史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「尊王攘夷 水戸学の四百年」 片山杜秀著 新潮新書

2021年08月29日 | 書評

著者片山杜秀氏というと、個人的には音楽評論家という印象が強いが、本人にしてみれば音楽評論は余技であって、本業は政治思想史を専攻する大学の教授ということなのかもしれない。本書は四百年という長い時間をかけて醸成されてきた水戸学を深く掘り下げたものであるが、話題は水戸黄門のテレビドラマや映画から、近松門左衛門の「国性爺合戦」、さらにはロルツィングの歌劇「ロシア皇帝と船大工」に至るまで、古今東西の歴史・文化・芸能・芸術まで幅広く言及しながら、水戸学を多面的・複層的に追究する。歴史の専門書とは一味違う面白い読み物となっている。

水戸学、あるいは尊王攘夷思想は、明治維新の原動力となっただけではなく、我が国の近代化に貢献したともいえるし、戦前の日本を支配した、亡国の思想といえるかもしれない。水戸学と聞いただけで、嫌悪感や拒絶反応を示す方も多いだろう。その思考がたどった経緯も特殊である。人によっては「馬鹿馬鹿しい」「あり得ない」「異常だ」と感じた瞬間、そこで思考を止めてしまいかねない。しかし、筆者片山氏は、決して距離を置かず、かといって過度に同調するわけでもなく、常に適度な距離を保ちながらこの異形の思想の真相を明らかにしていく。その一貫した姿勢には好感を持つことができた。

四百年にわたる水戸学の流れを最上流まで遡ると、テレビドラマや講談、映画でもお馴染みの「水戸黄門」こと徳川光圀まで行き着くことになる。それにしても徳川御三家の一つであり、副将軍として徳川幕府を支える水戸藩でどうして佐幕より尊王なのか。

その謎を解くには、まず光圀の出自を知らなくてはならない。光圀は水戸徳川家の家祖頼房の三男に生まれた。長男頼重をさしおいて、水戸家を継いだ。因みに頼重は讃岐高松の松平家当主として大名となった。兄を差し置いて弟が主となったという不義が生涯光圀を悩ませたというのである。

のちに光圀は義公と称されることになる。「義」とは「物事に道理が通っているか」ということである。その尺度で歴史をみれば、南朝こそ正義であり、正統であると断じることになる。楠木正成は忠を尽くした義士として崇拝の対象となる。

光圀は「大日本史」の編纂を藩の事業として起こそうとした(なお、「大日本史」という書名が決まったのは、光圀の次の藩主綱篠(つなえだ)のときであり、当時は「本朝通鑑」という呼称であった)。「大日本史」は単に我が国の歴史を叙述するではなく、「正」か「閏」かで洗い直した。この手の議論はどうしても空疎で観念論的になりがちである。戦前にも南北朝正閏問題では激しい議論が交わされたし、本書によれば、同じように光圀と林鵞峯(林羅山の子)との間でも「どちらが正でどちらが閏であるか」という議論が交わされたこともあったという。

今では南北朝の正閏など真剣に考えている人などいない。正閏問題など過去の論争だと思う人が圧倒的に多いだろう。しかし、現代でも薩長は悪で幕府こそが正義だと主張する人もいるし、会津史観と呼ばれる見方もある。イデオロギーで歴史を見ると、時に史実を歪めることになる。

尾張は六十二万石、紀伊は五十五万石。これに対し水戸藩は三十五万石。つまり他の二家と比べると半分程度に過ぎない。水戸藩領は肥沃ではない畑作地帯であり、漁業も良港に恵まれない過酷な条件であった。その上、「天下の副将軍」として江戸定府が原則とされ、石高以上の儀礼的・政治的出費を強いられた。江戸初期から一貫して水戸藩の財政は破綻寸前であった。何故、水戸だけがこのような目に遭わなくてはいけないのか。この不条理を忍んで受け入れるために尊王というイデオロギーが必要であった。佐幕を正義とする「絶対的根拠」として天皇が発見されたのである。

