親交を深め、十九歳で勤王思想をもつ公家の藤井忠義の養子となり、直明と改名した。竹内式部とともに討幕と王政復古を目指して奔走したが、宝暦九年(1759)、計画が露見し、式部は三宅島へ流罪となり、右門は京を逃れて小杉新町に隠棲した(宝暦事件と呼ばれる)。その後、売薬商人に扮して諸国を巡り、江戸で山県大弐との知遇を得て、再度倒幕計画を進めたが、明和二年(1766)、またも計画が露見して捕らわれ、翌年大弐とともに処刑された(明和事件)。

明治二十四年(1891)、勤王思想の先駆者として、正四位が贈られた。昭和十一年(1936)、右門没後百七十年祭にあたり、世田谷の妙高寺から分骨され、その翌年、廟が建立された。今も右門の命日である八月二十一日には墓碑前で藤井右門祭が行われている。

 

直明院殿開山宗真日勇大居士

(藤井右門の墓)

 

贈正四位藤井右門先生里閭碑

 

 贈正四位藤井右門先生里閭碑は、明治四十二(1909)年、東宮殿下(のちの大正天皇)の北陸行啓に際し、小杉青年団において記念事業として碑が建立が決まり、旧小杉小学校校庭にが建立されたものである。岩倉具定の書。

 

明治天皇小杉御小休所

 

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高岡 Ⅱ

2022年10月22日 | 富山県

(北陸銀行高岡支店)

 高岡市片原町交差点にある北陸銀行高岡支店の前に高岡行在所跡を示す小さな石碑が建てられている。明治十一年(1878)十月一日、明治天皇がこの地に滞在している。

 

北陸銀行高岡支店

 

明治天皇行在所址

 

(国泰寺)

 高岡を代表する古刹国泰寺は、明治十一年(1878)の明治天皇の北陸巡幸に随行した山岡鉄舟が「千双屏風」を寄附したことで知られる。

 

国泰寺

 

寺務所には鉄舟の写真が掲げられている

 

 明治初年の廃仏毀釈の影響で国泰寺も荒れ寺となっていた。窮状を見かねた山岡鉄舟は、国泰寺の復興を願って自らの揮毫で広く浄財を求め、寺の再建に貢献することとした。国泰寺本堂には、山岡鉄舟の偉業をしのぶ位牌と直筆の屏風が置かれている。

 

(島田邸跡)

 明治十一年(1878)、北陸御巡幸の途次、福岡町を通過した際、御小休所として島田邸をあてた。明治天皇の鳳輦がこの地にとどまった間、町では雅楽同好会の同志による吹奏をもって旅情を慰めた。

 島田邸は福岡町の旧家として知られ、四代島田七郎右衛門は、昭和七年(1932)から二次にわたり衆議院議員を勤め、昭和十二年(1937)以降は福岡町長として町の興隆発展に貢献した。昭和三十七年(1962)、現職のまま逝去した。

 明治天皇が小休をとった屋敷は、大正十五年(1926)の大火により類焼し消失したが、土蔵のみが焼け残った。

 

島田邸

 

島田邸跡 矢水苑(しすいえん)

 

明治天皇御小休所阯

 

 島田邸は、福岡町(現・高岡市)に寄贈されたが、手入れされているとは言い難い。庭にも雑草が伸び放題で、この有り様は少々残念である。

 

(殿様清水)

 島田邸から近い場所に、明治天皇の御膳水となった殿様清水がある。かつて加賀藩主の御用であったことから、この名称となった。

 

殿様清水

 

(長久寺)

 

長久寺

 

明治天皇御駐輦所

 

明治天皇立野御小休所

 

 立野の長久寺は明治十一年(1878)十月一日、明治天皇が滞在したことを記念して、小休所碑や駐輦所碑が建てられている。明治天皇が使用した御座所や御成門、御膳水を貯えるために使われた水がめなどが現存しているという。

 

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小矢部

2022年10月22日 | 富山県

(安楽寺)

 

明治天皇御野立所

 