この水戸のイデオロギーに攘夷という思想が確立するのは、外国勢力が日本に押し寄せてくる十九世紀のことである。

文政七年(1824)、常陸国大津村沖にイギリスの大船が出現した。やがて乗組員が下船し、大津浜に上陸した。これを聞きつけ、藩から派遣されたのが、会沢正志斎と彰考館の飛田子健(逸民)であった。二人は英語を解さず、ほとんど筆談とジェスチャーでコミュニケーションをとろうとした。その結果、正志斎は彼らが捕鯨と偽って日本を植民地化する意図をもって近づいてきたと断定する。大津浜事件と呼ばれる。

この一報を聞いて藤田幽谷は直ちに息子東湖を大津浜に行かせ、異国人どもを全員斬るように命じた。父子がまさに別れの盃を交わしていたときに「薪水を乞う以外に他意はなし」として、異国人全員が解放されたとの報が届く。済んでのところで最初の攘夷は実行されないままとなった。

その頃、水戸沖には外国の捕鯨船が頻繁に出没するようになっていた。水戸の漁民は、捕鯨船に近づき、やがて異国船に乗せてもらい、飲食のもてなしまで受けた。異国船との交流を通じて漁民の中には片言の英語を使えるようになる者までいたという。攘夷思想などという厄介なものがなければ、これが人間の素直な姿なのかもしれない。私も大津浜事件のことは知っていたが、それ以前水戸の海で行われていた捕鯨船と漁民との交流の話は、本書で初めて知った。

文政十二年(1829)、斉昭が水戸の藩主の座につき、水戸学は新たな局面を迎える。斉昭は「三雑穀切返し法」を廃止し、倹約を徹底し、助川城や砲台を築いて海防を強化した。実学としての水戸学が実践されたのである。

水戸藩における天保の改革の評判を聞いて、全国から水戸詣でが始まった。長州の吉田松陰も水戸を目指した。水戸の尊王攘夷思想は、藩境を越えて全国に拡散したのである。

水戸学には将軍をとばして天皇と直接結びつくという理屈はない。天皇と将軍と副将軍の三者にねじれがないことが前提である。その前提が最初に崩れたのが井伊直弼の大老就任時であった。

この時、過激な尊王攘夷派は、天皇―将軍―副将軍のラインに捻じれを生じさせているのは、将軍と副将軍の間にあって、将軍権力を簒奪して居座っている井伊大老だとする。その結果、起こったのが桜田門外の変というわけである。

水戸学の矛盾が極まったのが、元治元年(1864)の天狗党の乱であった。本書では一章を割いて天狗党の乱を分析している。天狗党の争乱は、複数の党派が絡み合い、その経緯は複雑怪奇としか言いようがないが、筆者は水戸学を切り口に見事に腑分けして見せた。

孝明天皇は一貫して攘夷の実現を求めている。天意は明白である。ならば水戸藩は、幕府が一刻も早く攘夷を完遂できるように背中を押さねばならない。天皇と将軍の思想・行動が食い違ったら、迷いなく天皇を優先する、というのが水戸藩尊攘派左派の論理であり、蹶起した天狗党が依拠する正義である。

実は天狗党には藩外からも参加者が数多く参加していた。尊王攘夷を奉じるという点では天狗党と同じであったが、決定的に異なるのは水戸藩士のような「副将軍の家臣」という意識は全く持っていない。むしろ攘夷の実行のためには討幕も辞さないという危険思想を持った連中であった。そういう過激な討幕攘夷派が加っていたことが、天狗党の悲劇を生んだといえなくもない。

これに対し、水戸学右派の人たちは、尊王の志は保ちつつ、同時に幕府権力(将軍と副将軍)を守ろうとした。将軍の意向に関係なく天皇の意思に忠実にふるまうという水戸学左派とは相容れないが、尊王攘夷という思想面ではお互いに共感できるとところがある。藩主慶篤の命を受けて、天狗党と諸生党との仲裁に動いた宍戸藩主松平頼徳も右派に属していた。

水戸学を信奉する連中と対局にあるのが、諸生党と呼ばれる人たちである。彼らは、水戸藩が分不相応に軍事費を使いまくり、その結果藩財政を崩壊させた斉昭、そして斉昭を無条件に崇敬する天狗党には批判的である。彼らはせっかく握った政権を放さないという固い結束を誇っていた。諸生党は幕府と結ぶことで自らの正当性を担保し、説得に向かった頼徳に対して砲弾をもって応えた。一瞬にして頼徳軍は反幕府軍になってしまった。

エピローグでは三島由紀夫の切腹を取り上げる。三島由紀夫の先祖に幕臣永井尚志がいたことは広く知られている。三島由紀夫の曾祖父永井岩之丞(尚志の養嗣子)は宍戸藩主松平頼徳の妹の高姫を娶った。その娘永井なつが、三島の祖母である。三島は祖母に溺愛された。三島の切腹へのこだわりは、祖母の仕込みではないかというのが筆者の推論である。

確かに三島由紀夫の作品を読んでいると、切腹への執着、憧憬は異常なものがある。「奔馬」(「豊饒の海」第2部)では、「正に刀を腹に突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。」と切腹を描く。あまりに切腹をかっこよく美化していないか。

確かに頼徳の最後は切腹であった。私の知る限り、幕末の大名で切腹した人は頼徳しかいないように思う。禁門を侵し朝敵とされた長州でさえ、三人の家老の切腹で済まされているのである。その一事をもっても頼徳の最期は異常である。

頼徳の切腹は、決して格好の良いものではなかった。江戸で慶篤に事態を説明する場を設けるという甘言にのった頼徳は、水戸に連行され、釈明の場も取り調べもなく沙汰を申し付けられた。周囲を諸生党の連中に取り囲まれ、介錯もなく長い間、頭を垂れて苦しんだというから、見世物のような扱いだったのであろう。全く屈辱的なものであった。

もし三島が祖母から曾祖叔父の最期を正確に聞かされていたなら、三島の切腹へのこだわりは違う形になったのではないかと思うのである。

 

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「坂本龍馬復権論と薩長同盟」 山岡悦郎著 清文堂

2021年08月29日 | 書評

世間における坂本龍馬の人気の高さとは裏腹に、アカデミーの世界では龍馬の評価は高くない。最近では高大連携歴史教育研究会が、龍馬の歴史上の役割や意味は大きくないから、歴史教科書から削除すべきであると提言して物議を醸したのは記憶に新しい。

たとえば、龍馬が船中八策を発案し、大政奉還を実現させたというストーリーについても、船中八策そのものが明治以降、旧土佐藩勢力によって作られたフィクションだとして今ではその存在を否定されている(知野文哉「坂本龍馬の誕生」)。

龍馬は、薩摩藩名義で武器(小銃と軍艦)を購入して長州藩に売り渡すことを考え出し、それを成功させた。その御礼として薩摩藩が欲していた兵糧米を送るように長州藩に要請し、経済面から薩長両藩の結びつきを強めたといわれる。

本書でも、長州藩が薩摩藩名義で武器を購入した経緯が詳述されているが、そこに坂本龍馬はほとんど登場しない。本書によれば、薩摩藩名義で武器を購入することを考案したのは、木戸孝允(桂小五郎)、井上馨(聞多)伊藤博文(俊輔)等である。木戸から龍馬と中岡慎太郎に薩摩藩名義で軍艦を購入するアイデアを薩摩藩に伝えるよう依頼があり、それを受けて二人は京都薩摩藩邸で西郷隆盛に会っているが、その場で西郷の同意を得るには至らなかったようである。軍艦購入に龍馬が関与したのはその程度である。

薩長同盟については、会談がなかなか始まらず、遅れて登場した龍馬がまず木戸孝允と会って会談するべきだと説得し、続いて薩摩の西郷を説いて、ようやく会談が始まって同盟締結に至った。龍馬なくして薩長同盟はなかったというのが通説となっている。「竜馬がゆく」を初めとする小説、テレビドラマも漫画でも概ねそのように語られてきた。しかし、歴史の専門家にいわせれば、史料的根拠が乏しいとしてこれも否定されている。