 明治十一年(1878)十月、明治天皇は北陸御巡幸に際し、倶利伽羅峠越えの古道を変更して、急速に天田峠越えの新道が開削された。新道とはいえ、五間橋から天田峠までは急坂だったため、この地で小休をとり、九折(つづらおり)村まで板輿に乗り換えて、その後再び馬車を召されて金沢へ向かった。

 この記念碑は、大正十三年(1924)十月、昭和天皇が摂政宮殿下時代、陸軍大演習に来訪した折、かつて明治天皇の御野立所であったことを記念して、当時の南谷村が建立したものである。

 

(道林寺)

 明治天皇が道林寺に滞在したのは、明治十一年(1878)十月一日から翌日までの一泊であった。

 

道林寺

 

明治天皇石動行在所

 

明治天皇行在所

 

 御座所となった建物が昭和六十三年(1988)に再建され、その建物の前に行在所碑が建てられている。建物内には、明治天皇の宿泊時に使われた「行在所」と墨書きされた木札や丁度類が保存されているそうである。

 

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氷見

2022年10月22日 | 富山県

 夜八時過ぎに八王子を出発し、関越道から上信越道、北陸道を経て、深夜一時半に第一目的地である氷見市の朝日山公園に到着した。公園の駐車場で日の出を待った。座席を倒して横になったが、予想とおり安眠はできなかった。雨が屋根を叩く音と時折闇をつんざく野獣の吠声に目が冴えてしまった。

 この日の日の出は朝四時半。明るくなると同時に活動を開始した。

 

(朝日山公園)

 朝日山公園は、氷見市街を一望に見渡せる高台にある。公園の中心に神武天皇像があり、同じ広場に忠魂碑が建てられている。

 

氷見市街

 

神武天皇銅像

 

 神武天皇像は、明治四十一年(1908)の建立。台座銘板の「永芳」の揮毫は、当時学習院長を務めていた乃木希典の手による。そのため朝日山公園は、かつて「永芳公園」とも呼ばれた。

 

篤信斎齋藤弥九郎先生

 

 展望台のある広場から少し下ったところに齋藤弥九郎の像がある。氷見は、齋藤弥九郎の出身地であり、朝日山公園を含め、三体の齋藤弥九郎像がある。

 

(氷見市立十三中学校)

 二体目は上飯久保の十三中学校である。

 

氷見市立十三中学校

 

齋藤弥九郎篤信斎

 

(脇之谷内集落総合センター)

 

剣聖齋藤弥九郎先生生誕之地

 

 氷見市仏生寺脇之谷内は、齋藤弥九郎の生誕地である。脇之谷内集落総合センターの前に生誕地碑と齋藤弥九郎像が建てられている。

 

斉藤篤信斎翁

 

 齋藤弥九郎は、寛政十年(1798)の生まれ。雅号は篤信斎。文化九年(1812)、十五歳で江戸に出て、剣客岡田十松の門に入り、師範代を務めるまでに上達した。文政三年(1820)、師の没後そのあとを受け、文政九年(1826)、飯田町に練兵館を開いて神道無念流の剣道を指南し、江戸中比肩する者のないほどの腕前で、のちには門人三千人と称され、千葉周作、桃井春蔵とともに「三傑」と呼ばれた。のちに練兵館は九段坂上、ついで牛込見附と移転して、明治に及んだ。天保九年(1838)、水戸藩主徳川斉昭に招かれて、弘道館で藩士に剣道を指南したが、その国を思う志を賞されて「報国」の二文字を大書して贈られた。また天保十二年(1841)、高島秋帆が幕命により武蔵野で練兵を行ったとき、砲術を教授した。ついで嘉永六年(1853)、江川坦庵(太郎左衛門)を助けて、江戸湾の台場築造のときには工事の監督を行い、文久二年(1862)、長州藩世子毛利元徳に尊攘の大義を進言した。慶應四年(1868)、政府軍が江戸に迫ったとき、彰義隊の首領に推されたが受けず、門人にも大義を説いて軽挙を戒めた。維新後新政府に出仕し、慶応四年(1868)八月、徴士会計官判事試補に任じられ、ついで同権判事に進んで大阪に在職。明治二年(1869)七月、造幣局権判事に転じ、明治三年(1870)五月、東京在勤を命じられたが、翌明治四年(1871)、いくばくもなく没した。年七十四。