筆者は、「薩長同盟と龍馬の関わり」について、専門家の評価に「納得できない」とする。薩長同盟締結における龍馬の役割と意味を再評価しようというのが本書の狙いである。

さて、薩長同盟は薩長軍事攻守同盟であるという解釈が長く受け入れられてきたが、佛教大学名誉教授の青山忠正氏が薩長同盟六箇条の中でもっとも重点が置かれていたのは長州藩の朝敵の汚名、官位の停止処分に対する雪冤だと主張し、一石を投じることになった。その後も薩長同盟を軍事同盟だとする反論もあり、論争は続いたが、筆者は「薩長同盟を討幕を念頭に置いた軍事同盟・攻守同盟とする説は否定された」と結論付けている。交渉の経緯を見れば、少なくとも長州藩の関心は雪冤にあることは間違いなく、しかもこの時点で薩摩藩が武力討幕に舵を切っていたとは考えられない。私も薩長同盟=軍事同盟と考えるのは無理があるように思う。

青山先生によれば、維新後に書かれた木戸の回想録において「もはや帰国しようとしたところに龍馬が登場し、西郷を説得して、にわかに「六条を以て将来を約す」に至った」とされているが、木戸は意図的に毛利家当主父子の官位復旧問題や処分の受け入れ問題について言及を避けていると指摘する。まるで龍馬が救世主のように現れ、それで同盟が成ったという伝説が生まれた発端である。木戸にしてみれば、龍馬の登場によって事態が打破されたように書くことで、公に書くのも恥である毛利家の官位停止、朝敵問題に触れずに済ませたというのが実態だというのである(青山忠正「明治維新を読み直す」)。

青山説をさらに一歩進めたのが本書である。本書によれば、同盟締結に至るまで薩長間では二回の会談が開かれた。一回目は慶應二年(1866)一月十八日。二回目が龍馬登場後に開かれた二十二日に終わった会談である。木戸は一月八日に入京したが、最初の会談までの約十日、その時、二条城で議論されていた長州藩への処分案が出るのを待っていた。薩摩藩ではその処分案を木戸に受け入れさせて、幕府による長州征討を阻止したいという思惑があった。

しかし、処分の結論が出ないまま時間が過ぎてしまい、一方で小松、西郷の帰藩が近づいてきたため、仕方なく最初の会談が開かれることになった。十八日の会談の内容を正確に伝える史料は残されていないが、筆者は岩国藩用人長新兵衛と密用掛大草終吉による文書を引用して、小松、西郷が処分案を受け入れるように木戸を説得したが、木戸は同意しなかったとしている。処分案受諾を巡る対立は解消されなかったが、長州藩雪冤に向けて薩摩藩が周旋、尽力するという姿勢が示されたため、辛うじて会談が決裂することはなかった。筆者によれば、「一月十八日の会談の内容は、従来の研究では解明されなかった」という。筆者の推論が混じっているとはいえ、一月十八日の会談の内容を明らかにした功績は大である。

しかし、ここまで龍馬は登場しない。十八日の会談で処分案を巡る対立は解消しないまま、二十日には木戸の送別会まで予定され、このまま薩長会談は終わってしまうかのうように思われた。筆者によると、これを再開させたのは、「消去法的に考察して、龍馬しかいない」とする。会談再開に至る経緯、龍馬がどうやって薩摩藩の小松、西郷を説得したのか、といったところは筆者の推測であるが、不自然さはない。もちろん専門家が指摘するように、史料的な根拠があるわけではなく、そういう意味では決定力には欠けるが、逆に言うと否定する材料があるわけでもない。新史料が発見されて、龍馬以外の第三者が会談再開に向けて動いたという事実が判明しない限り、今のところ否定も肯定もできる有効打はないのではないだろうか。

それにしても薩長両藩の重要な話し合いの場に一介の土佐脱藩浪士に過ぎない龍馬が立ち合うことができたのは何故だったのだろうか。当時、会合を開く場合、独立した立会人が同席するという配慮が普通になされる時代になっていたという。そういった時代の流れもあったであろうが、それまで薩長間を奔走して、両藩から厚い信頼を得ていたというのが最大の理由のように思われる。

筆者は、「一次史料に依拠して合理的に思考(推測)する限り、坂本龍馬の存在亡くして同盟締結はあり得ず、薩長同盟締結における彼の貢献は、極めて大きいものであったと言わざるを得ない。」と自信をもって本書を結んでいる。果たしてこの一冊が龍馬復権に有効な一撃となるだろうか。仮に薩長同盟成立に大きな役割を果たしたことが証明されたとしても、それだけでは復権には至らないような気がします。

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加須 Ⅳ

2021年08月21日 | 埼玉県

(総願寺不動尊)

 

総願寺不動堂

 

 宗願寺不動尊は、関東三大不動尊の一つに数えられる。三大不動尊とは、成田不動尊、高幡不動尊までは間違いないが、三つ目にどこを数えるか、定説はないようである。不動堂の建物は天保年間に建てられた木造建築である。

 

論語碑

 

 不動堂の裏手に渋沢栄一が大正七年(1918)十一月二日に加須に来遊し、加須小学校と埼玉中学校(現・不動岡高校)にて講演したことを記念して、大正九年(1920)秋に建立された論語碑がある。高さは四・三メートル、幅一・九メートルという堂々たるものである。

 碑の表面には、渋沢の書により、論語「衛霊公第十五」の一文が刻まれている。言葉が誠実で行いに真心があれば、世界中どこへ行っても物事はうまく進む。しかし、言葉がいい加減で、真心がなければ生まれ故郷でさえうまくいかない、という意である。

 

言忠信行篤敬雖蠻貊之

邦行矣言不忠信行不篤

敬雖州里行乎哉

 

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古河 Ⅲ

2021年08月21日 | 茨城県

(デイサービスつばさ)

 

明治天皇御膳水元同志社井

 

 デイサービスつばさの前に明治天皇御膳水碑が建てられている(古河市宮前5‐2)。

 明治十四年(1881)六月四日、および十月十日の二度にわたり、明治天皇東北巡幸の際、古河町に当地に駐輦した。その際、同志社の井の水が提供された。古河の同志社は、維新後士族授産を目的として、政府の保護奨励により古河在住の士族二百四十二名により設立された製絲場である。同志社は明治三十二年(1899)に解散となり建札も逸失してしまったが、昭和十年(1935)に石碑が再建された。

 

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結城 Ⅲ

2021年08月21日 | 茨城県

(結城小学校)

 

結城小学校

 

駐輦之遺蹟

 

 結城市立結城小学校の南門の前に巨大な駐輦遺蹟碑が建てられている(結城市結城1927)。

 明治四十年(1907)、陸軍特別大演習実施にあたり、結城町に大本営が設けられた。明治天皇をはじめ時の内閣総理大臣以下の政府高官が結城に滞在した際にこの地で執務をとった。明治四十四年(1911)十一月の建碑。

 

明治天皇大本營玉岡内閣将官榮

學園宸極秋芳馥行在所尊千古名

 

 駐輦遺蹟碑の横には大本営碑も建てられている。

 

明治天皇結城大本営

 

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鈴鹿 井田川

2021年08月14日 | 三重県

(小田町公民館)

 一年前に井田川駅を起点に亀山市側の史跡を訪ねたが、今回は井田川駅を北東に歩いて小田町公民館前の明治天皇聖蹟碑を見る。

 

明治天皇御小休所

 

 この石碑は明治十三年(1880)七月十一日、陸軍の演習地に向かう際、明治天皇が当地で滞在したことを記念したものである。

 

 この日は亀山出張の途中、一つ手前の井田川駅で下車してこの碑を訪ねた。次の電車までの時間は十五分しかなかった。片道六百メートルほどなので、普通に歩けば七~八分というところ。しかし、それでは次の電車に間に合わない。半分走って往復した。予報では曇りだったが、井田川駅に近づくにつれて雨が降り出したが、何とか時間内に往復することができた。

 