 

脇之谷内集落

 

 齋藤弥九郎の出身地、脇之谷内集落は静かな農村である。

 

(薮田)

 氷見市薮田は能登半島の付け根にあり、もう少し北に行くと石川県七尾市というロケーションにある。セメント王と称された浅野総一郎の生誕地である。

 

浅野総一郎翁誕生地

 

九転十起像(浅野総一郎の像)

 

 浅野総一郎は嘉永元年(1848)の生まれ。浅野財閥の創設者。明治四年(1871)、無一文で上京し、石炭やコークス等の売買事業を行い、やがて渋沢栄一の知遇を得た。渋沢の助力を得て、明治十七年(1884)、東京深川の官営セメントの払い下げを受け、これを我が国におけるセメントのトップ・メーカー、すなわち浅野セメント(のちの日本セメント、現・太平洋セメント)に発展させた。浅野は、多角化志向が強く、セメント以外にも鉱山(石炭)、海運、石油(採掘・精製)、港湾土木、造船、鉄鋼、水力発電、貿易など多くの事業を興した。今日の京浜工業地帯の中核である鶴見、川崎地区は浅野の造成になるものである。大正七年(1918)、持ち株会社浅野同族株式会社を設立し、傘下の多角的事業会社を所有・管理する体制を整えた。浅野は金融面では安田善次郎に依存するところが大きかった。昭和五年(1930)没。なお、浅野総一郎が築き上げた浅野財閥は、戦後GHQにより財閥解体の命を受けて解散した。

 

 薮田の浅野総一郎の像は、九転十起の像と名付けられている。浅野総一郎は幾多の失敗と挫折を繰り返し、若い頃に何かと面倒を見てもらった村の肝煎役山崎善次郎から「七転八起で足りなければ、九回転んで十回起きれば良い」と教えられ、懸命な努力をして成功を収めた。その逸話に因んで「九転十起の像」と命名された。平成二十年(2008)の建立。

 

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西陣 Ⅱ

2022年10月15日 | 京都府

(浄福寺つづき)

 父の卒寿のお祝いが京都で開かれた。散会後、歩いて浄福寺を訪ねた。浄福寺には、公家の墓が多数ある。無茶苦茶暑い日だったが、体力の続く限り、墓地を歩き尽くした。

 

従四位上侍従菅原夏長朝臣之墓

(東坊城夏長の墓)

 

 東坊長(ひがしぼうじょう)夏長は天保七年(1836)の生まれ。東坊城聡長の二男。弘化二年(1845)十二月、元服、昇殿を許され、文章得業生に補された。安政元年(1854)八月、大内記に、同年十二月、少納言に任じられ、安政二年(1855)正月、従四位上の叙された。安政五年(1858)三月、幕府が日米通商条約の勅許を奏請した際、関白九条尚忠が叡慮に反して外交措置幕府委任の沙汰を授けようとしたのに反対し、中山忠能以下有志公家八十八卿の一員に加わって列参し、勅答案の改刪を要請した。安政六年(1859)十月、年二十四にて没。

 

正二位前権大納言菅原聰長卿之墓

(東坊城聡長の墓)

 

 東坊城聡長(ときなが)は寛政十一年(1799)の生まれ。父は正二位五条為徳。文化二年(1805)、七歳のとき東坊城尚長の養子となり、文化四年(1807)十一月、元服して昇殿を許され、文章得業生に補され、文化五年(1808)十一月、従五位下に叙され、東宮学士に任じられ、文化十二年(1815)九月、侍従となり、文章博士を兼ねた。以後累進して、文政五年(1822)十二月、従三位に昇叙し、嘉永四年(1854)七月、権大納言(同年十二月辞す)に、位も従二位に進んだ。その間、仁孝・孝明両天皇の講筵に侍し、また学習院の創設にあずかり、弘化二年(1845)十月、学頭兼奉行となった。同十月、議奏に補され、安政元年(1854)六月、武家伝奏に転じ、安政四年(1857)五月、正二位に進んだ。安政五年(1858)二月、老中堀田正睦が上京して条約勅許を奏請すると、勅錠の伝達その他公武の間に立って斡旋活動した。しかし、事前に勅許の黙約を与えるなど、幕府に諂諛した行為があったため非難をあびるに至り、同年三月、伝奏を罷め、翌年四月には永蟄居に処された。文久元年(1861)十一月、死に際してようやくこれを免じられた。年六十三。