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松井田 Ⅱ

2021年08月14日 | 群馬県

(五料の茶屋本陣)

 

五料の茶屋本陣跡

 

 五料の茶屋本陣は江戸時代の名主屋敷であると同時に茶屋本陣を兼ねていた。茶屋本陣とは、中山道を参勤交代などで行き来する大名や公家などの休憩所として置かれたものである。

 「お西」と呼ばれる中島家は、十六世紀末から代々名主役を務め、天保七年(1836)から明治五年(1872)までは「お東」と一年交代で名主を務めていた。

 建物は「お東」と同年(文化三年(1806))に建てられたもので、間口十三間、奥行七間の切妻造りで、両家とも母屋の規模や平面はほぼ同じ造りとなっている。

 

五料の茶屋本陣 お西

 

上段の間

 

 上段の間は、明治十一年(1878)の明治天皇北陸東海御巡幸に際し、休憩施設として利用されることが決まり、ほぼ全ての柱や梁を取り換え、天井裏をふさぐなどの改造が行われている。

 

五料の茶屋本陣 お東

 

 「お東」も江戸時代の名主屋敷で、代々名主役を務めた中島家の住宅として使用されていた。文化三年(1806)の建築以来、大きな改造もなく、書院造りの上段の間をはじめ、往時のおもかげをよく伝えている。

 

庭園と妙義山

 

 南側には妙義山を借景とした庭園がある。大変気持ちの良い空間となっている。

 

明治天皇五料御小休所

 

 ちょうど「お西」の前に明治天皇五料御小休所碑があるが、すぐ近くをJR信越本線が走っており、正面を見ることができない。この写真は、線路を渡って反対側から撮影したものである。

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安中 Ⅲ

2021年08月14日 | 群馬県

(諏訪神社)

 中宿交差点付近にある諏訪神社には、明治十一年(1878)九月五日、明治天皇の北陸東海巡幸の際、小休をとった時使ったとされる「腰掛石」が残されている。

 

諏訪神社

 

明治天皇中宿御小休所腰掛石

 

明治天皇中宿御小休所腰掛石

 

(原市)

 安中市原市周辺では、旧中山道が長い距離にわたって、往時の道幅のまま残されている。杉並木も江戸時代そのまま残されているのは大変嬉しい。その中心地に明治天皇原市御小休所跡がある。

 明治十一年(1878)九月五日、北陸東海巡幸の際に小休所となった場所である。ここでも、文部省の付した説明によれば「主要部分はよく舊規模を存せり」とあるが、門構え以外は往時をしのぶものは残っていない。

 

明治天皇原市御小休所

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渋川 Ⅱ

2021年08月14日 | 群馬県

(渋川八幡宮つづき)

 

明治天皇聖蹟碑

 

 境内の奥の方に明治天皇聖蹟碑が建てられている。見上げるほどの巨大な石碑である。荒木寅三郎の撰文、佐藤文四郎の書。

 

(南有馬会館)

 明治天皇が渋川を訪れたのは、明治二十六年(1893)のことである。同年十月二十日から二十三日までの間、近衛師団による演習が群馬県で行われ、二十一日には渋川市域で演習が開かれた。渋川市内には当時のことを記念した明治天皇聖蹟碑が点在している。

 

明治天皇有馬御野立所

 

有馬駐龍之碑

 

 南有馬会館入口には明治天皇野立所を示す石碑がある。また建物の前にも二基の石碑がある。一つは大典記念碑、もう一つは明治天皇の駐輦にまつわる石碑と思われるが、文字はほとんど読み取れなかった。

 近在には「行幸田(みゆきだ)」という、いかにも明治天皇の行幸に由来していると思われる地名が残っている。

 

(猿田彦神社)

 猿田彦神社には明治天皇駐蹕碑がある。明治二十六年(1893)十月の演習を親閲したことを記念したもので、小松宮彰仁親王の題額、山県有朋の撰文、日下部東作の書。明治三十年(1897)五月の建碑である。

 

 

猿田彦神社

 

聖上御便殿跡地

 

駐蹕碑

 

(上ノ町)