 

正三位清岡長煕卿之墓

 

 清岡長煕(ながてる)は、文化十一年(1814)の生まれ。父は清岡長材。天保九年(1838)十二月、少納言に任じられ、天保十一年(1840)正月、侍従、天保十三年(1842)六月、文章博士を兼ねた。嘉永五年(1852)十一月、正三位に叙され、安政元年(1854)十月、式部権大輔となった。安政五年(1858)三月、幕府の条約勅許奏請に対する勅裁案に関し、廷臣八十八卿列参上書してその変改を請うた際、それに名を連ねて、また元治元年(1864)六月、一条家門流の三十八卿連署して横浜鎖港を請うた際もそれに加わった。同年正月より学習院学頭となり、慶応四年(1868)五月、天皇の御復読御講釈として出仕した。なお孝明天皇崩御に際し、その諡号勘進のことにあたった。明治六年(1873)、年六十にて没。

 

正二位前権大納言藤原朝臣隆光卿墓

(柳原隆光の墓)

 

 柳原隆光は、寛政五年(1793)の生まれ。父は柳原均光。文化二年(1805)十二月、元服、昇殿を許され、文化八年(1811)十二月、侍従となり。文化十四年(1817)十一月、右少弁に任じられた。文政二年(1819)八月、蔵人となり、累進して文政十年(1827)六月、蔵人頭に補せられ、天保二年(1831)十二月、参議、左大弁に任じられた。その間、氏院別当、加茂下上社奉行、御祈奉行、神宮弁、皇太后宮亮を、後に右衛門督、検非違使別当等を歴任。天保十一年(1840)正月、正二位に叙され、嘉永元年(1848)二月、権大納言に任じられた。嘉永四年(1851)、年五十九で没。

 

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島本

2022年10月15日 | 大阪府

(楠の木公園)

 

史蹟櫻井驛阯(楠正成傳説地)

 

 JR京都線島本駅の目の前に楠の木公園がある。楠正成が延元元年(1336)、足利尊氏の大軍を迎え撃つため京都を発ち、桜井の地で子正行と別れた。「桜井の別れ」は「太平記」の名場面の一つである。

 

忠義貫乾坤碑

(ちゅうぎけんこんをつらぬくのひ)

 

 忠義貫乾坤碑は、明治二十七年(1894)五月、島本村内と一部近郊の有志約一五〇名によって建てられた。当時は「楠公訣児之處」碑と並んで、玉垣の中にあったが、昭和十四年(1939)、桜井駅跡の拡張工事に伴い、現在地に移された。

 

楠公父子訣別之所

 

 楠公父子訣別之所(なんこうふしけつじのところ)碑は、楠正成を顕彰した碑で、明治九年(1876)十一月に建立された。題字は、当時の大阪権知事渡辺昇。この碑の特徴は、裏面に英国公使ハリー・パークスの名前が英文で刻まれている点にある。パークスが楠正成に思い入れがあったとは思えないのだが、彼がこの石碑に名前を寄せた経緯や背景を知りたいものである。

 

A TRIBUTE BY A FOREIGNER

TO THE LOYALTY OF

“The Faithful Retainer”

KUSUNOKI MASASHIGE

Who parted from his Son

MASATSURA

At this Spot. Before the Battle of the MINATOGAWA,A.D.1336

HARRY S.PARKES

British Minister to Japan

November,1876

 

 そのまま訳すと以下のとおり。

「西暦1336年 湊川の戦いに赴くに際し、この地で子正行と別れた「忠臣」楠正成の忠義を一外国人としてたたえるものである 駐日英国公使 ハリー・S・パークス 1876年11月」

 

明治天皇御製

 

 公園の中心部に聳え立つ明治天皇御製碑は、昭和六年(1931)に建てられた大碑で、書は伯爵東郷平八郎。

 

 子わかれの 松のしずくに 袖ぬれて

 昔をしのぶ さくらゐのさと

 

 明治天皇が明治三十一年(1898)十一月、三島地区での陸軍大演習に行幸した折に詠まれたもの。石碑裏面には子爵小笠原長生の書で「七正報告」、下部には頼山陽の漢詩「頼山陽翁過桜井驛詩」が刻まれる(第四師団長林弥三吉の書)。頼山陽が文政八年(1825)に来遊したときの作である。

 

楠公訣児之處

 

 楠公訣児之處碑は大正二年(1912)七月に建碑。題字は陸軍大将乃木希典。裏面には、枢密院顧問官細川潤次郎の撰文による碑文が刻まれている。当時は三方を濠で囲み、入口には橋を架け、盛土の上に建てられてた。

 

楠公父子別れの石像「滅私奉公」

 

 台座の「滅私奉公」の文字は、公爵近衛文麿の書。昭和十五年(1940)、新京阪電鉄(現・阪急電車)桜井の驛前に青葉公園が建設され、駅前に子別れの銅像が設置された。この銅像は戦時中の金属供出により失われ、代わってコンクリート像が作られた。現在の像は、平成十六年(2004)に有志により寄贈されたものである。

 

 この日は、御昼に京都市内で父の卒寿のお祝いがあったので、時間がなかった。次の電車が来るまでの十五分で楠の木公園を一周して、飛ぶようにして島本駅のホームに戻った。

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高槻 Ⅱ

2022年10月15日 | 大阪府

(西面共同墓地)

 「日本の戦死塚」(室井康成著 角川ソフィア文庫)の巻末の「戦死塚一覧」に、鳥羽伏見の戦いで戦死した旧幕府将兵を葬った「二人塚」があるという。かつて学生時代の四年間、高槻(最寄駅は摂津富田駅)に住んでいたが、近くにこのような史跡があったとは気が付かなかった。

 

二人塚?

 

 摂津富田駅の近くでレンタサイクルを調達し、自転車で約二十分で高槻市西面共同墓地に行き着く。正直にいって、この写真の石碑が二人塚かどうか、確信は持てない。墓地内を二~三周歩き回ったが、それらしいものを発見できなかった。せめて説明札でも建てておいてもらえると助かるのだが…。

 

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天満 Ⅵ

2022年10月15日 | 大阪府

(滝川小学校)

 元和二年(1616)、徳川家康が没すると、第二代将軍秀忠は、家康を東照大権現という神様として祀り、各地に東照宮という神社を建てることを命じた。大阪では、翌年、現在滝川小学校のあるこの土地に、当時の大阪城主であった松平忠明らによって東照宮が建立された。一説には、豊臣氏を慕う大阪の人々の想いを薄れさせるために建てられたともいわれている。

 一般の町人は、日頃は東照宮の境内に入ることは許されなかったが、毎年家康の命日である四月十七日を中心に五日間にわたって行われた権現祭のときは特別に御参りすることができた。大塩の乱で焼失復興したが、戊辰戦争のときは長州藩の本営になった。明治六年(1873)に川崎東照宮は廃された。

 

川崎東照宮

 

(造幣局宿舎)

 

与力役宅門

 

 造幣局宿舎内には、大塩平八郎が開いた家塾洗心洞跡や与力役宅門がある。ただし、関係者以外立入禁止となっている。鍵は開いていたが、以前、造幣局内に立ち入った際に閉じ込められた苦い思い出があるので、今回は慎重を期した。与力役宅門は、扉越しに撮影は可能である。

 与力役宅門は、江戸時代の大坂東町奉行配下の天満与力の中嶋家の役宅門である。往時この付近一帯は天満与力の役宅が軒を並べていたが、現在はこの建物が唯一現存している。

 

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