 

明治天皇澁川行在所

 

 渋川の市街地の民家の庭にも明治天皇聖蹟碑がある。やはり明治二十六年(1893)の行幸を記念したもので、十月二十一日、ここで昼食をとったという。「主要部分は旧規を存せり」と書かれているが、見たところ新しい住宅しか確認できない。

 

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深谷 Ⅵ

2021年08月07日 | 埼玉県

(尾高家の墓)

 下手計の交差点を百メートルほど東に進んで左折(北上)すると突き当りに尾高家の墓がある。尾高惇忠のほか、尾高長七郎や渋沢平九郎の招魂碑などがある。

 

東寧尾高(長七郎)弘忠之墓

 

 渋沢長七郎は天保七年(1836)、尾高勝五郎の二男に生まれた。藍香(惇忠)は兄。若くして文武を修業し、のち江戸に出て文を海保章之助(漁村)、剣を伊庭軍兵衛に学んだ。間もなく尊攘活動に加わり、文久二年(1862)、坂下門外の変後は、幕吏の探索を避けて京都に至り時勢を観察した。翌年、郷里の同志が横浜異人館の焼討を企画し、その手始めとして高崎城襲撃を企てたが、たまたま帰郷した長七郎は天下の形勢を説いてこれを阻止した。元治元年(1864)、江戸から帰郷の途次、誤って通行人を殺傷。捕らえられて伝馬町の獄に繋がれ、明治元年(1868)赦されて帰郷したが間もなく病没した。年三十三。

 墓は渋沢栄一により建てられたもの。雅号である東寧、諱弘忠が刻まれている。

 

渋沢平九郎昌忠君招魂碑

 

 渋沢平九郎は藍香、長七郎の末弟。渋沢栄一の見立て養子となったが、鳥羽伏見で幕軍が敗れると、従兄渋沢喜作(成一郎)は、何とかして汚名を雪ごうとして彰義隊が結成され、藍香とともにこれに参加した。やがて組織の内紛から喜作を頭取とする振武軍が結成され、尾高兄弟もこれに従った。振武軍は飯能で討幕軍と戦い、平九郎は自刃した。二十一歳という若さであった。

 平九郎の写真が今に残っているが、眉目秀麗な美男子である。手計村の尾高家では雑貨も扱っていたが、平九郎の店番の日は、近在の村娘たちが争って糸や油を買いに来たといわれる。

 

(川田歯科医院)

 深谷市中瀬の川田歯科医院では、桃井可堂史料館を併設している。残念ながら私が訪ねたとき閉館であった。事前に電話をして予約しておく必要があるのかもしれない。

 

川田歯科医院 桃井可堂史料館

 

 桃井可堂は、この場所で塾を開き、長州藩士や水戸藩士など多くの志士が門を叩いたといわれる。藤田東湖、勝麟太郎とも交友があり、渋沢栄一や尾高惇忠たちとも情報交換をした。可堂六十一歳のとき、倒幕挙兵のため越後や上州・長州の志士たちと沼田城襲撃を企てたが、事前に計画が漏れ、川越藩に自首して獄中で絶食の末、亡くなった。

 

幕末歩兵隊川田深太郎之生家

贈正五位勤王之士可堂桃井先生旧塾

 

 歯科医院の前には、先祖川田深太郎の生家であること、桃井可堂の塾跡であることを示す石碑がある。

 石碑によれば、川田深太郎は元治元年(1864)九月二日、霞浦湖辺鉾田宿戦争之殊勲者という。天狗党に加わり、鉾田にて奮戦したということであろう。

 

(不動堂)

 永田町の不動堂は、荒川を見下ろす土手の上に立っている。元治元年(1864)の天狗党の乱では、一行がここで宿陣したという。

 

不動堂

 

 江戸時代、対岸の川本町畠山の間に瀧の渡しと呼ばれる渡し場があった。確かに不動堂の下に不動の滝と呼ばれる滝がある。行ってみると滝というより湧水みたいなものであった。当時は、両岸ともに切り立った岸で、しかも急流であったという。

 

荒川

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